三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

旧態依然の生活指導~パワーハラスメント

2006年07月31日 | 政治・社会・会社

 もちろんたいしたニュースじゃないのはわかっていますが、鹿児島県の中学校バドミントン大会で、眉毛を剃っていたのを理由にすでに終わった試合について、勝ちを負けにされた事件が起きました。7月25日のことです。この事件はいろいろなポイントがあって、分けて考える必要があります。

1.県の中学校体育連盟は大会前にあらかじめ「周囲に不快な感じを与える」格好をしたときは出場を認めないことがある、と各学校に知らせていた。その中には髪を染める、眉毛を剃る、というのも含まれていた。

2.試合が行なわれて団体戦の勝敗が決まった後、負けた方の学校の選手から、勝った方の学校の選手の中に眉毛を剃っているものがいる、という訴えがあった。

3.協議の結果、眉毛を剃っていた選手の試合を勝ちから負けに変更した。

 考えられる問題としては、

 眉毛を剃って出場した選手が問題

 眉毛を剃っている選手を出場させた学校が問題

 負けた方の選手が訴え出たことが問題

 試合前にチェックしなかったことが問題

 試合のルールではないのだから、勝ちを負けにしたことが問題

 競技大会に生活指導を持ち込んだことが問題

 眉毛を剃った格好を「周囲に不快感を与える」とする感性が問題

 と、ちょっと考えただけでもこれだけの問題を列挙できます。さて、事件の本質はどこにあるのでしょうか。

 ファッション(流行)は文字通り流行ったり廃れたりするもので、髪型にしても坊主頭が正しくて長髪が間違っている、ということはありません。そこのところをちゃんと理解して、許容範囲を広くしておかないと、ファッションの変遷について行けず、新しいものをすべて排除してしまうような極端な守旧主義に陥ってしまいます。たとえば髪を染めたりピアスをしたりしている人をスポーツ界から追放したら、かなりの割合で優秀な選手を失うことになります。 そこで今回の事件ですが、髪を染める、眉毛を剃るというのを「周囲に不快感を与える」とする理由はただひとつ、鹿児島県の中学校体育連盟が、髪を染める、眉毛を剃ることに不快感を感じているからに他なりません。2004年に高野連が「ヘアカラーの使用や眉毛の剃りこみ」を禁止するよう、各高校に通達したのとも関係があるでしょう。中体連にしても高野連にしても、染髪や剃りこみがよほど嫌いなようです。
 人間は新しいもの、珍しいものが好きな反面、新しいシステムや現状とは異なる価値観に拒否反応を示すことがあります。それは、体内に異物が侵入したときに体が起こす反応と似ています。しかし体の場合、侵入してきたものは当然体と相容れないものですから、拒否反応は当然ですが、眉毛を剃った選手はどうでしょうか。拒否反応を起こして排除してしまうべきなのでしょうか。

 少し視点を変えて、各人の立場からの言い分を考えてみます。

 眉毛を剃って出場した選手の立場からは、
   眉毛を剃るのはファッションであって、出場させないのはおかしい
   眉毛を剃ったら試合に出場できないとは聞いていない
   スポーツとファッションは関係がない
 学校の立場からは、
   眉毛を剃るのは生徒の勝手であって、学校はそれを禁止できない
   中体連の通達はおかしいので選手に伝えなかった
   眉毛を剃った選手は主力選手で、出場させざるをえない
   試合後に結果を覆すくらいなら何故試合前にチェックしなかったのか
 相手選手の立場からは、
   学校の指示にしたがって、染髪や剃りこみを行なわなかった
   試合中は相手が眉毛を剃っているのに気付かず、試合後に申し出た
   または、相手が眉毛を剃っていたので試合に集中できなかった
 中体連の立場からは、
   髪を染める、眉毛を剃るのは一般的に見た目が変である
   そういう選手を出場させるのは大会の品位を落とす
   通達したのに、出場させたのは学校側の手落ち
   通達に違反していたのだから、試合の結果を負けにしたのは当然
   高野連も同じ通達を行なっている

 だんだん問題の輪郭がはっきりしてきました。各立場によって見解の違いがあり、違いをはっきりさせないまま大会が行なわれて、結局誰もが納得できない結果になってしまったということです。どこかで誰かが妥協しないと、この問題は解決しません。誰も妥協しなければ、こういった大会を開催しないというのが唯一の解決となってしまいます。

