三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Resistance」(邦題「沈黙のレジスタンス ユダヤ孤児を救った芸術家」)

2021年08月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Resistance」(邦題「沈黙のレジスタンス ユダヤ孤児を救った芸術家」)を観た。
 
 本作品の一番のハイライトは、橋の下でマルセルがエマを説得する場面だと思う。リベンジに逸るエマをマルセルは押し留め、死ぬよりも生き延びる道を提案する。細部は定かではないが、凡そのやり取りは次のようだ。
 
 奴らにリベンジするのよ。
 非力な自分たちに何ができる?
 何人かは殺せるかもしれない。
 殺してどうなる、どうせ使い捨ての末端だ。
 怒りが治まらないのよ。
 多分奴らは戦争が終わったら拘束される。子供たちを逃せば彼らは家族を作る。
 死んだ仲間たちは?
 彼らがリベンジを望むと思うか?僕らが生き延びることを願うと思わないか?
 
 エマの怒りに任せたセリフに対して、マルセルは人間愛に満ちた迫力のある論理を展開する。こんな説得をされたら、よほどスクエアな人を除いて誰もが納得するだろう。素晴らしい脚本であり、このシーンを演じたジェシー・アイゼンバーグとクレマンス・ポエジーの演技は見事であった。
 
 本作品はアメリカ映画ながら、凡百のハリウッドB級作品とは一線を画していて、様々な叡智がさり気なく鏤められている。その代表はナチスの傀儡政権だったヴィシー政権を皮肉る様子である。ナチスに協力してフランス中のユダヤ人を収容所送りにした政権だ。傀儡政権でも政治権力に違いはなく、警官は権力を傘に着て市民に対して横暴に振る舞う。エマが機転を利かせてやり過ごすシーンが面白い。偉そうな警官がアホなカップルに説教を垂れて立ち去る図式にしたのだ。
 フランス人だからといって全員がレジスタンスという訳ではなく、国民の多くはヴィシー政権を支持し、ユダヤ人を排斥することまでしていた。レジスタンスはほんの一握りだったのである。寄らば大樹の陰という志向は世界に共通するようで、自分が生き延びることを最優先にしたという訳だ。
 
 フランス全土が征服されたとあってはもはやこれまでと、飲み屋ではハイル・ヒトラーに全員が息を合わせる。そこにゲシュタポの高官が来れば、誰も逆らえない。仲間が半殺しにされても見ているだけだ。
 このシーンと似たようなシーンは、実は現在の日本中に遍在していると思う。たとえば体育会の部活における監督やコーチや先輩による暴力である。または精神的ないじめである。体育会に限らない。企業でもプロジェクトチームでも、社長や上長に逆らえず、ひとりが標的にされて殴られたり暴言を延々と浴びせられても、誰も止めずに見ているだけだ。
 
 日本国憲法第14条には、すべて国民は法の下に平等であると書かれてある。指揮系統には基本的に従わなければならないが、それが法に悖る行為の強要であれば、断固として拒否することができる。暴力や暴言は止めなければならない。しかしそれには勇気が必要だ。殴られた人は可哀相だけど口を出せば次にやられるのは自分になる。
 実はそこがおかしい。暴力を止めるのになぜ勇気が必要なのか。世の中がそうであるからだ。そういう教育を受けて育ったからだ。先輩の暴力をみんなが止めるのが普通の世の中にしなければならない。人に暴力を振るうことに誰もが躊躇するようにしなければならない。そういう教育をしていかねばならない。そしてそのための教材は新たに作る必要はない。日本国憲法の中にすべて書かれている。意味不明の道徳教育を課目にした代わりに、日本国憲法を課目にすれば、少しは世の中がマシになる気がする。
 
 フランス人の殆どがナチスに屈してユダヤ人排斥に協力する中で、自らもフランス人でありしかもユダヤ人であったマルセルが、大勢に迎合することなく勇気を出してユダヤ人の子供たちを逃したことが、本作品が示した一番の叡智である。権力に逆らえない現代人への皮肉なのかもしれない。我々がマルセルに、エマになれる日がいつかは来るのだろうか。

