修禅寺は伊豆市役所の西南西約2kmのところ
修善寺温泉街の中心桂川の北側に修禅寺が有ります
川の南側の有料駐車場に
車を止めて渡月橋(みそめ橋)で桂川を渡ります

参道入口から山門(仁王門)です

修善寺を開いたと言われる弘法大師の大きな石碑です

修善寺案内図で確認しましょう、今回の目的日枝神社はすぐ東側です

修禅寺説明版です
修禅寺
修善寺温泉発祥の寺で、平安初期の大同2年(807年)弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから「桂谷山寺」と言われ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺であった。
鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ていることから「肖廬山」と号した。
南北朝時代の康安元年(1361年)に畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1401年)には火災を蒙り、伽藍を全焼して寺は荒廃し衰退した。
その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が再興し、叔父の隆渓繁紹禅師が住して曹洞宗に改宗だれ山号も「福地山」と改められ今日に至っている。
伊豆市
*南北朝時代の畠山国清は、先日投稿の伊豆の国市奈古谷の国清寺に登場しています。

参道左手に鐘楼です

手水舎です、出ているのは温泉です


成分表が有ります、泉質はアルカリ性単純温泉で調査時(平成26年8月9日)の泉温は60.1℃です
*出ている温泉を触ってみのると熱めのお風呂の感じ(40℃~)でした
、諏訪大社上社本宮(長野県諏訪市)の手水舎も温泉でしたが少し温度が低かったような気がします

縁起説明版です
修禅寺縁起
この寺の歴史は宗派的に、真言、臨済、曹洞の三つの区分にすることができます。
創立は大同2年(807)で弘法大師とその弟子によって開かれた真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教形式の堂宇が立ち並び、東国真言宗の拠点ともなった模様です。この時代の末期とも言うべき元久元年(1204)源頼家がこの地で殺害されています。
本尊の大日如来像(重文)は、その母北条政子が頼家公の菩提のために七回忌に当る承元4年(1210)に実慶に造らせたことが、解体修理の結果わかりました。
その後寛元4年(1246)宋から渡来した蘭渓道隆禅師(鎌倉建長寺開山)が一時止住されたのが縁で宋の皇帝から勅願があるほど修禅寺の名が中国に広がり、約240年ほど臨済宗として栄えました。
次は今の曹洞宗でありますが、いつの時代でも栄枯盛衰はつきもの、北条早雲が韮山城主になるや、戦禍によって見る影も無いほどに荒廃したこの寺の再興のために、自分の叔父に当る隆渓繁紹禅師を住職として招き、広大な土地を寺領として寄進されたので復興することができました。
禅師が入山されたのが延徳元年(1489)ですから既に500年を過ぎて今日に至っています。
(注)昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。
大祭は毎年4月と8月、共に20日21日の両日(弘法忌)
正式寺名 福地山修禅萬安禅寺

本堂です

本堂前左手の植込みは檜と松です

右側には梅と黒松です

本堂前右手には達磨像です

本堂前左に弘法大師様です

境内西側出口には六地蔵様です
では、今回の目的の日枝神社に夫婦杉等を見に行きましょう
修善寺温泉街の中心桂川の北側に修禅寺が有ります
川の南側の有料駐車場に


参道入口から山門(仁王門)です


修善寺を開いたと言われる弘法大師の大きな石碑です


修善寺案内図で確認しましょう、今回の目的日枝神社はすぐ東側です


修禅寺説明版です
修禅寺
修善寺温泉発祥の寺で、平安初期の大同2年(807年)弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから「桂谷山寺」と言われ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺であった。
鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ていることから「肖廬山」と号した。
南北朝時代の康安元年(1361年)に畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1401年)には火災を蒙り、伽藍を全焼して寺は荒廃し衰退した。
その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が再興し、叔父の隆渓繁紹禅師が住して曹洞宗に改宗だれ山号も「福地山」と改められ今日に至っている。
伊豆市
*南北朝時代の畠山国清は、先日投稿の伊豆の国市奈古谷の国清寺に登場しています。


参道左手に鐘楼です


手水舎です、出ているのは温泉です



成分表が有ります、泉質はアルカリ性単純温泉で調査時(平成26年8月9日)の泉温は60.1℃です

*出ている温泉を触ってみのると熱めのお風呂の感じ(40℃~)でした



縁起説明版です
修禅寺縁起
この寺の歴史は宗派的に、真言、臨済、曹洞の三つの区分にすることができます。
創立は大同2年(807)で弘法大師とその弟子によって開かれた真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教形式の堂宇が立ち並び、東国真言宗の拠点ともなった模様です。この時代の末期とも言うべき元久元年(1204)源頼家がこの地で殺害されています。
本尊の大日如来像(重文)は、その母北条政子が頼家公の菩提のために七回忌に当る承元4年(1210)に実慶に造らせたことが、解体修理の結果わかりました。
その後寛元4年(1246)宋から渡来した蘭渓道隆禅師(鎌倉建長寺開山)が一時止住されたのが縁で宋の皇帝から勅願があるほど修禅寺の名が中国に広がり、約240年ほど臨済宗として栄えました。
次は今の曹洞宗でありますが、いつの時代でも栄枯盛衰はつきもの、北条早雲が韮山城主になるや、戦禍によって見る影も無いほどに荒廃したこの寺の再興のために、自分の叔父に当る隆渓繁紹禅師を住職として招き、広大な土地を寺領として寄進されたので復興することができました。
禅師が入山されたのが延徳元年(1489)ですから既に500年を過ぎて今日に至っています。
(注)昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。
大祭は毎年4月と8月、共に20日21日の両日(弘法忌)
正式寺名 福地山修禅萬安禅寺

本堂です


本堂前左手の植込みは檜と松です


右側には梅と黒松です


本堂前右手には達磨像です


本堂前左に弘法大師様です


境内西側出口には六地蔵様です

では、今回の目的の日枝神社に夫婦杉等を見に行きましょう
