hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

♯カツ丼は人を幸せにする〜日本橋ランチグルメ

2025-03-12 05:00:00 | グルメ
2022年7月以来2年半ぶりに『とじないカツ丼』にお邪魔した。私が初めてとじないカツ丼を頂いたのは2018年3月渋谷・瑞兆というカツ丼専門店である。瑞兆は渋谷駅から徒歩10分、しかも営業時間が平日は11時半〜18時とお邪魔するのに極めてハードルの高い店であった。


(瑞兆のカツ丼)

2022年に水天宮駅から徒歩2分のところに『♯カツ丼は人を幸せにする』が開店してからはかなり便利になった。水天宮前駅の他にも神田店、赤坂店、五反田店、西麻布店、本八幡店と6店舗にも拡大している。



ほぼ1時に店に着いたが、ちょうど満員で5分ほど待つ。メニューは大幅に広がり、丼はそびえ立つ海老丼、トンカツが350gの特上丼、ほかにトンカツ定食、エビフライ定食などバリエーションも増えた。

以前は券売機方式だったが、今はバーコードをダウンロードする方式となり、キャッシュレスにもなった。値段はデフォルトのカツ丼が1000円(税込)だったものが、1380円(税別、税込では1515円)になっていた。



席に着いた時には満員だっだが、どんどんお客さんは食べ終わり、気がつくともう3人くらいに減っていた。

7、8分待つとどんぶりの蓋が少し開くくらいたっぷり入ったカツ丼が到着、蓋を開けると半熟の黄色い卵の上に厚みのあるカツが乗せられ、上から丼ツユが掛けられている。

他にそうめんとワカメの入ったお吸い物と漬物が付いてきた。140gのカツは食べ応えがある。また、ロースではあるが、脂身と赤身のバランスがよく美味い。

食べ応えがたっぷり、普通盛はご飯が少ない目のため、大盛にしてもカツの量は十分である。前回食べたときより、肉の質は上がっている。





かかっている丼ツユは少ない目であるため、継ぎ足し用のタレ常備されているのでこれを使い味付けを調整するといい。また、七味や粉山椒もあるので便利、ちなみに私は粉山椒を使う。食べ終わると満腹、他の人もやはりカツ丼が人気のようである。ご馳走さまでした。





♯カツ丼は人を幸せにする 日本橋本店
中央区日本橋蛎殻町1ー37ー9
05012682370

  

大倉山駅付近の坂道①

2025-03-11 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その231。日吉駅〜大倉山駅付近の坂道②、日吉駅の坂巡りを終え、東横線に再び乗車する。綱島駅は通過してまずは大倉山駅付近の坂道を歩くことにした。

まずは東口の方に降りて東横線沿いの道を戻るように歩く。上り坂になっていてだんだんと高くなり、左側に線路がよく見えるようになってくる。目的地の坂は綱島街道沿いにあるため、すぐに行けるかと思ったが、右への脇道に入るとぐるぐる回らされ、ようやく階段があり、降りて団地の中を通り、綱島街道に出た。



これを左に向かって歩くと大倉山記念病院が出てくるが、この辺りが『おぼろ坂』である。名前の由来は『以前、この辺りは森が深く、霧が立ち込めるところで、夜中に道を歩くといわれもない妖気を感じることから付けられた』と言われている。



あまり急な坂道ではないが、今は往来する車も多く、当時の面影はない。近くには大曽根町という横浜市営バスの停留所があるが、大倉山駅を通るバスはなく、やむなく歩いて駅まで戻るが遠い。



大倉山駅西口に辿り着き、再び戻るように坂を登る。『大倉山』という名前は大倉精神文化研究所に由来する。坂の登り口に2009年に住居表示を大倉山に変えた時のモニュメントと碑がある。

それによると東急東横線が1926年に開業した際には地名を取った太尾駅であったが、1932年に渋谷〜桜木町が全線開業した際に研究所創設や梅林の開業などの観光開発に伴い、新たに付けられた名前である。今は研究所の建物は大倉記念館として横浜市に寄贈されたが、山の上に残されている。
研究所を作ったのは大倉邦彦という実業家、その後、東洋大学学長などを歴任したが、すべて無給でしかも多くの寄付を行なった。因みに大倉財閥とは関係ない。
この記念館に向かう坂のため、『記念館坂』と名付けられている。

