野塩3丁は、清瀬市役所の西南西約2kmのところ
清瀬市役所西側の市役所通りを北西へ、約300mで「清瀬市役所北」信号を左へ、柳瀬川通りです
道成に約1.6km進んで「清瀬4小前」信号を左(南)へ、約400mで「清瀬4中東」信号を右(西)へ
約200mの空堀川梅坂橋の手前を左(南)へ入ります
間も無く左手に仁王様が立っています、すぐ先に圓福寺の駐車場が有ります
西向きの山門前から、本堂前のイチョウが見えます
圓福寺の寺号標です
山門を潜ると左手に、目的のイヌビワです
西側から見ました
清瀬の名木・巨木百選No.67イヌビワのプレートです
境内を見て行きましょう
本堂北側の丘の上に鐘楼です
更に北側に新しい三重塔です
仁王様の立つ北西側境内入口に「びわかけの松」の標柱です
プレートには・・・
「びわかけの松」の伝説
昔、目の不自由な琵琶法師が、ご利益のある薬師様ときき、目が見えるようにと、何日もお堂にこもって熱心に祈ったそうです。
やがて満願の日がやってきました。こわごわ目をあけてみると、薬師様の姿がはっきりと見えるようになっていました。夢かと思い外を見ると境内に植えられた松の葉の緑が見えました。
琵琶法師はあまりのうれしさに、琵琶を松にかけたまま旅立ってしまいました。
それかれというもの、人々はこの松を、「びわかけの松」と呼ぶようになったそうです。
清瀬市
石段を上がりましょう
お地蔵様と琵琶懸の松の由来の地の石碑ですが、マツはみあたりませんでした
薬師堂です
説明版です
市指定有形文化財
円福寺 薬師如来坐像 85.5cm
日光菩薩立像 129.5cm
月光菩薩立像 132.5cm
(寄木造)
所在地 清瀬市野塩3丁目48番地
指定日 昭和56年10月1日
薬師如来坐像は、光背を含めると2mをこえ、日光・月光菩薩を脇侍に優美な三尊形式をとります。
左手に薬壺をのせ、病苦をいやし苦悩を除く12の誓願をたて、十二神将を眷属として配しています。
寛保3年(1743ー江戸時代中期)の薬師如来由来記によると三尊は仏師定朝(平安時代後期の人)の作とされていますが、定かではありません。
開基匂坂氏衰退後、本尊・脇侍は損傷はなはだしくなり、幾度かの修繕を経て、現在のお姿になられたものと思われます。
台座、脇侍の部分に初めの技法がのこり、造像当寺の姿を偲ぶことが出来ます。
平成28年3月31日 清瀬市教育委員会
では、次へ行きましょう
清瀬市役所西側の市役所通りを北西へ、約300mで「清瀬市役所北」信号を左へ、柳瀬川通りです
道成に約1.6km進んで「清瀬4小前」信号を左(南)へ、約400mで「清瀬4中東」信号を右(西)へ
約200mの空堀川梅坂橋の手前を左(南)へ入ります
間も無く左手に仁王様が立っています、すぐ先に圓福寺の駐車場が有ります
西向きの山門前から、本堂前のイチョウが見えます
圓福寺の寺号標です
山門を潜ると左手に、目的のイヌビワです
西側から見ました
清瀬の名木・巨木百選No.67イヌビワのプレートです
境内を見て行きましょう
本堂北側の丘の上に鐘楼です
更に北側に新しい三重塔です
仁王様の立つ北西側境内入口に「びわかけの松」の標柱です
プレートには・・・
「びわかけの松」の伝説
昔、目の不自由な琵琶法師が、ご利益のある薬師様ときき、目が見えるようにと、何日もお堂にこもって熱心に祈ったそうです。
やがて満願の日がやってきました。こわごわ目をあけてみると、薬師様の姿がはっきりと見えるようになっていました。夢かと思い外を見ると境内に植えられた松の葉の緑が見えました。
琵琶法師はあまりのうれしさに、琵琶を松にかけたまま旅立ってしまいました。
それかれというもの、人々はこの松を、「びわかけの松」と呼ぶようになったそうです。
清瀬市
石段を上がりましょう
お地蔵様と琵琶懸の松の由来の地の石碑ですが、マツはみあたりませんでした
薬師堂です
説明版です
市指定有形文化財
円福寺 薬師如来坐像 85.5cm
日光菩薩立像 129.5cm
月光菩薩立像 132.5cm
(寄木造)
所在地 清瀬市野塩3丁目48番地
指定日 昭和56年10月1日
薬師如来坐像は、光背を含めると2mをこえ、日光・月光菩薩を脇侍に優美な三尊形式をとります。
左手に薬壺をのせ、病苦をいやし苦悩を除く12の誓願をたて、十二神将を眷属として配しています。
寛保3年(1743ー江戸時代中期)の薬師如来由来記によると三尊は仏師定朝(平安時代後期の人)の作とされていますが、定かではありません。
開基匂坂氏衰退後、本尊・脇侍は損傷はなはだしくなり、幾度かの修繕を経て、現在のお姿になられたものと思われます。
台座、脇侍の部分に初めの技法がのこり、造像当寺の姿を偲ぶことが出来ます。
平成28年3月31日 清瀬市教育委員会
では、次へ行きましょう