旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

京都・石仏の道から浄瑠璃寺へ

2016-03-30 17:20:57 | 京都
2016年3月28日、友人達と三宮集合で電車、バスを乗り継ぎ岩船寺にお参りし、その後、石仏の道を約2kmほど浄瑠璃寺に向かって歩きました。
石仏の道の案内図



天気予報で雨との予報でしたが、天気も良くて、皆で喋りながらのハイキングです。コースを岩船寺からにしたのは下り坂で逆コースであれば、登りはきついとのことからでした。
振り返ってパチリ



一願不動(不動明王立像)
「弘安10年(1287)のもので、京都府指定文化財、岩船寺奥の院の修行場の大岩に彫られた童顔ギョロ目の愛嬌があるお不動さん。像高121cm。」

また下り坂を歩きます

なんだか巨石が、何も彫っていません。



わらい仏(岩船阿弥陀三尊磨崖物)
「永仁7年(1299)の銘文があり、京都府指定文化財、当尾の代表的な石仏の一つです。蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀仏です。上部の屋根石が廂となっているので、風蝕の影響が少なく保存状態は良好です。伊末行の作、中尊像高79cm。」





ねむり仏(地蔵石仏)
「わらい仏の左の土の中に埋もれています。この石仏は、長い間土の中に休んでおられます。」



再び歩きます。まわりは竹林が多いですね。

カラスの壺二尊(阿弥陀地蔵摩崖仏)
「康永2年(1343)のもので、道が交差する分岐点で「からすのつぼ」と呼ばれている場所、一の岩に阿弥陀如来坐像と、面を変えて地蔵菩薩立像が彫られています。阿弥陀仏の横の線彫灯籠は火袋を彫り込み、そこへ燈明が供えられます。」



再び、石仏の道を歩きます。のどかな道です。

あたご灯籠
「細長い自然石を使用した灯籠です。高さ170cm。愛宕神は火の神様を司っています。当尾ではお正月にここからおけら火を採り雑煮を炊く風習があったそうです。同形の燈籠が、穴薬師の前と岩船の集落にもあります。」

薮の中三尊摩崖仏
「弘長2年(1262)のもので、東小集落中程の薮中にあります。随願寺の塔頭があった場所といわれています。像高、右から111cm、153cm、91cm。舟形の光背を彫りくぼめ、正面に地蔵と十一面観音、向かって左に阿弥陀を配する非常に珍しい配置の石仏です。作者は橘派の橘安縄、当尾の石仏中最古のものです。」



浄瑠璃寺周辺の案内図

参道の土産物屋

参道

アセビの花が咲いていました。



石碑

参道、正面が山門

参道の左手にある「あしびの店」で昼食しました。







とろろ定食は1080円でした。手作り味噌での味噌汁、山椒の実の塩漬けなどの漬物、わけぎなどが添えられています。

店の前の庭にはさまざまな木々の花が食事を楽しませてくれます。















当尾の説明書

浄瑠璃寺
真言律宗の寺院で、山号は小田原山です。関西花の寺25ケ所霊場の第16番です。
パンフレットより「この寺は東の薬師仏をまつる三重塔、中央宝池、西の九体阿弥陀堂から成り立っている。寺名は創建時のご本尊、薬師仏の浄土である浄瑠璃世界からつけられた。薬師仏は東方浄土の教主で、現実の苦悩を救い、目標の西方浄土へ送り出す遣送仏である。阿弥陀仏は西方未来の理想郷である楽土へ迎えてくれる来迎仏である。この寺ではまず東の薬師仏に苦悩の救済を願い、その前でふり返って池越しに彼岸の阿弥陀仏に来迎を願うのが本来の礼拝である。」
拝観料は300円です。
京都府木津川市加茂町西小
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山門

境内

鐘楼



宝池は修理中でした。

三重塔(国宝)
『「浄瑠璃寺流記事」によると治承2年(1178)、京都の一条大宮から移建したとするが、もともとどこの寺院にあったものか不明である。構造上の特色は、初層内部には柱がないことで、心柱は初層の天井から立てられている。浄瑠璃寺に移築された後、初層内部に仏壇を置きその上に薬師如来像(重文、秘仏)が安置された。初層内部の壁面には十六羅漢像など の壁画が描かれている。』





九体阿弥陀堂(国宝)
「寄棟造、本瓦葺きで、桁行11間、梁間4間、堂正面の左右両端間は上半を連子窓、下半を土壁とし、他の9間は板扉とする。隅の柱上に舟肘木を用いるほか、外周の柱上には組物を用いない、簡素な建物である。当時、京都を中心に競って建立された九体阿弥陀仏をまつるための横長の銅で、現存する唯一のもの。」
堂内には、九体阿弥陀如来像(国宝)、子安地蔵菩薩像(重要文化財)、四天王像(国宝)の持国天と増長天、不動明王三尊像等がまつられています。