映画「ホロコーストの罪人」

2021年08月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ホロコーストの罪人」を観た。
 
 観ていて辛い作品である。第二次大戦時のユダヤ人の受難を扱った作品は何本も観たが、本作品はどういう訳か、登場人物の誰にも感情移入できなかった。
 ユダヤ人家族の描き方に問題があると思う。描かれたブラウデ家は家族第一主義であり、ユダヤ主義である。家族を大事にしているかという説教があり、食事の前の長ったらしい祈りの儀式を後生大事に守ろうとする。愛情よりも形式なのだ。これではこの家族に好意を持つ人はいないだろう。
 しかしユダヤ人でない嫁を受け入れた点を考えても、実際のブラウデ夫妻は映画が表現するようなスクエアな人格ではないと思う。製作者の意図は不明だが、少なくともユダヤ人に対して好意的な描き方ではない。ブラウデ家の人々に感情移入できなかった理由の多くはそこにある。もしかしたらノルウェー人にはいまでもユダヤ人に対する差別意識が残っているのではないか。
 
 何をもってユダヤ人とするのか、いくつか議論があるようだが、少なくとも日本人や中国人がユダヤ教を信じて儀式を完全に行なったとしても、ユダヤ人とは呼ばれにくい気がする。ヒトラーがユダヤ人と呼んだ定義は不明だが、アジア人や黒人は見た目だけでユダヤ人ではないと判断されただろう。白人でも、日頃からヘブライ語を話しているならともかく、ノルウェーに住んでノルウェー語を話す人間をユダヤ人と判断できるのはどうしてなのか。
 このあたりが日本人にはなかなか理解し難いところである。在日の朝鮮人や中国人がいても、日本語を流暢に操れば日本人と区別がつかないし、戦後の日本人には朝鮮人や中国人を差別する意識は殆どないだろう。無宗教の日本人には食事前に祈るような厄介な風習もないから、差別にも繋がりにくい。そもそも隣人や同僚を中国人や朝鮮人ではないかと疑ったりすることがない。在日三世の人たちは日本語しか話せない人も多い。
 
 ところが戦前の国家主義や国粋主義を引きずっている精神性の人間の中には、石原慎太郎のように「三国人」といった発言をする者もいる。2000年4月のことだ。ニュースでその発言を聞いたときは腰を抜かしそうになった。ヒトラーが「ユダヤ人」と言ったのと同じだからである。ドイツで同様の発言を政治家がしたら、政治生命を失うどころか、逮捕すらされかねない。石原は戦後55年を経ても尚、民主主義に首肯しなかった政治家である。不寛容さにかけてはタリバンにも引けを取らない。
 にもかかわらず石原はその後の都知事選で3回も圧勝している。当方はこの結果を見て、東京都の有権者に絶望してしまった。ヒトラーと同じ精神性の政治家に都知事を4期も務めさせたのだ。このことの恐ろしさに気づいている有権者もそれなりにいるかも知れないが、圧倒的多数は気づいていない。同じ精神性の小池百合子が何度も都知事選で圧勝するのがその証拠だ。そして同じような精神性の政治家はたくさんいる。つまりそういう政治家を当選させる有権者が膨大に存在するということだ。無力感に気が遠くなる。
 
 チャールズを演じた俳優がマット・デイモンみたいでなかなかいい。ブラウデ家がまともな描き方をされていたら、この人に感情移入して、本作品を観るのにもう少し気持ちがこもったと思う。
 ただ、連行されて強制労働させられ、裸にされてガス室に送られるのがユダヤ人だけではなく、そのうち日本人もそういう運命になるのではないかという悪い予感はした。パラリンピックの学徒動員を見て、その日はそう遠くないのではないかと思った。

映画「オールド」

2021年08月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「オールド」を観た。
 
 些かご都合主義の作品で、仮にそういう場所が存在したとして、生命活動という点から見るとあり得ない場面が続く。基礎代謝には食物が必要となる訳で、代謝が急激に進むことを考えれば時間的に食物摂取が間に合わず、登場人物はあっという間に餓死する筈である。のんびり対策を話しているヒマなどないのだ。アルツハイマーが進むのに体力は衰えていないなど、考えながら観る人は白けてしまうと思う。映画にもなっているビデオゲーム「バイオハザード」を思い出したが、あちらはもう少し科学的に緻密に考えられていた。本作品は予告編で期待させたところが頂点かもしれない。
 ただ、科学的な部分を全部横に置いて、極限状況における人間性という観点で観れば、面白い作品と言えるだろうか。絶望する人、勇気づける人、傍観する人、何もわからない人などに分かれ、自分のことを優先するのか、家族を優先するのか、それとも全員を救うことを考えるのかなど、この海岸を世界に見立てれば、考えさせられる部分もあった。その意味では全員が死亡するのが人類絶滅を予感させて、よかった気がする。

