三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「マンマ・ミーア ヒアウイゴー」

2018年08月31日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「マンマ・ミーア ヒアウイゴー」を観た。
 http://www.mammamiamovie.jp/

 面白く、楽しかったのだが、何故か少ししんどかった。

 アマンダ・セイフライドは「レ・ミゼラブル」の成長後のコゼット役で美しい歌声を披露していた。「Fathers and daughters」(邦題「パパが遺した物語」)では、小さい頃のトラウマを抱えたセックス依存症のセラピストというややこしい役を見事にこなしていた。当方が高く評価するハリウッド女優のひとりである。
 本作品では、前編に続いて存分に美声を聞かせてくれたが、アマンダ以上に輝いていたのが若き日のドナを演じたリリー・ジェームスだ。倍音の歌声の持ち主で、聞いていて心地のいい歌を歌う。
 日本映画のクレジットだったら特別出演とでも付きそうなシェールの登場であったが、御歳72歳の歌声はまだまだ健在である。
 ところで、この映画はタイトルが示すように、イタリア語がキーワードの作品である。アマンダ・セイフライド演じるソフィが建て直したホテルの名前はベラ・ドナで、イタリア語に詳しくなくてもベラが美しいでドナは女であることくらいはわかる。そしてドナはソフィの母親の名前でもある。
 女が娘を産み、娘が娘を産む。自分の城を築き、維持し、再生する。旧約聖書の創世記にある、生めよ、増えよ、地に満てよという世界観そのままに、女たちが種の保存の連鎖に邁進する様子を見せる映画なのだ。
 それは人類の存続を何の反省もなしに肯定するパラノ・ドライブ礼賛である。人口が減少に転じた、所謂下山の時代に入った日本の状況下で観賞すると、少ししんどかったのはそういう訳だろう。


シス・カンパニー公演「出口なし」

2018年08月30日 | 映画・舞台・コンサート

 新国立劇場小劇場のシス・カンパニー公演「出口なし」を観てきた。
 http://www.siscompany.com/deguchi/gai.htm

 大竹しのぶ、多部未華子、段田安則のほぼ3人芝居である。脚本はノーベル賞を拒否したことで有名な実存主義の哲学者ジャン・ポール・サルトルだ。
 フランス文学科だったから「存在と無」の原書を仏和辞典と首っ引きで読んだことがある。残念ながら内容は全く憶えていない。翻訳で読んだ「嘔吐」や「悪魔と神」「分別ざかり」のイメージの方がはるかに鮮明だ。
 サルトルは小説も戯曲も彼の実存主義の思考実験のような作品が多く、かといって難解かというとそうでもなく、意外と洒落ていて面白い。
 本は淡々と読んでしまうが、芝居になるとひとつひとつの台詞が情感たっぷりに読まれ、さらに役者の身体全体からもエネルギーが伝播されるので、台詞が力を持つ。力を持つということはベクトルを持つということだから、思ってもいなかった方向に台詞のエネルギーが向かうことになり、場合によっては芝居が盛り上がるし、場合によってはすれ違って勢いをなくすこともある。
 今回の芝居は、三人三様に温度差があり、それぞれの交差が立体的でとても面白く鑑賞できた。サルトルをこんな風に演出するのかという驚きもあった。久々に本棚の隅に眠っているサルトルを取り出す気になった。


映画「若い女」

2018年08月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「若い女」を観た。
 https://www.senlis.co.jp/wakai-onna/

