映画「逃走」を観た。
4年前の2021年に「狼をさがして」という韓国映画を観た。東アジア反日武装戦線の若者たちを扱った2020年製作のドキュメンタリーである。その作品では、反日武装戦線の若者たちが幼稚な集団のように描かれていたという感想を持った。被害妄想と独善的な怒りと視野狭窄が、若いテロリスト集団を支えていたのだ。
しかし若者たちが社会や政治に関心を持つのは悪いことではない。少なくとも、自分の属する共同体の未来を考える意思と想像力がある。国家権力に確執を醸す反骨心もある。昭和では、そういう若者の気質を世代で区切って、挫折世代や白け世代などと名付けて、時代の移り変わりを嘆いてみせた時期もあった。
現在の世界では、ガザやウクライナやアフガニスタンで人々が人権を蹂躙されて生命までも奪われているが、そこに怒りを表明する人々に比べて、無反応の人が圧倒的に多い。対岸の火事なのだ。想像力に欠けるから、次は自分たちが酷い目に遭うだろうということがわからない。
東アジア反日武装戦線の若者たちは愚かだったが、危機感は感じていたはずだ。そして、自分たちにできる抵抗を試みた。権力からは追及されるが、そこにしか彼らの生きる道はなかったとも言えるかもしれない。
古舘寛治が主演を務めたのは、テロに共感しているからではなく、反骨の精神を貫き通した生き方に共感したからだろう。この俳優さんの反骨を感じる。この映画に出演するということは、そういうことだ。
桐島聡の生き方は、愚かかもしれないが、否定されるべきではない。問題提起のある作品だと思う。
映画「彼女が選んだ安楽死」を観た。
驚いたことに、実際の安楽死の瞬間のシーンが流れる。安楽死は、いわば医薬品と医療器具を用いた自殺である。自殺のシーンを映した映画はたくさんあるが、実際の自殺のシーンを映した作品は、記憶にない。テレビで自殺のニュースのたびに、命のダイヤルが紹介されるように、自殺に関する映像を公に流すのは、ある種のタブーである。だから本作品を観て、これ、映していいのか?と驚いた次第だ。
安楽死はデリケートな問題であり、賛否が喧しい問題である。自殺の瞬間の場面を見せるのは、当局による取締りの可能性も考えられる。そういう意味では、本作品を製作して公開したのは、勇気があることだと思う。製作陣に敬意を表したい。静かだが、凄い作品である。
迎田良子さんの口癖は「人それぞれ」である。安楽死に賛否両論があることは知っている。自分の場合は、耐え難い痛みから逃れるためには、死ぬしか選択肢がない。もちろん同じ病気でも痛みに耐えて生き抜こうとしている人もいる。否定するつもりはまったくない。人それぞれだ。言外には、安楽死を選択する人間を否定しないでほしいという願いがある。
とてもニュートラルで寛大な人間性である。人格者と言っていい。人格者でも激しい痛みには耐えられない。痛みに耐えて得られるものがあれば、まだ救われるが、ただ耐えて生き延びるだけでは、何の救いもない。拷問に遭い続けているようなものである。
医療は患者の幸せよりも、生命の維持を優先するところがある。しかし患者が望むのは、痛みの軽減であり、生活の向上だ。この差が、医療の不幸を生む。命を助ければいいと考えている医者にとって、死は敵だ。患者を死なせないことが医療の勝利だと思っている。
しかしいかなる生命も、死を避けられない。命を先延ばしにしても、死は必ず待っている。医者の中にはそこを理解している人々がいて、生命の維持よりも患者の尊厳と幸せを考える。ホスピスをはじめとする終末医療だ。
西村匡史(まさし)監督は、TBSの記者であり、生と死を取材し続けている。おそらく終末医療を念頭に置いて、迎田さんに安楽死以外の選択肢がなかったのかを省みたに違いない。最後の言葉には悩み続けている人間の含蓄があった。
ところで、人間の身体の耐用年数は50年ほどだそうだ。50歳を過ぎると、大抵の場合は身体のどこかしらに不具合が生じる。不具合は痛みを伴うから、生活の円滑性が下がってしまう。年寄りがよたよた歩いたり、モタモタするのは、多くの場合、痛いからだ。
痛みのない人には、他人の痛みがわからない。だからモタモタしている人に苛立つ。しかし人間は他人の痛みを想像することができる。ジョン・レノンではないが、優しさは想像力なのだ。医療や安楽死の問題は、想像力をフルに活用して考えないと、独善的になってしまうと思う。
映画「Les filles d'Olfa」(邦題「Four Daughters フォー・ドーターズ」)を観た。