東横線と並行して登り、その先は左に曲がり、さらにいくと記念館の前に出る。高低差38m、平均斜度5°、長さ380mにもなる坂道である。(以下、次回)


猿蔵〜吉祥寺グルメ

2025-03-10 05:00:00 | グルメ
吉祥寺で新たな居酒屋を訪問。やや同じ店ばかり行っているので新規開拓とばかり意気込んでサンロード真ん中あたり、本屋さんのそば、地下にある『猿蔵』という店に入る。



入口はあまり広くないが、地下に入ると奥が広い。土曜日18時に予約したのだが、かなり混んでいる。店内をぐるりと回り、奥の座席に案内された。流行りのタッチ画面方式、好き好きはあるかもしれないが、いちいち店の人を探さずとも注文できるところがいい。



店の方がお茶とおしぼりを持ってきてくれ、季節メニューやお勧めを教えてくれる。まずは瓶ビールで乾杯。



越後料理を標榜しているが、魚の種類も豊富である。お通しは胡麻豆腐2品、白と黒の胡麻豆腐の食べ比べ、それぞれに美味い。
まずはカワハギの肝醤油、新鮮な身は肝を溶かした醤油と抜群の相性。醤油だけでも酒のつまみになる。



おすすめの魚を1尾お願いして2つの料理をしてくれるという。この日はクロソイかマコガレイ。マコガレイは半身塩焼き、半身唐揚げというのでお願いし、まずは唐揚げが登場。

サクサクに上がっていてこれを塩かポン酢で頂く。初めはポン酢、2切れ目は塩、いずれも甲乙つけ難い旨さである。



日本酒はやはり新潟の地酒がメインでまずは『ヒメノイ』から。柏崎市にある蔵で『姫の井』は凛麗芳醇』が売り物の原酒,これを16度まで下げた辛口のしっかりとした味である。

この酒に合わせたのが蒸しあん肝、ポン酢と紅葉おろしでいただくが、酒もしっかりと受け止めてくれた。




続いてマコガレイの塩焼き(半身)、裏側なので珍しい白いカレイである。身が細かく、繊細。これには『たかちよ』(新潟県南魚沼市)の豊潤な味を合わせた。連れ合いにはこちらの方が人気があった。





漬物の盛り合わせ、だし巻きを注文。酒は佐渡の銘酒『真野鶴』(新潟県佐渡市)にした。佐渡島には雅楽代、至、白雪、金鶴など銘酒は数多くあるが、淡麗辛口の飲みやすい酒である。



新潟県の名物の栃尾揚げをお願いする。分厚い油揚げに味噌を塗り、焼いた逸品で存在感がある。酒は『想天坊』(新潟県長岡市)、外伝というキレのいい辛口。





このあたりでお酒は終了。最後の締めはへぎそば、冷たく喉越しも良いのであっという間に平らげてしまった。



タッチパネルと対面営業をうまく組み合わせて実に居心地の良い店であった。もちろん、魚のイキもよく、酒も揃っている。再訪したい店である。ご馳走さまでした。





猿蔵(えんぞう)
武蔵野市吉祥寺本町1ー13ー1板谷ビルB1
0422228511


再建された荻外荘を訪れる②〜スローモビリティにも乗車

2025-03-09 05:00:00 | 日記
荻外荘見学の続き。蔵の隣は喫茶室とショップとなっている。土曜日の午後ということもあり、たくさんの人。ショップでは絵葉書や風呂敷、バッグなどのノベルティを販売している。



戻って茶の間の先を右に曲がり、客間に向かう。ここは荻外荘の写真で最も有名な荻窪会談が行われた場所。荻窪会談は1940年7月19日に近衛文麿が組閣を行なうにあたり、海軍大臣になる予定の吉田善吾、同じく陸軍大臣候補の東條英機、外務大臣候補の松岡洋右の4人が日独伊三国軍事同盟の是非や長引く日中戦争の帰趨などを議論した。

戦争回避を目指した吉田と近衛に対して特に東條が反対、結果第二次世界大戦参戦に向かい突き進むことになったターニングポイントである。



VRも備えられていて当時の様子と重ね合わせることもできる。飾られていた人形や亀と海老の剥製なども再現されている。近衛文麿が座った渦巻きの模様がある椅子も当時のものとそっくりであった。



