ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

群馬県富岡市、神成「宇芸神社のムクロジ」(市指定)です!!

2022-06-24 19:13:37 | 巨樹・大木
 神成地区は、富岡市役所の西南西約5kmのところ

 国道254号線を西へ上信電鉄に沿うように踏切を2度渡ります

 神農原信号を過ぎて右側に宇芸神社の案内板が出ています

 国道に面して参道が開いています

 宇芸神社です

 鳥居です、すぐ先には上信電鉄の踏切が参道を横切っています、長い参道を進みます


 神社は北側の山裾ですので、案内板には100mと書かれています

 もうすぐです境内です、入り口に鳥居が有りませんが、正面に花を咲かせた目的のムクロジが見えています


 天然記念物標柱です

説明版です
  富岡市指定天然記念物
   宇芸神社のムクロジ(うけじんじゃ)
  平成22年4月28日指定
 樹高14m、目通り周は3.95mの大木で、幹は根元から1mを越えた所で二本に分かれており、樹齢は300年余りと推定されます。
 ムクロジは、温暖な地域に分布する落葉高木で、6月に多くの花をつけます。実の皮には多量のサポニンを含み、水を泡立てる働きがあるため明治時代頃までは洗濯などに広く利用されました。また、黒い種子は堅く良く弾むため、羽根突きの羽根のおもりとして利用されています。
 宇芸神社は、「延喜式神名帳」(927年)に記録があり、平安時代には官社として認定されていた由緒ある神社です。しかし、江戸時代の天明年間(1781~1789年)に、火災のために古記録その他が焼失し、いつどのような理由でこの地にムクロジが植えられたかは明らかではありません。
 県内における他のムクロジと比較しても劣ることはなく、神社の歴史とともに歩み続けてきた貴重な名木です。
   富岡市教育委員会

*サポニンを含む植物としては、巨木として良く紹介されるサイカチがあります。実(鞘)にサポニンを含み、同じように洗濯に利用されたようです 

 南東側から、説明版通りに枝先に細い房状の花をつけています


 東側から

北側から


神社の案内板です
  宇芸神社
 927年に延喜式という法典がつくられました。その中の延喜式神名帳に記載された神社をを延喜式内社と言います。
 平安時代に官社として認められた由緒ある神社です。群馬県には12社あり、その一つがここ宇芸神社です。創立は天武天皇の時代(672~686)と伝えられています。ここは倉稲魂神(うかのみたまのかみ)が祭られています。
   環境省・群馬県

 お参りしに行きましょう 

 石段の中段からムクロジを見ました

 最初の石段約20段を上ると手水舎です

 もう一段上ります、赤い鳥居が見えています

 約30段を上って来ました、ここには神楽殿が有ります

 更に約60段の石段を上ります

 拝殿です


 本殿です、立派な彫刻を見ることが出来ました

 社殿の西側には境内社が並びます、一部に祠には狐の置物が並べられています

 社殿東側には二つの境内社が有ります

 では、次へ行きましょう
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群馬県富岡市、富岡「龍光寺のイチョウ」(市指定)です!!

2022-06-24 07:41:31 | 巨樹・大木
 富岡地区は、富岡市の中心部ですユネスコの産業遺産富岡製糸場も有ります

 富岡市役所の南西約200m、国道254号線に面して龍光寺があります

 山門西側の駐車場(参拝者・幼稚園利用者用)が有りますので利用させていただきました


 案内板が出ています、境内には富岡製糸場で亡くなった女工さんたちの墓もあります


 参道入り口です


 浄土宗(宮崎山 宝国院)龍光寺です


 昔から大きなお寺だったようです、宮崎山宝国院龍光寺の明治4年の絵図です

 本尊阿弥陀如来
 当寺は上野国綾目荘宮崎村管領奥平美作守龍光公の開基なり。故に龍光寺と名す。
 初め貞誉一凝上人  を此地に留め、有縁の地を撰んで堂宇を営む、道俗を教化せり、依て貞誉上人を開山そ崇む。時に文明2年10月15日、今を去る433年なり。本尊は聖徳太子の御作にして開基龍光の寄附なり、後の住職寂誉上人富岡の里に下向して道帶を教化せり、遂に録熟して茲に一宇を建立す。此際海保庄兵衛中野七蔵寺大に力て霊せり。後徳川右府大 院殿の帰向に依り、御朱印26石を賜はしり。
 寛文4年春堂宇焼失せり。此年同郡七日市城主前田右近大夫利豊公の帰依に依り、堂宇を再建立す。時に総本山大僧正玄誉智鑑上人、当寺の住職となりしが、檀徒の帰依深く浄教を弘通せり。明治23年5月13日祝醜の災ありて、堂宇再び灰燼に帰しぬ。故に古記録及び什宝物等を亦焼失せり。後て現住職建誉祖霊、檀徒と謀り苦心経営して堂宇を再建せり。
  宝物
 黒本無量寿如来 壱躯 上宮太子一夜の彫刻宇多布の秘蔵仏にして有縁地なる茲に安置す。
  明治34年4月刻
 