4人姉妹の長女と次女がイスラム国に参加した話だ。どうしてそんなことになったのか。姉妹の母親の独善とパターナリズムがかなり酷い。しかもそれを娘たちに強制する。強制する手段は暴力だ。
母親は女だけの家庭で育ち、男たちから身を守るために暴力に訴えるしかなかったと言う。母親にとって暴力は日常的な手段であって、娘だけではなく、夫にも暴力を振るう。日本ではそんな母親の存在は極めて特殊だが、イスラム教の国々では、割と一般的にあるようだ。
娘たちは母親の暴力の被害に遭いながら、母親を恨んでいない。高度成長期くらいまでの日本の体罰教師が生徒から恨まれなかったのと同じだろう。体罰教師が怒りにまかせた体罰を、愛のムチだと言い張ったように、本作品の母親も、自分の暴力を正当化する。自分が娘たちに独善を強制して暴力を振るうのは、自分も母親からそうされたからであり、それは代々受け継がれる呪いなのだと言い張るのだ。恐ろしいほど身勝手な理屈である。
長女と次女は、母親の独善から逃げ出したかった。自分で考える知能のある人間は、理不尽が許せないし、理不尽な目に遭うことに耐えられない。しかし、イスラム教の国で女性が家族や母親の呪縛から逃げ出す手段はほとんどない。そこに訪ねてきたのがイスラム国の説教者である。
イスラム原理主義は、長女にとって母の独善を完膚なきまでに否定する大義名分であったのだろう。そこにしか自分の未来はないと思い込んでしまうのは、仕方のないことだ。ある意味で長女は難民である。母親から追い詰められて、自由も権利もなく、未来もない。逃げ出す以外の選択肢はなかった。
ドキュメンタリー作品だが、映画を撮る名目で三女と四女と母親に自分の役をやらせることで、上手に本音と事実を引き出している。この手法を使った作品は、はじめて観た。
引き出されたのは悲惨な事実だが、娘たちの本音が、母親の独善とパターナリズムを完全否定するまでには至っていない。なにせ母親はまだ生きている。人格を完全否定しては、母親の人生そのものを否定することになる。家族愛が娘たちの目を曇らせている訳だ。代々受け継がれている呪いが消えるのは、三女と四女の時代になるだろう。酷い話だったが、イスラム教が人々の心を如何に歪めているかを、期せずして炙り出していた。
映画「スイート・イースト不思議の国のリリアン」を観た。
「あなたは美人だから」という同性からの台詞が何度も出てくる。タリア・ライダーが演じる美人のリリアンは、どうやら自分が美人であることを自覚していて、そのせいで人から親切にされたり、もてはやされたりすることが分かっているようだ。
そして、嘘と受け売りと口からでまかせを時と場合に応じて使いこなし、ピンチとチャンスを乗り切っていく。他人に対する思い入れはなく、親切心も同情心も皆無だが、それは周囲の人間たちが担当することであって、自分の担当ではない。
他人の不幸に心を動かされることはなく、恐ろしいほど平常心だ。現代の高校生の女の子であれば、スマホが手元になかったら不安で仕方がないだろうが、リリアンには不安の様子は感じられない。スマホはあれば便利だが、なければないなりに対処する。
自分には美貌があり、演技力がある。同性から美人だと言われても、あまり自分のことを言われることに慣れていないと無自覚を装って、同性からの反感を回避する。親切な異性にはフェロモンを振りまいて、更に親切の恩恵にあずかる。どのように振る舞えば願いが叶い、どんな話をすれば危険な目に遭わずにすむのか、直感的に知っているのだ。
たくましくも無慈悲なヒロインで、観客からすれば異星人を見るような感覚だ。ちっとも共感できないし、感情移入もできないが、価値観が入り乱れた社会を生き延びるには、こういうキャラクターが必要なのかもしれない。美貌とその場しのぎの演技で、親切な人々の頭を踏みつけながら、荒波を渡っていくのだ。
ポリシーのない政治家みたいである。渡った先には、多分何もないが、それでいいのだろう。
映画「ロングレッグス」を観た。
「仏作って魂入れず」という諺がある。一般的には、いちばん大事なものが欠けているという意味だが、では魂を入れるとはどういうことなのか。仏師が自分が作った仏像に魂を入れるところを想像してみる。念仏を唱えるのだろうか。それとも自分の体の一部を切り取って、仏像の中に埋め込むとか。考えると、空恐ろしい気がしてくる。
人形の場合は、もっと不気味だ。もともと人形作りは、人間の複製を作るような禁忌の感覚がある。タブーを犯している後ろめたさと言ってもいい。人形に魂を入れるとなると、更に恐ろしいことになる。
本作品では、軽い金属の球が示される。中は空っぽらしい。空っぽというのは物理的には何も入っていないという意味で、実は人形師が込めた怨念が入っている。この設定はとてもユニークだ。
