hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

浜町川を歩く③

2022-05-29 05:00:00 | 川と橋とダム
久松警察署の前の通りは金座通りと呼ばれている。かつてここには小川橋が架かっていたのだが、近くに『小川橋由来』の石碑が残されている。

由来によると1880年10月に神田東福田町の押込強盗事件、1888年8月に浅草で強盗事件を起こすなど数々の強盗事件を起こした犯人を警察は執拗に追った。1889年12月馬喰町で発生した押し込み強盗を追った小川巡査がピストルで撃たれ、短刀で切り付けられながらも犯人清水定吉を追いかけ、他の巡査により捕縛した。小川巡査はこの傷が元で翌年殉職、この事を顕彰するために久松警察署前の橋に名前を残したということである。

金座通りを渡ると消防署、さらに浜町川緑道公園、あまり水は流れていないが、中央部には水が流せるようになっていた。ベンチも多いのでゆっくりすることもできる。
川口松太郎作の明治一代女に描かれ、『浮いた浮いたよ浜町河岸で〜』と謳われた浜町河岸こそ浜町川のこのあたりの話であり、大川端とも呼ばれたのはこの辺りのことである。川も埋め立てられ、橋もなくなり、風情は残っていないが、明治の頃を彷彿して見るのもいい。



甘酒横丁と交差するところに勧進帳の弁慶像が建てられている。ここを左に曲がるとすぐに明治座の前に出るが、江戸時代初期には歌舞伎や浄瑠璃を演じる小屋(市村座、中村座)があり、歌舞伎発祥の地として後世まで残すために作られた像である。



この公園は細長く、両側は車道になっていて新大橋通りまで続く。



首都高速浜町出口に至るスロープとなっていて、さらに両側に車道がある。

右側には有馬小学校、最近の人はあまり言わなくなったが、『恐れ入りや(入谷)の鬼子母神、びっくりしたや(下谷)の広徳寺、情けありま(有馬)の水天宮』などといっていた。



この最後の一節、水天宮は元々久留米有馬藩が久留米より分霊したもの。この小学校も有馬家が土地を寄贈したために名前が残されている。

道は少し途切れ、高速道路の下をくぐると下水道局箱崎ポンプ所となる。暗渠はここまでつながっていて隅田川に合流するのである。
オフィスビルをぐるりと周ると目の前には隅田川。そして先ほどのポンプ所から神田川より続いている暗渠の水が流れ込んでいる。



隅田川は右側に隅田川大橋、左側には清洲橋を臨むことができる。岩本町から箱崎町まで川は地下にもぐったが、今も流れ続けている。

(隅田川大橋)

(清洲橋)




浜町川を歩く②

2022-05-27 05:00:00 | 川と橋とダム
竹森神社の裏にある道を再び歩く。なぜかあまり自転車やバイクの違法駐車も少なく、ただ暗渠の上を通る細長い道を行く。



江戸通りの前には小さな園地がある。渡る際の信号も川も橋もないが『鞍掛橋』の名前が残されている。鞍掛橋はなかなか数奇な運命を遂げた橋である。



初めて橋が架けられたのは浜町川の開削と同じ1691年で当時の地図には土橋と描かれていた。1837年には接続する龍閑川の埋立により、浜町川は溝として残る程度になってしまう。しかし、1883年には再び龍閑川が開削され、神田川まで繋がったため、鞍掛橋も鉄橋に架け替えられた。というのは市電室町線が経路変更して橋の上を通ると共に電停が作られたのである。しかし、1923年関東大震災、1945年東京大空襲で周囲は焼け野が原となった。そして空襲により発生した灰燼の処分に悩んだ行政は流れの緩い川の埋立という政策を採用、浜町川北部分は埋立られることになり、1948年に他の橋と共に鞍掛橋は撤去されたのである。

細い道は続くが、さらに道幅は細くなり、横山町問屋街の道に出る。



さらに行くと大伝馬町、再び少し道幅が広くなる。暗渠の上の道沿いに初めて店舗が出てくる。『おひげ寿司』という寿司屋さんだが、店を見ると比較的新しい構えであった。

しかし、その先でこの暗渠上の道が突如なくなり、奥には鋼矢板に囲まれたビル建設現場となる。かつては小さなお店が並んでいたが、半年ほど前から取り壊しが始まり、新しいビルの建設が始まっていた。