石灯籠二基(重要文化財)
「本堂と三重塔の前、池の両岸にある。阿弥陀仏と薬師仏のお光で、塔の前のは貞治5年の年号銘が読める。」

お疲れ様でした。
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京都・岩船寺と白山神社

2016-03-30 17:12:18 | 京都
2016年3月28日、岩船寺(がんせんじ)にお参りしました。京都の南端で奈良との県境にあります。
友人達と阪神電車の三宮駅に9時15分集合で、9時29分発の快速急行で近鉄奈良駅10時52分着の約1時間半です。近鉄奈良駅の13番バス停から浄瑠璃寺行きのバスで約30分乗車、浄瑠璃寺から木津川コミュニティバスで約10分で岩船寺と電車、バスの乗り継ぎで行きました。昼前に着き、境内散策です。
岩船寺は、関西花の寺25ケ所霊場第15番、仏塔古寺18尊霊場第4番、神仏霊場京都49番です。
縁起は、パンフレットより「創立は、天平元年(729)、聖武天皇が出雲国不老山大社に行幸の時、大和国鳴川の善根寺に籠居していた僧行基に命じて阿弥陀堂を建立したのに始まる。その後、弘法大師と姉の子の智泉大徳が伝法潅頂を修し、大同元年(806)、新たに潅頂銅として報恩院を建立した。さらに嵯峨天皇が智泉大徳に勅願して皇孫誕生祈願をさせたところ、息子(仁明天皇)が誕生した。皇后の橘嘉智子が特に叡信が深く、皇子誕生のこともあり弘仁4年(813)に堂塔伽藍が整備され、寺号も岩船寺となる。最盛期には東西16町、南北16町の広大な境内に39の坊舎を有したが、承久の乱(1221)の兵火により、堂塔の大半を焼失した。再建後も再び兵火で失い、江戸時代寛永の頃(1624~1643)には本堂、塔、坊舎、鎮守社等、10宇ほどになる。荒廃ぶりを嘆いた文了律師が必死で勧進を行い、さらに徳川家康・秀忠らの寄進により本堂、仏像等の修復をする。鎌倉から江戸末期まで南都興福寺一乗院の末寺であったが、明治14年に真言律宗西大寺の末寺となって今日に至る。」
拝観料は400円です。
京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43
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当尾観光案内図

バスを降りて岩船寺へ

石風呂(鎌倉時代)
「山門手前にある修行僧が身を清めるため風呂」



山門





本堂
本堂の中には、平安時代の阿弥陀如来坐像(重要文化財)があり、像高約3メートル、ケヤキの一木造り、胎内に墨書銘が記されている。天慶9年、十世紀中期を代表する貴重な尊像で、行基作と伝える。鎌倉時代の四天王立像(京都府指定文化財)、平安時代の普賢菩薩騎象像(重要文化財)、十一面観音像などを安置しています。堂内撮影禁止のため写真はありません。





石室不動明王立像(重要文化財)
『鎌倉時代のもので、花崗岩製で前面二本の角石柱を立て、その上に寄棟造り一枚石の屋根をかけた珍しいもの。奥壁の一枚石には薄肉彫りの不動明王立像を祀り、「応長(1312)第二初夏六日 願主盛現」の銘が線刻されている。』



厄除け地蔵菩薩(鎌倉時代)



五輪塔(重要文化財)
「鎌倉時代のもので、東大寺別当平智僧都の墓と伝える。昭和初期に岩船の北谷墓地から移す。」

十三重石塔(重要文化財)
「正和3年(1314)、妙空僧正の建立と伝える。初重の軸石の四面には金剛界四仏の梵字が薬研彫りで刻まれている。昭和18年、軸石のくぼみかの中から水晶五輪舎利塔が発見される。」

境内(京都府歴史的自然環境保全地域に指定)







三重塔(重要文化財)
「室町時代のもので、仁明天皇が智泉大徳の遺徳を偲んで承和年間(834~847)に宝塔を建立したと伝える。塔は境内の奥、東を正面として建つ。嘉吉2年(1442)の刻銘がある。」



相輪

天邪鬼、四隅の垂木を支えています。



鐘楼

五輪塔







開山堂

鬼面瓦

宝篋印塔

白山神社(はくさんじんじゃ)
岩船寺の境内の裏山、山門の右手の階段を上がったところに鎮座しています。もとは岩船寺の鎮守社と言われています。
参道の階段

境内と鳥居

右手の春日神社は、江戸時代に白山神社にならって復古的に建立されたものです。

白山神社(重要文化財)
「一間社、春日造、檜皮葺で、室町中期の嘉吉2年頃(1442頃)の建立と伝えられている。」

摂社の春日神社(京都府指定文化財)



ここから、石仏の道を散策しながら浄瑠璃寺まで約2km歩きます。
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