小松左京が書いた小説で「あれ」というタイトルの短編を読んだ記憶があります。閉塞した社会の中で疲れたサラリーマンたちが次々に「あれ」を目撃します。目撃したことを互いに確認し、「あれ」はもしかしたら時代というものじゃないかというふうな予感を感じつつ終わる掌編だった気がします。
大江健三郎の「遅れてきた青年」は戦争が終わってから生まれてきて、本当なら戦争で華々しく死にたかったのに、意味のない無駄な人生を生きる羽目になったと考える青年が主人公で、小松左京の「あれ」と同様に、やはり閉塞した社会、停滞する時代という息苦しさを表現していました。
大江さんは今年2015年の憲法記念日に安倍首相のことをけちょんけちょんに非難して、日本国憲法を守り、あらゆる戦争法制に反対すると演説したそうです。途中から安倍首相を安倍と呼び捨てにするなど、大江さんらしくない面も出ましたが、演説の内容はごく当然のことを言ったまででした。これがトピックになるほど、いまの日本はおかしくなっているということです。
戦争法案に反対した学生団体シールズの学生の自宅に警察の強制捜査が入りました。ドアをノックすることもなく、窓を強引にこじ開けて入室、捜査令状を見せるように要求すると「関係ねえよ」と言い放ち、結局捜査令状があったのかどうかさえ不明のままです。居合わせた報道関係者には数人がかりで飛び掛り、写真をとられないようにしました。そして部屋の中の物品を押収していきました。強盗となんら変わらないどころか、強盗そのものです。そのうち強盗殺人へエスカレートしそうです。
NHKの受信料の強制徴収を合法化する動きがあります。国営放送を完全に義務化して、行き着く先は明らかです。言論の統制です。
一方で厚生労働省は全国の自治体に自殺対策センターを設置するそうです。冗談でしょうか。
戦前のように権力が暴走をはじめた感があります。特に警察権力の暴走は、直接的に国民に対する暴力となって、波紋のように恐怖が広がっていきます。警察はこの国を恐怖で支配しようとしています。逆らうものはしょっ引いて拷問をするわけです。取調べの可視化法案は見送られてしまいました。映画「少年H」で水谷豊がされたような拷問を、誰もが受けるのです。子供も例外ではなく、警察官は薄笑いを浮かべながら小さな子供を殴る蹴る、溺れさせるでしょう。女性は警察官に強姦されて泣き寝入りです。
戦争を平和と言い換え、武器を輸出するのに防衛装備の輸出といってごまかす政府です。警察も行政の一部ですから、正義のためと言って市民を殴り、家に火をつけ、そして殺すでしょう。精神的な構造は暴力団とほぼ同じですが、警察官には権力と武器があるのでシャレになりません。警察は国民の生命、身体、財産を守るのではなく、国家の利益と権威を守る組織になります。警察に協力しないと殺されるでしょう。協力したら仲間を失い、そしてやはり殺されるでしょう。警察官を見たら人殺しと思わなければなりません。人間は権力を与えられると必要以上に残酷になります。権力と自分を同一化して、逆らう者は容赦しないという精神構造になってしまうのです。
そういう時代が来るのに、自殺対策センターとは悪い冗談としか言いようがありません。死んだほうがましな世の中がまもなくやってきます。働くことは権力に利潤を献上することになりますから、働かないことが反権力となります。そして働かない人間には強制労働が待っています。人間は不幸に対する耐性があります。その耐性を利用するのが権力です。耐えて耐え続けて権力に貢いだ挙句に無残な死を迎えるのがこれからの日本国民の運命となるでしょう。もはや日本に未来がないことを達観して、なるべく早く自殺するのが国民の賢明な選択となるでしょう。準備を急がねばなりません。