旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

大野神社

2020-11-25 14:21:43 | 滋賀
2020年11月23日、お参りしました。
由緒書より「創祀年代は不祥であるが、社伝に959年(天徳3年)に勧請と伝えられる。又、古典・所伝によると、882年(元慶6年)以前より社のあったことがうかがわれる。古くは天神社と称し、天神地衹を奉祀した。聖武天皇の勅願により、奈良の都の北東(鬼門)の方角に位置する地に国家鎮護の霊山として金勝寺を建立した際、この地は大野神社の元の名所である天神社の統領座す地であったことから好むと好まざるに関わらず仏教主導の宗教政策の大波にのみ込まれ、明治2年の『神仏分離令』をうけ社名を大野神社と改めるまで神・仏ともに共生し歩むこととなる。
 天神社はのちに狛坂天神・於之宮天神等と名称は替えられて来ているが、現在境内末社である水分社がその天神社である。又、897年(寛平9年)権大納言菅原道真公が勅使として金勝寺に参向された折、当社に暫く停り給いし縁故により於野宮天満宮と称え菅公を祭神とするに至った。この後、出雲大神・恵比寿大神・八幡大神の三神が一体となった社が新たに祀られる事になり現在に至る。今日でも『学問の神』・『農耕の神』・『天候を司る神』『勝負事の神』などとして信仰を色濃く残し古来から残る祭祀を体制つに受け継いでいる。
 諸武将の祟敬を集めて社運は隆盛し、鎌倉時代には近江国守護だった佐々木氏が、南北朝から室町時代には足利義尚などが社殿の造・修営を行ったとされています。当神社は古くから金勝の総社で地元守護神として氏子の尊崇厚くなお明治年間まで琵琶湖辺より毎年御礼参りと称し遠路神輿を舁いて参詣したと今も古老が語り伝え、又昭和の戦前まで各地の力士自慢の奉納相撲が行われた。」
滋賀県栗東市荒張896
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鳥居



大野cafeアプリ

楼門(重要文化財)
「東向きに建つ三間一戸の門で、屋根は入母屋檜皮葺です。平安末期の様式を残した鎌倉時代初期の建物で県下楼門の遺構の中で最古です。」

社務所・授与所

手水舎



天水の泉





神馬

神牛

狛犬



拝殿



狛犬



幣殿



本殿







三社殿(栗東市指定文化財)
「一間社流見世棚造で、檜皮葺屋根の小社。出雲社・八幡社・恵比寿社を祀る。」

末社

観音堂
鰐口(栗東市文化財)
「正面軒下につるす金属製の音響具、1526年(大永6年)作」

十一面観音立像・脇仏二体(栗東市文化財)
「本尊・十一面観音像(平安末期)、脇仏・毘沙門天立像(室町時代)、不動明王立像(江戸時代)」

神輿舎

献湯斎場
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小槻(おつき)大社

2020-11-25 09:00:41 | 滋賀
2020年11月23日、お参りしました。
説明書より「創祀の年代は明らかではないが『延喜式神名帳』にも名を残す古社です。小槻大社は、近江国の豪族小槻氏にゆかり深い社で祭神は小槻山公の祖、於知別命を祀ります。中世には青地城主青地氏の祟敬社とされました。863年「(貞観5年)小杖神(小槻大社を指す)は従五位下を授け、以後、康永2年(1343)に正一位を授けられたと明記されています。古代・中世にかけて、国家の神として位置付けられていたことがうかがえます。」
滋賀県栗東市下戸山1212
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参道

鳥居

手水舎







神馬

絵馬殿



社務所

神輿舎



狛犬



本殿(重要文化財)
「棟札によれば1519年(永正6年)4月に柱を建てたと書かれている。正面の柱間数が一間であることから、形式は一間社流造で屋根は桧皮葺である。柱・虹梁などの寸法が太く一間社としては雄大な外観を示す。後世の修理で軒・縁・基壇廻りが変更されたが、昭和38年の解体修理で室町時代後期の形式に復元された。」





末社

稲荷社







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安養寺

2020-11-25 08:35:22 | 滋賀
2020年11月23日、お参りしました。
説明書より「740年(天平12年)聖武天皇の勅願により、金勝寺25別院の一つとして、良弁僧正が開基しました。本尊が薬師如来であることから東方瑠璃山安養寺勅願を賜りました。834年(承和元年) 弘法大師空海が中興、真言宗に改宗しました。1263年(弘長3年)亀山天皇は勅願所とされ七堂伽藍をはじめ二十余の僧坊の並ぶ大伽藍を建立、弘法大師作の愛染明王を下賜されました。1487年(長享元年)足利九代将軍義尚が佐々木(六角)高頼討伐のため、陣所としました。しかし、兵火に罹り堂宇を消失。その後大永年間に復興。1570年(元亀元年)織田信長の兵火のため、本尊の薬師三尊等の一部を除いて、すべて焼失しました。1684年(貞享元年)戒山慧堅律師、旧跡の荒廃を惜しみ、仏殿僧舎を再建建立。1718年(享保3年)後西院の皇女宝鏡寺理豊宮より、後西院天皇真筆の『東方山』・『安養寺』・『放光院』の 山号・寺号・院号の三額を賜りました。」
滋賀県栗東市安養寺88
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参道







子護大師

山門







薬師堂



役行者の石像



庫裏





鐘楼

石碑



十三重塔(重要文化財)
「高さは約4メートル、現在は残念ながら、第9・10・11層を欠く十重になっていますが、作られた鎌倉時代後期には十三重あったとされています。塔身には四佛を刻み出し、上面に返花を表した基礎の三面に格狭間、正面の一面は二区に分けて二体の比丘形を彫り出し珍しい形式の層塔となっています。作風により、弘長年間よりやや遅れる鎌倉時代後期の作とされています。」

観音堂






















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