特殊能力のある人形師をニコラス・ケイジがケレン味たっぷりに演じている。彼のボスは「下の階にいる人」である。「上の階にいる人」は即ち天国という王国の主だから、神だ。ということは「下の階にいる人」はその反対だから、悪魔である。イエスが神の使いなら、人形師は悪魔の使いなのだろう。イエスはひとりだけだが、悪魔の使いは至るところにいるらしい。
悪魔は、悪魔が囁くという言葉があるように、自分の中の悪い心である。冷酷で独善的な利己主義と言ってもいい。そういう心の持ち主が至るところにいると、人形師は主張しているのだ。そしてその主張は正しいと思う。
冷酷で独善的な利己主義者は、世界中に溢れている。僅かな報酬のために見ず知らずの老夫婦を殺す若者、国家のためという大義名分を傘にきて他国を攻撃する為政者、共同体と自分を同一視してマイノリティを否定する差別主義者、そういう人間たちだ。悪魔の使いという呼び方が実に合っている。子どもにスポーツや習い事を強制するパターナリズムの親たちも、悪魔の使いと言えるだろう。
そんなふうに考えると、なんだか身近にもたくさん悪魔の使いがいそうな気がして、怖くなってくる。もちろん、悪い心は誰でも持っている。しかしそれを実行するのは、かなり高いハードルを越えなければならない。簡単に越えてしまう人間が悪魔の使いだ。
悪魔の使いに遭いたくないのはもちろんだが、自分がそのひとりにならないことを祈りたい。誰もがそう願うだろうし、製作者のモチベーションもそのあたりにあるのかもしれない。
映画「劇場版モノノ怪 第二章 火鼠」を観た。
前作の「劇場版モノノ怪唐草」が難解だったのに比べ、本作品はわかりやすい構図だ。前作の鑑賞後に、続編が事情や世界観を明らかにしてくれるのではないかと期待したが、単に続きの物語であった。
愚かな男たちが登場し、父親の愚かさが伝染した娘とともに、大奥に伝わる女たちの情念の犠牲となるが、その辺は途中から予測できた。ただし薬売りの素性は前作同様に謎のままだ。この男はどのようにして薬売りになり、どうやって特殊能力を身に着けたのか。
薬売りの素性がわからないのは登場人物である女たちにとっても同様だろう。しかし女たちは薬売りを信じる。理屈ではなく、おそらく直感なのだろう。女の勘というやつだ。そして女の勘は、大抵の場合、間違っていない。
映像美と上下左右を立体的に動き回るダイナミックな空間表現は、前作と同様に素晴らしい。クライマックスでは何故か上半身が裸になってたくましい体を披露するのも前作同様だ。このシーンに薬売りの秘密がさり気なく表現されているのではないかと、当方は睨んでいる。
映画「Flow」を観た。
素晴らしくよくできた壮大なドラマである。動植物の動きと水の流れの表現はとても迫力があって、たちまち画面に引き込まれる。
中心のキャラクターは黒猫で、なにかにつけてよく鳴く。唸ったり威嚇したりすることもある。ネットにアップされている猫の動画でよく見かける反応だ。同じことは他の動物にも当てはまり、多少の画像の粗さなどは気にならなくなるほど、非常にリアルである。
東京大学先端科学技術研究センターの鈴木俊貴さんによると、シジュウカラの鳴き声には、文章表現が認められるそうだ。鳥はカラスを例に出すまでもなく、知能が高いことで知られている。本作品の大きな鳥は、オリンポスの神々のように自己主張をする。
他の動物たちも、種の壁を超えて、互いにコミュニケーションを取り合っているように見える。どうしても擬人化して受け取ってしまうから、彼らのコミュニケーションの本当のところはわからない。しかし映画の製作者も人間だ。だから観客が想像する内容がほぼ正解なのだと思う。
その内容というのは、世界があっという間に水没して、水中では生きられない動物たちが、あたかも呉越同舟のように運命共同体になってしまうというものだ。そして船と舵の構造を自然に理解し、目的地も判然としないまま、流され続ける。互いに衝突もあるが、生存本能が優先されるから、争いに発展することはない。
人工物の残存もあるから、もしかしたら増水は何度も繰り返されているのかもしれない。人類は既に絶滅して、動植物だけが生き残っている。自然は厳しいが、適者生存の法則は生きていて、本作品の動物たちもいずれ死んでいくが、増水に適した生物が繁栄するだろう。巨大な水生動物は、その流れの中で生まれた突然変異かもしれない。
