晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

賢治ワールド 10/20

2006-10-23 | 旅行記

 2006.10.20(金)     雨のち曇り
 7:40 起床
10:40 花巻逍遙  花巻市博物館~宮沢賢治記念館~薮屋  鉛温泉
21:40 着

 朝の内は雨なので小やみになってから出かける。まづいつものように博物館に行く。特段変わったものもなくあまり記憶にも残っていない。縄文時代の落とし穴ぐらいかな。
 次に宮沢賢治記念館に行く。ここは博物館と違って数多くの人が来ている。私は銀河鉄道の夜とか風の又三郎とか読んだけど、なじめなかった。何が言いたいのかよくわからなかったのだ。賢治の作品で印象深いのは「永訣の朝」「無声慟哭」の詩と「注文の多い料理店」の童話である。前者は教科書などにもよく載っておりご承知の方も多いと思われる。
妹トシの死を哀しむこの詩は「あめゆじゅとてちてけんじゃ」「おらおかないふうしてらべ」東北弁を挿入しており、賢治の自筆の詩を見ていると体中に戦慄が走り、涙がこぼれ出てくる。なんという強烈な詩だ。
 「注文の多い料理店」も改めて幻灯で見てみた。私たちがおいしく、楽しく食べている食事が実はたべられる方にとってはとんでもない地獄だというこの発想は天才からしか生まれないものだろう。
 賢治の宗教に対する強烈な傾倒、農民に対しての思いやり、自然科学における知識と洞察力、なにより短い人生の間にもの凄い量の執筆活動は常人を逸している。棟方志功が「私が描いているのではない、何者かが私を使って描かせているのだ」という意味のことを言っていたが、まさにそのような状況なのではないか。
 死にあたって、みずからアルコールで全身を拭き息を引き取るなんて賢治らしいと思う。
  「下ノハタケニ居リマス」長靴姿の賢治が居そうな感がする。Img_1328



 花巻はわんこそばの元祖という説がある。駅前の薮屋は賢治が良く訪れた食堂で「ブッシュへ行こう」といって、いつもてんぷら蕎麦とサイダーを注文していたということである。(ものの本では天ぷら丼とサイダーとある)今では大きなビルに変わっており、当時の面影は無いが、裏の駐車場に倉が残っていたり、店内にも過去の写真が展示してある。わんこそばはここの名物だそうだが、3,150円が最低の料金で、諦めざるを得ない。一泊二食4,600円の生活で3,150円の昼食は難がある。結局ざるそば470円として、熱燗を一本つけた。Img_1335

薮屋

 花巻には多くの温泉がある、総て町の東側の花巻温泉郷にある。近いところで日帰り温泉に入るべく自転車で東進する。バス停を見ていると、山の神、才の神などという停車場があり、遠野同様の民間信仰が残っていることを感じる。温泉は思ったより遠く、夕刻になってきたので諦めて折り返す。YHに帰るとすぐに夕食である。新しいお客があり、聞くとこれから鉛温泉に行くということ、これ幸いと同乗を依頼する。
 鉛温泉は藤三旅館の立って入る白猿の湯が有名で、勿論これが目標である。八時半まで女性の入浴ということで、他のお風呂に入って待つ。川原に向けて露天風呂があり風情満点だ。白猿の湯は噂通り立って入る深い湯で、底から源泉が湧きだしており、熱いので石が置いてある。深いところでは脇近くまで浸かり、なかなか気持ちいい。すっかり暖まり、満足して宿に帰る。

  
走行 33Km  累計3,626 Km 費用2,880円

★鉛温泉 藤三旅館白猿の湯 源泉掛け流し アルカリ性単純高温泉 源泉57度
     日帰り700円  立ってはいる温泉で有名 お湯も最高  (90点)

★花巻ならの里YH 4,600円 花巻郊外にあるロッジ風のYH 食事は質量ともに 最高 米や野菜は無農薬の自作のもので健康にも良し

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猿ヶ石川に沿って 10/19

2006-10-23 | 旅行記

 2006.10.19(木)     晴れのち曇り  
 7:15 起床
 9:10 遠野YH発~R396~続石~千葉家住宅~R283~
16:35 花巻ならの里YH着

 起きてすぐにカーテンを開けると、一面の霧である。盆地ならでは、この季節ならではの風景で懐かしくもあり写真を撮りに庭に出る。ほんの5,6分で霧は晴れてきて、本当に短いチャンスであった。