映画「岬のマヨイガ」

2021年08月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「岬のマヨイガ」を観た。
 
 タイトルにあるマヨイガから、柳田國男の遠野物語に出てくるマヨヒガだろうと見当をつけての鑑賞である。遠野物語が物悲しさの漂う民間伝承であるのに対し、本作品は壊れた心の再生の物語であると同時に、ゲゲゲの鬼太郎みたいな妖怪退治の話でもある。意外に壮大なスペクタクルに仕上がっていた。
 
 大規模な天災地変の被災者は、ある意味で難民のようだ。家は必ずしも家族とイコールではないが、重なる部分が大きい。家と家族を同時に失うと、世界との繋がりが遮断されてしまったような放逐感を味わうことになる。そこに個別の事情が加わる。悲しみの種類は人の数だけあるのだ。
 本作品は大震災の被災者であるユイとひよりが、家と家族を喪失した無力感から、少しずつ精神的な安定と自立を取り戻していく成長物語である。トリックスターであるキワがマヨイガやその他の遠野物語の登場妖怪の助けを借りてユイとひよりを支える。
 一方でゲゲゲの鬼太郎に出てくるような妖怪が、震災で弱ってしまった人々の心の隙間のようなものを栄養にして成長していく。この設定は上手い。悪役は短い間に強大になり、キワと妖怪たちだけが知っている危険な状況は、いよいよ風雲急を告げる。キワたちは勝てるのだろうか。ユイとひよりには何ができるのだろうか。
 
 キワの声を担当した大竹しのぶはやはり大したものだ。この人の声のトーンが、作品そのもののトーンとなっている。以前コンサートに行ったことがあるが、とても味のある声で歌う。11月には「ザ・ドクター」という舞台があるので、大変楽しみである。
 ユイを担当した芦田愛菜も好演。アフレコの様子を思い浮かべながら鑑賞したが、難しい場面で思い切った声を出していて感心した。歌も上手いから、そのうち大竹しのぶみたいにコンサートもやってほしいものだ。

映画「鳩の撃退法」

2021年08月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「鳩の撃退法」を観た。
 
 おそらく原作がよく出来ているからだろうと思うが、本作品はよく出来ている。場面は2つに別れていて、ひとつは藤原竜也が演じた主人公津田伸一が実際に体験した場面、もう一つは津田が想像する場面である。観客は津田の更に後ろに立って、安全な位置からこのサスペンスを楽しむのだが、ときには津田に感情移入して痛い思いをしたり迷ったりする。恐怖に戦いたりもする。これは面白い。
 
 藤原竜也はいつもどおりの演技だが、その自分自身さえ突き放したような淡々とした語り口が本作品にとてもよくマッチしていた。相変わらず上手い役者だ。
 風間俊介は役に合わせてまったく違う演技をする。今回は肚が据わっていながらも、どこかに迷いを秘めている複雑な役柄である。台詞外の意味を伝えられる演技をする貴重な役者だと思う。
 その他の役者陣も概ね好演。坂井真紀の加奈子ママは水商売の人らしい覚悟を感じさせてくれる。編集者の鵜飼なほみを演じた土屋太鳳は、豪快にカップ焼きそばを食べるシーンと、やけに大きく見える胸がゆさゆさと揺れるシーンが印象的だった。主人公のカウンターパートとしての彼女の存在が、小説が成立するかどうかの危うい瀬戸際をうまく表現する。
 
 立体的で多重構造の作品だが、津田の小説家らしい想像力が、展開図をわかりやすく広げてくれる。トヨエツが演じた倉田健次郎の哲学が、作品に深みを与えていた。

映画「シュシュシュの娘(こ)」

2021年08月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シュシュシュの娘(こ)」を観た。
 
 映画としての出来はそれほどでもない。無駄なシーンも多いし、冗長な表現も多い。逆に警察やマスコミが登場しないなどの不自然さもある。予算の問題が大きかったのだろうと理解はするものの、前半はかなりダレる。
 ところが後半になると、俄然面白くなる。ちくわのシーンやタイトルそのものの伏線が上手に回収されていく。テーマは逃げも隠れもせず、安倍晋三による森友学園事件の証拠隠滅を断固として糾弾することである。赤城俊夫さんがモデルの間野幸次を井浦新が好演。この人には以前から反骨精神のようなものを感じていた。
 
