hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

渋谷川沿いの橋を巡る④

2021-07-03 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋めぐり』その106。渋谷川沿いの橋を巡って歩いているが、川沿いの道がないので右へ左へ振られながら歩く。



すぐに『山下橋』、名前の由来は町の旧称。つまり、1966年の新住居表示の際に恵比寿1丁目に組み入れられたのが『山下町、新橋町、恵比寿通2丁目、下通2、3丁目、恵比寿東2、3丁目』であり、このあたりは山下町だったからである。



次の橋が『新豊沢橋』、ということは豊沢橋は何処へとなるのだが、そばに豊沢橋は実際に存在した。しかし、道路拡張に伴い、この橋が作られ、区画整理で豊沢橋が廃橋となったため、新豊沢橋』のみが現存する。



ここからは一旦明治通りに出てしばらく行く。バス停の先に左に細い道が出てくるが、都立広尾病院に続く。



その上にかかる橋が『回生橋』、名前の由来ははっきりはしないが、病気から回復して帰っていく思いを込めた名前のようである。



続いて『天現寺橋』。渋谷川はここまででこの先の『たぬき橋』からは古川になる。渋谷橋同様の歩道橋があり、渡って降りたあたりに青山墓地あたりからくる笄川(こうがいがわ、暗渠)と古川、渋谷川が合流している。



(笄川、渋谷川、古川の合流部)




全くの余談だが、1924年5月当時の玉川電気鉄道は渋谷橋〜天現寺橋を延伸させて天現寺で東京市電と繋がった。さらに1927年3月にはこの線の支線として渋谷橋〜中目黒を開通。



(大正14年4月号時間表)

玉電は山手線の内側まで延伸、ここを起点にしたのである。その後、渋谷駅の玉電ビルの開業など紆余曲折があり、天現寺線の運行を東京市電に委託、さらに1948年に東京都に譲渡した。1969年に廃止された時は都電34系統であった。もちろん今はその面影さえないのだが。





渋谷川沿いの橋を巡る③

2021-06-26 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋めぐり』その105。このシリーズで2020年に渋谷川を渋谷リバーサイド横(渋谷川が開渠になったところ)から一本橋まで2回に分けて歩いたが、今回は橋を2本戻った恵比寿駅近くの庚申橋から天現寺橋まで歩いてみた。



恵比寿駅から線路沿いの道を歩き、一つ目の信号を左に曲がると山手線の低いガード、潜ってすぐのところに『庚申橋』がある。



前回同様に庚申塔にお参りをして散歩をスタート。橋の上から川上・川下を見るが見事によく曲がっていてお隣の橋は見ることができない。

川沿いの道がないので明治通りを歩く。すぐに交差点全体に歩道橋が設置された渋谷橋交差点、右に曲がると『渋谷橋』、さらに恵比寿駅となる。橋を下から見てもわかりにくいので歩道橋から写メを撮る。



歩道橋を降りてすぐ右に細い道が出てくるが、この先に恵比寿東児童公園に向かう細い人道橋(名前はない?)がある。



渡って児童公園内を歩いてすぐのところに『一本橋』。住居地図にはある本橋とあるが、一本橋が正解。橋には菖蒲のレリーフがついている。



細い道を行くと左側にはスペイン料理の店、ランチはパエリアらしい。また、台雲寺とあるが、いわゆる普通のお寺の建物はなく、奥に墓地があるだけ。付近をよく見るとビルがあり、これが本堂のようである。



左側には『恵比寿橋』、あいおいニッセイ同和損保の本社隣にある。その上の道は細いが対面のため、よく渋滞する。



脇をすり抜け、川沿いの細い道。左側に園地が作られ、椅子もあり、サラリーマンが昼休みを楽しんでいる。少し歩くと『新橋』が見えてくるが、コミニュティバスのバス停がある。(以下、次回)






田町駅港南口周辺の運河を歩く②

2021-06-19 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その104。田町駅を降りて10分ほど歩くと周囲の風景もかなり変わる。提供公園の緑も深く、鳩や椋鳥たちのサンクチュアリーとなっている。左手には三角の斬新な設計で知られるヨコソーレインボータワー、というより旧カネボウ本社ビルと言った方が分かりやすい。実はこのビル、一部は居住部分となっていて目の前にレインボーブリッジが見えると人気物件となっている。


