2016.10.2(日)晴れ
本書には挿絵も画像も何も無い。表紙に古ぼけた本を読んでいる少女の胸から下の写真が載っている、そして背表紙には8冊の茶色く焼けた古ぼけた本が載っている。それだけなのである。もちろんこれ等は本のために撮られた画像なのだが、裏表紙に本書の帯が張り付けてあり、本書のモデルとなったディタ・クラウスさんの少女時代の写真が載っている。ユダヤの星のワッペンが見えているので収容所時代のものなのだろうが、そんなものがあるはずもないので、解放されたときのものかもしれない。本書の中でも言ってるのだが、アンネフランクによく似た可愛いお嬢さんである。
わたしが言いたいのは、本というものは元々活字ばかりでそのことをわたしたちが忘れてしまっているということだ。メディアそのものが画像、影像主体になってきて、活字ばかりの本が敬遠されている。影像画像は真実を映し出す(必ずしもそうではないが、、)が、それ以上の物語に入り込むことはできない。ところが活字ばかりの本だと、浮遊物体のようにストーリーの中に潜り込み、そこに書かれてあること以外のものを見、行動することができるのだ。これこそが読書の醍醐味であって、ディタは過酷な収容所に囚われの身であっても、世界中はおろか宇宙まで、過去にも未来にも行くことが出来たのである。
ディタの言動に注意していると実にユーモアにあふれている。時には大人びたブラックユーモアもあり、下品な言葉遣いでお母さんたちにたしなめられる場面も多い。「ちぇっ」「ちくしょう」「くそっ」なんてまるで少女らしくない言葉がなぜか可愛いのである。
「そう、あの糞〈司祭・親衛隊曹長〉が来たのよ」
「そんな下品な言い方しちゃだめ」
「だって本当ヘドが出る。事実なんだから仕方ないでしょう」
アウシュヴィッツでは笑いがパンよりも不足していたので、ほんのちょっとしたユーモアでも大歓迎された。
狭い場所に動物のように詰め込まれ、烙印を押されると、人は自分が人間であることを忘れてしまう。が、笑ったり、泣いたりすると、自分たちはまだ人間であると思いだす。
この小説を読む前後に偶然の体験をした。この前に読んだ本は斎藤茂太先生の「なぜ笑うといいか」という本なのだが、その中にドイツ軍からロンドンが空爆を受けて防空壕に避難しているときやロンメルの戦車部隊に連戦連敗しているイギリス軍の作戦会議などでチャーチルがやたらとジョークをとばすのである。日本軍やドイツ軍では考えられないことなのだが、そういう宰相がいたからこそ連合軍は勝利したのだろう書かれている。そして読み終えてページを閉じた途端にふとテレビを点けると、TDA381便の航空機事故の様子が流れていた。もう3,40年前の事なのだろうが記憶に残っている事故である。飛び立ったYS11機の片方の車輪が出なくなり、羽田空港に戻って緊急着陸し、全員無事に収束するのだが、その道中のことである。車輪を出すために急降下と急上昇をする際に機長が乗客に向けてアナウンスした内容が今も伝説として残っているそうだ。「これから皆さまにジェットコースターの体験サービスを提供します。しかも無料で、、、」というような内容だったのだが、これで恐怖と不安に満ちていた乗客が落ち着きを取り戻したというのだ。ウィットにとんだ西洋人ならともかく、よく日本人がそのジョークを受け入れて落ち着くことが出来たなあと感心した。怒り出す者は一人もいなかったそうである。
人間、窮地に陥ったとき、どうしようも無い問題にぶつかったとき一番必要なのはユーモアや笑いであって、ディタの知恵と勇気と希望の源泉はこのユーモアだったのだと確信する。そしてそれらを得たのは彼女が読んできた多くの本であっただろうし、収容所には8冊の本しかなかったが彼女は何百冊にも値する価値を得ていたのではないだろうか。