2014年6月3日
湯の山街道を歩く途中にあります。
説明書より「三木城主であった別所長治の家臣加古与七郎秀久は、三木が戦に敗れた後、自分の幕下(=家来)になるよう豊臣秀吉に勧められました。秀久は「武士は二君に仕えず」と丁重に断り、別所氏の家臣として忠誠を守ったと伝えられています。
秀久の武士としての気構えに感動した秀吉は、秀久に母衣(よろいの下に着る矢よけの着物)を授け、杯を取らせました。その時、西から風が一段と強く吹き、そばの竹林から笹の葉が舞い散り、その一葉が秀久の杯に落ちました。秀久はこれを見た秀吉から、「九枚笹」の家紋と大西の名字を賜りました。その後秀久は屋号を小浜屋と称し、名前を大西与右衛門と改め、平山町で造り酒屋をひらき、町人として暮らしました。晩年に与右衛門は仏門に入り、僧名を承慶と名乗って主君別所氏の冥福を祈るために文禄元年(1592年)本長寺を建立し、以来大西一族の菩提寺となりました。」
三木市府内町6-43
map
説明書
山門
義民 大西与三右衛門の墓
説明書より「三木は別所氏時代、秀吉時代、徳川時代へと永代に渡り、免租地でしたが、延宝5年(1677年)幕府は「延宝検地」という令を出し、年貢を取る通知を交付しました。町民は困って話合い、幕府に取り消しの直訴に行く三木の代表として名乗り出たのが、平田村の大庄屋:岡村源兵衛成次と、平山町の年寄:貝屋大西与三右衛門の二人で、死罪を覚悟で幕府にお願いをして取り消してもらいました。その後二人は義民と呼ばれるようになりました。義民の一人、大西与三右衛門の墓所は本長寺(三木市府内町6-43) にあり、毎年12月8日には義民冬祭りが本長寺で行われています。」
義民の顕彰碑
本堂
境内にて
湯の山街道を歩く途中にあります。
説明書より「三木城主であった別所長治の家臣加古与七郎秀久は、三木が戦に敗れた後、自分の幕下(=家来)になるよう豊臣秀吉に勧められました。秀久は「武士は二君に仕えず」と丁重に断り、別所氏の家臣として忠誠を守ったと伝えられています。
秀久の武士としての気構えに感動した秀吉は、秀久に母衣(よろいの下に着る矢よけの着物)を授け、杯を取らせました。その時、西から風が一段と強く吹き、そばの竹林から笹の葉が舞い散り、その一葉が秀久の杯に落ちました。秀久はこれを見た秀吉から、「九枚笹」の家紋と大西の名字を賜りました。その後秀久は屋号を小浜屋と称し、名前を大西与右衛門と改め、平山町で造り酒屋をひらき、町人として暮らしました。晩年に与右衛門は仏門に入り、僧名を承慶と名乗って主君別所氏の冥福を祈るために文禄元年(1592年)本長寺を建立し、以来大西一族の菩提寺となりました。」
三木市府内町6-43
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説明書
山門
義民 大西与三右衛門の墓
説明書より「三木は別所氏時代、秀吉時代、徳川時代へと永代に渡り、免租地でしたが、延宝5年(1677年)幕府は「延宝検地」という令を出し、年貢を取る通知を交付しました。町民は困って話合い、幕府に取り消しの直訴に行く三木の代表として名乗り出たのが、平田村の大庄屋:岡村源兵衛成次と、平山町の年寄:貝屋大西与三右衛門の二人で、死罪を覚悟で幕府にお願いをして取り消してもらいました。その後二人は義民と呼ばれるようになりました。義民の一人、大西与三右衛門の墓所は本長寺(三木市府内町6-43) にあり、毎年12月8日には義民冬祭りが本長寺で行われています。」
義民の顕彰碑
本堂
境内にて
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