お寺の子が親に従順なのは、小学生くらいまで
中学生ともなれば、朝の本堂おつとめにも、何だかんだ言って出てきたがらない。そして、「お寺はイヤだ」と言い始める。
そして、高校生となり、進路を考えるにあたり、当然のように「後継者」と周囲から期待される長男、長女はお寺に生まれた我が身の不幸を嘆き悲しむ。
こうして、反発している彼らも「ご門徒さんのお陰を忘れちゃいかん」「お仏飯で育てられた」だの言われ続け、20才過ぎる頃には「結局、自分が寺を継がなきゃしょうがないだろう」と諦観、悟りの境地に達し
、まじめに仏教の勉強を始める。
それでも他の友人達は、自由に就職、恋愛、自分の人生を選べるのを見ると、またも、煩悩わき起こり
「自分に自由はない」と親に八つ当たりのひとつもしたくなる。
まさにお釈迦様の説かれた「人生は苦なり」四苦八苦の一番目。生まれる苦ですね。
時代も場所も親も選べず、気づいたら自分というものが、この世に存在している。お寺の子は「気づいたらお寺の子に生まれていた」のですよね。
まあ、若い間は「自由がない」って悲しむかもしれませんが、オバサンくらいの年になると「お寺で生活することのありがたさ」がしみじみ分かりますよ。
お布施をいただきながら、相手が頭を下げてお礼を言われる。
お金を受け取りながら相手にお礼を言われるのは、医者と先生と坊主くらいなものでしょう。
坊主には定年がない。
当人が元気な限りおつとめできます。しかも、年を重ねるほどに味わい深く、仏法をお伝えすることができます。
お寺で心穏やかに生活できる
イヤな上司にどなられることも、対人関係で神経をすり減らすこともない。
仏さまの願いに即して生活すればいいのだから、こんな恵まれた環境があるでしょうか。
自由がないだの、外出しにくいだの、いつも人から見られているだの・・不満はあるでしょうが、何の仕事も、誰の人生も大変ですよ
お寺で生活させてもらう利点に比べたら、大したことありませんって。

中学生ともなれば、朝の本堂おつとめにも、何だかんだ言って出てきたがらない。そして、「お寺はイヤだ」と言い始める。

そして、高校生となり、進路を考えるにあたり、当然のように「後継者」と周囲から期待される長男、長女はお寺に生まれた我が身の不幸を嘆き悲しむ。

こうして、反発している彼らも「ご門徒さんのお陰を忘れちゃいかん」「お仏飯で育てられた」だの言われ続け、20才過ぎる頃には「結局、自分が寺を継がなきゃしょうがないだろう」と諦観、悟りの境地に達し

それでも他の友人達は、自由に就職、恋愛、自分の人生を選べるのを見ると、またも、煩悩わき起こり

まさにお釈迦様の説かれた「人生は苦なり」四苦八苦の一番目。生まれる苦ですね。
時代も場所も親も選べず、気づいたら自分というものが、この世に存在している。お寺の子は「気づいたらお寺の子に生まれていた」のですよね。
まあ、若い間は「自由がない」って悲しむかもしれませんが、オバサンくらいの年になると「お寺で生活することのありがたさ」がしみじみ分かりますよ。

お金を受け取りながら相手にお礼を言われるのは、医者と先生と坊主くらいなものでしょう。

当人が元気な限りおつとめできます。しかも、年を重ねるほどに味わい深く、仏法をお伝えすることができます。

イヤな上司にどなられることも、対人関係で神経をすり減らすこともない。
仏さまの願いに即して生活すればいいのだから、こんな恵まれた環境があるでしょうか。
自由がないだの、外出しにくいだの、いつも人から見られているだの・・不満はあるでしょうが、何の仕事も、誰の人生も大変ですよ