その前を通過すると右側にレインボーブリッジの端の部分がよく見える。大きな橋のループを弧を描きながら車もゆりかもめも登って行く。



人間はというとレインボーブリッジまで登るエレベーターが1番手前の橋脚に設置されていてこれを登る。私はここに来るのが実は2回目で前回は反対側からレインボーブリッジを徒歩で歩き、降りたことがある。



エレベーターで7階まで登ると歩道に出る。ここから対岸の台場や螺旋状の橋を写メで狙うのだが、横を通過するトラックの振動でどうしても一部焦点がぼけてしまう。さすがに非常事態宣言下、登る人は少なかった。




再び地上に降りて再び汐彩橋を渡り、芝浦運河沿いの道を左に曲がる。途中、保育園児たちの列を追い越す。運河沿いにはデイゴの仲間のサンゴシトウやガクアジサイが美しい花を咲かせている。



次の港栄橋まで行き、右に曲がる。この辺りは新しいマンションの建設ラッシュ。確かに都心からも近いし、目の前にはある富士急行のバスの車庫があり、乗るなら始発だし。利便性を追求するにはよい場所だろう。



次の芝浦西運河に架かる夕凪橋を越え、突き当たりを右に行く。少し先の新芝運河まで出てさらに右に行くと運河が交差する百代橋、藻塩橋の所に出る。



すると藻塩橋の袂に子供ばかりか大人も集まって運河を見ている。物見高い私もその視線の先を見ると何とカルガモのお母さんとひなたちが岩の上に乗っている。



水はほぼ引いているのだが、小さい岩の上にラッシュアワーのようにひなが小さい身体を寄せている。数えると11羽。可愛いいとしか言いようがない姿を見せてくれた。ひなたちの健やかな成長を祈りたい。

ここからは田町駅港南口までは歩いて10分足らずである。

田町駅港南口周辺の運河散歩①

2021-06-17 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その103。田町駅港南口を降りて海の方向に歩く。学生時代に田町駅にはよく来たが、港南口はボーリングをするため以外に行くことはなかった。

元は畜産市場などがあったが、今は高いビルが軒を並べており、まるで風景が変わった。道路や橋も綺麗になり、あまり昔の面影はない。



まっすぐな道を歩くが1つ目の信号を越えると1本目の運河、新芝運河が流れ、その上に新芝橋が架けられている。



運河は自然の川と異なり、ほぼまっすぐに流れ、川を掘り進め、橋を高くするために太鼓橋となっているものが多い。
新芝運河も他の運河同様に両岸には遊歩道が作られていてちょうど昼休みであったこともあり、散歩をしたり、中には着替えてジョギングを楽しむ人もいる。



なぎさ通りをまっすぐ行くと新芝北運河、新芝西運河、新芝南運河が交わる渚橋となる。この橋は2本に分かれていて海に向かい左側を歩く。



橋の中心にはカルガモの説明板があり、橋の下あたりにカルガモ用の巣と休憩場になるような木製の小さな小屋が作られていた。ただ、カルガモは不在であったが。



渚橋は東京モノレールの架橋とクロスしており、間近でその姿を見ることができる。ただ、周囲の人には珍しい風景ではないようで立ち止まり、写メを撮るのはわたしだけであった。



また、渚橋からは新芝北運河に架かる芝潟橋、芝浦運河に架かる人道橋の船路橋もよくみることができる。



さらに行くと今度は芝浦運河に架かる汐彩橋が見えてくる。芝浦運河は幅が広く、海鳥も多く空を舞う。



前方にはレインボーブリッジの橋脚が大きく見えてくる。もうゆりかもめの芝浦埠頭駅まではすぐである。(以下、次回)





早春の千川上水に沿って散歩する②

2021-02-15 05:00:00 | 川と橋とダム
千川上水を歩く散歩の2回目。武蔵野大学の前を通過して護岸がコンクリートになるが、川の幅を広くして草を植え、魚が棲む場所が作られている。



