2017年5月16日、堺市内観光にいきました。堺市南区の桜井神社と多治速比売神社にお参りの後、大仙公園の駐車場に自動車を止め、観光案内所でパンフレットを入手し、堺市内の阪堺電車(チンチン電車)と南海バスが乗れる「堺おもてなしチケット」500円を購入しました。
とりあえず、お昼なので、大仙公園でお弁当を食べてから観光です。大仙公園は、仁徳陵の南側に位置します。
堺市には、堺区、中区、東区、西区、南区、北区、美原区の7つの区があります。仁徳天皇陵古墳を中心として百舌鳥古墳群という日本屈指の古代文化遺産ゾーンがあります。今回はチンチン電車での移動を中心に北側から南に向かって観光します。
大仙公園
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鷺







13時5分までバスがないので、仁徳陵を見学してから市内へ。
仁徳陵・陪冡の復元模型


仁徳陵


中には入れません。眼の高さからでは雰囲気も判らないですね。








堺市博物館前からバスで移動ですが、平日は周遊のループがないので、堺東駅前に移動します。
切符

スクラッチ形式で、年、月、日を削って、バス、電車の降車時に提示します。バスは1回220円、チンチン電車は1回210円です。3回以上の乗車であれば得です。

堺市役所の21階展望ロビーからの眺望
一番左付近が仁徳陵ですが、やっぱり判らないですね。







展示物




バスで大小路に移動します。堺のバス路線図は観光者には判りません。京都であれば、番号や色分けで一目でどのバスに乗ればいいのか理解できます。地図をいただきましたが、バス路線のすべてが青で表示されており、番号もないし、バス亭の位置も表示されていません。観光案内所で、どこから、どこ行きかを聞いて乗りました。帰りについても博物館行きのバスも判らないので、堺東駅に戻ることにしました。東西方向の移動をしない場所に駐車するのがいいのかも。
紀州街道

大小路

チンチン電車の大小路駅


駅での付近案内図

天王寺駅前行きが来ました。乗車して高須神社駅まで5駅北に移動します。1時間に5本運行しています。

高須神社駅です。


高須駅の付近案内図

高須神社



鉄砲鍛冶屋敷に行きます。駅から230mです。


町並み



鉄砲鍛冶屋敷(堺市指定有形文化財)
「戦国時代、堺は日本一鉄砲生産地でした。わが国で唯一現存する貴重な江戸時代の鉄砲鍛冶工房です。(内部非公開)」



次は清学院に行きます。

堺市立町家歴史館 清学院
「修道院の寺院としての歴史を持ち、江戸時代後期から明治初期には仏典を求めてヒマラヤ山脈を越えてチベットに入った河口慧海も学んだ寺子屋として知られ、建物は国の登録有形文化財です。」火曜日休館日
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歩いて山口家に移動します。
綾の町駅

堺市立町家歴史館 山口家住宅(重要文化財)
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「主屋は慶長20年、大坂夏の陣で市街地が全焼した直後に建てられ、現存する数少ない江戸時代の町家のひとつ。伝統的な堺の町家暮らしを感じることができる魅力溢れる施設です。」火曜日休館日





南に歩きます。
町家


月蔵寺



北辰院


十輪院
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『当寺は、真言宗御室派で本尊は地蔵菩薩であす。天文9年(1540)5月賢盛が創建、当初は前之坊といっていましたが、延宝6年(1678)に十輪院と改称しました。本尊は、賢盛が海船の浜(現南海線七道駅周辺)から感得したものといわれています。境内に大阪府規則指定(大阪府古文化紀念物等保存顕彰規則)の石造板状塔婆が建っています。頭部が船形をし、碑身上部には蓮華座上に立つ地蔵菩薩立像が半肉彫りされ、その下に阿弥陀如来の種子が陰刻されています。その下に銘文もあり、根元部分が失われているため不完全なものの、向かって左側は「明徳2年六月」(1391)、右側は「為阿弥陀仏」と判読できます。この板状塔婆は、当時流行した阿弥陀如来と地蔵菩薩とを同体とする信仰を物語る資料として、府下においては数少ない南北朝時代の貴重な遺品となっています。』



石造板状塔婆

覚応寺
『当寺は、浄土真宗本願寺派で、本尊は阿弥陀如来です。正中元年(1324)、伊予の豪族河野通有の子であった通元は、本願寺覚如上人に帰依して、覚応と名のり、正中2年(1325)九州の霧島山のふもとに一宇を建て、覚応坊と名づけました。後に堺に移り、第5覚貞は覚如上人に師事して、坊を改め覚応寺としました。その後、現在地に移りました。当寺の住職であった河野鉄南(1874~1940)は、与謝野晶子と浪華青年文学会の機関紙「よしあし草」で、歌を通じて親交がありました。与謝野鉄幹とは少年時代から親しく、晶子を鉄幹に紹介しました。』






更に南側に歩きます。
妙国寺
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『当寺は、日蓮宗本山由緒寺院です。永禄5年(1562)、堺を支配した三好四兄弟の一人、三好実休(義賢)と日晄上人の尽力により建てられました。日晄上人は酒井の豪商、油屋(伊達)常言の息子です。堺での日蓮宗の代表的な寺院として、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受け、朝廷より勅願寺と定められました。幕末にはフランス兵との間でおこった「堺事件」において、十一人の土佐藩士が切腹した場所でもあります。』
堺事件
「慶応14年(1868)、当時は外国に対して開港となっていなかったにもかかわらず、堺港に上陸してきたフランス兵と、堺の警備にあたっていた土佐藩士との間で争いが起こり、フランス人多数が死傷しました。この問題は国際問題となり、責任を追及された土佐藩士十一名が当寺の境内にて切腹しました。」