 高野連というと甲子園の高校野球ですが、出場不可になった高校もたくさんありまして、その理由は、大半が暴力事件、そして飲酒、喫煙、無免許運転などが続きます。いずれも法律違反が原因です。今回の事件は眉毛を剃っていたという、法律違反とは関係のない、たとえば口紅を塗るのと大差ない行為によるものでした。だからまあ、そう目くじら立てずに、おとなしくバドミントンを頑張っているならそれでいいじゃないか、と思ってしまうんですが、鹿児島県の中体連の方々にとっては、眉毛を剃る、髪を染めるというのがどうしても許せない行為なんでしょうね。眉毛を剃っていたといっても全部ではなく、化粧のプロセスと同じように「細く」剃っていたということと、負けた中学校と中体連の所在地が同じ、ということにはあえて目をつぶるとしても、この中体連の感覚には時代遅れの印象を持たざるを得ません。子供を全員丸坊主にして、背が高い順番に整列させて悦にいるアホな校長のレベルです。戦時中ではないのだから、共同体のために、命を捧げたり人格をスポイルされたりすることはありません。団体のトップ、官庁のトップ、政治のトップ、企業のトップ、そういった人々の感性が、このように旧態依然で狭量であったら、庶民に希望はありません。


「勝ち組」の姿勢

2006年07月29日 | 政治・社会・会社

 放送大学という番組がありまして、7月28日放送の桑原 知子(京都大学大学院助教授)による人格心理学を聞いていたんですが、どこか違和感があって、どうしてなのかなと考えながら聞いていると、ハッと気がついたのが、発音が標準語と違っているんです。あれは京都弁なんでしょうか。テレビでの講義なんてお堅いものなので、標準語が使われるのが当然、という思い込みがあったのかもしれません。もちろん方言を差別するつもりはなく、たとえば津軽弁や鹿児島弁はちょっと聞いただけでは理解できませんけど、だからといって排除されることはありません。しかしテレビの放送では字幕が必要になってきます。最近では標準語で話しているのに字幕を入れたりしますから、それはそれで構わないのかもしれません。NHKの朝の連ドラでは方言が忠実に使われていて、リアリティを裏付ける手助けをしています。
 ただ、地方の人も公の場などでは標準語を使って万人に理解してもらう努力をします。言葉は伝達道具なので伝わらなければ意味がないので、当然のことだと思います。しかし、関西の人だけはそれと少し違うような気がします。大学院の助教授がテレビの講義で関西弁を喋ることにご自身が変だと思わないことが、かなり問題のような気がします。ご飯を食べるのに橋を使ったり、飴が降ったりすると、ちょっと困るわけです。

 ついにというか案の定というか、アメリカ牛の輸入が解禁になりました。政治経済優先のこの政府の決定に、またか、とがっかりするだけならいいんですが、こと国民の生命に係わってくる問題なのだから、もう少しまともに考えてもよかったんじゃないかなと、ないものねだりをしてしまいます。そして、日本政府も変なら、アメリカもかなり変で、駐日している農務省の役人なんか、「全部安全なんて、誰にも言えないだろう?」と開き直っています。日本人が狂牛病で死んだところで何の問題もない、と言いたげでした。輸入が解禁されてしまったら、いくら個人が気をつけていてもさまざまな形でアメリカ牛が口に入ってしまうことくらい、日本人はみな知っているわけで、食べる食べないを消費者自身で決定できないところにこの問題の重大さがあるのに、政府は誰もそこのところを知らせず、しかもマスコミも厚生大臣に「アメリカ牛を食べますか?」なんて馬鹿な質問をして「立場上食べます」とこれまた馬鹿な答えをそのまま放送するアホさ加減なんで、日本はもう終わった国といってもいいと思いますね。

 明治安田生命なんて保険会社がいまだに存在し続けていること自体、日本の管轄官庁の腐敗を物語っていますが、その保険会社が臆面もなく営業活動、販売促進を行なっていることが非常に腹立たしいことだと感じている人は多いと思います。実は保険会社はみな同じ体質でして、保険料をできるだけたくさん集める、保険金はできるだけ支払わない、の2点を目標に事業を行っています。営利目的なんだから当然なのかもしれませんが、たとえば私たちがレストランを利用するとき、支払う金額に相応しい料理やサービスを期待します。そして期待通りなら満足、期待を大きく上回った場合は感動、ということになります。レストランとしては利益も追求しますが、顧客を満足させなければ継続的な利益はない、と知っているからそれなりの努力をするわけですね。これを対価という言い方をします。お客にとっては料金の対価が料理とサービスその他で、逆にお店にとっては料理とサービスその他の対価が料金となります。これが普通の商取引ですね。ところが、料金を取られたのに料理が出てこなかったら、それはおかしい。普通に考えれば、詐欺ということになります。おなじことで、保険料を取るだけとって保険金を支払わなければ、やっぱり詐欺です。保険金不払いの保険会社は詐欺で立件されなければおかしい。社長はじめ取締役の何人かは刑務所送りになって初めて政府の存在意義があります。
 しかしむろんそんな厳しい処分はなくて、保険会社各社は相変わらず詐欺まがいの営業活動を続けています。30年位前に「保険に入るのは金をドブに捨てるのと同じ」と言った人がいましたが、けだし名言です。保険会社の姿勢はいまも昔も変わらず、保険料は徴収すれども保険金は支払わず、を至上の目標としています。こういうのを「やらずぼったくり」と言います。
 「量は質に転化する」と言ったのはマルクスですが、企業も巨大になっていくと利益追求のほかに果たすべき社会的な役割や責任を背負うものです。しかし経営者にそういった意識は毛頭なく、相も変わらず利益、利益と、アメリカ人と同じことを言っています。

