2016.10.21(金)曇り
府道1号線から風呂谷の写真を撮って気づいた。それは左手に神社が写っていることだ。壹鞍神社は十倉四町を氏子圏とする神社である。
左手に壹鞍神社の一部が見える。
気づいたことは風呂が神社と関係することだ。山家の三神神社といい、この壹鞍神社といい神社のそばに風呂地名があることだ。安栖里の風呂ノ元の近くにあるのは寺院だったけど、神社がないものか調べてみる。元(もと)というのは元々そこにあったか、その上手に神社があるはずだ。上手というのは山側か上流側と言うことになるのだろうが、そういう意味では下流側400m付近に安栖里天王社という神社がある。この神社、十倉氏の氏神でもあるようで、そのそばの十倉は十倉氏の居住地であった可能性が高い。そうすれば風呂ノ元は十倉から見れば下手という見方もできるのではないだろうか。
次に老富町栃の風呂ノ奥を見に行く。栃の渡辺さんに堂ノ下の上が風呂ノ奥と聞いていたので。ミノ田橋のたもとに車を置き、たまたま渡辺さんの奥さんが歩いてこられたので堂ノ下の位置を聞く。それは目の前の住宅のあるあたりだった。風呂ノ奥についても聞くと、「あの谷のあたり」と言う返事。「確かそのあたりには神社がありましたねえ」「そう八幡さん」やはりここの風呂も神社と関係があった。
堂ノ下、八幡神社、左が堂ノ下で谷があり右手民家奥に神社あり
ここで睦合町の葛禮本神社(くずれもとじんじゃ)のことを思い出す。葛禮本神社の所在地は睦合町中風呂1だったのだ。もうここまで来れば神社と風呂が関係していることは間違いない。
浅原(あずら)の葛禮本神社、睦合町中風呂1にある。
では風呂はいったい何を表しているのだろう。今で言うところの風呂の元祖、石風呂や竃風呂でないことは確かだ。もし仮にそうだったとしたら、何らかの痕跡が残っているだろうし、神社にお風呂が付随しているなんて話は聞いたこともない。
実は神社のご神木や森、神聖なる場所を風呂(ふろ)とよぶと言う説を読んだことがある。それはほかでもない柳田国男氏の論文だった。つづく
【今日のじょん】於身のゴンちゃんはどーしてるかな?てんでかみさんが訪ねたら、いたいた広い田んぼで元気しとるぞ。じょんはというと、広い芝生で嗅ぎ回ってばっかし、もっとど~んと遊べよ。