 朝霧に 僧居並びたる 棒掛けの稲    うとくImg_1290 Img_1292

 今日の走行距離は短いのでのんびり走る。昨日行けなかった続石と千葉家住宅は遠回りになるけれど見ていこうと寄ってみる。続石はYHの奥さんに親子の熊が目撃されているから気をつけてといわれているところだ。入り口に着くと、なるほど熊の出そうな山道が続いている。道路脇にミニチュアが作ってあり、これでいいかと写真に納め出発する。
ところが少し行くと別の入り口があり、自転車専用の駐車場も用意してあるのだ。これは
見逃す手はないと思い、熊よけの鈴を取り出して、山道に挑む。クマザサの中や曲がり角の先からぬっと出てきそうでヒヤヒヤする。500mぐらいで岩が見えてくる、なんとか無事に着いたようだ。聞きしにまさる大きな岩である。さっきのミニチュアなど問題にならない。これがいかなるものなのかは不明だそうで、古代人の巨石文化とか古墳跡とか言われているそうだが本当のところは永久に解らないだろう。さっさと写真に納めて下りにかかる。道路が見えてきてほっとする。Img_1296 Img_1297

続石、大きさがよくわかる



 少し登ると千葉家の大きな家が見えてくる。石垣の上に威風堂々としたその家は現存する最大の曲り屋ということである。しかも千葉さんはその家に現にお住まいだということだ。このおおきな曲り屋にはかつては作男15名、家族10名、馬20頭が住まいしていたと言うことだ。構造は一般の曲り屋と同じだそうだが、なにしろ規模が大きい。貧しい農民の失対事業として私財を投じて10年の歳月をかけてできあがった曲り屋だそうだ。
家の裏には広大な庭があり、その中に稲荷社まである。庭に大きな岩が使われているのはやはりこのあたりに産出するものらしい。Img_1313 Img_1304

千葉家の全容と母屋部分



 仲代達也の主演した「遠野物語」という映画はこの家が舞台となっているそうで、ポスターや写真が沢山展示してある。映画の内容は私は観ていないので解らない。Img_1307_1 Img_1309

映画遠野物語のポスターと写真

 千葉家から村の中を通り抜け、R283に戻る。猿ヶ石川に沿ったこのあたりは豊かな農村地帯で私の好きな風景である。よく見ると新築のプレハブの家であっても曲り屋のスタイルで建てている家が多い。勿論馬を飼っているわけでないから不思議なのであるが、遠野にも同様の家が沢山あった。郷愁のためにそうしているのかなと思ったが、それだけではないようだ。このあたりでは、いわゆる馬屋の部分が西を向いているのだ。そしてその外側に暴風の生け垣がある。なるほど、この数日間苦しめられたあの風が影響しているのではないか。この季節でも強風なのだから、冬なら相当きつい風が吹くのだろう。家の造りが対強風対策としてあるのなら、新築の家が曲り屋風になっていてもおかしくない。Img_1315

西側に防風林、馬屋部分がきている。


 途中県道503号線のサイクリング道を走る。遠野から東和町まで猿ヶ石川に沿って走っており、桜の名所もありいいコースである。
 東和町に入り、道の駅の所に旧岩手軽便鉄道のめがね橋がある。銀河鉄道の夜を彷彿させる。Img_1318 Img_1322
Img_1324 左:めがね橋 中:古いオシラサマ
右:コンセサマ
  オシラサマの本体を見ると、
野沢温泉の道祖神を彷彿させる。

 東和町でふるさと歴史資料館に行く。遠野同様オシラサマ、コンセサマなどの民俗資料があり、曲り屋の資料も多くある。旧小原家住宅が代表的なもので、千葉家に比べ馬屋部分が小さいが、これが普通なのだ。村の名士のコーナーでは小原(おばら)さんが沢山おられ、そういえば八甲田山の生還者にも岩手県の小原という下士官がいた。宮古でも遠野でもオハラというと、「オバラさんじゃないの」と言われたわけがよくわかった。
 花巻の城下にも小原という武士が一人いたが、お金持ちの番付には一人もいなかった。Img_1325
 
これみんな小原さん

 遠野の地名について、YHでアイヌ語の「トオヌップ」が訛って遠野となったという話があったが、地名辞典では「遠閉伊」の野という意味ではないかという説である。では閉伊(へいい)は何かというと、現在の郡名であるが、閉伊(辺)が辺境、端を意味するという説と、閇村(へいむら)という蝦夷村が続日本書紀に表れそれが閉伊村になったという説があるようだ。いずれにしても蝦夷、アイヌ民俗とのかかわりは歴史的に観ても深いわけである。 私は総てのものに神が宿り、総てのものを崇め敬うという精神は縄文人からアイヌ人そして東北北部に引き継がれてきたのではないかと思っている。縄文人の男性器を模した石棒とコンセイサマを観ていると同じ文化同じ精神と思わざるを得ないのだ。
 花巻に着くと薄暗くなっており、明日ゆっくり市内をまわることとする。

  
走行60Km  累計3,593 Km 費用5,870円

★遠野ユースホステル 4,800円 読書室や談話室など設備はしっかり揃っていて
           ユースホステルらしいユースホステル 外国人にも大人気

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山崎の金勢さま 10/18

2006-10-23 | 旅行記

   2006.10.18(水)     晴れのち曇り  
 7:50 起床
10:50 遠野YH発~遠野市博物館、とおの昔話村、城下町資料館~山崎金勢さま
      かっぱ淵
16:40 遠野YH着

