三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「キャラクター」

2021年06月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キャラクター」を観た。

 本作品にはふたつの物語がある。ひとつは当然サイコパスによる連続殺人であり、犯人を追う刑事たちの物語だ。もうひとつは売れるマンガと売れないマンガの紙一重の差の物語であり、売れずに平凡な人生を送る人々がいる一方、売れて食事をする暇もなくなるほど忙しくなる一部の人がいる話である。そのふたつの物語をひとつのマンガ作品によって上手に融合させて、見ごたえのある映画が完成した。

 中尾明慶が演じた編集者大村の「いい作品はたくさんありますが、売れるのは一握り」という言葉はマンガ業界の真実なのだろう。世の中にマンガ家の卵がどれだけいるのか見当もつかないが、殆どはマンガ家になれずに諦めるという訳である。
 大村は売れていないときの山城圭吾には上から目線でアドバイスするが、一旦売れたら手の平を返すように「先生」と呼ぶ。これもマンガ業界の真実なのだろうが、同じことはマンガ業界だけではなくどの業界でも起きていると思う。所謂「家」がつく職業である。
 音楽でも絵でも詩でも小説でも、愛好している人は沢山いるだろうし、自ら曲を作り絵を画き詩や小説を書いている人も沢山いるだろう。その殆どは世に出ることはない。世に出ないうちは商売人に相手にされないが、何かしらのきっかけで売れた途端に「先生」と呼ばれるようになる。職業が「無職」や「アルバイト」から「音楽家」「画家」「作詞家」「小説家」となるのだ。
 本作品では売れないマンガ家と売れたマンガ家の経済的な差を典型的に表現しているが、同時に、売れても売れなくても同じ個人なのだということも表現している。主人公山城圭吾の変わらない人格を菅田将暉が見事に演じていて、そのブレない演技によって作品の核ができていると思う。同じように圭吾の妻を演じた高畑充希も、夫が売れても変わらないブレない人格を演じている。常識的で真っ当な感覚の持ち主であるこの夫婦のありようが素晴らしい。
 さて、シリアルキラーにも美学があるようで、何かしらを完成させる達成感に喜びを爆発させる。それが普通人が決してなし得ない、恐ろしい行為であればあるほど、彼の満足感は大きい。サイコパスにも売れたい気持ちがあるのかもしれない。
 本作品で両角を演じたFukaseという人は初めて観たが、演技は普通である。彼が怖く見えるのは、その相手をする菅田将暉の怖がり方が非常にリアルだからだ。山城圭吾の存在感によってシリアルキラーの怖さを浮かび上がらせているという構図である。
 存在感と言えば清田刑事を演じた小栗旬の演技も見事である。登場シーンからして凄い存在感だ。一旦登場すると物語はあたかも清田刑事を中心に回っているふうな一面もあった。人間的な厚みも十分で、山城圭吾の彼に対する態度も頷ける。中村獅童をはじめとする脇役陣の演技もリアルで説得力があった。
 荒唐無稽なストーリーを常識的な人々が演じると、リアリティがあるだけに怖さもスリルも増す。恐ろしくて、ハラハラして、驚愕する、そういう映画である。社会に実在するサイコパスやシリアルキラーだけでなく、意外に多く存在している無戸籍者の問題や、世に出ないまま埋もれてしまう才能の話も含めて、奥行きのある立体的な作品になっていると思う。


1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (k-74)
2021-07-01 21:53:55
今日この映画を観てきました。こちらの評を読んでからの観劇でしたが、おっしゃる事を体験しました。実はほとんどこちらで書かれている事を忘れてしまっていたのですが、観た後に再度ここの評を読んでその通りだったと再確認いたしました。ありがとうございます。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。