 フランス映画はアメリカ映画と違って、神の概念があまり登場しない。願うことはあっても祈ることがないのだ。祈るというのは自分以外の何かの力に期待することである。アメリカでは神や天使に祈り、God bless you(神のご加護を)という。日本では神仏に祈り、初日の出に祈って御利益を期待する。
 しかしフランス人が祈る姿はピンと来ないし、フランス映画でも祈るシーンの記憶がない。フランスは美を追求する国であるが、同時にリアリストの国でもある。
 本作品の主人公は、所謂世間的な長所をほとんど持っていない。美人でもなく、何かの資格や才能がある訳でもない。その上、自分勝手でおしゃべり、自覚がないから反省もしないという、あまり付き合いたくない女性である。31歳は若いのか若くないのか微妙な年齢で、若い女(原題も同義)というタイトルは思わずニヤリとしたくなるようにアイロニカルだ。実にフランスらしい。
 さてタイトルにも皮肉られる主人公だが、何があってもめげない底抜けに前向きの性格で、景気の悪いパリの街でなんとか生き延びていこうとする。自分に有利であれば口から出まかせも平気な彼女だが、嘘つきではない。
 自分の現在を恥じることなく堂々としている姿は、見ているうちに次第にシンパシーを覚えてくる。世の価値観に惑わされず、悲惨な自分の状況を呪うこともない。金の前に屈することも、金のない人を蔑むこともない。あくまでニュートラルに、世間の尺度ではなく自分なりの判断で生きる。
 経済的なことや仕事のことを考えれば、ミゼラブルな未来しか待っていないような彼女だが、女がひとりパリで生きていくということが不思議な共感を呼ぶ。主役のレティシア・ドッシュは初めて見る女優さんだが、なかなか見事な演技だったと思う。


手嶌葵コンサート

2018年08月26日 | 映画・舞台・コンサート
 有楽町のヒューリックホール東京の手嶌葵のコンサートに行ってきた。
 手嶌葵のコンサートはこれで6回目だ。自分ではそれほどファンではないつもりだったが、6回も行くというのは、それなりに気に入っているからだろう。それをファンというのであればファンかもしれない。
 とにかく歌唱法が独特なのである。オペラ歌手の歌は自分の喉を楽器として演奏しているということらしいが、それでも歌を聴くと、演奏というよりも歌っているように聞こえる。ところが手嶌葵の歌は、本人は歌っているつもりらしいが、歌っているというよりも演奏しているように聞こえる。一切しゃくらずにいきなり出る高音といい、ほとんど息を吐いているだけみたいな低音といい、手嶌葵にしかできない歌唱法だと思う。たぶん天性だろう。
 コンサートではやたらに歌詞を間違える。以前は、間違えると歌い終わってから恥ずかしそうに歌詞を間違えましたと報告していた。今回も間違っていたが、何事もなかったように次の曲にいっていた。毎度のことなのでいちいち報告しないことにしたのだろう。
 今回のコンサート会場はヒューリックホール東京だったが、Googleの予定表に予定を入力したときに、場所の欄にヒューリックと入力すると浅草橋ヒューリックホールが候補に出てくるので、そのまま登録してしまった。そして基本的にGoogleの予定表で動いているので、恥ずかしながら、入力を間違えた浅草橋ヒューリックホールに行ってしまった。中に入るとハロウィンかと思うほど変な仮装をした人ばかりで、手嶌葵の静かなコンサートには似つかわしくない。これはもしかしたらヒューリックホールは別にあるのかと検索したら、ヒューリックホール東京が有楽町にある。財布の中のチケットを確認すると、やはりヒューリックホール東京となっている。
 開場から開演までは1時間ある。電車に乗って余裕で間に合ったが、開演ギリギリに行っていたらチケットを無駄にするところだった。Googleを安易に信じ切っていたことを反省。そして予定だけでなく、その他のことについてもインターネットを安易に信じていることに気づいて、少し愕然とした。気をつけよう。

映画「2重螺旋の恋人」

2018年08月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「2重螺旋の恋人」を観た。
 https://nijurasen-koibito.com/

 いやはや、なんとも凄い映画を観せられたという気分である。観賞前の印象は、公式ページや紹介文から、双子の精神科医とそれぞれに関係を持った女性が主人公の心理サスペンスという感じだったが、実際に鑑賞してみると、サスペンスというよりもホラーな内容で、結構怖い。
 物語は途中まではリアルな感じだが、ふたりの精神科医が双子だと、主人公が知ったあたりから現実と夢と幻想または回想の境目が曖昧になっていく。そして誰が真実を言っていて誰が嘘を吐いているのか、わからなくなってしまう。それはある意味、人生の真実かもしれない。
 疑問はたくさん残る。女にとって愛とセックスは別のものなのか。精神科医は女の欲望さえも操れるのか。結末の意味は一体どういうことなのか。
 私には真相がよくわからないままに映画が終わった感じだが、突き詰めて考える気にはならない。人間というものは、欲望を満たすにも相手が必要だ。承認欲求も、場合によっては愛も、相手が必要である。結局他者の存在なしには欲求を満たせないのだ。禅のような、ひとりで究極まで考察して心理に至ろうとする生き方もあるにはあるが、主人公はまだ若くて、他者の存在を超越する方向には解決を求めない。或いは他者を意識することなしには生きられない。悲劇は他者である双子の精神科医に由来するのではなく、そもそも主人公自身が内包していたと考えれば、この作品の世界観が見えてくる。