 ヒロインを演じた福田沙紀は立派だ。多分本作品のギャラは格安だったと思う。加えて権力批判の作品だ。有名女優は悉くオファーを断ったと思う。そもそもオファーさえできなかったのかもしれない。本人にまでオファーが届けば受けてくれたと思われる心意気のある女優も何人か頭に浮かぶが、それさえもマネジャー止まりだったのではないか。
 で結局お鉢が回ってきたというところだろうが、この役を受けただけで立派である。ただ、もう少しいろんな表情ができればヒロインに感情移入ができたと思うが、本作品はほぼオタクのような印象だった。もし北川景子が演じていれば、作品そのものの印象も変わっただろうが、死んだ子の年を数えても仕方がない。
 
 本作品を観ると、国や都道府県や区市町村にかかわらず、日本全国の役所という役所で公文書の改竄が行なわれている印象になる。実際にその印象は正しいと思う。特に数字だ。結果として欲しい数字になるようにデータを書き換えることなど、日常茶飯事に違いない。
 公文書の隠蔽では、スリランカ人のウィシュマさんが入国管理局の留置場で亡くなった件で、入管が出してきた書類が真っ黒に塗り潰されていたのが記憶に新しい。同じようなことが日本全国の役所という役所で行なわれているに違いない。
 もはや我々にできることは、公文書を改竄、隠蔽しない、情報公開をする政治家を選ぶことだけだが、そういう正しい政治家はなかなか選ばれないし、選ばれても少数派だから政治を動かすことが難しい。終映後に無力感を感じたのは当方だけではないと思う。
 
 こういう映画にちゃんと予算がついて、北川景子みたいな一番人気の女優がヒロインを演じる日が来ればいいと願うが、もしそういう日が来たらこういう映画は必要がなくなることに気づいて、思わず苦笑してしまった。

映画「ドライブ・マイ・カー」

2021年08月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドライブ・マイ・カー」を観た。
 
 シチリア民謡に五木寛之さんが歌詞をつけた「ひとり暮らしのワルツ」という歌がある。早稲田大学のロシア文学科にいたためなのか、歌詞の中に次の一節が出てくる。
 
 タバコをふかして チェーホフなんか読んで
 悪くないものよ ひとり暮らしも
 
 男と別れた女性が男と暮らした部屋に住み続ける心境を歌っている。「悪くない」ではなく「悪くないもの」という表現にしたところに五木寛之さんの工夫があると思う。「もの」が付くことで、俯瞰した見方になる。いろいろな暮らしがあって、どれも悪くないが、ひとり暮らしも同じく悪くないという言い方である。本作品にはタバコを吸うシーンも割と多いし、自然にこの歌が頭に浮かんだ。
 
 本作品はまさにチェーホフの代表作のひとつである「ワーニャ伯父さん」が劇中劇として展開される。チェーホフは大雑把に言えば人生の意味を問いかける戯曲を作っていたので、そういう意味でもこの作品にぴったりだ。ちなみにワーニャはイワンの愛称で、アレクセイがアリョーシャだったりドミートリーがミーチャだったりするのと同じである。英語圏でも同じように愛称が決まっていて、ジェームズはジミー、ウィリアムはビルである。愛称で呼ぶのは平素や親しみを込めているときで、改まったときは正式の名前で呼ぶ。ビル・クリントンは例の不倫騒ぎのときはヒラリーからウィリアムと呼ばれていたに違いない。さぞ怖かったと思う。
 
 セックスは食と同じく人生に必要なものだが、それを正面から捉えようとした映画は少ない。特に邦画は少ないと思う。あってもマイナー作品だ。しかし本作品には西島秀俊と岡田将生という有名俳優が出ている。しかも3時間の大作である。あとは相手役となる有名女優が出演すれば本邦初のセックスがテーマの映画になったはずだが、そうはならなかった。映画にもなったドラマ「奥様は取り扱い注意」のヒロイン綾瀬はるかが西島秀俊の相手役を務めれば最高だったのだが、ちょっと残念である。
 しかし霧島れいかも悪くない。ネチャネチャと音のする濃厚なキスシーンは、そこらへんの恋愛映画が逆立ちしても映せないシーンだ。舌を絡め合う濃厚なキスは、恋愛成就の証であり、セックスの入口でもある。互いに舌を相手の口腔へ入れ合い、歯の裏や口蓋の奥まで舐め合って、溢れる唾液を飲み込めば、心が溶けて脳は興奮の坩堝と化す。
 このシーンがあったから有名女優が出演しなかったのかもしれないなどと考えたりもしたが、必要なシーンだから誰が監督でもカットはしないだろう。濃厚なキスの向こうにあるのは相手の人格だ。しかしである。人は可能性としては誰とでも濃厚なキスを交わすことができる。つまり濃厚なキスやセックスをしたからといって、相手の人格を理解できるわけではない。人は他人によって高められも貶められもするが、他人の生を生きることも他人の死を死ぬこともできない。どこまでも孤独なのである。
 西島秀俊は名演であった。この人にはこういう複雑な人格こそ相応しい。
 