 遠野は日本の原風景といわれる。どこにでもある田舎町なんだがなんと言っても柳田国男氏の「遠野物語」で一躍有名になった訳である。確かに説話逸話の多さには驚くが、文として書物として残したところに大きな意味があるのではないか。どこの田舎にだって大なり小なり説話逸話はあるのだが悲しいかな語る者も聞く者も無くなり霧消してしまった。私もこの旅が終わったら、年老いた母に村にあった話を聞いてまとめておこうと思う。
 遠野市博物館は遠野物語を中心にした民族学の展示で、私の今回のテーマは民間信仰である。オシラサマというあの奇妙な神様に出逢ったのは青森の県立博物館であった。気味悪いなと思っただけで深く考えなかったのだが、養蚕の神様としてのこの地の伝承は何ともおぞましい物語である。美しい娘が白馬と恋仲となり、馬小屋で暮らすようになり馬と交う訳だが、そのことを怒った父親が白馬を桑の木につるし殺してしまう。娘は哀しんで後を追いその後に白い蚕が現れ、養蚕の始まりとなる。オシラサマの片方は馬、片方は女性という組み合わせがあるのはこのためというものだが、何ともやりきれない話である。
遠野物語拾遺七十五から八十五あたりはオシラサマ関連であるので参考にされたい。
 オシラサマ、オクナイサマ、座敷童、山の神、斉の神、はてさてこれらの神々を今日YHにお泊まりのイングランドとバルセロナの御仁に説明するのは難儀を極める。とにかく遠野ならずとても日本の田舎には家からかまどから台所から便所まで全てのものに神様が宿っているのだ。Img_1263_1 Img_1289
オシラサマと同宿の外国人




 昔話資料館ではこれらの昔話を聞くことができる。時間さえあればいくらでも話が聞ける。ここは柳翁宿といいかつて柳田国男らが定宿として利用した高善旅館を移築したものである。昔話の語りには決まりがあって、はじめの句と終わりの句がある。新庄の町であったろうか昔話の終わりの句が一体何と言ってるのかほんに解らなかったが、ここで理解できる。「どっと払い系」「とっぴんどうびん系」「いちごさかえた系」などとあるのだ。
 午後からしっかり寒くなる。駅前の食堂で鍋焼きと熱燗で腹ごしらえし、宿で冬の装束に替え、山崎のコンセイさまに向かう。
 コンセイサマは遠野物語にも同拾遺にも少ししか出てこない。遠野物語の十六に二,三行出てくる程度である。大体柳田国男は明治時代の堅物のようで、沢山あるはずのいわゆる性に関する逸話などは取り上げていないのである。コンセサマは大きな男性器で山崎のコンセサマは遠野でも一番の大きさで125cmもある。伝説でしかその存在が無かったのだが、昭和四十七年の災害復旧工事の際に土砂の中から発見されたというから劇的である。安産の神様、五穀豊穣生産の神様としてあがめられている。なおコンセイサマは遠野だけならず東北一円にあり、名は違えども日本中に男根を奉る風習はあり、縄文時代の石棒から連なる日本人の信仰の原点であり、性は本来おおらかなものであるということを語っているのではないか。コンセサマの周辺には多くの奉納物もあり、男性器、女性器いやはや楽しくなってしまう。Img_1268Img_1271 

コンセサマと奉納されたいちもつ
私よりでかい


 山崎から小烏瀬川を下ると大槌街道に出る。少し東に進むと小国街道との分岐があり石塔石碑が沢山あり、かつて駄賃づけの馬で賑わった場所である。駄賃というのは私どもが子供の頃お駄賃とか駄賃とか言っていたものの語源である。石碑の中でこの地で変わったものは西国巡礼に関するものである。宮古で初めて見つけて興味深く思ったのだが、有る時代に西国巡礼が流行したのかも知れない。いずれにしてもこの地から西国を巡礼するのは石碑に記念を残すほどたいそうなことであったのだろう。大槌街道が距離が伸びても笛吹峠を経由せず界木峠を経由したのは、山男山女が出没したからではなく、単純に越えやすい峠であったからではないかと思う。Img_1276 Img_1280
左:追分け、右大槌街道、左小国街道

右:デンデラ野

 デンデラ野は方々の村にあり、老人が60才になるとここに捨てる訳である。楢山節考のように死にやるわけではなく、老人達はここで命のある限り共同生活をおくったようである。ケアのないグループホームのようなものである。
 かっぱ淵は見ておかなければと思い夕刻に訪れる。かっぱが架空の動物であることには間違いないが、かくも各地に伝説のあるものもあるまい。「川には河童多く住めり。猿が石川ことにおおし。」かっぱ淵も猿が石川も確かに河童がいそうな雰囲気である。
Img_1282Img_1285   
河童の狛犬とかっぱ淵