お隣は食堂、ここも壁紙まで忠実に再現され、中のモニターでは解説のVTRを見ることができる。10年にも渡り再建した過程、特に邸宅の半分は豊島区に移築後、再びこの地に再移築し、当時の様子(最初に作られた姿)の再現をする苦労や戦後吉田茂が首相になった頃に荻外荘に一時住んでいた様子など知らなかったことを多く知った。



その隣の書斎は昭和20年12月に近衛文麿が服毒自殺をした場所であり、歴史の重みを感じた。

また、ここからは庭を一望することができ、またVRを使いその復元もなられていて当時は下に降りたところに池があり、その先には水田が広がっていた状況がよくわかる。水田は集合住宅となってしまったが。

建物の見学を終えて外に出る。砂利道を歩き、坂の下から眺める。池の跡は芝生となり、ここから眺めると堂々とした建物の全景を見ることができる。当時のままだろうと思われる木も残されて武蔵野の雰囲気を味わうことができる。



昨年11月からは荻外荘下にスローモビリティが通っている。駅〜大田黒公園〜荻外荘公園〜荻窪2丁目〜駅を20分かけて循環運転しており、100円で乗ることができる。



バス停は前におばさん1人、その後ろに我々2人が並び、後ろにはおじさん1人。使われている車両は4人乗りのゴルフカーとと7人乗りのバスなのだが、やってきたのは4人乗り。ここで1人乗っているので我々までで満員となってしまう。




カートに乗って公道を走るのは不思議な感じがする。目線が低く、ゆっくり走るのでお店探しなどにはもってこいであった。無事に8分で荻窪駅西口に到着。ここでもう一台のバスも見ることができた。






『千円札でお釣りがくるランチ』③〜人形町・みなもと屋

2025-03-08 05:00:00 | グルメ
『1000円札でお釣りがくるランチ』③、人形町をウロウロ、安いランチ、特に定食屋を探すが、最近値上げした店ばかりで中々見つからない。表通りから1本入った所に確かあったと思ったが、これも値上げ済み。

残念と思ったら2階は別のお店で『みなもと屋』とある。メニューを見ると最も安いメニューは600円(税別)で『コロッケ定食』『油淋鶏定食』『デミハンバーグ定食』など沢山ある。


正直なところ味は大丈夫かなと思いつつも2階に上がる。ドアを開けると広い店で席も多いが11時45分なのにお客さんはいない。しかし30過ぎのマスターが元気よく『いらっしゃいませ、まず注文を承ります』と言われる。

『メンチカツと唐揚げ定食』(税引き600円)をお願いする。マスターは中国訛りで『小鉢をこの中からお取りください』という。生卵、納豆、大根おろし、切り干し大根、ひじきなど色々とあるが、切り干し大根を選ぶと席で待つように言われる。7分ほどでできるから、カウンターまで取りに来てくださいとお茶を置きながら言われた。



この広いお店を全てワンオペで切り盛りしているらしく、協力することにした。次のお客さんは3人組、この店は初めてのようで要領を得ない。しかし、次のお客さんは慣れた物、カウンターで小鉢を選び、注文をする。そう、銀行の社員食堂と同じ、その場で決済する必要はあるが。

7分は面白いなあと思って測ってみるが、確かに7分少し前にできて呼ばれた。味噌汁とご飯をよそってくれ、席に戻って頂く。
社員食堂か学食のようだが、これならばワンオペでも何とか成り立つようだ。その割には定食が18種類もあるのがすごい。

メンチカツ、大きめな鳥の唐揚げ、キャベツが添えてある。もちろん冷凍品だろうと思うが揚げたてのメンチカツはそれなりに美味い。トンカツソースを掛けて頂く。ご飯の量は少ない目にとお願いしたが、大盛はできるようだ。

鳥の唐揚げもやや固く、ジューシーではないが、揚げたてで美味い。切り干し大根はやや甘く、業務用スーパーで売っているやつだとは思うが、値段を考えると文句は言えない。

味噌汁にもちゃんとワカメが入っていて熱々が注がれていた。次々とお客さんがやってきてマスターは目が回る忙しさ。そのため、食べ終わったらちゃんと回収口に持っていくのがルール、まあ、立喰そばと同じと考えれば違和感はない。