生えている草を良く見るとたくさん鯉が泳ぐ、ただ、写メが下手で右下に鯉の口が見えるだけだが、実際にはたくさんいる。



右手に武蔵野競技場が見えてくると『葭窪橋』、千川中学の向いあたりが『千川橋』と続く。



川の左手に黄色の花をたくさん付けているのが蝋梅、もう満開に近い。水仙に続きもうしっかりと花を咲かせているのである。



この辺りはまた川幅がかなり狭くなり、木材や鉄板で勝手に作った橋が幾つも見ることができる。次の関前橋までには距離があるから致し方ないが、危ないかも。




関前橋では再び暗渠となる。ここを左に折れると青梅街道だが、川沿いに歩く。大通りと別れるため、急に静かになる。



歩道は右側のみとなり、少し盛りを過ぎた椿の赤い花を見ながら進む。ちょうど護岸を工事しているが、途中にいくつか名前のない橋を通過していく。



練馬区に入ってすぐに西窪橋を通過。コンクリート橋だが、趣がある。左右に集合住宅が立っているが、高さ制限があるのか、あまり気にならない。



目の前に少し広い通りが出てくるが、この橋が『更新橋』。橋の横に古い庚申塔が祀られている。



祠の中は暗くて良くわからないが、青面金剛像が彫られ、忿怒の形相をし、6つの腕を持ち、足元の邪鬼を踏んづけていると案内板にはある。それにしても更新橋と庚申塔、どこかで間違えたのか、わざと音を同じにしたのかは分からない。

その先も左右の風景はあまり変わらないが川の南側の住所は『武蔵野市吉祥寺北町』となっていて北側が練馬区、つまり市境なのである。



『西浦北橋』『北裏橋』『桂橋』『東北浦橋』など名前のある橋と同じくらいの数の名前もない橋が続くが、住民が増えたために新たに作られた橋も多いのだろう。



さらに歩くと急に道が狭くなるがここにかかっている橋が『吉祥寺橋』。思わず道はないかと探すがちゃんと細い道が川に沿ってある。



この辺りは大きな農家の横を川が通っていて4〜50年前は全てがこんな風景であったのではと思わせてくれる。左を見ると収穫が終わったキャベツ畑、隣はネギ畑。右側は大根が収穫を待っている。





川幅は細くなり、橋というかエントランスの延長か分からなくなり、車が駐車している所すらある。と思っているとまた暗渠、出てきたと思うとまた暗渠となり、ついに見えなくなってしまう。ちょうど吉祥寺通りに出たので今回の散歩は終了。

歩くたびに川の風景、周りの風景が次々と変わる楽しい散歩となった。歩いた距離は4.6km、1時間15分くらいであった。

早春の千川上水に沿って散歩する①

2021-02-07 05:00:00 | 川と橋とダム
久しぶりに川に沿って橋を巡る企画にチャレンジ。去年の夏から腰から来る足の痛みで長い距離の散歩を諦めていたが、症状も落ち着いてきたことから早速スタート。


あまり遠出も出来ず、玉川上水と千川上水の別れるあたりから千川上水沿いの遊歩道を歩くことにする。吉祥寺駅からバスで15分、境橋で下車。



まずはその分岐点に行く。直角に千川上水は分かれているが、その場所はいい釣り場らしく、ひとりお爺さんが釣り糸を垂れている。何が釣れるかを聞くと、ハヤ、ヤマベ、時折ウナギだとのこと。



分岐点を確認し、信号を渡り、ようやく五日市街道の真ん中に作られた遊歩道を歩き始める。分岐点からしばらくは暗渠だったが、大きな石碑の前から開渠となる。

人工的に作られた水路だけに真っ直ぐ、この辺りは川幅も狭く、飛び越すことが出来そうな幅である。



欅の葉が全て落ちて心地よい落ち葉の弾力を感じながら行くと最初の小さな橋。『蛍橋』と名付けられている。



隣の樋口橋を越えると関前5丁目交差点。ここは井の頭通りの起点となっているが、遊歩道は一旦途切れ、五日市街道を渡り、また、井の頭通りを渡り、さらに五日市街道を渡らないと先にいけない。



千川上水は両岸に生垣があり、川面が一旦見えなくなる。柳橋で武蔵境通りを越してまた遊歩道に戻る。この辺りは植えてあるのは桜だろうか、手前の木に比べて幹が太くなって来たような気がする。



ただ、相変わらず両側に五日市街道、車が途切れなく走るその真ん中が千川上水遊歩道となっていることは変わらない。



鎮守橋というなんとも可愛らしい橋を越えたあたりには水仙が群生。殆どが茶色の世界の中に緑の葉を伸ばし、白い花を見ると愛らしく思わず眺めてしまう。



五叉路の大きな交差点(武蔵野大学前)の横には石橋供養塔なる石碑がある。五日市街道と千川上水が交差するこの地には古くから井口橋と呼ばれた橋が架けられていた。元は木の橋だったが、安政年間(1841年)に近隣住民の力で石橋に架け替えたことを記念する石碑である。

