ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県水戸市、赤尾関「春日神社のケヤキ」です!!

2019-04-04 07:17:21 | 巨樹・大木
赤尾関地区は、水戸市役所の西約9kmのところ

JR常磐線と磐越自動車道に挟まれた地区です

地区の南西端に春日神社が鎮座します

同じ境内には満徳寺や薬師堂・集落センターなどがあり

境内集落センター前に車を止める事ができました

目的のケヤキは、境内への入り口に在ります



東側道路から

南側から

南西側から目通り幹囲5,7mの巨木です

参道鳥居です

鳥居前から

鳥居をくぐって境内から

拝殿です

本殿は覆い屋の中です

説明版です
 水戸市指定文化財 建造物
   春日神社本殿 附棟札2枚、扉板2枚
 春日神社は、戦国時代の元亀元(1570)年に赤尾関村庄屋
塚本吉右衛門が創祀したと伝えられている。祭神は、天児屋根命
で、奈良の春日神社の主祭神である。現在、1月、7月、11月
の年3回、祭礼が行なわれている。
 本殿内には2枚の棟札と墨書のある扉板一組が所蔵されている
。この棟札及び扉板から、春日神社は万治3(1660)年に再
建され、享保2(1717)年に神座が設けられたことが明らか
になる。明和8(1771)年には本殿が再建されている。
 現在の本殿は、彫刻などの意匠に江戸時代後期の技法が色濃く
残っていることから、明和8年に再建されたものと考えられる。
 形式は本殿建築として典型的な一間社流造で、小振りな建物規
模に対し、木割(部材寸法)が太く、全体的に力強い構造である
。板葺の屋根には、全く風食の跡が見られず、良好に当時の姿を
残していることからも、明和8年の再建当初から覆屋(平成3年
新築)に納められていたと考えられる。
 なお、町内の神社には覆屋を設けている例が複数見られるが、
明治以前の遺例は確認できない。
 春日神社本殿は保存状態の良さと、再建年代や修理の履歴が分
かることから、連棟建築の歴史を紐解く上で貴重な建造物である
。                  水戸市教育委員会
 



本殿裏側にもケヤキの大木が在ります

社殿の西側には薬師堂です

満徳寺本堂です

軒下の満徳寺由来が掲げられています
  満徳寺の由来
 抑々、當山は意浮山秀乗院満徳寺と稱し、総本山は真言宗智山
派京都智積院なり。今を去ること五百年前1493年宥誉上人の
開山にて寺恰も室町幕府の全盛足利義満の時代である。本尊は大
日如来にして作者不明なれども今より470年前の作である。五
間四面の堂宇に本尊が安置されしが、中御門天皇の御代正徳2年
不幸にして祝融に罹り灰塵に帰せり、檀徒の熱意によりて正徳5
年浄財26両お費やして薬師堂が建てられた。當満徳寺は宍戸藩
の領内にして、藩より十石五斗の御朱印を賜り居りしも寺運次第
に衰頽に傾きつつある折柄、明治元年4月14日夜、風魔火災を
発生檀家を焼き拂へ余勢を寺社の向けて忽ちにして檀徒必死の防
火も空しく遂に本堂薬師堂庫裏悉く烏有に帰せり、以来120年
有余年檀徒のちからに依りてあらゆる困難を斥けて今日に至れり

 その間假堂宇を以って寺院とし、明治の中期には住職を失い、
明治35年和光院に兼務を委ね、昭和41年9月16日中僧都中
山本宣師が當山住職に定まれり。
 假堂宇も積年の老朽と風化により見るに忍びざる有様を如何に
せん時、隅々大日如来の所有地の一部が建設省より常磐自動車高
速道の用地売収があり、その所得の一部を充てて予てより檀徒の
宿願寺院再建を計画檀家一同の協賛を得て昭和57年2月6日起
工さらに當山先師尊霊の碑を建てて供養し、総工費700万を費
して4月29日落慶す。
 茲に謹んで開山以来寺院の進展に盡力されし先賢各位の功績を
顕彰し當山由来かくの如し。
  昭和62年10月12日    赤尾関満徳寺檀徒一同

 



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