きょうの本願寺新報に「喪中葉書は必要?」というトピックスがありました。
その年に家族が亡くなったら「喪中につき年末年始のご挨拶はご遠慮申し上げます」と年賀状欠礼の挨拶状を出す慣習は、本当に必要なのか?
仏教では「死」は「仏と成る」尊い出来事ですから、決して死をケガレとは考えません。筆者の季平博昭師は「喪中欠礼の葉書を出すことは、死を穢れとして忌み嫌うという考え方を認めることにつながるのではないでしょうか」と、書かれています。
家族がごく最近亡くなられ間もないのならば、まだしも、その年の始めに亡くなられ四十九日もとっくに過ぎ、家族が喪に服した生活を送っているわけでもないのに今さら「喪中」というのは・・・という気持ちはあります。
宗門として「こうするべき」という強制はありませんから、それぞれの僧侶の考え方で違うのでしょうが、全く気にせず、例年通り年賀状を出されるご住職方もおられます。
筆者の季平博昭師も通常通り年賀状を出して「昨年家族の○○が亡くなりましたが、さみしさの中にも新しい年をむかえさせていただきました」と、書かれるそうです。
ウチでは、夫が僧侶でありつつ、社会一般の勤め人なので、迷ったあげく年賀状はやめて、年明けに理由を書いて普通葉書の「寒中お見舞い」状を出しました。
喪中の葉書って必要でしょうか? 普通に年賀状やりとりしても構わないのでは? もちろん、最愛の家族を失って、「新年を祝う気にならん」という気持ちからの喪中の葉書を出すという受け取り方もありますが・・・
ある著名人が週刊誌の記事で書かれていたけれど、「喪中の葉書を受けとった方も今年はこの人に出す、出さないの整理が面倒くさい」とあり、ホントその通りだと共感しました。皆さん、どう思われますか
その年に家族が亡くなったら「喪中につき年末年始のご挨拶はご遠慮申し上げます」と年賀状欠礼の挨拶状を出す慣習は、本当に必要なのか?
仏教では「死」は「仏と成る」尊い出来事ですから、決して死をケガレとは考えません。筆者の季平博昭師は「喪中欠礼の葉書を出すことは、死を穢れとして忌み嫌うという考え方を認めることにつながるのではないでしょうか」と、書かれています。
家族がごく最近亡くなられ間もないのならば、まだしも、その年の始めに亡くなられ四十九日もとっくに過ぎ、家族が喪に服した生活を送っているわけでもないのに今さら「喪中」というのは・・・という気持ちはあります。
宗門として「こうするべき」という強制はありませんから、それぞれの僧侶の考え方で違うのでしょうが、全く気にせず、例年通り年賀状を出されるご住職方もおられます。
筆者の季平博昭師も通常通り年賀状を出して「昨年家族の○○が亡くなりましたが、さみしさの中にも新しい年をむかえさせていただきました」と、書かれるそうです。
ウチでは、夫が僧侶でありつつ、社会一般の勤め人なので、迷ったあげく年賀状はやめて、年明けに理由を書いて普通葉書の「寒中お見舞い」状を出しました。
喪中の葉書って必要でしょうか? 普通に年賀状やりとりしても構わないのでは? もちろん、最愛の家族を失って、「新年を祝う気にならん」という気持ちからの喪中の葉書を出すという受け取り方もありますが・・・
ある著名人が週刊誌の記事で書かれていたけれど、「喪中の葉書を受けとった方も今年はこの人に出す、出さないの整理が面倒くさい」とあり、ホントその通りだと共感しました。皆さん、どう思われますか