走行 29Km  累計3,533 Km 費用7,470円

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笛吹峠 10/17

2006-10-23 | 旅行記

 2006.10.17(火)     快晴のち曇り  道中21度
 6:30 起床
 8:05 宮古YH末広館発~宮古郵便局~R45~大槌~県道35号線
14:00 笛吹峠着~
16:20 遠野YH着

 今日は朝から快晴、走行予定が90kmを越え途中に峠もあるので気合いを入れて出発する。まづ宮古郵便局で不要となった北海道の地図やガイドブック、夏の衣料などを送る。宮古からのR45は通勤時間帯のせいか通行量が多い。広い歩道があり快調に走る。津軽石を過ぎるあたりから歩道が切れたりするが交通量が減ってきてうまくできている。海が現れるとリアス式海岸となり、尾根の部分は登り、沢の部分は下りとアップダウンの繰り返しとなる。沢は浸食谷で橋の下は怖ろしく切り立っている。これは自転車で走っていないと解らないことで海だけでなく谷の鑑賞も楽しめる。国道が整備されるまではこの谷を上り下りしていたもので四十八坂という地名もそのために付いたものである。展望台もあり断崖の海の景色が臨まれる。天明8年(1788)8月に京の洛柿舎の二代目重厚がこの地を訪れ「涼しさや 海より秋の 風薫る」の句を詠んでいる。いつもの事ながらよくぞ徒歩でこの地を訪れるかと感心する。Img_1232_1  Img_1231
Img_1233 四十八坂の景色と句碑








 吉里吉里王国で有名となった吉里吉里を過ぎると大槌に出、しばらくで大槌街道(県道
35号線)が左に分岐する。三陸から遠野に向かう場合大槌街道界木峠(700m)笛吹峠(820m)と釜石街道仙人峠(561m)がある。勿論一番簡単な仙人峠を越える予定だったのだが、急に気が変わって大槌街道に入ることにする。実は今日も昨日、一昨日同様昼前から猛烈な南風が吹いているのだ。自転車が止まってしまうかの向かい風だ。釜石までこの風の中を行くのはつらい、東に向かえば風は止むか、ひょっとしたら追い風になるかもと考えたのだ。大槌街道は広くて、通行量も少なく最高の道路だ。ところが風は
相変わらずの向かい風で、結局この風に苦しむこととなる。晴れていた空もすっかり曇り、昼過ぎというのに夕刻の様相で、心細いこと甚だしい。これから越えるべき山々が遙か彼方にかすんで見える。
 途中栗林であろうか、三閉伊一揆の指導者の一人三浦命助の碑と犠牲者の供養塔がある。
ここは三浦命助の出生地なのである。この地もまた一揆を誇りとしていることが伺える。Img_1236  

三浦命助出生の地、右は忠魂碑



 この街道は予想していたとおり古い街道で、途中に遠野物語の舞台となる盲神や神の石船隠里がある。馬頭観音などの碑も沢山出てきて、いよいよ遠野の雰囲気が出てきた。Img_1241 Img_1242

盲神と案内板


 界木峠への道は通行止めになっている部分もあり、笛吹峠を越えることとする。本格的な峠は青森の竜飛崎以来ではないか、妙に緊張する。峠登りはスピードが出ないせいか様々のことを考える。一体何でこんな事やってるのか、何でこんなしんどい峠登るのか、海沿いだけ走ってりゃ楽じゃないか。ちょっとわかりかけてきたけれど、実はこれは行なんだよね。六根清浄、南無阿弥陀仏、南無観世音大菩薩、呪文のように唱えて登ると楽に登れるというのもあるけれど、一歩一歩に精神が昇華されてゆく感がある。悟りをひらくと言うけれど、人間の苦しみや悩み、恨みや嫉みなんて消し去ることはできないわけで、それらを全て受け入れて受忍することが悟りなんじゃないか、などと考えてしまう。腰よ曲がれ、足よ折れよの急登が続き、やっとの思いで笛吹峠に着く。嬉しいんだねこれが、一人で「わっはっは」って笑えるのだ。峠の祈念碑に愛車を入れてパチリ。Img_1250 Img_1252
笛吹峠と峠の石碑



ウィンドブレーカーを着て下りにかかる。景色を見る余裕もある。中腹は紅葉が最盛期だ。嫌というほどカーブを繰り返し、民家が出てくるともう遠野である。田には稲が乾され、石碑石塔の群れが出てくる、振り返ると六角牛(ろっこうし)の山容が霞んでいる。30数年間夢見続けてきた町、遠野である。Img_1253 Img_1254 Img_1255 

遠野には多くの石碑がある


 走行97Km  累計 3,504Km 費用7,363円

★峠列伝(22)笛吹峠 岩手県県道35号線 困難度 4  景色 5  水場 有り
     歩道 無し  遠野側が急

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潮吹き穴 10/16

2006-10-23 | 旅行記

 2006.10.16(月)     雨のち曇り  朝12度
 6:30 起床
 9:20 民宿新田発~R455~R45~
14:30 崎山潮吹穴分岐着
15:20 分岐発 
16:00 宮古YH末広館着

