2016年11月30日、お参りしました。光明寺は、阪急長岡天神駅よりバス20系統で15分乗車のところです。紅葉の季節の特別入山料500円です。
京都府長岡京市粟生
map
説明書
「当寺は、西山浄土宗の本山で、寺伝によれば、建久9年(1198)に蓮生法師(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第一世としています。境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在し廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保19年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以降の建立です。総門をくぐり、美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。御影堂は宝暦3年(1753)の再建で、派手な装飾はないが全体的構成の精美性を意匠の主眼としたものです。阿弥陀堂は寛政11年(1799)の建立で、本堂より少し華やかな造りとなっています。御影堂の後方にある御廟は明暦2年(1656)の再建で禅宗様を基調とした華麗な造りです。軒下周りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。その前にある拝殿は山内では最も古い承応2年(1653)の建築です。御影堂の左下には元文元年(1736)の釈迦堂、、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。天保4年(1833)に建立された講堂は食堂とともに浄土宗寺院でも檀林(仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります。」
寺標
参道
境内案内図
浄土門根元地
総門(長岡京市指定文化財)
「高麗門という形式で、天保16年(1845)に建立。」
東行逆馬の碑
『表参道と紅葉参道との分岐点にあります。馬の背に逆さに乗っているお坊さんの姿が刻まれています。蓮生法師は法然上人の教えにしたがって熱心に修行をしましたが、蓮生法師は阿弥陀様がいらっしゃる西方をうやまうあまり、関東への布教の度に出るときも、「西におしりを向けて進むことはできない。」と、馬に逆さに乗って西をおがみながら進んで行ったそうです。元荒武者らしい熊谷次郎直実の姿です。』
閻魔堂
「総門をくぐって、すぐ左手にあります。」
表参道
塩田紅果之句碑
観音堂(長岡京市指定文化財)
『参道を上がって右手です。光明寺は洛西観音三十三霊場の七番目の札所です。「十一面千手観音」を祀っています。』
手水舎
御影堂(長岡京市指定文化財)
『宝暦3年(1753)に再建された、当山の中心になるお堂、御本尊は法然上人御自作の「張り子御影」です。これは法然上人が75歳の時、「建永の法難」と呼ばれる弾圧により四国へ流罪になったとき、弟子の願いに応えて、大切にしていた母君からの手紙を張り合わせて自らの姿を像に作り、形見として与えたものです。』
装飾瓦
鬼面瓦
風鐸
彫物
燈籠
経蔵(長岡京市指定文化財)
「宝永4年(1707)に建立した。」
勧化所
紅葉と法然上人の「石棺」
『柵の前の碑には「圓光大師御石棺」と刻まれています。圓光大師とは法然上人の大師号です。」
渡廊
釣燈籠
阿弥陀堂(長岡京市指定文化財)
「寛政11年(1799)に再建された総けやき造りのお堂、ご本尊の阿弥陀如来像は六尺七寸(約2m)以上もある大きなものですが、熊谷蓮生法師が琵琶湖畔堅田の浮御堂から背負って帰って来たという言い伝えがあります。」
位牌堂
勢至堂
鐘楼(長岡京市指定文化財)
梵鐘
法然上人像
モミの木(保存樹木)
釈迦堂(長岡京市指定文化財)
『ご本尊は「頬焼の釈迦如来」、淀の水津村の漁師で、悪次郎とあだ名されたほどの乱暴者が、托鉢の僧(実はこのお釈迦様)と出会って心を入れ替えるという物語に登場する仏像です。頬には悪次郎に焼火箸で焼かれた跡という傷が見えます。釈迦堂前の白州に大小18個の石を配した庭は、阿弥陀さまの慈悲に包まれながら生死の大海を渡る念仏行者の姿を現しているといわれています。一番大きな三つま岩は弥陀三尊のお姿です。また18という石の数は、阿弥陀如来さまが私たちに約束してくださっている四八番目「念仏往生の願」を象徴しています。』
勅使門(長岡京市指定文化財)
十三重石塔
柏槙(長岡京市指定文化財)
「高さ15m、根元の周囲が4.6mにも達する巨木で樹齢4、5百年といわれ、京都府かにおいても学術的価値が高い。」
大書院玄関(長岡京市指定文化財)
円光大使火葬跡
鎮守社
茂右ヱ門屋敷跡
表寮門
もみじ参道
「総門から薬医門をへて玄関へいたるゆるやかな坂道の参道は、両側から楓の木々が大聞く枝を伸ばし、紅葉の季節には華やかな紅色のトンネルになります。」
薬医門(長岡京市指定文化財)
紅葉参道
光明寺の竹林
いっぷく亭で昼食です。
もみじ重膳2400円です。
食事後は、長岡天神にお参りしました。こちらの紅葉も素敵でした。
お疲れ様でした。
京都府長岡京市粟生
