2020年11月23日、お参りしました。
由緒書より「創祀年代は不祥であるが、社伝に959年(天徳3年)に勧請と伝えられる。又、古典・所伝によると、882年(元慶6年)以前より社のあったことがうかがわれる。古くは天神社と称し、天神地衹を奉祀した。聖武天皇の勅願により、奈良の都の北東(鬼門)の方角に位置する地に国家鎮護の霊山として金勝寺を建立した際、この地は大野神社の元の名所である天神社の統領座す地であったことから好むと好まざるに関わらず仏教主導の宗教政策の大波にのみ込まれ、明治2年の『神仏分離令』をうけ社名を大野神社と改めるまで神・仏ともに共生し歩むこととなる。
天神社はのちに狛坂天神・於之宮天神等と名称は替えられて来ているが、現在境内末社である水分社がその天神社である。又、897年(寛平9年)権大納言菅原道真公が勅使として金勝寺に参向された折、当社に暫く停り給いし縁故により於野宮天満宮と称え菅公を祭神とするに至った。この後、出雲大神・恵比寿大神・八幡大神の三神が一体となった社が新たに祀られる事になり現在に至る。今日でも『学問の神』・『農耕の神』・『天候を司る神』『勝負事の神』などとして信仰を色濃く残し古来から残る祭祀を体制つに受け継いでいる。
諸武将の祟敬を集めて社運は隆盛し、鎌倉時代には近江国守護だった佐々木氏が、南北朝から室町時代には足利義尚などが社殿の造・修営を行ったとされています。当神社は古くから金勝の総社で地元守護神として氏子の尊崇厚くなお明治年間まで琵琶湖辺より毎年御礼参りと称し遠路神輿を舁いて参詣したと今も古老が語り伝え、又昭和の戦前まで各地の力士自慢の奉納相撲が行われた。」
滋賀県栗東市荒張896
map
鳥居
大野cafeアプリ
楼門(重要文化財)
「東向きに建つ三間一戸の門で、屋根は入母屋檜皮葺です。平安末期の様式を残した鎌倉時代初期の建物で県下楼門の遺構の中で最古です。」
社務所・授与所
手水舎
天水の泉
神馬
神牛
狛犬
拝殿
狛犬
幣殿
本殿
三社殿(栗東市指定文化財)
「一間社流見世棚造で、檜皮葺屋根の小社。出雲社・八幡社・恵比寿社を祀る。」
末社
観音堂
鰐口(栗東市文化財)
「正面軒下につるす金属製の音響具、1526年(大永6年)作」
十一面観音立像・脇仏二体(栗東市文化財)
「本尊・十一面観音像(平安末期)、脇仏・毘沙門天立像(室町時代)、不動明王立像(江戸時代)」
神輿舎
献湯斎場
由緒書より「創祀年代は不祥であるが、社伝に959年(天徳3年)に勧請と伝えられる。又、古典・所伝によると、882年(元慶6年)以前より社のあったことがうかがわれる。古くは天神社と称し、天神地衹を奉祀した。聖武天皇の勅願により、奈良の都の北東(鬼門)の方角に位置する地に国家鎮護の霊山として金勝寺を建立した際、この地は大野神社の元の名所である天神社の統領座す地であったことから好むと好まざるに関わらず仏教主導の宗教政策の大波にのみ込まれ、明治2年の『神仏分離令』をうけ社名を大野神社と改めるまで神・仏ともに共生し歩むこととなる。
天神社はのちに狛坂天神・於之宮天神等と名称は替えられて来ているが、現在境内末社である水分社がその天神社である。又、897年(寛平9年)権大納言菅原道真公が勅使として金勝寺に参向された折、当社に暫く停り給いし縁故により於野宮天満宮と称え菅公を祭神とするに至った。この後、出雲大神・恵比寿大神・八幡大神の三神が一体となった社が新たに祀られる事になり現在に至る。今日でも『学問の神』・『農耕の神』・『天候を司る神』『勝負事の神』などとして信仰を色濃く残し古来から残る祭祀を体制つに受け継いでいる。
諸武将の祟敬を集めて社運は隆盛し、鎌倉時代には近江国守護だった佐々木氏が、南北朝から室町時代には足利義尚などが社殿の造・修営を行ったとされています。当神社は古くから金勝の総社で地元守護神として氏子の尊崇厚くなお明治年間まで琵琶湖辺より毎年御礼参りと称し遠路神輿を舁いて参詣したと今も古老が語り伝え、又昭和の戦前まで各地の力士自慢の奉納相撲が行われた。」
滋賀県栗東市荒張896
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楼門(重要文化財)
「東向きに建つ三間一戸の門で、屋根は入母屋檜皮葺です。平安末期の様式を残した鎌倉時代初期の建物で県下楼門の遺構の中で最古です。」
社務所・授与所
手水舎
天水の泉
神馬
神牛
狛犬
拝殿
狛犬
幣殿
本殿
三社殿(栗東市指定文化財)
「一間社流見世棚造で、檜皮葺屋根の小社。出雲社・八幡社・恵比寿社を祀る。」
末社
観音堂
鰐口(栗東市文化財)
「正面軒下につるす金属製の音響具、1526年(大永6年)作」
十一面観音立像・脇仏二体(栗東市文化財)
「本尊・十一面観音像(平安末期)、脇仏・毘沙門天立像(室町時代)、不動明王立像(江戸時代)」
神輿舎
献湯斎場