人間が自然の脅威に晒されたとき、本作品の動物たちのような態度が取れるだろうか。自分たち、自分の国を優先して、他国の人々を見殺しにしないだろうか。ウクライナやガザ地区、中近東の現状を考えれば、絶望的になる。核兵器をちらつかせるプーチンや、死の商人よろしく他国に武器を押し売りするドナルド・トランプの存在は、もはや悪い冗談だ。
武器を持たない動物たちのほうが、よほど賢い気がする。
映画「ウィキッドふたりの魔女」を観た。
プロローグの少女の質問に、すべてが集約されている。
「悪はどこから来たの?」
Part1とPart2でこのテーマを深堀りしていく展開が期待できる気がした。作品のタイトルも「Wicked」(=邪悪)だし。
Part1で最も盛り上がるシーンは、もちろん箒のシーンだ。魔女が如何にして箒を移動手段としたのか、そもそものはじめが描かれる。箒は男根の象徴だとか、いろいろな説があるが、本作品の箒のシーンは自然で、大人も子供も受け入れやすい。
このシーンなくしては、キキが宅急便の仕事をすることはないし、ちょっとおちゃめな女の子のサリーちゃんがやってくることもなかっただろう。VFXの技術なくしては到底描けないシーンだから、ジュディ・ガーランドもびっくりである。
ジュディ・ガーランドといえば、1939年製作の「オズの魔法使い」でドロシーを演じていた。本作品ではドロシーは、後半のどのあたりで登場するのだろう。Over the Rainbow は、歌われるのだろうか。少女が地声で優しく歌うのに向いている歌だから、アリアナ・グランデのオペラ風のソプラノはそぐわない。
21世紀の魔法使いは、ショボくてリアルだ。しかし緑の魔女が世界の欺瞞を一刀両断にして、物語を盛り上げていく。人種差別やLGBT差別などの問題、それに格差と資本主義の行き詰まりなどを散りばめているが、ストーリー展開が世界の終焉に向かうかというと、多分そうはならず、予定調和の家族第一主義に終わりそうな不安がある。
ドロシーの登場と Over the Rainbow の歌唱があるのかを含めて、Part2は期待半分、不安半分だ。半分でも期待を抱かせるのだから、前半は十分に役目を果たしたと思う。
映画「ファーストキス 1ST KISS」を観た。
主演の二人が宣伝していたほど、感動する話ではなかった。同じ坂元裕二脚本の、2021年の「花束みたいな恋をした」に似ていると思った。本作品でも同じように、カップルが思いやりを忘れて、子供みたいな言い合いをするほど、互いに不仲になる。
結婚は、思いやりと感謝で持続するもので、恋愛感情の継続で成り立つものではない。恋が冷めても結婚は続くのだ。そんなことは誰もが知っている。本作品には、思いやりの欠片もない。
同じシチュエーションを繰り返す映画は、タイムループものがほとんどで、タイムループのたびに状況を理解して学び、次の機会に役立てる。ところが本作品では、何度も過去に戻って、そのたびに試行錯誤しても、カンナは何も学ばない。
そもそも45歳のカンナは、どうひいき目に見ても、感じが悪い。15年後にこんなに感じの悪い女性になるのであれば、結婚しようとは思わないだろう。三世(現在、過去、未来)が並行して稠密に存在するというミルフィーユ理論を頼りにして、未来は決まっている前提で展開するストーリーは、強引すぎて心許ない。
「花束みたいな恋をした」に続いて、達者な役者さんが頑張っているのに、全体として不愉快なドラマになってしまった。ひとこと言っておきたいが、結婚生活というのは、本作品で描かれるほど酷くはない。
また、ほぼ面識のないお嬢さんから非難されるほど、妻の役割は義務ではない。ワイシャツにシミがあるから不幸せだという短絡的な見方は、世界観が浅すぎる。リリー・フランキーのアホ教授と吉岡里帆のアホ娘は、演者が可哀相になった。
映画「フライト・リスク」を観た。
面白かった。前知識なしでも、状況がわかりやすいから、すんなりと入り込める。見どころは保安官補のマドリン・ハリスと、バックアップの保安官事務所との電話のやり取りだ。任務に関わる情報の漏洩に気がつくと、誰がネズミなのか、飛行中のセスナ機での緊迫した場面で、ハリス保安官補は懸命に推理する。
誰が本当のことを言っているのか、電話の相手の誰を信用すればいいのか、参考人のウィンストンの話はでまかせではないのか、観ているこちらも疑心暗鬼になる。
メル・ギブソン監督お得意のアクションシーンは迫力があって、臨場感もリアリティもある。主役級が多いマーク・ウォールバーグに、破れかぶれの悪党をやらせているのも面白い。結末はほぼ予想通りだが、ハリス自身のミスで犠牲者が出ており、憾みはのこる。あっさりとした終わり方は、余韻があってもくどさがなくて、とてもよかった。