2018年2月18日、奈良市内観光に行きました。法華寺にお参りしました。
「光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られ、天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである。法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃した。鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・重源は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊によって本格的な復興がなされた。その後、明応8年(1499年)と永正3年(1506年)の兵火や慶長元年(1596年)の地震で東塔以外の建物を失い、東塔は宝永4年(1707年)の地震で倒壊した。現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、平成11年(1999年)に、光明皇后にちなんで光明宗と名づけ離脱・独立した。」
奈良県奈良市法華寺町882
map
境内案内図
赤門
鐘楼(鐘楼堂)(重要文化財)
「桃山時代の慶長7年(1602)建築、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺。」
稲荷神社
横笛堂
薬師堂
護摩堂
本堂(重要文化財)
「慶長6年(1601年)建築、寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建された。」
鬼瓦に慶長7年(1602年)の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられる。
南門(重要文化財)
「桃山時代の慶長頃(1596-1615)建築、四脚門、切妻造、本瓦葺。」
「光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られ、天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである。法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃した。鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・重源は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊によって本格的な復興がなされた。その後、明応8年(1499年)と永正3年(1506年)の兵火や慶長元年(1596年)の地震で東塔以外の建物を失い、東塔は宝永4年(1707年)の地震で倒壊した。現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、平成11年(1999年)に、光明皇后にちなんで光明宗と名づけ離脱・独立した。」
奈良県奈良市法華寺町882
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境内案内図
赤門
鐘楼(鐘楼堂)(重要文化財)
「桃山時代の慶長7年(1602)建築、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺。」
稲荷神社
横笛堂
薬師堂
護摩堂
本堂(重要文化財)
「慶長6年(1601年)建築、寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建された。」
鬼瓦に慶長7年(1602年)の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられる。
南門(重要文化財)
「桃山時代の慶長頃(1596-1615)建築、四脚門、切妻造、本瓦葺。」
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