次の通りにはかつて千鳥橋が架けられていた。その近くに現在は東京アフロディーテという結婚式場となっている洋館がある。形から銀行の支店かなと調べてみると『旧古河銀行元浜町支店』(1926年竣工)であった。



建築現場をやや大回りして歩くと日本橋休日応急診療所の前に出る。すぐ隣には久松小学校、また、暗渠は久松児童公園の中を通過して行く。夏になると水が張られるプールも今は小学生たちのドッジボールの会場となっていた。(以下、次回)

浜町川を歩く①

2022-05-22 05:00:00 | 川と橋とダム
浜町川は現在は暗渠となっているが、江戸時代初期に隅田川から開削が始まった運河で龍閑川(運河、現在の神田駅から千代田区中央区の区界を流れていた)につながり、L字の流路だった。明治16年からさらに神田川への開削を行い、最終的には隅田川と神田川を結ぶ水路であった。しかし、戦後に暗渠化が始まり、1972年には完全に暗渠となっている。なぜ暗渠になってしまったのかも含めて川の上の道を歩きながら調べてみた。



今回は秋葉原駅から和泉橋まで歩き、神田川沿いの柳原通りに入る。途中右に曲がって暗渠の上の小道を歩く。曲がる場所は千代田区岩本町3ー6。神田川から曲がる場所に跡はないが、今は駐輪場となり、そこから神田川との接続点は大体わかる。



細い車道が両側に2本、さらに細い歩道が真ん中を通るが、残念ながら最初の真ん中の道は自動車置き場化していて歩くことができない。右側の道を歩くと靖国通りに出る。ここに小さな緑地があるが、大和橋広場と呼ばれている。



すぐ横を見ると地下道入口のような古いスロープ、しかし、柵が降りている。これは何かと思っているとブザーが鳴り、柵が上がり始める。そうこの下がパーキングとなっていてそこから車が出てきたのである。



反対側には入口があり、『大和橋ガレージ』の看板。橋の下の空間を地下駐車場にしたものであった。ということは暗渠にした際に下の空間利用を考えたのだろう。信号には『大和橋』、今は川も橋もないのに名前だけは残されている。



反対側に渡ると細い川の跡が歩道として残されている。人通りも少なく、地元の人々が喫煙場所として利用している。看板には下水道管が埋設してあるらしく、都下水道局の管理地と書かれていた。



神田金物通りを越えると少し道幅が広がり、オートバイや自転車が止められている。野良猫か地域猫かはわからないが、スクーターの車輪の影から黄地猫がこちらを睨んでいた。



現れたのは龍閑児童公園、公園内には竹森神社がぽつんとある。ただ、祭神は倉稲魂命、この辺りは江戸時代には竹藪が多く、竹職人の町と言われていた。また、かつてはここから右の方にこれも暗渠になってしまっているが龍閑川が流れていた。



竹森神社は俗に言う『江戸七森』の一つに数えられている。(椙森・堀留町、烏森・新橋、初音森・馬喰町、柳森・柳原土手、あずまの森・向島、笹森・谷中、竹森・小伝馬町)(以下、次回)



東京ゲートブリッジを徒歩で渡る

2022-04-25 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その112。若洲キャンプ場前のバス停は若洲公園の入口にある。東京ゲートブリッジに登ることができる『若洲昇降施設』に向かう。



公園の駐車場があり、その前には区立若洲公園サービスセンター。主にキャンプ場と海釣り施設関連の管理をしている。周りにはソメイヨシノも咲き乱れ、花見にはちょうど良い。



遠くに橋が見えたり、隠れたり。何かが飛んできたかと思うと大きなゴイサギが急に舞い降り、すぐ隣に止まる。


公園の外周を歩いて行くが樹木が多くて先が見通せないところが多い。ようやく開けて海釣りのスペースに到着。目の前は海、上には橋が見える。



見上げると昇降施設の建物、円筒形の建物の周りには螺旋階段、もちろん中央部にはエレベーターが付いている、エレベーターでまずは9階の展望台まで行く。



海の方角はガラス越しとなるが、恐竜が向き合ったような形の東京ゲートブリッジがよく分かる。橋は2012年に開通した若洲と中央防波堤外側埋立地をつないでいて全長2618m、幅員24mのトラス橋。



水面からの高さが87.8m、地上を跨ぐ長さが1618mであり、羽田空港の飛行ルートにあるため、高さは98.1m以下、一方で大型船舶が航行可能な高さ54.6mを確保しなければならないという制約のもと開通した。