 本作品にはセックス、暴力、肉親との関係性など、多くのテーマが重なり合うように登場する。どのテーマも最後はひとつの結論に収斂していく。人はひとりで生き、ひとりで死んでいくのだ。それを受け入れるしかない。奇しくも劇中劇「ワーニャ伯父さん」でソーニャが最後に語る台詞の骨子でもある。

映画「祈り 幻に長崎を想う刻(とき)」

2021年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「祈り 幻に長崎を想う刻(とき)」を観た。
 
 製作陣の心意気は伝わってくるが、映画としての出来はあまりいい方ではない。ナガサキの直接の被爆者と残された人々の生活、長崎の復興と暴力集団の発生、売春婦の様子などを群像劇的に描こうとしているのだが、逆に散漫になってしまった。予算の関係だと思うが、シーンの多くが演劇的で奥行きに乏しく、60年以上前の時代を感じさせる映像が皆無だったのも残念である。
 
 俳優陣では、黒谷友香は棒読みの割に滑舌が悪く「詩集はいらんね」がどうしても「しゅうはいらんね」に聞こえて「しゅう」は何のことだろうと考えたほどだ。冒頭のシーンだけにこれは痛かった。高島礼子は悪くなかったが、黒谷友香のマイナスまではカバー出来なかった。
 唯一よかったのが、田辺誠一が演じた桃園が戦争について語るシーンで、登場人物に感情移入したのはこのときだけだった。核兵器をなくすよりも戦争そのものをなくしたいと桃園は言う。まさにその通りである。難民問題も、発生した難民の処し方ばかりが議論されるが、難民を生み出した戦争や紛争についての議論が決定的に不足している。
 柄本明はいつもの飄々とした演技。寺田農の議員さんは正直に本音を言い、当時の長崎の政治状況がわかりやすく理解できた。両ベテランの安定した演技と田辺誠一の名演で、本作品はぎりぎり映画としての形を保てた気がする。
 
 舞台は1957年で、前年に成立した売春防止法が施行された年だが、全国に行き渡るには時間がかかったようだ。主人公鹿が昼は看護婦で夜は売春婦をしていても普通に受け入れられている。男も女も煙草を吸い、おおっびらにヒロポンを売買し、ポン中になる者もいた。時代背景は正しく描かれていると思う。
 
 当方はクリスチャンではないが、信者や教会の存在は否定しない。タリバンと違って他人に信仰を強制しないところがいい。親戚や知人の多くは教会で結婚式を挙げたが、クリスチャンは誰もいない。建物としての教会は、雰囲気があって嫌いではない。誰でも入れるように門戸を開いているところもいい。「レ・ミゼラブル」を思い出す。
 
 聖書の骨子は「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という部分だと思う。天にいる神は常にあなたがたの行ないを見ているから、不寛容な行ないをすれば天国で不寛容な処遇が待っているという訳だ。
 しかし本作品にはその寛容さがどこにも出てこない。むしろ不寛容な言葉ばかりが出てくる。その割に聖母マリアに許されようとする。虫のいいクリスチャンである。そういえばアメリカの前大統領トランプもクリスチャンだ。バプテスマのヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と人々に言ってバプテスマを施したが、どうやら現在のクリスチャンは天国を信じなくなったようである。

映画「孤狼の血 LEVEL2」

2021年08月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「孤狼の血 LEVEL2」を観た。
 
 昭和の時代の話だと思うが、ヤクザ映画を観たあとの観客は肩で風を切って歩くと言われていたらしい。男は一歩外に出たら7人の敵がいるという、根拠不明の紋切り型が大手を振っていた時代だ。「男は泣くな」「男なんだからしゃんとしろ」「男だろ、はっきりしろよ」等という言い方が非難されなかった。「俺は男だ」というテレビドラマもあった。
 