 日本中晴れの予報なのに、朝から雨が降っている。朝の雨は女の腕まくりというが最近の腕まくりは強烈なものがあって少しも雨が上がらない。少し上がったときにスタートする。宿の女将は自転車で来たのを驚いていたが、「エンジンはどこに付いているのですか」
なんてへんな事を聞いている。雨が降るとバス停で雨宿りしながら走っていると、なかなか進まない。船越の旅行村まで行く予定を宮古までに変更してのんびり行くこととする。
 合羽を着ていても寒くて、惨めな気持だ。小本に着きR45に合流すると津波がこのあたりまで来たという看板がある。この類の看板はあちこちにあり、津波の際の避難路誘導や堤防など津波に対する施設が各地に用意されている。過去に何度も被害に遭っているこの地方の独特のものであろう。Img_1218

こういう看板が多くある、海側を見るとImg_1219

およそ海とは無関係の風景

 R45は青森県以来三陸海岸ではずっとお世話になっているが、地形の厳しいところだけに道路幅は狭い。まして歩道なども中途半端で、通学路ぐらいしか整備されていない。
トンネルや橋には歩道はなく、自転車にはつらい国道である。小本トンネルなど入り口には自転車もかろうじて走れる程度の歩道があるのだが、途中で細くなり出口付近は自転車では走れない。これじゃ最初からない方がましだ。反対側の歩道も出口では無くなっている。Img_1214

小本トンネルの出口、詐欺歩道だ。


 昼を過ぎると風が強くなってきた。雨と風で踏んだり蹴ったりというところか。道中景色の良いところもあるが、カメラを出して撮ろうという気になれない。宮古に入ったあたりで雨がやんできた。なにか見て行きたいなと思っていたところに、「崎山の潮吹穴」というありがたい名の名所が現れた。国道から2,5キロほど離れているが今日は台風の余波で波が高く、潮の吹き具合も最高と思われる。これは波が打ち寄せたとき、地下で漏斗状になった穴から潮が噴き出すもので高いときは30mも吹き上げるそうである。今日は絶好の波が来ているものの風の影響で吹き上がった潮が流されるため写真のタイミングが難しい。それでも2,30mは吹き上がっており、雨風に耐えて来た甲斐があったというものだ。向かいには島があり、周りの景色もよく、充分に楽しめるところだ。
 なお同じ三陸でも宮古から北は隆起海岸で断崖絶壁が多く、南が沈降海岸でいわゆるリアス式海岸なのだそうだ。Img_1224

しっかり潮を吹いている。Img_1227


向かいの島



 宮古のYHでは3人の中高年が同室で、酒を持っている人とあてを持っている人とがいてすっかり酒盛りをしてしまった。各地の旅の情報をやりとりし、楽しい夜であった。
 なぞがけをおひとつ
「ちかきにありても とおのとはこれいかに」
「みちのくにありても みやこといふがごとし」
 
走行 57Km  累計 3,407Km 費用11,650円

★新田民宿 岩泉町龍泉洞近く  6,000円 夕食は凄いボリューム

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三閉伊一揆 10/15

2006-10-23 | 旅行記

 2006.10.15(日)     快晴  朝17度 午後20度
 6:00 起床
 8:30 国民宿舎えぼし荘発~R45~尾肝要~田野畑村民俗資料館
11:55 資料館発~県道44号線~R455~
14:15 龍泉洞着 
15:05 民宿新田着

 素晴らしい朝が来た。宿のある野田村は九戸郡であり、九戸村や一戸町は岩手県、一戸町は二戸郡、八戸や三戸、五戸(三戸郡)、六戸、七戸は青森県と訳のわからないことになっているが、この戸(へ)というのはかつての藩政の時代に馬などを飼っているいわゆる牧場のことらしい。一戸から九戸まであり、そこに街が開けて集落となったようだが、四戸は早い時期に廃れてしまって残りの八つが地名となり残っているそうである。
 今日は県道273号線を通って安家洞経由龍泉洞へ行く予定だったが、宿の人に聞くと先日の大雨で通行止めになっているとのことである。安家洞を諦め県道173号線から龍泉洞を目指す。野田村、普代村、田野畑村と平成の大合併にも村で頑張っている三村を通過したが、北海道の大農家みたいにコンバインで収穫するのではなく、稲木に稲を干しているあたりが日本の田舎らしくて私は好きである。落合のあたりで道の先に蛇のようなものが見える。近づくと立派なマムシだ。青森竜飛岬の時と時間的にも状況的にも一緒である。アスファルトが暖まった頃に出てくるみたいだ。1時間あまりで尾肝要(おかんよう)に着く。ここから県道に入る予定だが、数キロ先に田野畑村民俗資料館があるという看板で国道45号線の峠を越えることとする。この峠が結構な登りで一苦労する。これほどの峠には名前もあろうかと思うが地図にも無く、表示も無い。。峠の頂上には「板橋 ここは海から380m国道45号線最高地点」などという大看板がある。板橋は地名のようで峠名ではないようだ。資料館で聞いても要領を得ない峠であった。川柳を一発

