お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

お墓

2006年10月20日 | 仏教
 きょうの佐賀新聞の一面、もちろん、トップは北朝鮮関連。その下に「秋いずこへ」と題して、吉野ヶ里で日傘(陣笠)かぶって、暑そうに歩く修学旅行生の写真。「県内12日連続夏日、先月17日以来、まとまった雨が降っていない」という記事があります。
 お陰でウチの護岸工事は、はかどり、昨日で終了。
  きょうは、久し振りにパラパラ雨。昨日まで28℃あった最高気温も平年並みの23℃。でも、雨はすぐに上がりました。

 午前中、納骨堂の掃除をしながら、先日お参りにみえた一人暮らしのNさんの話を思い出しました。
 実家のご両親の墓が、何故か別々の場所にあり、お参りに行くのも大変だとのこと。

 そういえば、よく女性週刊誌などで、「姑や夫と同じ墓には入りたくない」という話がありますね。
 そんなこと、言わないほうがいいのに・・・
 仏教に親しんでくだされば、そんな思いは、すぐ解決するのに・・・

 浄土真宗では、こう考えます。
 生前どんなに「コノヤロウ」と憎しみ合っていたとしても、死んだら、そんな怨み、憎しみを超越して、浄土(悟りの世界)に生まれて、仏に成らせてもらうのです。
 許し、許される世界です。生前の思い、執着を離れる世界です。
 
 私は、自分の死後のこと(葬式、お墓、埋葬の仕方等)をあれこれ、後の者に指示する必要はないと思っています。
 だって、葬式や、お墓は、後の者の気持ちの問題だからです。
 
 お葬式は、亡くなった人のためにしてあげるのではない。後に残った者が故人を大切に偲ぶために、行う(後に残された者のために行う)のが葬式です。
 お墓も本人の終の棲家というより、後の者が故人を偲び、感謝するためのものだと私は思っています。
 
 私自身、私の遺骨が境内の焼却炉で焼かれようが(これは、犯罪か・・)どこに埋葬されようと、かまいません。後の者の気持ち次第です。後の者が偲びやすい場所がいいと思います。

 また、これから先、「お葬式をしてくれる遺族がいない」方が増えられると思いますが、自分のことは、心配されなくていい・・・仮に誰もお葬式をしてくれなくても、お骨がどこに埋葬されようとも、あなた自身は、清らかな悟りの浄土に仏と誕生しているのですから。

 でも、こんなこと言ったら、他のお寺さんに怒られるかしら・・・
 葬式と故人質(骨質?仏質?)を預かっていることで、今のお寺は経済上成り立っていますからね・・・ 本当は生きている者のための仏教なのに。
 
 日常生活にこそ、仏教を 微力ながら、頑張ります
コメント (6)
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