土佐藩士十一名の墓








妙国寺駅

妙国寺駅周辺の案内図

チンチン電車

浜寺駅行きに乗ります。
とりあえず、お昼なので、大仙公園でお弁当を食べてから観光です。大仙公園は、仁徳陵の南側に位置します。
堺市には、堺区、中区、東区、西区、南区、北区、美原区の7つの区があります。仁徳天皇陵古墳を中心として百舌鳥古墳群という日本屈指の古代文化遺産ゾーンがあります。今回はチンチン電車での移動を中心に北側から南に向かって観光します。
大仙公園
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鷺







13時5分までバスがないので、仁徳陵を見学してから市内へ。
仁徳陵・陪冡の復元模型


仁徳陵


中には入れません。眼の高さからでは雰囲気も判らないですね。








堺市博物館前からバスで移動ですが、平日は周遊のループがないので、堺東駅前に移動します。
切符

スクラッチ形式で、年、月、日を削って、バス、電車の降車時に提示します。バスは1回220円、チンチン電車は1回210円です。3回以上の乗車であれば得です。

堺市役所の21階展望ロビーからの眺望
一番左付近が仁徳陵ですが、やっぱり判らないですね。







展示物




バスで大小路に移動します。堺のバス路線図は観光者には判りません。京都であれば、番号や色分けで一目でどのバスに乗ればいいのか理解できます。地図をいただきましたが、バス路線のすべてが青で表示されており、番号もないし、バス亭の位置も表示されていません。観光案内所で、どこから、どこ行きかを聞いて乗りました。帰りについても博物館行きのバスも判らないので、堺東駅に戻ることにしました。東西方向の移動をしない場所に駐車するのがいいのかも。
紀州街道

大小路

チンチン電車の大小路駅


駅での付近案内図

天王寺駅前行きが来ました。乗車して高須神社駅まで5駅北に移動します。1時間に5本運行しています。

高須神社駅です。


高須駅の付近案内図

高須神社



鉄砲鍛冶屋敷に行きます。駅から230mです。


町並み



鉄砲鍛冶屋敷(堺市指定有形文化財)
「戦国時代、堺は日本一鉄砲生産地でした。わが国で唯一現存する貴重な江戸時代の鉄砲鍛冶工房です。(内部非公開)」



次は清学院に行きます。

堺市立町家歴史館 清学院
「修道院の寺院としての歴史を持ち、江戸時代後期から明治初期には仏典を求めてヒマラヤ山脈を越えてチベットに入った河口慧海も学んだ寺子屋として知られ、建物は国の登録有形文化財です。」火曜日休館日
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歩いて山口家に移動します。
綾の町駅

堺市立町家歴史館 山口家住宅(重要文化財)
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「主屋は慶長20年、大坂夏の陣で市街地が全焼した直後に建てられ、現存する数少ない江戸時代の町家のひとつ。伝統的な堺の町家暮らしを感じることができる魅力溢れる施設です。」火曜日休館日





南に歩きます。
町家


月蔵寺



北辰院


十輪院
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『当寺は、真言宗御室派で本尊は地蔵菩薩であす。天文9年(1540)5月賢盛が創建、当初は前之坊といっていましたが、延宝6年(1678)に十輪院と改称しました。本尊は、賢盛が海船の浜(現南海線七道駅周辺)から感得したものといわれています。境内に大阪府規則指定(大阪府古文化紀念物等保存顕彰規則)の石造板状塔婆が建っています。頭部が船形をし、碑身上部には蓮華座上に立つ地蔵菩薩立像が半肉彫りされ、その下に阿弥陀如来の種子が陰刻されています。その下に銘文もあり、根元部分が失われているため不完全なものの、向かって左側は「明徳2年六月」(1391)、右側は「為阿弥陀仏」と判読できます。この板状塔婆は、当時流行した阿弥陀如来と地蔵菩薩とを同体とする信仰を物語る資料として、府下においては数少ない南北朝時代の貴重な遺品となっています。』



石造板状塔婆

覚応寺
『当寺は、浄土真宗本願寺派で、本尊は阿弥陀如来です。正中元年(1324)、伊予の豪族河野通有の子であった通元は、本願寺覚如上人に帰依して、覚応と名のり、正中2年(1325)九州の霧島山のふもとに一宇を建て、覚応坊と名づけました。後に堺に移り、第5覚貞は覚如上人に師事して、坊を改め覚応寺としました。その後、現在地に移りました。当寺の住職であった河野鉄南(1874~1940)は、与謝野晶子と浪華青年文学会の機関紙「よしあし草」で、歌を通じて親交がありました。与謝野鉄幹とは少年時代から親しく、晶子を鉄幹に紹介しました。』






更に南側に歩きます。
妙国寺
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『当寺は、日蓮宗本山由緒寺院です。永禄5年(1562)、堺を支配した三好四兄弟の一人、三好実休(義賢)と日晄上人の尽力により建てられました。日晄上人は酒井の豪商、油屋(伊達)常言の息子です。堺での日蓮宗の代表的な寺院として、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受け、朝廷より勅願寺と定められました。幕末にはフランス兵との間でおこった「堺事件」において、十一人の土佐藩士が切腹した場所でもあります。』
堺事件
「慶応14年(1868)、当時は外国に対して開港となっていなかったにもかかわらず、堺港に上陸してきたフランス兵と、堺の警備にあたっていた土佐藩士との間で争いが起こり、フランス人多数が死傷しました。この問題は国際問題となり、責任を追及された土佐藩士十一名が当寺の境内にて切腹しました。」










土佐藩士十一名の墓








妙国寺駅

妙国寺駅周辺の案内図

チンチン電車

浜寺駅行きに乗ります。
