一般に仏事は「亡くなられた方のためにしてあげる」的な考えの方が多いのですが、浄土真宗での仏事の意味は、「今は悟りの仏と成られている故人を縁とし、
「この私」が仏法に出逢う・私の心を仏さまに問う・・つまり、故人のためじゃなくて、私のための仏事と考えます。
故人を生前の思い出だけで偲び、感謝するだけで終わる。私一人ひとりの心が何の問題にもならない。それは単なる先祖供養であり、仏教ではありません。
例えば、私が死んだ後、遺族が仏事をつとめてくれるとします。その時、私の生前の失敗談(美談はないので)で大笑い、盛り上がって、皆和やかにお参りしてくれるのは、それはそれで、うれしいのですが、それで、おしまいにして欲しくない。
「仏」と成った私が、遺族に何を望んでいるか、「仏としての私の願い」に気づいて欲しい
それは、山あり谷ありの人生を迷わないように、仏(さとり)にアンテナ向けてしっかり、この世を生きぬきなさい。 仏の願いを受信しながら、生活しなさい。 いつも、私が心配し、見まもっていることに気づきなさい と、いう「仏の願い」です。
私が仏さまの願いを代弁するのは、大変不遜なことですが、仏と成られた故人はそう願っておられると思います。
仏の願いに出逢う・・それが仏事です。
法専寺では、11月23日(勤労感謝の日)午後1時半より 総追悼法要を勤修します。
これは、2年に1度、過去2年間に亡くなられたご門徒さんをご縁に布教使さん(文字通り、布教資格をお持ちの僧侶)のご法話を聞く集いです。遺族だけが参詣するのではなく、みんなで仏法を聞く集いです。どなたでもお参りください
ご法話=仏さまが私たちに願っておられること を聞くこと・・それが故人(仏さま)への一番の報恩感謝になると思います。

故人を生前の思い出だけで偲び、感謝するだけで終わる。私一人ひとりの心が何の問題にもならない。それは単なる先祖供養であり、仏教ではありません。
例えば、私が死んだ後、遺族が仏事をつとめてくれるとします。その時、私の生前の失敗談(美談はないので)で大笑い、盛り上がって、皆和やかにお参りしてくれるのは、それはそれで、うれしいのですが、それで、おしまいにして欲しくない。
「仏」と成った私が、遺族に何を望んでいるか、「仏としての私の願い」に気づいて欲しい

それは、山あり谷ありの人生を迷わないように、仏(さとり)にアンテナ向けてしっかり、この世を生きぬきなさい。 仏の願いを受信しながら、生活しなさい。 いつも、私が心配し、見まもっていることに気づきなさい と、いう「仏の願い」です。
私が仏さまの願いを代弁するのは、大変不遜なことですが、仏と成られた故人はそう願っておられると思います。

法専寺では、11月23日(勤労感謝の日)午後1時半より 総追悼法要を勤修します。

これは、2年に1度、過去2年間に亡くなられたご門徒さんをご縁に布教使さん(文字通り、布教資格をお持ちの僧侶)のご法話を聞く集いです。遺族だけが参詣するのではなく、みんなで仏法を聞く集いです。どなたでもお参りください

ご法話=仏さまが私たちに願っておられること を聞くこと・・それが故人(仏さま)への一番の報恩感謝になると思います。