1階下がった8階には橋に出る口があり、歩道へと繋がっているが、残念ながら向こう岸の中央防波堤外側埋立地には降りることができないため、取り敢えず橋の中間地点まで歩く。



緩い上り坂を歩くと右側には高層ビルがよく見え、東京スカイツリーも臨むことができる。風が強く吹いてはいるが、それほど寒くはなく、対岸を見ながら歩く。下には海釣りの施設が連なり、釣り人は意外に多い。



しかし、歩道を歩く物好きな人は私1人、警備の人にはすれ違ったが。だんだん真ん中に近づくにつれて勾配が緩くなり、恐竜と恐竜をつなぐ部分までくるとベンチも用意されていた。



念願の東京ゲートブリッジ、次回は車で対岸まで渡りたいものである。この後は今きた道を戻り、再びバスに乗って帰りました。






神田川に沿って〜お茶の水橋→水道橋

2022-03-29 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋めぐり』その111。お茶の水駅の側には神田川に架かる大きな橋が2本ある。神田駅寄りの聖橋は歌詞にも出るほど有名だが架橋されたのはお茶の水橋の方が古く、初代は1889年に架けられた鉄橋であった。1904年には甲武鉄道お茶の水駅の開設、東京市電錦町線の開通などが行われた。しかし、関東大震災で焼失、震災復興事業として1931年に今の橋が架けられた。

お茶の水駅があるため、『お茶の水』はこの辺りの地名かと思いきや、二代将軍秀忠が近くにあった高林寺の湧水で淹れた茶を気に入ったことから付近を『お茶の水』呼ぶことになっただけである。因みに山手線内の駅で地名によらない駅はお茶の水駅と鶯谷駅しかない。

駅のお茶の水橋口から向かいに渡った交番の左手に『お茶の水』の由来が書かれた石碑があり、先程の由来に付いて彫られている。



お茶の水橋を渡り、水道橋方向に歩く。この辺りは江戸時代より谷が深く、橋は水道橋しかなかった。



坂を降りながら左手を見ると河岸には椿やヒガンザクラ、ハクモクレンなどが植えられていて美しいがかなり下の方に咲いている感じがする。



しばらく坂を下り、昭和第一高校の向かいあたりに『神田上水懸樋(掛樋)跡』という石碑が出てくる。これは江戸時代神田上水が神田川を跨ぐ地点に設置されていた掛樋のことで当時は今ほど神田川の川幅は広くなかったとはいえ、石碑にある絵図にある通り、レベルの高い土木技術があったことがわかる。



さらに少し行くと『お茶の水分水路』の石碑がある。お茶の水分水路は江戸川橋分水路、水道橋分水路、高田馬場分水路と同様に大量の水が流れ込んだ際にこれを分け、外堀通りの下に水路を作る。これは川幅が広げられないため、地下に水路を掘る工法で、丁度この石碑の下あたりに呑水口がある。地下に設けられた水路を経て1.3km先の昌平橋で神田川と再び合流する。



坂をさらに降りると春日通り、その向こう側に水道橋駅がある。私も水道橋を渡るが、側面に当時の錦絵が描かれている。



神田川に架かる水道橋の中央からお茶の水駅方面を見るが,都会で渓谷美を楽しむことができるスポットであった。




是政橋

2022-03-21 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その110。西武鉄道多摩川線の終点である是政駅を出てまっすぐ歩き、突き当たりを左に曲がると是政橋となる。

是政橋が初めて架けられたのは1941年、当時は木橋だった。1957年に鉄筋コンクリートの橋となったものの、2車線しかなかったために慢性的な渋滞が発生、2011年に今の4車線の橋に架け替えられた。府中市と稲城市を結び、長さは401mもある斜張橋である。

車道以外に広い歩道が両側に設置されている。これを歩いて渡ることにしたのだが、橋から下を見るとかなり歩いた気になってもまだまだ河川敷。多摩川の上に行くまで5分以上掛かった。