愛想のいいマスターに挨拶をして店を後にした。ただ、店が満席になるとしたらパンクは避けられないだろうが。満腹となりました。まあ、前日に行ったおばんざいの店とは違ったが、料金も違うからやむなしである。ご馳走さまでした。私はこの店を人形町ランチリーズナブル大賞を贈りたい。

みなもと屋
中央区日本橋人形町2ー3ー5ソレイユ人形町2階
0336620188


再生された荻外荘を訪れる①

2025-03-07 05:00:00 | 日記
ようやく春らしくなり、気温も上り、天気も良かったので散歩方々最近オープンした『荻外荘(てきがいそう)公園』まで出かけることにした。

出発は午後2時半、我が家からは北東方向にあるため、まずは西高そばから井の頭通り、五日市街道、神明通りと歩き、右に曲がる。環八を渡り、まっすぐ行けば到達、3.7kmだからのんびり歩いても1時間はかからないくらいの距離である。

家を出て順調に歩くが予想外に暑い。ついこの間までは日向を狙って歩いていたのだが、日陰側の歩道を歩くとは。神明通りを右に曲がると急に道が広くなり、与謝野晶子夫妻が過ごした家が近くなる。



環八を渡ると少し上りになり、善福寺川を越えると急に左右に大邸宅が現れる。そうした街並みの中、右手に荻外荘は今も『近衛』という表札がかかる邸宅に入る。



入口から続く並木の木も大きく、屋敷の時代を感じる。荻外荘は1927年大正天皇の侍医頭を務めた医師・入澤達吉が楓荻荘として1927年に建設、1937年に首相となった近衛文麿が別荘を探していることを知った入澤が近衛に譲ったものである。

その後も含めて3回首相を務めた近衛が要人と会談を開き、太平洋戦争に関する重要な歴史の転換がこの地で行われた。さらに首相の地位を辞したのちも近衛はここに暮らすが、GHQからの呼出期限である1945年12月にこの邸で服毒自殺を図ったのである。



入口横に券売機があり、1人300円の入場料を支払い中に入る。混んでいるという噂を聞いていたが、それほどでもない。中に入り、左側にある屋敷の玄関から見ることにした。





玄関を上がると来客用応接室があり、床はタイル張り、つまりここまで土足のまま入れるようになっている。机は美しい螺鈿細工、飾り棚には中国製の陶器、天井から降りる掛け軸もある。後のビデオで知ったのだが、ここで近衛は記者会見を行ったのである。

少し目線を上げると『荻外荘』と書かれた看板がある。これは建物の名付け親である、西園寺公望により揮毫されたものである。

部屋の前には大きな太鼓、尚武太鼓が置かれている。これは1940年の組閣の際に打ち鳴らしたものである。



和室に行くと近衛夫人・千代子の生家前田家より杉並裁縫学校(現、荻窪高校)より贈られた7段飾りのお雛様が飾られていた。これは杉並裁縫学校の土地が前田家からの借地だった縁から贈られた物である。

蔵を見ると中には近衛文麿氏の礼服や陶器製の庭のエクステリア、箪笥などが置かれていた。(以下、次回』


伊勢角屋麦酒〜八重洲ランチグルメ

2025-03-06 05:00:00 | グルメ
日本橋でランチとなった。東京建物八重洲ビルには小規模なレストランモールがあり、店も最近大幅に入れ替わったのでどの店にするか歩いてみた。イタリアン、蕎麦屋、おでん屋、タイ料理、海鮮料理などバラエティがある。一番混んでいたのはイタリアン、かつて入っていた中華料理店は残念ながら退店していた。



入口に最も近い店は『伊勢角麦酒』、三重県にある伊勢角というクラフトビールの店らしい。ランチメニューは『漁師飯』(1000円)、『週替わり〜おろしハンバーグ』(1200円)あたりが人気がある。残念ながら漁師飯は売り切れていたので『伊勢うどんと小丼』(900円〜最安値)にしてみた。

周りを見ていると週替わりとカキフライ(1500円)が人気がある。このレストラン街では席も多いことから、12時を過ぎると急に混み出した。

待つこと7分ほど、ランチが到着した。浅めの丼には伊勢うどん、小丼は大根おろしと明太子の小丼。他にポテサラ、胡瓜の漬物、味噌汁が付く。味噌汁とご飯はおかわり可と告げられた。

