2019年7月3日から4日の四国観光で行きました。
説明書より「高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人磨が讃岐の国の枕詞に「玉藻によし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによると言われています。
この城は、1587(天正15)年に、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、1588(天正16)から香東郡野原庄(篦原)と呼ばれていた現在地を高松と改め築城に着手した平城(水城)です。縄張り(設計)は、当時築城の名手であった黒田孝高(如水)とも細川忠興ともいわれています。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城のひとつといわれています。城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。
生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、1640(寛永17)年に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。このあと、1642(寛永19)年に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたといわれています。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の城下町として栄えました。
お城は、1870(明治3)年に廃城伺を提出し許可され、一時、政府の所管となりましたが、1890(明治23)年に城跡の一部が松平家に払い下げになり、1945(昭和20)年には松平家から公益財団法人松平公益会に継承され、さらに1954(昭和29)年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として一般開放されました。現在の玉藻公園の面積は79,587㎡(約2万4千坪)で、往時の城域66万㎡(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や艮櫓とともに石垣や塀などが残り、国の史跡に指定されています。」
香川県高松市玉藻町2-1
map
玉藻公園駐車場に車を停めます。(駐車料金無料)、入園料は200円です。
案内図
旭橋と旭門
「かつて、城の南側に桜の馬場の南中程に大手門がありましたが、1671(寛文11)年頃、三の丸に藩主の住居である旧披雲閣が建てられたため、これを廃して新たに東に旭橋を架け、それを渡って旭門から出入りするようになりました。」
旧東之丸艮櫓(重要文化財)
「艮櫓はもともと東の丸の北東の櫓(現在の県民ホール敷地内)にあった櫓で、北東の方角を丑寅ということからこの名前があります。完成は1677(延宝5)年といわれ、月見櫓と同時期につくられました。三重三階・入母屋造・本瓦葺で、形は月見櫓と似ていますが、初重に大きな千鳥破風があるのが特徴です。」
枡形
天守閣跡
「生駒氏時代の天守は、絵図や古文書によると3重だったとされています。松平氏時代の1670(寛文10)年に改築された天守は3重5階の南蛮造りで四国最大を誇っていました。」
鞘橋
「本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋でしたが、江戸時代中期末頃にはこのような屋根付の橋になったようです。」
桜御門跡
「三の丸入口の櫓門で1945(昭和20)年の高松空襲により焼失しました。石垣には火災により赤く焼けた痕跡や、地面に残る礎石には柱に使用された金具の錆跡が茶色く残り、往時の姿を偲ぶことができます。」
披雲閣(重要文化財)
『披雲閣は、高松城跡の三の丸に所在する旧高松城主の松平家の別邸である。清水組の設計、施工により、大正6年に完成した。三の丸の南面に開く桜御門を正門として敷地の中央に本館を建て、海に面した北側に庭園をつくる。本館は、接客、居住、家政などの機能をもつ各部を廊下で接続する。江戸時代の御殿を意識した伝統的な配置や意匠をもち、百四十二畳敷の「大書院」から複数の小座敷を配した「杉の間」まで、充実した接客空間を擁する。 披雲閣は、旧城主によって近代に建設された大規模な和風住宅であり、江戸時代の城跡に再建された希少な事例である。また、近代的な組織体制により設計と施工の管理が徹底された住宅建築であり、大正時代におけるわが国の大規模和風住宅の技術的水準を示すものとして重要である。』
披雲閣庭園
報時鐘
北之丸月見櫓(重要文化財)
「月見櫓は北の丸の隅櫓として1676(延宝4)年頃に完成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので[着見櫓]ともいわれています。総塗籠造りの三重三階・入母屋造・本瓦葺で、初重は千鳥破風、二重は唐破風と屋根の形を対象させています。月見櫓に連なる薬医門様式の水手海門は、いわば海の大手門です。」
水手御門(重要文化財)
説明書より「高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人磨が讃岐の国の枕詞に「玉藻によし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによると言われています。
この城は、1587(天正15)年に、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、1588(天正16)から香東郡野原庄(篦原)と呼ばれていた現在地を高松と改め築城に着手した平城(水城)です。縄張り(設計)は、当時築城の名手であった黒田孝高(如水)とも細川忠興ともいわれています。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城のひとつといわれています。城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。
生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、1640(寛永17)年に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。このあと、1642(寛永19)年に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたといわれています。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の城下町として栄えました。
お城は、1870(明治3)年に廃城伺を提出し許可され、一時、政府の所管となりましたが、1890(明治23)年に城跡の一部が松平家に払い下げになり、1945(昭和20)年には松平家から公益財団法人松平公益会に継承され、さらに1954(昭和29)年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として一般開放されました。現在の玉藻公園の面積は79,587㎡(約2万4千坪)で、往時の城域66万㎡(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や艮櫓とともに石垣や塀などが残り、国の史跡に指定されています。」
香川県高松市玉藻町2-1
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玉藻公園駐車場に車を停めます。(駐車料金無料)、入園料は200円です。
案内図
旭橋と旭門
「かつて、城の南側に桜の馬場の南中程に大手門がありましたが、1671(寛文11)年頃、三の丸に藩主の住居である旧披雲閣が建てられたため、これを廃して新たに東に旭橋を架け、それを渡って旭門から出入りするようになりました。」
旧東之丸艮櫓(重要文化財)
「艮櫓はもともと東の丸の北東の櫓(現在の県民ホール敷地内)にあった櫓で、北東の方角を丑寅ということからこの名前があります。完成は1677(延宝5)年といわれ、月見櫓と同時期につくられました。三重三階・入母屋造・本瓦葺で、形は月見櫓と似ていますが、初重に大きな千鳥破風があるのが特徴です。」
枡形
天守閣跡
「生駒氏時代の天守は、絵図や古文書によると3重だったとされています。松平氏時代の1670(寛文10)年に改築された天守は3重5階の南蛮造りで四国最大を誇っていました。」
鞘橋
「本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋でしたが、江戸時代中期末頃にはこのような屋根付の橋になったようです。」
桜御門跡
「三の丸入口の櫓門で1945(昭和20)年の高松空襲により焼失しました。石垣には火災により赤く焼けた痕跡や、地面に残る礎石には柱に使用された金具の錆跡が茶色く残り、往時の姿を偲ぶことができます。」
披雲閣(重要文化財)
『披雲閣は、高松城跡の三の丸に所在する旧高松城主の松平家の別邸である。清水組の設計、施工により、大正6年に完成した。三の丸の南面に開く桜御門を正門として敷地の中央に本館を建て、海に面した北側に庭園をつくる。本館は、接客、居住、家政などの機能をもつ各部を廊下で接続する。江戸時代の御殿を意識した伝統的な配置や意匠をもち、百四十二畳敷の「大書院」から複数の小座敷を配した「杉の間」まで、充実した接客空間を擁する。 披雲閣は、旧城主によって近代に建設された大規模な和風住宅であり、江戸時代の城跡に再建された希少な事例である。また、近代的な組織体制により設計と施工の管理が徹底された住宅建築であり、大正時代におけるわが国の大規模和風住宅の技術的水準を示すものとして重要である。』
披雲閣庭園
報時鐘
北之丸月見櫓(重要文化財)
「月見櫓は北の丸の隅櫓として1676(延宝4)年頃に完成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので[着見櫓]ともいわれています。総塗籠造りの三重三階・入母屋造・本瓦葺で、初重は千鳥破風、二重は唐破風と屋根の形を対象させています。月見櫓に連なる薬医門様式の水手海門は、いわば海の大手門です。」
水手御門(重要文化財)
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