 山門です

 参道を進みます


 参道右手には、呑龍上人の御堂のようです

 本堂です

 本堂手前の右側に目的のイチョウです(南側から)

 南西側から


 西側から

 天然記念物標柱です

説明版です
 富岡市指定天然記念物
  龍光寺の大イチョウ
   平成19年2月2日指定
 イチョウは、イチョウ科の落葉高木です。
 この大イチョウは、樹高25m、目通し周は5m、根回りは9.5mの雌株です。
 根元から4~5mの高さから枝を張り、枝張りは東西15m、南北14mに及びます。東の幹が主幹となり樹幹を形成しており、枝のもとには多数の気根が見られます。
 樹齢は380年以上と推定でき、今なお生育を続けるイチョウとしては市内でも有数の巨木です。
 龍光寺は、長禄年間(1457~1460)奥平氏により宮崎村(現富岡市宮崎)に創建され、慶長17年(1612)から元和3年(1617)にかけて富岡町(現富岡市富岡)が創設された際に、宮崎から現在地に移転しました。
 このイチョウには、龍光寺が富岡に移って際に宮崎から移植されたという伝承もあります。
 市街地の屋根越しに各所から望むことができる大イチョウは、龍光寺を訪れる子供たちや参拝者にも親しまれています。
  富岡市教育委員会

 こんな、頑張りをくれる一文もありました


 北西側本堂前から

 北側から

 北東側から

 南東側鐘楼前から

 鐘楼です

 文化財に指定されている梵鐘です

説明版です
 群馬県指定重要文化財
   梵鐘
 この梵鐘は、口径65.1cm、総高112.1cmの規模をもち、鐘身はやや細身である。撞座は径15cmで、他に類例のない16弁の菊座である。
 無銘ではあるが、龍頭・鐘身・草の間の唐草模様・乳の配列(四行四列)等から室町期の鋳造と考えられる。このため、太平洋戦争中にこの梵鐘が金属供出の対象となった際、鋳造期が古く、すぐれたものであったので、その対象からはずされた経緯がある。このいわれが鐘身に追刻されている。
 この梵鐘とまったく同型のものが長学寺(市内小野)にも存在しており、同じく群馬県指定重要文化財となっている。
 群馬県内には、室町期の鋳造が少ないだけに、この期の梵鐘が市内に二つも存在することは、地域的な特性を示すと同時に貴重なものであるということができる。
  昭和53年5月
  富岡市教育委員会


 西側には観音堂です

 無縁墓です


 本堂西側には、群馬県指定重要文化財の板碑です

説明版です
  群馬県指定重要文化財
    板碑
  昭和26年10月5日指定
 この板碑は、供養塔の一種で、高さ139.4cm、幅45.5cmの規模で武蔵型板碑である。
 中央部の図様は、胎蔵界大日如来の真言の梵字ア・ビ・ラ・ウン・ケンを下から上に、言い換えると上からケンを一字、ウン・ラ・ビ・アを相向かいに二文字ずつ五輪塔型に組み合わせて図案化したものである。その上に瓔珞をつけた天蓋、五輪塔の下に蓮台を刻し、蓮台下に「貞治三年甲辰卯月日」と刻まれている。その左右に「逆修」「聖書」、外側には梵字で光明真言を四行刻み、左右に花瓶を付刻している。さらに周囲には三条線の区画内にア・ビ・ラ・ウン・ケンの梵字を配している。
 造立者は不明であるが、逆修の文字のあることから生前供養として建立されたものである。なお龍光寺開山の祖である「貞誉上人」が刻んであるのは追刻である。
 紀年銘は北朝年号の貞治三年(1364)であるが、薬研彫の刻法からも鎌倉時代の様式を十分に表現している。他に類例のない秀作である。
   富岡市教育委員会


 墓地の中に、富岡製糸場の工女等の墓が有ります

 案内図です、個人名も書かれています

 ぐんま絹遺産です

説明版です
 富岡市指定史跡
  富岡製糸場工女等の墓(龍光寺)
    平成16年1月9日指定
 明治5年(1872)、殖産興業政策の一環として明治政府により設立された富岡製糸場は、器機製糸技術の導入により、製糸業の近代化を図るための模範工場でもありました。
 このため、北海道から九州まで日本各地から工女が集まり、製糸技術を修得し、帰郷後は指導者として活躍した工女が数多くいました。
 模範工場の名にふさわしく、施設や勤務条件は良好でしたが、不幸にして病に倒れ、異郷の地で若い命を落とした工女も存在しました。明治6年から民営化後の明治34年も間に60人の工女たちが亡くなり、その墓が龍光寺と海源寺にあります。
 龍光寺には30基の墓石があり、同僚の工女たちが建立した例や、明治26年の民間払下げに際して、当時の所長が建立いた連名の墓石もみられます。埋葬者は工女だけではなく、製糸場の役人や、三井時代の工女たちもいあます。
 国の繁栄のために役立とうと、希望に燃えて遠い富岡の地におもむいた工女たちの姿がしのばれます。
   富岡市教育委員会

 墓地の入り口には、六地蔵様が二組並んでいます

 案内板に従って進むと

 
 工女等の墓が並んでいます

 では、次へ行きましょう
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