記念すべき新年の一発目のタイトルにしてはあまり穏やかではありませんが、朝日新聞のニュースサイトの中で「いじめられている君へ」または「いじめている君へ」と題して何人かの有名人が意見を寄せているのを読んで、どうも違和感を感じてしまったので、ひとこと申し上げます。
http://www.asahi.com/edu/ijime/
それぞれの方々の意見について個別に言及するつもりはありません。ただ、不思議なことにどなたも、どうすればいじめられなくなるかについては何も言っておりません。また、いまを我慢すればいずれ道は開ける、という論調も共通しています。そして誰もが自殺を否定しています。もし私が中学生で、去年の4月からずっといじめられているとしたら、これらの意見を読んで納得するだろうかと考えると、とてもそうは思えません。どうしてでしょうか。
家庭における暴力的な父親は、その家庭を暴力で支配していることは間違いありません。教室でのいじめっ子は、いじめっ子であることで教室を支配していることもまた、間違いありません。いじめられている子どもにとって、いじめっ子は暴力的な父親と同様、支配者の側にあります。そして、この構図を社会全体についても同じだと考えるのです。つまり、地位や権力、あるいは実際の暴力によって社会を支配している人間たちがいる。そういう人間たちによって支配されている社会は、いじめっ子が支配する教室となんら変わるところがないのです。いじめられている子どもは、社会全体が自分を蹂躙していると感じるのです。社会そのものがいじめっ子の側、自分の敵なのです。そんな社会で有名になった人、出世した人たちは、いじめられている子どもにとって、決して自分の味方ではありません。だからそういう人たちから、
もう少し我慢しなさい
決して悪気があってやっているわけではないの
学校に行かなくてもいい、逃げてもいい
家庭でいじめられていたら、家を飛び出してもいい
決して復讐はしないで
しかし自殺しないで
と言われても、虚しく響くだけ、憎悪と敵意を感じるだけです。まるで自分をいじめているいじめっ子の親から、言われているようです。
「ゴメンネ、悪気があってやったんじゃないのよ。だから勘弁してね。仕返しなんか考えないでね。元気を出してね。死のうなんて思わないでね」
そう言われて元気よくうなずく子どもがいますか?
ワタミの渡邉美樹さんがテレビで「殴られて育った子どもは人を殴るようになる」と言っていました。この人がどんな思想の持ち主かは知りませんが、この言葉に限っては、正鵠を得ています。12月2日のブログにも書きましたが、私はこれまでの人生で人に殴られることはほとんどなかったのに、このところ仕事で社長にときどき殴られています。最初はビックリしたものですが、不思議なことに、だんだん殴られることが平気になってくるんですね。殴られても平気になると、人を殴るのに抵抗を感じなくなると思います。自分でも危険だなと思っているので、絶対に人に暴力を振るったりしないように、常日頃から戒めています。何をどう弁解しても、人を殴る人間、人に暴力を振るう人間はクズであることに間違いはありません。そして現代社会はクズによって支配されています。
クズの子どもがいじめっ子になります。いじめられる子どもは暴力的なことに慣れていないので、従わざるを得ず、ここでいじめの構図が完成します。あとはいじめっ子がいじめたいだけいじめる毎日が来る日も来る日も続くのです。いじめられる子どもにとっては地獄の日々と言っていいでしょう。そういう子どもに向かって、もう少し我慢しろとか、人生は長い、いじめられる時間なんてそれに比べればほんの少しの時間だとか、そんなふうに言ってしまうと、言われた子どもは、お前がいじめられていることなんて大した問題じゃないんだ、と言われているように感じます。その無責任さ加減は、公約を守らないことなんて大した問題じゃないんだ、と言ってのけたどこかの総理大臣みたいです。そして、大した問題じゃないように言っておきながら、自殺はいかんよ、と釘を刺します。自殺を考えるのは本人にとって大した問題じゃないんでしょうか? 普通に考えれば、子どもにとって毎日いじめられていることは自殺を考えるほど切実な問題であるわけで、これからの人生が、現にいじめられている毎日に比べてたいそう優っている幸せな人生だと思えるなら、自殺しないでしょう。そう思えないから自殺する。社会に希望がない、執著するものが見出せない、そういう現実を、いじめられる子どもは冷静に見ているのです。だから自殺する。
たとえば宝くじを10万円分も買った人がいます。その人はどんなに不幸な目にあっても、宝くじの当選発表より前に自殺することはないでしょう。数億円の現金はほとんどの問題を解決するからです。
子どもたちにもこの宝くじに該当する何かがあれば自殺しないでしょう。ないから自殺するのです。学校にもない、家庭にもない、社会にももちろんない。
いじめられてる子どもは暴力に慣れていません。だから武器を与えたり反撃を入れ知恵しても有効に使えなかったり、場合によってはいじめっ子の家を燃やしてしまうような極端な行動に走ってしまうでしょう。反撃や復讐を提案するのは有効ではありません。もともとそういうことをしたくない、またはできないからいじめられているわけです。
いじめられている子どもに、支配している側の論理を押し付けてはいけません。いまの体制を肯定することを前提にしてはいけないのです。と言うよりも、社会全体にいじめの構造が蔓延しているわけで、いじめられている子どもの内面の問題ではないことをはっきりした方がいいでしょう。
人間は社会的な動物で、自己の生の充実を生そのものの目的としており、そして生の充実は他者との係わり合いの中でしか求めることができないというややこしくも不幸な生き物です。子どもも例外ではありません。子どもが新しい洋服を買ってもらう。するとどんなにひどいいじめに遭っていたとしても、その新しい洋服を着るまで自殺することはありません。しかし、その新しい洋服を着ても、誰も見てくれないとしたらどうでしょうか? そのときは新しい洋服に袖を通す前に死んでしまうでしょう。
もし子どもに、話を聞いてくれる相手、新しい洋服を可愛いと言って褒めてくれる相手、ゲームをクリアしたらすごいと心から感心してくれる相手がたったひとりでもいたら、その子は自殺することはありません。
大企業優先の政策では、大部分の人が余裕をなくしています。生活に追われ、弱者を振り返ることができない世の中です。誰が子どもの相手をちゃんとできるでしょうか。ごく一部の恵まれた人たちだけです。大人たちに再チャレンジのチャンスなどないのと同じように、子どもたちにも未来はないのです。
下手にありもしない理想の未来を並べるよりも、現実を告げましょう。いじめられている子どもたちは、将来にわたっていじめられるのです。そういう政治ですし、そういう政治家を選んだのは私たち有権者自身なのです。子どもたちに自殺するなと言う権利は、私たちの誰にもありません。