川の真ん中あたりから下流を臨むと中央高速の無料区間である稲城大橋、反対側にはJR南武線の鉄橋が見える。



橋を渡り切るまでに10分程度掛かった。一般道の橋は上流は関戸橋、下流は多摩川水道橋までなく、重要な橋梁であることは間違いない。

次の信号を左に曲がると南武線南多摩駅、ここまで歩くと約15分、風が強い日はかなり辛い。南多摩駅は高架上にある橋上駅で、駅前ロータリーを備えている。



そこには稲城市のゆるキャラ『なしのすけ』の時計台がある。ここで稲城市の名産は梨であったことを思い出す。



帰りはもと来た道を戻るしかなく、風に吹かれながら是政駅に戻り、次は駅の改装がなされた多磨駅をめざして電車に乗り込んだ。






木根川橋とさだまさしの足跡②

2021-09-03 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その109。さだまさしの歌、『木根川橋』は1979年4月に発売されたソロ4枚目のアルバムに収められている。彼が中学1年生の時、バイオリン修行のために上京、それから2年間葛飾区立中川中学校に通学していた。その頃の思い出を曲にしたもので橋以外にも歌詞に登場する。


歌詞の順番とは違うが、まずは川沿いの道を右手に曲がり、木下川薬師(浄光寺)に向かう。歌詞には『木下川薬師の植木市の日には今でも必ず雨が降りますか。』という一節がある。



木下川薬師の創建は849年僧広智がここに最澄作の薬師如来坐像の安置場所を探し、ここに草庵を結んだこととされる。江戸時代には徳川歴代将軍の祈願所とされるなど深い信仰を得たとされる。



また、幕末には勝海舟がしばしば訪れ、西郷隆盛留魂碑が置かれたこともある。植木市は4月の花まつりの際に行われている。



木下川薬師の裏手には中川中学校。歌詞には『木造校舎』とあるが、今は立派な鉄筋コンクリート造り。さだまさしさんが通った面影はないかもしれない。

最後に行ったのが、白髭神社。『木根川橋から水道路抜けた、白鬚神社の縁日はアセチレン炊いてアンズ飴売ってますか。あいも変わらず賑やかなんでしょうね♪』と歌詞にある。



中川中学校から回ったので水道路は帰り道となったが、なかなか渋い神社。



白髭神社はこの周辺にいくつかあるが、ここは『渋江白鬚神社』。元渋江村の鎮守で猿田彦命をお祀りして、口伝では860年と言われている。



白鬚神社からまっすぐ四ツ木駅方向に向かう道が『水道路(すいどうみち)』。道を歩いている途中に手作りの地図が貼ってあり、これで確認。



四ツ木駅は急にキャプテン翼が駅をジャック、この漫画は読んだことがないのでよくわからないが、ファンならたまらない駅だろう。何しろ駅のメロディや電車接近のアナウンスまでキャプテン翼なのだから。




木根川橋とさだまさしの足跡①

2021-09-02 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その108。森高千里さんの『渡良瀬橋』の後、考えてみればさだまさしさんの『木根川橋』に行ったことがないと気づき、早速行ってみた。

その前に木根川橋を調べたのだが、これがかなりややこしい話なのである。今の位置関係は川上から四ツ木橋、新四ツ木橋、京成線鉄橋、木根川橋の順にある。

(左から四ツ木橋、新四ツ木橋、京成線の鉄橋)

1922年に荒川放水路(現在の荒川)開削前は四ツ木橋(木橋)が今の四ツ木橋のあたりに建設された。しかし、老朽化したために1969年に現在の木根川橋が旧四ツ木橋の100m下流に作られた。橋長539.6m、幅員10.5mの7径間下路式平行ワーレントラス橋という大規模な橋である。

(四ツ木橋)

(新四ツ木橋)
その後、1952年に四ツ木橋(国道6号が上を走る)、1973年に新四つ木橋が完工した。さださんが『木根川橋』で歌っていると思われるのは木橋であった旧四ツ木橋であり、今の立派な木根川橋ではないらしい。

と言った事実はともかく、京成線八広駅で下車して荒川を目指す。駅前のクネクネした道を5分ほど歩くと目の前に歩道橋のもののような階段が現れた。


これを上がるとようやく堤防が見えてきてさらに階段を上がると急に景色が開ける。
目の前には木根川橋、後ろには京成線鉄橋、さらに四ツ木橋や新四ツ木橋も見ることができる。河原には草が一面生えていて、ひまわり畑の一角もある。



(京成線鉄橋)
そのまま歩き、木根川橋を渡るのだが、とにかく強風が吹き荒れ、自転車の人はハンドルが取られないように運転するのが精一杯。

橋からの眺めも上流・下流とも素晴らしい。屋形船も係留され、浚渫船が川底の砂を減らすべくほりすすめている。



木根川橋は540mもあるため、渡るだけでも時間がかかるが、風があるため後ろからくる自転車のベルもよく聞こえない。荒川を渡り切るといったん橋が終わるが、次に綾瀬川を越える小さな橋がある。