ここからは水路のすぐ横を歩くことができ、また、階段が作られていて水面に触れることもできるようになっている。(以下、次回)




閘門橋を訪ねて〜明治の建築物を訪ねて(番外編)

2020-07-19 05:00:00 | 川と橋とダム


『大正、昭和の建築物を訪ねて』の番外編。今回は大正、昭和ではなく、明治に造られた橋を訪ねてみた。



常磐線金町駅で降りてバスで20分ほど揺られ、水元5丁目で下車する。まっすぐ行くと三叉路があるのでこれを右折すると左側に芦が茂り、殆ど流れていない川が現れた。



これは大場川の一部が二又に分かれ、写メに赤く丸を付けたのはこの中洲部分である。

そのまま少し歩き、道を反対側に渡ると水元公園の入口がある。その先に橋が見えて来るがこれが本日の目的である『閘門橋(こうもんばし)』である。



この橋は1909年(明治42年)に造られた上路式レンガアーチ橋でこの形の橋は東京に唯一である。橋長30m、幅員3m、高さ5.5mで径間は上流側に3つ、下流側に5つあり、水害による中川からの水の逆流を防ぐために造られたものである。

その形状は初めて見るもので、上流の径間の上にはブロンズ像が2体、いずれも荒れ狂う風雨と戦いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿である。





橋の上には上流方向にも下流方向にもテラスが造られていてその姿を見ているだけで時間を忘れさせてくれる。



下流側には水元公園が広がり、また、現在は人道橋となっているため、ゆっくり渡ることができる。



車道の方は『葛三橋』と名前が違うが、並行しているため、上流側からの写真は撮りにくい。橋の袖には石でテーブルやベンチも置かれていて不思議な空間を演出していた。



因みに橋の先、次の信号あたりが都県境となり、八潮市、さらに三郷市に入る。先人の苦労が詰まったレンガ橋、一度見る価値はある。


玉川上水の橋を巡る②

2020-05-02 05:00:00 | 川と橋とダム


『ぶらり橋巡り』その102。玉川上水を境橋まで歩いたが、ここで桜橋まで桜通りを引き返す。上水と反対側を歩くが農園もあり、また、民家の藤が綺麗に咲いている。
桜橋を渡ると境浄水場の入口がある。ここから浄水場に沿って歩くが、歩道も広くなり歩きやすい。土手にはまだ八重桜が花を付けている。




次の橋は青く塗色されているのが『松見橋』。近くにはクルミと思われる大木が生えていてイモムシのような花が垂れ下がっている。



さらに行くと『大橋』が現れる。案内板には『江戸時代に玉川上水ができて武蔵野市に作られた橋は保谷橋、新橋と並びこの大橋であった。(中略)この橋を通る道は大正7年に境浄水場ができるまでは西北が田無を経て青梅・所沢、南は調布5宿を経て横浜街道と称していた。』でいった趣旨のことが書かれていて大切な道であったことが分かる。



平成29年に全面掛け替えが行われたが、親柱は昭和7年のものが使われていた。



武蔵境通りに出るがここに架けられているのが『いちょう橋』、こちらも武蔵境通り拡幅に伴い掛け替えられている。



通りを渡り、いちょう橋と並んでいる人道橋『ぎんなん橋』はかつてこの北側にあった武蔵野競技場と三鷹駅を結ぶ鉄路の路盤上に建設されたもの。武蔵野競技場線は1951年開業した武蔵野グリーンパーク野球場への乗客輸送を目的に同年4月に三鷹〜武蔵野競技場前3.2kmが開通した。最初の頃は国鉄スワローズの主催試合や東京六大学な試合(当時は神宮球場が占領軍に接収されていた)が行われた。



(昭和30年1月時刻表から)
しかし、目論んでいたプロ野球チーム本拠地誘致に失敗、プロ野球開催は1951年1年のみであり、その後は球場も使われなくなり、1956年に解体、鉄道路線も1959年11月に廃止された短命な路線である。



ぎんなん橋に鉄路が残されているのはこれを記念するもので、さらに橋の袂には案内板がある。殆ど当時の面影はないが、この廃線跡も一度歩いてみたいと考えている。



西久保公園の横を通り歩き続けると左側から広い車道が現れ、これを越すと再び上水が顔を出す。



三鷹駅手前、欅橋の手前には『庚申塔』、1729年に作られたものらしい。欅橋は昔風に作り直されているが、上水は暗渠となり中央線の下を通過していく。三鷹駅付近は親水公園のように整備されていて緑の多い駅となっていた。








