「和泉熊野神社のクロマツ」を見てから、京王井の頭線の「永福町駅」から二駅目の「浜田山駅」まで移動しました
浜田山駅の改札を通って北側に出ます、約300mで都道14号線の信号を渡って東へ、直ぐの八百屋さんの手前を左(北)へ
道成に約400mで突き当りを右(東)へ、約50mで左(北)へ鎌倉街道です
道成りに約500mで杉並区立杉並第二小学校の西側です
道路の先に鳥居とマツの樹冠が見えて来ました
南向きに参道入口の鳥居です
尾﨑 熊野神社の社號標です
説明版です
尾崎熊野神社
この神社は、五十猛命・大屋津比咩命・抓津比咩命の三柱を祭神とし、旧成宗村字尾崎の鎮守でした。
当社の創建年代は詳らかでありませんが、大宮八幡宮・同村白山神社とほぼ同年代の創建と言われ、安藤本家文書、宝昌寺境内出土の板碑によると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基くと伝へられています。
「新編武蔵風土記稿」の成宗村熊野社の条には「除地五畝小名尾崎二あり、社ハ二間二二間半、神体白帯・・・・村内宝昌寺ノ持ナリ」とあり、江戸時代には、宝昌寺が別当を努めていました。
明治維新後、大宮八幡宮の神職が兼務するところとなり、明治41年、付近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀し、現在は境内末社として祀っています。
昭和43年秋、境内から縄文時代早期((井草式)の土器片、縄文時代前期(諸磯式)・古墳時代(鬼高志貴)の住居址が発掘され、古くからこの地には、人間が住んでいたことがうかがわれます。
なお、境内にそびえるクロマツの大木は、当社の御神木で、樹齢約400年と言われ、区内でも有数の樹木の一つです。
例祭日は、9月上旬です。
平成10年3月 杉並区教育委員会
ニノ鳥居です
手水舎です
目的のクロマツです
社殿です
神社沿革の石碑です
尾崎 熊野神社沿革
当社は、五十猛命・大屋津比売命・抓津比売命の三柱の神を祀り、尾崎の地の鎮守として崇敬されている。
尾崎の地名は善福寺川岸の突出した大地の地形に由来する。
昭和43年秋、境内から縄文時代早期の井草式より土師器・須恵器に至る各時代の土器類と、縄文時代前期ならびに土師器時代の住居址とが発掘されるにおよび、この地には数千年来人煙の絶えなかったことが明らかになった。
当社の草創は、安藤本家文書および宝昌寺境内から出土した板碑によれば、鎌倉時代末期(14世紀初)に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基ふと伝えられ、江戸時代には、天和3年・宝暦4年・文化8年の棟札があって、住民の力で当社が維持されてきたことを物語っている。
維新以前には成宗村内の須賀神社(牛頭天王社)・白山神社とともに白竜山宝昌寺を別当寺としていたが、明治の初め神仏分離により大宮八幡宮の兼務となり、のち附近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀して現在にいたっている。
この地は、豊多摩郡杉並村大字成宗字尾崎で、明治の初めには三姓(蕪山・石原・安藤)18家が住む小聚落であったが、昭和7年に区制が施行されて、杉並区成宗2丁目となり、さらに昭和44年には成田西1・2・3丁目と改称され、人家の密集した街地となっている。昭和44年11月1日に新社殿が落成したのを記念して、住民有志が熊野会を結成し、また地元の杉並古代文化研究会へ委嘱して、尾崎熊野神社誌を刊行した。
ここに碑を建立して、当社の沿革を記録するものである。
昭和45年(1970)中秋
尾崎熊野神社氏子中
尾崎熊野会
御神木の案内板です
天然記念物標柱です、文面は・・・
昭和62年3月30日 指定
杉並区指定天然記念物
尾崎熊野神社のクロマツ 杉並区教育委員会
尾崎熊野神社のクロマツ 一本
このクロマツhあ、幹周囲(目通り)3.27m、根本幹周囲5.5m、樹高32m、樹齢は400年以上と推定されます。
黒松は俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大型で、葉は大きく、幹も太く、樹皮が黒褐色をおびています。
近年、くろまつは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきたいます。
このクロマツhあ、御神木として古くから氏子によって手厚い保護を受けており、樹冠面積は十分な広がりを持ち、樹勢も優れ、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものです。
南側から
西側から
南東側から
東側から見ました