『真夏の世の夢~なのでCapricchioso~』コンサート

2018年08月22日 | 映画・舞台・コンサート

 渋谷区文化総合センター大和田4階のさくらホールでの、大岩賞介プレゼンツ『真夏の世の夢~なのでCapricchioso~』コンサートに出かけてきた。
 出演者は野口五郎、荒牧陽子、どぶろっく、男声フォレスタ(4人組)の4組8名。異色の組合せだが、それぞれの得意なパフォーマンスを存分に演じてくれて、結構楽しめた。こんなに楽しいコンサートは初めてかもしれない。


映画「英国総督 最後の家」

2018年08月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「英国総督 最後の家」を観た。
 http://eikokusotoku.jp/

 19世紀以来のヨーロッパの帝国主義は世界各地を破壊し、大量の人間を虐殺することで繁栄を得ようとするものであった。インドからインドネシアにかけてはイギリスが他国に先んじて武力制圧し、一時的にイギリスは世界最大の帝国となった。その強欲さとプライドの高さには華僑もお代官様も顔負けで、取れるものはなんでも根こそぎいただこうとするブルドーザー強盗に等しい。スペインと戦争をしたマーガレット・サッチャーの残忍な顔には、イギリス人のそういった負の特徴が色濃く表れていた。
 さて本作品の登場人物はかつての帝国主義者たちほど強欲ではなく、むしろ帝国主義者たちが残した負の遺産の処理に頭を痛めている。イギリスの最後の総督は人柄も思想も素晴らしいが、複雑怪奇なインドの情勢にたいしてはすべてが丸く収まるような施策はなく、人々が受ける犠牲に心を傷めるしかない。
 宗教的対立と経済的産業的な損得関係という国内的な問題に加えて、イギリス本国のインドの資源に対する既得権益を持ち続けようとする確執もあって、政治的、経済的、社会的な解決は到底難しい状況ではあるが、それでも解決に向かって人々が様々な話し合いを続ける。議論はなかなか合致を見ず、その間にも民衆は対立のための抗争や、あるいは貧困や病気で死んでいく。
 そんな政治的な極限状況と並行して、ロミオとジュリエットを想起させるような恋物語が進むのだから、観客は片時も目を離せない。チャーチルにもガンディーにもネールにもジンナーにも肩入れしないニュートラルな立ち位置の映画で、これを監督したのがインドの分離独立時の民衆のひとりの孫のインド人であるというところが素晴らしい。そしてこれはイギリス映画だ。イギリスの映画人の矜持が垣間見られる傑作である。


映画「スターリンの葬送狂想曲」

2018年08月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「スターリンの葬送狂想曲」を観た。
 http://gaga.ne.jp/stalin/