まずは伊勢うどん、個人的に好きでよく三重県のアンテナショップで本場の麺を買って帰り、週末の昼に食べるのだが、出された物には違和感あり。というのは伊勢うどんにも拘らず、うどんにコシがあるのである。

伊勢うどんはうどんを通常よりも長く茹でてふにゃふにゃになったところにやや甘い醤油とネギを振り、あつあつを頂くのだが、とてもふにゃふにゃとは言い難い。さらにそのふにゃふにゃの麺が美味いのである。提供された麺はせいぜい少し茹で過ぎた程度でとても伊勢うどんとは言えないような印象を持った。

小丼の方は丼に入れてあるだけで、単なる明太ご飯に大根おろしが乗った博多の朝ごはんのようなもの。明太子の味も炊き立ての米は美味かったが、取り立てて評するほどでもない。



強いて言えば漬物と味噌汁が美味かったことくらいである。ビアホールのランチに期待する方が悪いのかも知れないが、三重県の店が出す地元めしにしてはかなり違和感を感じ、残念でした。まあ、こういうこともたまには仕方ないか。また、他のメニューは美味いかもしれませんので。



伊勢角屋麦酒
中央区八重洲1ー4ー16東京建物八重洲ビルB1
05055959394


『久我山歳時記』(58)〜神田川沿いを歩く

2025-03-05 05:00:00 | 日記
2月18日の雨水から2週間、啓蟄になった。わずか15日で気候は10℃以上上り、春本番ももうすぐと思ったのは3月2日まで。

月曜日から気温が急落、さらに雪も降り始めてしまった。ただ、3月に入り、東京でみぞれや降雪を観測するのは珍しくはない。2024年3月8日に雪が降り、積雪は1cmで最低気温も0.4℃、2022年3月22、23日、2021年3月14日はみぞれ、2020年3月29日も積雪1cmであった。

今年は3月5日が啓蟄、これは冬籠りしている生き物たちが目覚める頃のことを言い、生き物たちは久しぶりに感じる爽やかな風と麗らかな春の光の中で生き生きしている。

より細かい七十二侯では『蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく〜3月9日)』『桃始笑(ももはじめてわらう〜3月14日)』『菜虫化蝶(なむしちょうどなる〜3月19日)』と季節が進んでいく。



神田川沿いの京王富士見ヶ丘検車区あたりを歩いてみた。2週間前はかたばみとオオイヌフグリしか咲いていなかったが、フキノトウを発見。中にはかなり大きく開いたものもある。





菜の花も日当たりの良いところではもう黄色の花が開いている。した草が刈られていてなかなか見つからないが、ツクシ(土筆)がかおを出している。まだ、スギナが生えていないため、これから出てくるのだろう。 





今年は梅の開花が遅く、先週行った羽根木公園で咲いていたが、久我山も今がピーク。白い花、ピンクの花が木いっぱいに咲いていて美しい。

早咲きの桜も河津桜のようなやや色の濃い花が5分咲き程度、遠くから見るとかなり咲いているようだが、まだまだ、蕾が多い。
庭の花も遅れていた福寿草は一斉に花が咲き、大きく広げているものもある。



ハナカイドウもピンクの蕾が膨らみかけてもうすぐさくのではないか。庭のツバキもようやく開花し、メジロのつがいが毎日のように花を突いている。



また、はっきり姿を見たわけではないが、タヌキの後ろ姿も見ることができた。あっという間に春本番である。




『1000円札でお釣りが来るランチ』②〜人形町・あづま軒

2025-03-04 05:00:00 | グルメ
『1000円でお釣りのくるランチ』②、2回目はホームグラウンドの人形町で店探し、コロナ前は該当する店はたくさんあったが、閉店したり、値上げして1000円を超えるようになっていたりしてすぐに見つからない。





例えば日本橋にあった『秀峰』、気取らない定食屋さんで昨年4月にお邪魔した時は『鯖の塩焼き』『塩鮭』『メカジキの照焼』から選べる焼魚定食は650円、しかし区画整理で夏に廃業。



