2015年9月4日、連日の雨が上がり、阪神電鉄尼崎駅周辺を散策しました。駅の南西側に寺町があります。1600年代に尼崎城築城を機に、寺町が形成されました。駅前は高層ビルが立ち並びますが、寺町は江戸時代から現在までの歴史を見つめてきたという感じです。駅の西口を南に少し行きます。
寺町案内図

全昌寺
兵庫県尼崎市開明町3-11
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曹洞宗の禅宗寺院で、山号は桃源山です。
説明書より
「全昌寺は、戸田家の菩提寺として膳所が崎(現在の大津市)に建立されましたが、元和3年(1617)戸田氏鉄が尼崎藩主として移封移城の際、随伴した雪山呑秀和尚によって尼崎に再興されたものです。開基は、戸田甚五郎と伝えられ、寺町で唯一の曹洞宗の寺院です。曹洞宗の本山である総持寺(神奈川県)の輪番地寺院としてたびたび禅師を送り出した名刹です(曹洞宗は福井県の永平寺と総持寺を二大本山と仰ぎます。)。文政5年(1822)出火の際に、貴重な記録類をはじめ、多くの品々が焼失しましたが、山門、鐘楼堂、本尊釈迦如来像、月舟宗湖筆の観音堂扁額、十六羅漢、魚藍観音像、涅槃図は焼失を免れました。檀家には尼崎藩旧松平家の家臣も多く、藩学者の豊島成温、内田頼重らの墓所としても知られています。鐘楼堂は阪神・淡路大震災で被災し、再建されました。」

山門

東門

観音堂

本堂

鐘楼堂

境内



甘露寺です。境内は入れませんでした。
兵庫県尼崎市寺町6
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本堂の棟の上には鳳凰が守っています。

山門



法園寺
浄土宗の寺院で、山号は恵光山です。
兵庫県尼崎市寺町5
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説明書より
「開基は天文年間(1532~55)、勝誉恵光法園上人と伝えられ、元和年間(1615~24)に寺町に移転しました。当寺には佐々成政の墓碑があります。成政は織田信長に仕え、猛将として名を馳せ、その功により越中守に任じられます。本能寺の変後は、織田信雄(信長の次子)を奉じ天正12年(1584)小牧長久手戦に参戦しますが敗れ、のち豊臣秀吉に属することになります。肥後守在任中、領地内で反乱がおこり、その責により幽閉され、天正16年(1588)閏5月14日に切腹を命じられます。恨みの秀吉のいる大坂城の方向に自らの臓腑を投げつけたと伝えられています。寺宝として、後陽成天皇(1571~1617)直筆の和歌一首「なき人のかたみの雲やしぐるならん 夕の雨に途はみえねと」の掛軸や成政の肖像画があります。特に山門の内に桐、外には菊の紋があり、由緒ある寺院を偲ばせています。」

山門

佐々成政公供養五輪塔

佐々成政公生涯の石碑


大覚寺
律宗の寺院で、山号は月峯山です。推古13年(605)聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて長州の浦に作らせた寺と伝えられています。
兵庫県尼崎市寺町9
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山門


寺碑

手水舎

能舞台

契沖の歌碑

薬師堂




聖天堂

稲荷社・貴布社・加茂社・石清水八幡社

芦狩島の説明書

芦狩山の由来

弁天堂



燈炉堂




寺町の通り

如来院
浄土宗の寺院で、山号は珠光山です。
説明書より
「当院は、元祖円光大師(法然上人)25霊場第4番札所です。沿革は、奈良時代に聖武天皇の厄除を祈願して、行基菩薩が神崎(尼崎市神崎町)に、神崎釈迦堂を建立したのが始まりと伝えられています。当院には遊女物語が語り継がれています。鎌倉時代に法然上人が立ち寄られた時、お説教を聞いた5人の遊女達は、頭の黒髪を切りとり出家者となって、お念仏を称えながら入水往生しました。その後、当院は戦国時代、城主細川高国の菩提寺となり、旧尼崎城下(現在の大物町)に移り、江戸時代には現在の寺町へ移転しました。当院の銅鐘(市指定文化財)は、応永32年(1425)の年号があります。始めは島堂(現在の豊中市内)の勧進寺のものとして鋳造されて、のち伝来したものです。また、県下に誇る石造美術品として、花崗岩製の笠塔婆(市指定文化財)があります。嘉暦2年(1327)、両親の33回忌の供養の為に建てられたものです。」

山門






本堂



笠塔婆

鐘楼


専念寺、境内は入れませんでした。
兵庫県尼崎市寺町12
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説明書より
『寺伝によると、当寺は治承元年(1177)、「小松内大臣」と呼ばれた平重盛が、東長洲に建立したのが始まりとされる。仏教に信仰の厚かった平重盛は、晩年、法然上人に出会い、念仏の教えに深く帰依した。そして、自身の極楽への往生を願い、阿弥陀如来を本尊とする当寺を建立した。重盛没後、子息に相続されたということはなかったようであるので、重盛の私堂ではなく、まさしく一寺院として建立されたといえる。しかし、残念ながら建立からわずか2年後の治承3年(1179)に重盛が亡くなった。残された当寺はその直後、朝廷より、建立者重盛の菩提を弔う寺(菩提所)とされ、そして同時に、重盛の生前の朝廷(政権)における功績により、朝廷より朱塗りを施した表門(山門)を許された、と伝えられている。以来、山門は赤門であった。』