 スターリンと言えば、独裁者ということと、ポツダム会談で米英の首脳と並んで写る写真のイメージであった。彼の独裁が実際にどのようであったのか、この映画を観て、制作者の意図と共に理解した。
 その制作者の意図というのは、ソビエト社会主義共和国連邦という国が、腐った土台の上に成り立った腐った国家であるという風に描こうとするものである。そしてそれはソ連だけにとどまらない。映画がロシア語ではなく全編英語の台詞になっていることがその証である。つまり権力闘争というものは醜いものである、それはソ連だけでなく英語を話す国においても決して例外ではないということを表現しようとしたのではないかと思う。そしてその意図はかなり成功していると言っていい。
 フルシチョフは英雄視されていた大統領JFKのキューバ危機のときの交渉相手であり、強面で強かな政治家だ。キューバ危機を回避できたのは、若さで突っ走るJFKよりも、フルシチョフの老獪さによることが大きい。その老獪さはソ連の政治局内での権力闘争で身に着けたものだ。思えばキューバ危機は全体主義者同士の争いでもあった。
 権力は必ず腐敗する。そして内政を安定させるために国外に敵を想定する。国家と国民の敵を他国に決めつければ、国家存亡の危機を煽り、一丸となって戦う全体主義の雰囲気を醸し出すことができ、そして権力者としての地位を維持できる。どこの権力者もやることは同じだ。アベシンゾウももちろん例外ではない。
 本作品は権力闘争に勝とうとする人間たちのおぞましさ、浅ましさを描いた映画で、時には暴力も厭わない彼らの姿に身の毛がよだつほどだ。そんなソ連でも良識と良心の持ち主はいて、そのひとりである勇気あるピアニストをオルガ・キュリレンコが美しく演じていた。掃き溜めに鶴のたとえがふさわしい、場違いな美しさが男たちの醜さを際立たせる。相変わらず見事な演技であった。


映画「La Melodie」(邦題「オーケストラ・クラス」)

2018年08月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「La Melodie」(邦題「オーケストラ・クラス」)を観た。
 http://www.orchestra-class.com/

 教師と子供の関係性は、社会のありように強く影響される。軍国主義の世の中ではお国のためにという大義名分の下、どんな理不尽も罷り通る。暴力も暴言も正当化されるのだ。
 同じ図式は企業や学校の部活動などにも当てはまる。利益のため、または大会で勝つためといった大義名分の下、従業員や学生、生徒、児童の人権は蹂躙される。
 最近の国内ニュースで噴出しているパワハラやセクハラの事例は、それらの共同体で軍国主義のパラダイムがいまだに生き続けていることの証左である。
 フランスでは最近になってネオナチみたいな極右の人々が勢力を強めつつあるようだが、一般社会ではトリコロールの示す自由と平等と博愛の精神が当然のように重んじられている。

 さてこの映画では、教師と子供の関係性は、自由と平等を重んじ、互いの人格を尊重する民主的なものである。教師が生徒を怒鳴りつけたり暴力や暴言で恐怖支配するものではない。だから同一目的でまとめるのはとても困難だ。音楽教師シモンも当然その壁に突き当たる。そして最も和を乱す生徒を排除しようとするが、担任教師はそういう生徒こそ、一番大事にしなければならないと言う。その生徒が状況に適合して生きていけるようになるために、音楽を通じて人間関係を学ばせるのが目的だという意味である。
 みんなで苦労した結果、生徒同士または親と教師の、傷つけ合うか合わないかのハラハラする会話も、それを笑い飛ばすおおらかな精神性を獲得したことによって救われる。成長するのは子供だけではない。

 映画ではシモンの演奏が効果的に使われていて、前半で弾くメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲で先ず子供たちの心を掴み、中盤では厄介な父親の気持ちを解きほぐす。
 リムスキー・コルサコフのシエラザードは40分以上の大作である。バイオリンを触ったこともない子供がこの曲を弾くのは、逆上がりもやったことのない子供に難易度の高い鉄棒の離れ業をやらせるくらい難しい。
 そういう意味ではファンタジー映画とも言えるが、この作品のテーマは人の寛容である。そして寛容を維持するための精神力である。偶々のファンタジーを喜ぶのではなく、どこまでも他人の人格を尊重し、そのために寛容であり続けようとする彼らの生き方にこそ、深い意味がある。


映画「オーシャンズ8」

2018年08月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「オーシャンズ8」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/oceans8/

 サンドラ・ブロックとケイト・ブランシェットの掛け合いがジョージ・クルーニーとブラッド・ビットのそれに対応しているのはすぐにわかったが、その他の人物は特に対応させてはいなかったようだ。時代柄、コンピュータの天才が登場するのは当然として、個性的な女性たちが映画のディテールを広げている。
 アン・ハサウェイはお人形さんのように綺麗だが、ただのアホではない。なかなか面白い立ち位置の役柄で、ジェームス・コーデンの見事な演技と共に作品に立体感を与える。この辺の脚本はハリウッドの得意技ではあるが、やはり大したものだ。