人形町でも有名なすき焼き定食(A4の和牛を使用)が名物の『大市』も850円が1000円に値上げ(それでも安いと私は思うが)とどんどんなくなってきている。

今回お邪魔したのは人形町通りから路地を少し入ったところにある町中華の『あづま軒』、昭和23年創業の老舗である。



ラーメンは600円、これに小さなチャーシュー丼を付けたラーメンセットは900円と1000円札でお釣りが来る。他にも餃子定食が800円、麻婆豆腐定食が850円とかなりリーズナブルである。



店の入口には『少し時間がかかることがあります、ご了承ください。』と書いてある。店は2015年に建て直しており、まだまだ新しく、清潔な感じがする。

先ほどの貼り紙どおり、コックさんが1人で注文を捌くのが大変そう。それでも私の注文の品は7分ほどで到着した。

ラーメンは昔ながらの醤油味、麺は細麺ストレート、ツルツルとしていて喉越しがいい。他にメンマ、チャーシュー、小松菜などが入っている。

メンマもチャーシューも自家製のようでなかなか美味い。スープはいわゆる東京風、私には少し辛めではあったが。

麺を食べ終わるとチャーシュー丼にかかる。上からチャーシューのツユが掛けてあり、さらに私はラー油をかける。チャーシューが美味いからこちらも美味しい。

ラーメンのスープを飲みながら完食。これで締めて900円はリーズナブルである。とにかく人気があるが、相席にはしない方針で入れないお客さんは外で待っている。

お客さんも心得たもので食べたらすぐにお会計をして、席を開ける。私も同じように店を後にした。ご馳走さまでした。因みに店は11時40分には満席でした。

あづま軒
中央区日本橋人形町2ー3ー6
0336661984


『関東三十六不動尊巡り』㉒〜第5番金蔵寺

2025-03-03 05:00:00 | 霊場巡り
『関東三十六不動尊巡り』㉒、第5番札所金蔵寺(こんぞうじ)にお参りした。日吉駅を降りて普通部通りを歩き、赤門坂を下る。その先の二又を右に歩くとまずは金蔵寺会館が現れる。

正式には清林山金蔵寺のいい、由緒は天台宗五代目座主(最澄の従兄弟に当たる)智証大師円珍が東国教化の際に当地で自刻の不動明王像を本尊として創建したと伝えられる。今も大きなお寺だが、当時は23の塔頭を擁する大寺院だった。



三十六不動尊以外にも武相不動尊第8番、関東百八地蔵第85番、准秩父三十四観音第3番、そして横浜七福神(寿老人)とこの地区ではかなり名前の通ったお寺である。
入口には『開山智証大師創造 鎮護国家道場』と彫られた大きな石碑、さらに山門と続く。

中に入ると単に立派な建物があるだけではなく、水盤舎や灯篭は彫刻に加え、極彩色に塗られていてこれまで20以上の札所を歩いてきたが最も派手なお寺である。



正面の本堂は閉じられているが、この前にお邪魔した第32番岩瀬不動尊同様の大きな数珠が天井から吊るされ、『ちょうど8つ鳴らすことができれば良し』と書かれていた。



早速回してみるが思いの外重く、一つ玉が落ちると次々と落ちてくるので加減が難しかったが、偶然8個で止まった。

本堂をお参りした後、左側にある六地蔵にも手を合わせ、さらに右に曲がっていくと切支丹灯篭と名付けられ、隠れキリシタンが手を合わせた石灯籠がある。

面白いのは弁天堂である。日光東照宮に行った際に左甚五郎作の『眠り猫』『三猿』などを見たが、同じように天女や動物、人々の集まりなどの極彩色な立体彫刻があちこちに置かれている。見ただけでは分からなかったが、何かのイベントをレリーフにしたものだろう。




金蔵寺と名付けたのは開祖の智証大師、これは円珍が産まれた讃岐国金蔵郷から名前を取った。日吉という名前も金蔵寺の鎮守として円珍が勧請した日吉社によるものである。

本堂は江戸時代中期に火災に遭遇、1804年に再建されたもの。徳川家からの庇護も受けて五十五石の御朱印を賜っていた。大梵鐘は徳川家康・秀忠が寄進したものである。

観音堂の裏には日吉権現や不動尊祠もあり、ここからの眺めがいい。入口近くには如意輪観音を本尊とする観音堂もあり、裏山も含め、五万坪の敷地を擁している。日吉には2年も通っていたが、このような名刹があることを初めて知ることができた。

(納経所)