 男尊女卑の思想は否定されるべきだが、昭和の文化まで否定することはない。その時代背景で人々がどのように生きたのかを表現することは、どんな時代にあっても重要な活動である。暴力団が実際に存在した以上、社会の暗闇を描くのに登場させない訳にはいかない。登場させるからにはその外側だけでなく、内側も描いてみせたい。そこで「仁義なき戦い」に代表されるヤクザ映画が生まれる。それもひとつの文化だ。本作品には「仁義なき戦い」を彷彿させるニュース風のナレーションがあった。白石監督にも昭和のヤクザ映画に対する尊敬の念があるのだろう。
 
 ただ前作に比較するとマル暴の迫力不足は否めない。というか前作で役所広司が演じた大上刑事の迫力がありすぎたのだ。大上の下で修行していた大学出のエリート刑事が大上の跡を継いで暴力団をコントロールするのは土台無理な話で、本作品は前作でなんとか保った危ういバランスが破綻する過程を描く。吉田鋼太郎が演じた綿船会長の「狼はひとりしかいないんだ」という台詞がすべてである。つまりマル暴の迫力不足は、白石監督が意図したものだった訳だ。
 松坂桃李の演じた日岡刑事は線が細くて、どんなに頑張っても本作の迫力が精一杯だったと思うが、白石監督は逆にその頼りない印象を生かして、暴力団と対峙する危なっかしさを演出する。同じように線の細い村上虹郎とタッグを組んでいるところもいい。破綻が目に見えている。
 
 悪党の上林を演じた鈴木亮平は、努力家らしく腹を括った凄みのある演技が素晴らしい。よく鍛えられた広い背中がすでに日岡を圧倒していた。加えて頭のよさが日岡を断然上回っているところが肝で、経験の浅い日岡を徐々に追い詰めていく。死も破滅も恐れずに残虐の限りを尽くそうとする上林に対して、日岡はどこか腹の括り方が中途半端だ。時代が変わりつつあることを理解せず、大上の理屈にしがみついている。腹の括り方が足りないのは他の警官たちにも言えて、保身が第一の上官たちには日岡を守ろうとする者は誰もない。日岡が漸く大上の時代が終わったことを実感するラストシーンは、とても印象的だった。
 
 上林の怒りは虐げられた者の怒りであり、大変に根深い。暴力のリミッターを外しているから、男も女も子供も犬も無関係に虐殺できる。ほとんど鬼だ。自分に逆らう人間、自分に嘘を吐く人間、自分を殴った人間は、その家族も含めて怒りの対象である。残虐の限りを尽くす上林の姿は、誤解を恐れずに言えば、ある意味で爽快である。上林に撃たれて死にたい気さえした。
 
 終映後、神原刑務官がちゃんと上林によって殺されたかどうかが気になった。見落としたのだろうか。どうせなら最悪に酷たらしく殺されてほしかった。そんなことを考えながら知人に会うと、今日はなんだか怖いねと言われた。もしかすると当方にも上林の怒りが伝染していたのかもしれない。

映画「ドント・ブリーズ2」

2021年08月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドント・ブリーズ2」を観た。
 
 座頭市のような雰囲気がある映画である。もちろん北野武ではなく、勝新太郎のほうだ。背景となる人物を一切出さないので、作品の舞台が寂れて荒涼とした場所に思える。それに格闘場面の接写だ。座頭市と同じように、虚しい闘いをしていることを当事者が自覚しているような感じがする。
 ハリウッドのB級映画らしくどうしても家族がテーマになってしまうが、盲目の老人のタフネスぶりと、悪人は殺せても犬は殺せないという妙な優しさのおかげで、家族第一という世界観は薄れる。ストーリーは意味不明に襲撃してくる集団と老人の闘いだが、終盤になって襲ってきた理由が明らかになる。よくできた脚本だと思う。
 
 娘の役を演じたマドリン・グレースという14歳の女の子の演技が凄い。本作品が映画デビュー作のようだが、怒ったり虚勢を張ったり怯えたり安堵したりの表情が多彩で、特に終盤のおどろおどろしい場面での活躍は見事であった。
 主演のスティーヴン・ラングは69歳。撮影時は68歳だと思うが、身体を見ると歳に似合わない若々しさである。この人の演技も凄かった。目が見えないから視覚による表情の変化を抑制して、他の感覚による表情の変化だけを演じるという難しい演技だったが、まったく違和感を覚えなかった。苦痛に歪む顔にリアリティがある。
 
 前作は鑑賞していないが、本作だけで十分に鑑賞に耐えられる作品に仕上がっている。とても面白かった。