 尾肝要 峠で母を 思い出し     うとくImg_1184

 気持ちよく峠を下ると高台に資料館がある。ここは一般の資料館と違い三閉伊一揆の資料館である。一揆の資料は処分されるケースが多くよくぞ残っていたかという感がする。といっても文書類がほとんどでざっと見学するにはそぐわない。最初に映像で三閉伊一揆のスライドを見せてもらうが、これが一番わかりやすい。この一揆は規模も大きく、農民方が勝利するという一揆としては特異なものであり、大変興味深い資料である。三閉伊とは野田通、宮古通、大槌通のことを言い、通とは道ではなく行政単位のことである。この広い範囲の百姓が団結して盛岡藩に対抗したのだから凄いことである。また田野畑の人々がこのことを誇りに思っているということが素晴らしいと思う。Img_1188 Img_1192
Img_1191
思惟大橋と橋から谷底をのぞむ。
この下に辞職坂がある。

 新しい国道のおかげでこれらを楽に越え、県道44号線に取りかかる。ここは越ノ石峠、という名が付いており古い街道なのだろう。長い下りを快調に下ると国道に出、すぐに岩泉のふれあい広場に着く。ここにはテント場があり、ここから空身で龍泉洞を訪れる予定であった。ところがオートキャンプ専用で、テント張るのも4,000円ということである。冗談じゃない、食事して風呂入ったら6,000円にもなる。民宿と同値段だ。町がやってる施設に野外活動教育施設の幕場が無くて、バブルの申し子のようなおよそ野外活動とは無縁のオートキャンプが有るなんておかしいよね。
 龍泉洞に行くと道路沿いに2軒の民宿を見つけた。まずは見学と思い龍泉洞に行く。1,000円の入場料は高い気もしたが、入ってみるとなかなかの迫力だ。流水の上によくぞこれだけの通路を造ったものだ。地底湖などもしっかり見られるようになっていて、秋芳洞のように大規模でないだけに余計臨場感がある。年配の人では無理なような階段や、頭を打つような狭い洞もあり、探検気分も味わえる。係の人に聞くと雨による増水のため昨日まで入れなかったそうで、大変ラッキーな入洞であった。また、ここの地下水は透明度が凄くて、流れ出ている渓谷も一見の価値がある。Img_1198

龍泉洞に行く途中から石灰岩の岸壁が現れる。
町内には103の鍾乳洞があるとか。


Img_1210 左:道内にある滝Img_1208   右:石柱

  民宿に宿を取る。1泊2食6,000円であり、テントで寝るのも同額である。疲れが溜まっている様なので、温泉ホテルに入浴に行く。温泉ホテルなのに温泉でなく、人工温泉とのこと、それでもサウナがあるので入ることにする。
  
走行 59Km  累計 3,350Km 費用9,556円

★ 国民宿舎えぼし荘     6,900円 三陸の魚料理がおいしい。洗濯も無料ででき
  職員さんの対応も良かった。温泉でないのが残念。Img_1179

★ 峠列伝(20) 尾肝要の峠 岩手県R45  困難度 3  景色 2  歩道無し 水場無し

★ 峠列伝(21) 越ノ石峠      岩手県県道44号線 困難度 2 景色 2 歩道無し 水場無し  岩泉側が長い

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こんな事件知ってる?10/14

2006-10-23 | 旅行記

 2006.10.14(土)     晴れ  道中12度
 3:45 起床
 6:15 八戸フェリーターミナル発~県道1号線~R45~久慈市~野田道の駅~
          野田玉川鉱山~
16:05 国民宿舎えぼし荘着

 フェリー内が暑いだけに朝の寒さは強烈だ。フェリーターミナルの待合室で6時まで休憩する。饅頭をミルクティで流し込んで出発、土曜の早朝というのに街は車が多い。Img_1138

乗ってきたフェリー(苫小牧~八戸)

 時間はたっぷりあるので種差海岸沿いに南行する。道は狭いが交通量は極端に少なく問題なし。海の景色は抜群である。しかし北海道の豪快な海岸を見てきただけに見劣りがするのは致し方ない。北海道では見なかった歴史的逸話の掲示が始まる。まずは八戸で明治44年に起きたという「捕鯨会社襲撃事件」である。こういう掲示物がない限り後世には残らない。Img_1139 Img_1140