ここにもしだれ梅が咲いています
八分咲きになっていました
社殿東側には説明版に有った御嶽神社です
更に東側には尾﨑稲荷です
境内東端には神楽殿です
では、次へ行きましょう
浜田山駅の改札を通って北側に出ます、約300mで都道14号線の信号を渡って東へ、直ぐの八百屋さんの手前を左(北)へ
道成に約400mで突き当りを右(東)へ、約50mで左(北)へ鎌倉街道です
道成りに約500mで杉並区立杉並第二小学校の西側です
道路の先に鳥居とマツの樹冠が見えて来ました
南向きに参道入口の鳥居です
尾﨑 熊野神社の社號標です
説明版です
尾崎熊野神社
この神社は、五十猛命・大屋津比咩命・抓津比咩命の三柱を祭神とし、旧成宗村字尾崎の鎮守でした。
当社の創建年代は詳らかでありませんが、大宮八幡宮・同村白山神社とほぼ同年代の創建と言われ、安藤本家文書、宝昌寺境内出土の板碑によると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基くと伝へられています。
「新編武蔵風土記稿」の成宗村熊野社の条には「除地五畝小名尾崎二あり、社ハ二間二二間半、神体白帯・・・・村内宝昌寺ノ持ナリ」とあり、江戸時代には、宝昌寺が別当を努めていました。
明治維新後、大宮八幡宮の神職が兼務するところとなり、明治41年、付近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀し、現在は境内末社として祀っています。
昭和43年秋、境内から縄文時代早期((井草式)の土器片、縄文時代前期(諸磯式)・古墳時代(鬼高志貴)の住居址が発掘され、古くからこの地には、人間が住んでいたことがうかがわれます。
なお、境内にそびえるクロマツの大木は、当社の御神木で、樹齢約400年と言われ、区内でも有数の樹木の一つです。
例祭日は、9月上旬です。
平成10年3月 杉並区教育委員会
ニノ鳥居です
手水舎です
目的のクロマツです
社殿です
神社沿革の石碑です
尾崎 熊野神社沿革
当社は、五十猛命・大屋津比売命・抓津比売命の三柱の神を祀り、尾崎の地の鎮守として崇敬されている。
尾崎の地名は善福寺川岸の突出した大地の地形に由来する。
昭和43年秋、境内から縄文時代早期の井草式より土師器・須恵器に至る各時代の土器類と、縄文時代前期ならびに土師器時代の住居址とが発掘されるにおよび、この地には数千年来人煙の絶えなかったことが明らかになった。
当社の草創は、安藤本家文書および宝昌寺境内から出土した板碑によれば、鎌倉時代末期(14世紀初)に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基ふと伝えられ、江戸時代には、天和3年・宝暦4年・文化8年の棟札があって、住民の力で当社が維持されてきたことを物語っている。
維新以前には成宗村内の須賀神社(牛頭天王社)・白山神社とともに白竜山宝昌寺を別当寺としていたが、明治の初め神仏分離により大宮八幡宮の兼務となり、のち附近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀して現在にいたっている。
この地は、豊多摩郡杉並村大字成宗字尾崎で、明治の初めには三姓(蕪山・石原・安藤)18家が住む小聚落であったが、昭和7年に区制が施行されて、杉並区成宗2丁目となり、さらに昭和44年には成田西1・2・3丁目と改称され、人家の密集した街地となっている。昭和44年11月1日に新社殿が落成したのを記念して、住民有志が熊野会を結成し、また地元の杉並古代文化研究会へ委嘱して、尾崎熊野神社誌を刊行した。
ここに碑を建立して、当社の沿革を記録するものである。
昭和45年(1970)中秋
尾崎熊野神社氏子中
尾崎熊野会
御神木の案内板です
天然記念物標柱です、文面は・・・
昭和62年3月30日 指定
杉並区指定天然記念物
尾崎熊野神社のクロマツ 杉並区教育委員会
尾崎熊野神社のクロマツ 一本
このクロマツhあ、幹周囲(目通り)3.27m、根本幹周囲5.5m、樹高32m、樹齢は400年以上と推定されます。
黒松は俗に雄松と呼ばれ、アカマツに比べて大型で、葉は大きく、幹も太く、樹皮が黒褐色をおびています。
近年、くろまつは、環境の悪化により都内では年々少なくなってきたいます。
このクロマツhあ、御神木として古くから氏子によって手厚い保護を受けており、樹冠面積は十分な広がりを持ち、樹勢も優れ、都内でも有数のクロマツの巨樹として貴重なものです。
南側から
西側から
南東側から
東側から見ました
ここにもしだれ梅が咲いています
八分咲きになっていました
社殿東側には説明版に有った御嶽神社です
更に東側には尾﨑稲荷です
境内東端には神楽殿です
では、次へ行きましょう