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説明書
「当寺は、西山浄土宗の本山で、寺伝によれば、建久9年(1198)に蓮生法師(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第一世としています。境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在し廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保19年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以降の建立です。総門をくぐり、美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。御影堂は宝暦3年(1753)の再建で、派手な装飾はないが全体的構成の精美性を意匠の主眼としたものです。阿弥陀堂は寛政11年(1799)の建立で、本堂より少し華やかな造りとなっています。御影堂の後方にある御廟は明暦2年(1656)の再建で禅宗様を基調とした華麗な造りです。軒下周りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。その前にある拝殿は山内では最も古い承応2年(1653)の建築です。御影堂の左下には元文元年(1736)の釈迦堂、、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。天保4年(1833)に建立された講堂は食堂とともに浄土宗寺院でも檀林(仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります。」
寺標
参道
境内案内図
浄土門根元地
総門(長岡京市指定文化財)
「高麗門という形式で、天保16年(1845)に建立。」
東行逆馬の碑
『表参道と紅葉参道との分岐点にあります。馬の背に逆さに乗っているお坊さんの姿が刻まれています。蓮生法師は法然上人の教えにしたがって熱心に修行をしましたが、蓮生法師は阿弥陀様がいらっしゃる西方をうやまうあまり、関東への布教の度に出るときも、「西におしりを向けて進むことはできない。」と、馬に逆さに乗って西をおがみながら進んで行ったそうです。元荒武者らしい熊谷次郎直実の姿です。』
閻魔堂
「総門をくぐって、すぐ左手にあります。」
表参道
塩田紅果之句碑
観音堂(長岡京市指定文化財)
『参道を上がって右手です。光明寺は洛西観音三十三霊場の七番目の札所です。「十一面千手観音」を祀っています。』
手水舎
御影堂(長岡京市指定文化財)
『宝暦3年(1753)に再建された、当山の中心になるお堂、御本尊は法然上人御自作の「張り子御影」です。これは法然上人が75歳の時、「建永の法難」と呼ばれる弾圧により四国へ流罪になったとき、弟子の願いに応えて、大切にしていた母君からの手紙を張り合わせて自らの姿を像に作り、形見として与えたものです。』
装飾瓦
鬼面瓦
風鐸
彫物
燈籠
経蔵(長岡京市指定文化財)
「宝永4年(1707)に建立した。」
勧化所
紅葉と法然上人の「石棺」
『柵の前の碑には「圓光大師御石棺」と刻まれています。圓光大師とは法然上人の大師号です。」
渡廊
釣燈籠
阿弥陀堂(長岡京市指定文化財)
「寛政11年(1799)に再建された総けやき造りのお堂、ご本尊の阿弥陀如来像は六尺七寸(約2m)以上もある大きなものですが、熊谷蓮生法師が琵琶湖畔堅田の浮御堂から背負って帰って来たという言い伝えがあります。」
位牌堂
勢至堂
鐘楼(長岡京市指定文化財)
梵鐘
法然上人像
モミの木(保存樹木)
釈迦堂(長岡京市指定文化財)
『ご本尊は「頬焼の釈迦如来」、淀の水津村の漁師で、悪次郎とあだ名されたほどの乱暴者が、托鉢の僧(実はこのお釈迦様)と出会って心を入れ替えるという物語に登場する仏像です。頬には悪次郎に焼火箸で焼かれた跡という傷が見えます。釈迦堂前の白州に大小18個の石を配した庭は、阿弥陀さまの慈悲に包まれながら生死の大海を渡る念仏行者の姿を現しているといわれています。一番大きな三つま岩は弥陀三尊のお姿です。また18という石の数は、阿弥陀如来さまが私たちに約束してくださっている四八番目「念仏往生の願」を象徴しています。』
勅使門(長岡京市指定文化財)
十三重石塔
柏槙(長岡京市指定文化財)
「高さ15m、根元の周囲が4.6mにも達する巨木で樹齢4、5百年といわれ、京都府かにおいても学術的価値が高い。」
大書院玄関(長岡京市指定文化財)
円光大使火葬跡
鎮守社
茂右ヱ門屋敷跡
表寮門
もみじ参道
「総門から薬医門をへて玄関へいたるゆるやかな坂道の参道は、両側から楓の木々が大聞く枝を伸ばし、紅葉の季節には華やかな紅色のトンネルになります。」
薬医門(長岡京市指定文化財)
紅葉参道
光明寺の竹林
いっぷく亭で昼食です。
もみじ重膳2400円です。
食事後は、長岡天神にお参りしました。こちらの紅葉も素敵でした。
お疲れ様でした。
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