捕鯨会社襲撃事件の現場と案内看板


 展望台では止まって写真を撮ったりしていたが、芦毛崎展望台で妙な看板を見つける。殺人事件の看板だ。最近毎日のように事件が起きるので憶えがない。線路上で炎上した車の中に女性の死体があったという猟奇的な事件である。私の旅行中に起こっているのだが、丁度苦労している時期なので新聞も見られてないか。青森のスナックママの事件はよく知っていたのだが。しげしげと眺めていると散歩中のおじさんが現れ「静かな平和な街でこんな事件が起きたんですよ、犯人は基地の米兵ではないかという証言が出ているのですが、一向に捜査が進んでいません」ということである。この前の大嵐の話も聞くことができた。三陸には過去にチリ地震や三陸沖地震、十勝沖地震など大きな津波が押し寄せたが、今回の嵐が最も波が大きかったということだ。海岸線に多くのゴミが打ち上げられているのもそのせいだそうだ。Img_1142 Img_1146
左:種差海岸 中:芦毛崎 右:殺人事件の看板
Img_1149



 
 種差海岸は松林と白浜、岩礁と美しい海岸線が何キロも続く、途中でロードレーサーの
練習中の男性が声を掛けてくる。地元の自転車事情や自転車の話が延々と続く。名前も素性も知らない二人がこうして話できるのが、自転車仲間は楽しい。彼はこのコースは適度なアップダウンがあり信号が無く車が少ないので自転車走行には絶好と言っている。私の選択は正しかったようだ。
 階上町(はしかみちょう)ではお台場跡の掲示板がある。その掲示板の有るところの家が御台場姓なのには驚いた。Img_1153 Img_1154

御台場跡の看板と表札



 ここで青森県とお別れ岩手県に入るのだが、県道では標識が無く知らない間に岩手県に入っている。種市の海水浴場は芝生の海岸でとてもおしゃれだ。近くなら泳ぎに来たいところ。種市の小子内浜に精光館の跡という掲示がある。これは柳田国男が大正8年に徒歩でこの地を訪れた宿で宿が無くなった後「精光館哀史」を書いたというものである。
野田の白浜といったろうか西行法師がすっかり気に入って住んだなんてのもパンフレットにある。昔の人は歩いてこの地を訪れているのだ。なんとも信じがたいことである。 Img_1151
Img_1156
種市海水浴場と精光館跡地




 玉川と言うところに野田玉川鉱山の跡地が見られるとあって訪れる。明治から昭和の50年代まで各種の鉱物を産出した鉱山で主な鉱物はマンガンである。尾去沢と同様の展示の仕方であり特段のことはないが、京都にある小規模のマンガン鉱とは格段の違いがある。
気になったことは三菱や三井などの大会社の所持ではなく地元資本というか、なにか個人的な所有のような感じで何度となく所有が変わっているのだ。尾去沢同様戦時中の強制労働やたこ部屋等の話は一切無く、観光に徹しているようである。その割に坑内の説明はかなり専門的で普通の見物客にはとうてい理解できないものである。Img_1163

またしても一人きりで坑内をゆく。

 宿は国民宿舎えぼし荘に泊まる。近くの海上に烏帽子岩という大きな岩があるのだが、断崖の下にあり、林の間を上部から眺めるしかないようだ。Img_1178
  夕飯はホヤ、ホタテ、新サンマの塩焼きなど久々のごちそうである。

 秋日没 沖にあらばや 烏帽子岩     うとく
  
走行 90Km  累計 3,291Km 費用2,893円

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フェリーで本州へ 10/13

2006-10-23 | 旅行記

 2006.10.13(金)     曇り  朝7度
 7:00 起床
 8:45 札幌ハウスYH発~札幌市資料館発10:00~R230~R453
15:00 支笏湖温泉着~郵便局発15:05~R276~
17:00 苫小牧フェリーターミナル着
21:15 苫小牧発~

 強烈に寒い朝が来た。マナーの悪いライダー君達はせんぞいびきをかいた後早朝にバタバタと出かけてしまった。シーツも布団もかたづけずけることなく。バックパッカーのお兄ちゃんは私が朝食をしている間に出かけており、ビジネスマンはずっと寝ている。
 札幌資料館はかつての札幌高等裁判所の建物で歴史的建造物としての価値は大きく、朝から訪問者も多い。でも内容は部屋を展示しているだけで歴史や文化が学べるといううたい文句にはほど遠い。Img_1121
Img_1122
立派な札幌市資料館、ナナカマドの実は今が盛り



 がっかりして帰ろうかと思ったとき二階のギャラリーでえんどう真也さんと高野正浩さんの二人展をひらいておられるのを見つける。風刺漫画とナンセンスの展示なんだが、これがすこぶる面白い。ひとりでアハハと笑って見ていると、えんどうさん本人が現れる。
「この相撲取りのギャグ、これが一番面白いですね」
「それ、ぼくのじゃないのですが」
「、、、、、、、」
「これ差し上げますから、一杯呑んでください」
「一万ドル札ですか、おつりもらえますかねえ」
なんて楽しく過ごして、すっかり陽気になる。写真もブログも了解得ているので、一部を紹介する。Img_1107 Img_1106 Img_1109 Img_1114
Img_1108 








Img_1112 Img_1113Img_1114_1
Img_1117Img_1115   

 