右手を見ると小さな黄色い橋がかかっているが、こちらは東四ツ木避難橋という災害時向けの橋である。また、左前方には京成線四ツ木駅も見えてくる。

まっすぐ行くと突き当たるが、スロープを降りると歌に出てくる『水道路』が出てくる。(以下、次回)

名曲『渡良瀬橋』のふるさと足利市を歩く②

2021-08-17 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その107。渡良瀬橋の続き。歌詞には『八雲神社にお参りするとあなたのこと祈るの』というフレーズがある。ところがなぜか足利市にはいくつもの『八雲神社』があるのである。


渡良瀬橋から伸びる道を歩くとJR両毛線の踏切がある。この辺りには古くからの建物がいくつも残されていてついついそちらに目が行ってしまう。



中央通りを左折してすぐのところに古い神社を発見。入口に『八雲神社』とあるため、お参りする。社殿も古く、歴史を感じるが、後で調べると森高千里さんが歌にした神社はゴロの関係から『八雲神社』にしただけで特定はしていないらしい。歌の中で主人公が歩いたならばこの八雲神社が自然かなあと勝手に解釈した。

続いて『床屋のかどにポツンとある公衆電話覚えてますか』というフレーズの公衆電話のところに。最近は皆携帯電話を持っているため、廃止になる公衆電話が増えているようだが、この公衆電話は歌われているため、市の要請を受けて、ちゃんと残されているらしい。

中央通りをひたすら歩くと公民館の先、通り7丁目の交差点の角に電話ボックスを発見。床屋さんも盛業中でホッとする。
この歌が発売されたのが1993年8月、もう28年になる。当時はまだ携帯電話が普及しておらず、公衆電話が大活躍していた時代。携帯電話から恋人に電話するより、詩情がある様に感じてしまう。実際にさだまさしの『加速度』、徳永英明の『レイニーブルー』、かぐや姫の『あかちょうちん』など電話ボックスが歌詞に出てくるものは多い。



今回、足利市街を歩いて渡良瀬橋が作られた街は今も殆ど何も変わらず、十分にイメージできることだけは確信することができた。できれば次回は夕方の天気の良い時に来たいものだが。

名曲『渡良瀬橋』のふるさと足利市を歩く①

2021-08-16 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その106。森高千里の歌に『渡良瀬橋』というのがある。私が好きな橋の歌ではさだまさしの『木根川橋』と双璧。これを久しぶりに聴いたら急に渡良瀬橋を見たくなり、あまり深く考えもせずに東武線の特急『りょうもう』に乗ることにしてしまった。

調べてみると東武伊勢崎線足利市駅から歩くのが一番近そうなので取り敢えず東武スカイツリー前駅(旧、業平橋駅)まで行き、特急券を購入。



利用客も少なく、その上雨。確か歌詞では『渡良瀬橋で見る夕日をあなたはとても好きだったね』とあるのに急に決めたこともあり、さらに夕方ではなく、午前中、日も出ていないというコンディションになってしまった。



約1時間電車に揺られ、居眠りから急に起こされた状態で足利市駅構内を歩く。しかし、駅のメロディに使って居るだけあり、構内にはちゃんと『渡良瀬橋』を紹介するコーナーもあった。森高千里のサイン付きで。




駅を降りる際も人は殆どおらず、タクシー乗り場にもタクシーは1台のみ。しかし、雨も小ぶりになったため、駅前から渡良瀬川沿いを歩き、すぐのところにある中橋を通って対岸に渡る。




この川幅が広く、しかも道の端には水溜りができているため、気をつけないとタイヤで跳ねた水だらけになる。

橋の中央から上流を見ると渡良瀬橋がよく見える。橋長243m、幅員5.5mの6連ワーレントラス橋で1934年に作られたもの。ただ、橋が狭く、歩道がないため、歩いて渡ることはできない。

川沿いの道を歩くと右側に茶色い碑が出てくるが、これが『渡良瀬橋』の歌碑である。



平成7年に作られたものだが、なかなかの優れもので信号機に付いているような押しボタンを押すと歌が流れる。小雨に打たれながらもいい歌だなあと全曲を聴いてしまう。



渡良瀬川は雨のおかげで茶色くなってはいたが、奥には山、夕焼けはさぞ綺麗だろうと眺めていた。ただ、せっかく来たのだからと歌詞に出てくる場所を2カ所ほど歩くことにしたのである。(以下、次回)