玉川上水の橋を巡る①

2020-04-30 05:00:00 | 川と橋とダム


『ぶらり橋巡り』その101、今回は玉川上水を歩く。スタートはJR中央本線武蔵境駅、駅も高架になり、立派になった。南口と北口の間に自由通路もでき、北口側に行く。駅前ロータリーを抜けて『すきっぶ通り』と名付けられた商店街を北に向かう。商店街は一部休業している店もあるが、結構な賑わい。



商店街を抜けるとそのまま北に武蔵境通りが伸びる。ちょうど白やピンクのハナミズキが見頃で美しい。まだ古い店や空き地もちらほら、のんびりとしている。


少しいくと玉川上水に出くわすが、この橋が桜橋。上水沿いに桜が植えられていて比較的新しい橋だが、これは武蔵境通り拡張に伴い平成11年に架け替えたもの。

その国木田独歩の文学碑が左側に建てられていて『武蔵野』の第6章の書き出し『今から三年前の夏のことであった。自分は或る友と市中の寓居を出て三崎町の停留場から境まで乗り、其所で下りて北へ真っ直ぐ四五丁ゆくと桜橋がある。』と彫られている。



玉川上水に沿って上流を目指す。堤にある歩道は大きくなったソメイヨシノが邪魔をして歩きにくい。



歩道にはタンポポの黄色い花だけではなく、ツリガネニンジンやダイコンの紫色の花やイフェイオン(はなにら)の白い花などがたくさん咲いていて美しい。



次に出てきた橋が『独歩橋』、昭和44年にかけられた。国木田独歩から名前を取った小さな橋である。



また、すぐに橋が出てくるが、これが『うど橋』。地元の名産である独活(ウド)は江戸時代吉祥寺で栽培が始まったと言われている。橋のたもとには『今から180年前(天明5年頃)より土地の人々は薪炭を作り、また落葉の温熱で軟化独活特産地として有名になった。このたび由緒ある玉川上水への橋をかけられるにあたって特産地の名をとどめるため独活橋と命名されたものである。』と刻まれた石碑がある。

この石碑は昭和40年3月25日とあったが、白い石に刻まれていて現地ではよく読めなかった。



この辺りぬ何らかの理由で切り倒された木がいくつもあり、これが腰掛けるのに良い高さに調整され、天然のベンチのようになっている。



少し歩くと水番屋の跡がある。江戸時代は上水を保守管理をする役人がいた詰所で明治に入り水衛所に名を変え、淀橋浄水場廃止に伴い、昭和55年に廃止された。その先には玉川上水の石碑がある。



『境橋』がすぐのところにあり、五日市街道と交差する。さらにここで千川上水が別れ、玉川上水は北に向かって流れていく。(以下、次回)



旧隠田川を遡る②

2020-04-21 05:00:00 | 川と橋とダム


『ぶらり橋巡り』その100。隠田川跡のキャットストリートを歩く。隠田橋を越えると右手に隠田商店街の地図か出てくるが、その規模の大きさに驚かされる。階段を数段上り。表参道に出るが、ここに『参道橋』の親柱がある。




歩道橋を渡り、反対側へ。表参道ヒルズの横を通り、そのまままっすぐ行く。少し道路は高いところを通っているようで再び階段を数段降りる。




表参道から一本入ったあたりだが、大きな建物が多い。一本のサクラが満開となっていて姿をしばし眺める。この辺りにもブティック、さらに気がつくと時計を売っている店も多い。




商店街は原宿神宮前商店街に変わるが、道は相変わらず細くグネグネとしている。蔦が絡まるアパートの横を通るが、ここでやや広い通りを横切る。後で調べると川跡は左に行くのだが、ここで私は右に曲がり、外苑西通りに到達。実は隠田川はこの先、千駄ヶ谷を通り、新宿御苑に通じていたのである。




外苑西通りからはできたばかりの新国立競技場が見えるが、反対側に渡り、まっすぐ行くと青山熊野神社、青山の総鎮守である。




1644年に徳川家邸内にあった御宮をこの地に移したもので元は熊野権現と称していたが、明治になり、青山熊野神社となった。
少し戻り、青山通りを目指す。




途中には赤い山門に特徴がある黄檗宗の海蔵寺の前を通る。青山通りを左に曲がると東京メトロ外苑前駅、結局2駅分を歩いたことになる。