 気分良くスタートするが寒さは厳しい、そのうえ時雨れてきた。長袖厚手のレース用シャツにウィンドブレーカー、その上にヤッケ着ても寒いのだ。2,3日前は半袖シャツで走っていたのにえらい変わり様だ。支笏湖に至る道は峠が6個続く、峠列伝2から3クラスなのだが名前は付いていない。時々恵庭岳の特異な山容が見える。この山は札幌市内からでも解るくらい特異である。最後の峠を越えると支笏湖が現れる。
 
 秋雲を はさみて 支笏恵庭岳      うとく
 
 風不死岳と樽前山の特異な山容をバックにして支笏湖は波立っている。この5キロあまりのコースは決してスピードを楽しむ所ではないのだが、車というのは哀しい性を持っている。Img_1129 Img_1131
左:恵庭岳の特異な山頂
右:支笏湖



 金曜日なので郵便局で路銀を用意し、樽前国道に入る。右側にサイクリングロードが走っており、気にはなるのだが国道も空いているので国道を走る。やたら真っ直ぐな国道で両側の景色もずっと同じだ。やがて道路工事が始まり、サイクリングロードに移る。広さといい路面といい中々のサイクリングロードで、とりあえず真っ直ぐなのでスピードも好きなだけ出せる。難点といえば景色が変わらないのと、苫小牧市側からだとずっと登りであるということだ。Img_1135

恐ろしく真っ直ぐなサイクリングロード

 苫小牧市街にはいると不親切な道案内に導かれながらやっとフェリーターミナルに着く。無愛想な窓口で乗船手続きをし、北海道最後の夜をいくら丼と熱燗で祝う。
  
走行 86Km  累計 3,201Km 費用12,570円

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さっぽろわやや 10/12

2006-10-23 | 旅行記

 2006.10.12(木)     晴れ後曇り  午前12度
 6:30 起床
 8:35 小樽ヴィラマウンテングYH発~R5~
16:50 札幌ハウスYH着

 夕べからの雨もすっかり上がり、晴れた小樽を初めて見る。このYHは高台にあり小樽市街の景観は最高である。それにしても目の前にある坂は強烈である。雪が降ったときはどうなるのか不安を憶えずにはいられない。Img_1098
Img_1101
左:車庫から坂を見る、どうだこの傾斜

右:さよなら小樽

  朝の通勤時間帯に札幌に向かう。小樽の街路樹はナナカマドがほとんどで赤い実は今が盛りである。小樽から札幌市は市街が続いているので走行の楽しみはない。再度だじゃれシリーズで退屈を紛らわそう。
「えらいこの街ようお金おったる(小樽)ねえ」
「そやねん、あっさり(朝里)しすぎて、財布使わんと銭函(銭函)入れてんねん」
「お金は丁寧(手稲)に財布にはさま(発寒)んことに(琴似)はどないなっても知らん し(白石)」
「なんぼ(苗穂)お金持ちでも落としたらさっぱり(札幌)わややろ」

 宿に到着後は荷物を置いて、電車で森林公園の開拓記念館に行く。道立の大きな公園で他に開拓の村、百年記念塔などの施設がある。あまりにも大規模な公園で案内所にも大勢の人がいて、駐車場や取り付け道路にも監視の職員が居る、失対事業かなと思うのは考え過ぎか。記念館は北海道の考古からの歴史、自然、民俗あらゆるジャンルを網羅している博物館でアイヌの人権問題、囚人労働やたこ部屋の歴史などもしっかりとらえており、納得ゆくまで見るためには半日は必要である。特別展示ではサハリンの朝鮮人の写真展をやっている。徴用や強制労働でサハリンに移住させられそのまま現在まで居住している朝鮮人の写真展である。私など2時間では見る時間が足りなくて、閉館時間に追い出されてしまった。Img_1104

凄く立派な博物館

 YHは札幌駅のすぐ近くにあり観光にもビジネスにも最高の位置である。部屋も満室でさすがに国際観光都市である。今回部屋運が悪く、愛想のないバックパッカー風の若者と礼儀知らずのライダー二人、ビジネスに使っていると思われる男性と同宿する。誰一人コミュニケーションがとれない。風呂で一緒になった男性はフランス人で二人ともたどたどしい英語で(彼は私よりずっとましである)お話ししているのに、日本語のしゃべれる日本人がなぜ話せないのか。宿は旅の目的ではないけれど、大きなウェイトを占めていることは事実、この一晩で札幌が嫌になってしまった。連泊の予定を取りやめ、明日北海道を後にすることにする。YHの職員さんは本当に良くしていただいたのだが、残念である。 
走行 40Km  累計 3,115Km 費用12,690円

★小樽ヴィラマウンテングYH   5,040円 天狗山スキー場のすぐ下にあり、ス キーには最適、食堂から小樽の夜景も絶景。ランドリー、インターネットなどの設備も ばっちりで小樽観光にはもってこいのYH。

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