山門(赤門)

本堂

寺町通

寺町の北側の通

寺町案内図

全昌寺
兵庫県尼崎市開明町3-11
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曹洞宗の禅宗寺院で、山号は桃源山です。
説明書より
「全昌寺は、戸田家の菩提寺として膳所が崎(現在の大津市)に建立されましたが、元和3年(1617)戸田氏鉄が尼崎藩主として移封移城の際、随伴した雪山呑秀和尚によって尼崎に再興されたものです。開基は、戸田甚五郎と伝えられ、寺町で唯一の曹洞宗の寺院です。曹洞宗の本山である総持寺(神奈川県)の輪番地寺院としてたびたび禅師を送り出した名刹です(曹洞宗は福井県の永平寺と総持寺を二大本山と仰ぎます。)。文政5年(1822)出火の際に、貴重な記録類をはじめ、多くの品々が焼失しましたが、山門、鐘楼堂、本尊釈迦如来像、月舟宗湖筆の観音堂扁額、十六羅漢、魚藍観音像、涅槃図は焼失を免れました。檀家には尼崎藩旧松平家の家臣も多く、藩学者の豊島成温、内田頼重らの墓所としても知られています。鐘楼堂は阪神・淡路大震災で被災し、再建されました。」

山門

東門

観音堂

本堂

鐘楼堂

境内



甘露寺です。境内は入れませんでした。
兵庫県尼崎市寺町6
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本堂の棟の上には鳳凰が守っています。

山門



法園寺
浄土宗の寺院で、山号は恵光山です。
兵庫県尼崎市寺町5
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説明書より
「開基は天文年間(1532~55)、勝誉恵光法園上人と伝えられ、元和年間(1615~24)に寺町に移転しました。当寺には佐々成政の墓碑があります。成政は織田信長に仕え、猛将として名を馳せ、その功により越中守に任じられます。本能寺の変後は、織田信雄(信長の次子)を奉じ天正12年(1584)小牧長久手戦に参戦しますが敗れ、のち豊臣秀吉に属することになります。肥後守在任中、領地内で反乱がおこり、その責により幽閉され、天正16年(1588)閏5月14日に切腹を命じられます。恨みの秀吉のいる大坂城の方向に自らの臓腑を投げつけたと伝えられています。寺宝として、後陽成天皇(1571~1617)直筆の和歌一首「なき人のかたみの雲やしぐるならん 夕の雨に途はみえねと」の掛軸や成政の肖像画があります。特に山門の内に桐、外には菊の紋があり、由緒ある寺院を偲ばせています。」

山門

佐々成政公供養五輪塔

佐々成政公生涯の石碑


大覚寺
律宗の寺院で、山号は月峯山です。推古13年(605)聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて長州の浦に作らせた寺と伝えられています。
兵庫県尼崎市寺町9
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山門


寺碑

手水舎

能舞台

契沖の歌碑

薬師堂




聖天堂

稲荷社・貴布社・加茂社・石清水八幡社

芦狩島の説明書

芦狩山の由来

弁天堂



燈炉堂




寺町の通り

如来院
浄土宗の寺院で、山号は珠光山です。
説明書より
「当院は、元祖円光大師(法然上人)25霊場第4番札所です。沿革は、奈良時代に聖武天皇の厄除を祈願して、行基菩薩が神崎(尼崎市神崎町)に、神崎釈迦堂を建立したのが始まりと伝えられています。当院には遊女物語が語り継がれています。鎌倉時代に法然上人が立ち寄られた時、お説教を聞いた5人の遊女達は、頭の黒髪を切りとり出家者となって、お念仏を称えながら入水往生しました。その後、当院は戦国時代、城主細川高国の菩提寺となり、旧尼崎城下(現在の大物町)に移り、江戸時代には現在の寺町へ移転しました。当院の銅鐘(市指定文化財)は、応永32年(1425)の年号があります。始めは島堂(現在の豊中市内)の勧進寺のものとして鋳造されて、のち伝来したものです。また、県下に誇る石造美術品として、花崗岩製の笠塔婆(市指定文化財)があります。嘉暦2年(1327)、両親の33回忌の供養の為に建てられたものです。」

山門






本堂



笠塔婆

鐘楼


専念寺、境内は入れませんでした。
兵庫県尼崎市寺町12
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説明書より
『寺伝によると、当寺は治承元年(1177)、「小松内大臣」と呼ばれた平重盛が、東長洲に建立したのが始まりとされる。仏教に信仰の厚かった平重盛は、晩年、法然上人に出会い、念仏の教えに深く帰依した。そして、自身の極楽への往生を願い、阿弥陀如来を本尊とする当寺を建立した。重盛没後、子息に相続されたということはなかったようであるので、重盛の私堂ではなく、まさしく一寺院として建立されたといえる。しかし、残念ながら建立からわずか2年後の治承3年(1179)に重盛が亡くなった。残された当寺はその直後、朝廷より、建立者重盛の菩提を弔う寺(菩提所)とされ、そして同時に、重盛の生前の朝廷(政権)における功績により、朝廷より朱塗りを施した表門(山門)を許された、と伝えられている。以来、山門は赤門であった。』

山門(赤門)

本堂

寺町通

寺町の北側の通

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