 こういった人たち、関西の助教授もアメリカの農務省の役人も保険会社の人たちも大企業の経営者、新興のIT社長たち、みな同じ姿勢なんですね。「勝ち組、負け組」と人や企業を分類して「生き残り」に全力をかけている拝金主義者の姿勢です。「生き残り」って、あんたどれだけ儲ければ「生き残れる」と考えているの?と、聞きたいくらい儲けている人たちもいますが、そういう人たちはさらに儲けようと必死です。どうして?


CMカット

2006年07月28日 | 政治・社会・会社

 このブログ人もそうなんですが、広告宣伝が多い! たとえば「ダイエット」というカテゴリで、いろんな人がいろんなダイエットに取り組んでいるのを読みたいと思って見ますよね、すると半分くらいがダイエットに関するブログ風の広告ページなんですね。この「ブログ風」というところが悪質なところでして、いかにも広告なら見るか見ないかはすぐに判断できますが、中身を見てみないと広告なのかどうかわからないところがよろしくありません。
 昔、「CMカット」を売りにしたビデオデッキが発売されたことがありまして、私も使っていました。番組のほとんどがモノラル放送なのに対してCMのほとんどがステレオ放送であることを利用した画期的な商品で、ずいぶん役に立ちました。ちなみにそのときに気がついたことがひとつありまして、生放送以外の番組では、CMの前と後とで同じところを放送しているものがあるんですね。これは番組→CM→番組という流れの中で、視聴者の意識が注目→弛緩→注目と切り替わるのにタイムラグが生ずると考えたからなんでしょう。放送をそのまま見ているときは気がつかなかったのに、ビデオにとって見ると、CMをはさむところで同じ場面が二度繰り返されるのにすぐに気づきました。少し変な感じはしましたけど、CMをカットできるのはすごくありがたかったので重宝しましたね。
 というわけで、ブログのサイトもCMカットの機能があれば非常にありがたいんですが、どうでしょうか。そういうのをフィルタと言うんでしたっけ。昔だったらフィルターと書くところです。コンピュータも昔はコンピューターと伸ばしていましたが、最近は伸ばしませんね、エンターテイメントも最近はエンタテインメントで、どうもややこしい。そういえばベトナム戦争の最中に、ヴィエトナムなんて書き方をするなと怒っている人がいました。原語の発音からするとベトナムまたはベトナンが近くて、ヴィエトナムなんて書くのはスペルを英語圏式に読んだ読み方で実にけしからん、といったような内容でした。
 フィルタという言い方もあまりピンとこなくて、どちらかというと古い日本人には「ふるいにかける」という言い方のほうがわかりやすく感じますね。しかしたとえばエクセルと使うと「フィルタ」とは書かれていますが「ふるい」とは書かれていません。「フィルタを設定する」というふうに書く。ま、これくらいは理解できますが、エクセルといえば、使い方がわからないときにヘルプを見ても、難しいコンピュータ用語の連発で、尚更わからなくなります。クエリ、ピボットテーブル、スプレッドシート、OLAPデータベース、パラメータ、オフラインキューブファイル等々、なんですかあ?と、叫びたくなるような用語が並べ立てられていて、まったくわかりません。
 時代の流れは言語の変遷でもあって、言語に正しいも正しくないもなくて、みんなが使っていてちゃんと伝わるものなら、それが正しい言語になっていきます。たとえば「ません」という語尾に「でした」をつけて丁寧語とするのには、私なんかはいまだに抵抗を感じますが、わりと皆さん普通に使っていますよね。「申し訳ありませんでした」という言い方に違和感を覚えない。むしろ「申し訳のうございました」なんて言うと変に感じる人がいるかもしれません。携帯電話は最初の頃は「端末」と呼んでいました。それが「携帯」になり、今では「ケータイ」か「ピッチ」ですよね。「彼氏」も昔の発音は「秋田」と同じ発音でしたが今では「カレシ」になって「渋谷」と同じ発音になりました。別に秋田と渋谷を比較して昔と現代と言っているわけではありません。念のため。
 だからマイクロソフトが難解なコンピュータ用語を連発するようなヘルプを作っても、それは時代の流れなんだと、使う側がもっと勉強しなければならないんだと、そういう言い方ができるでしょう。私は閲覧に情報網探検隊を使っていますと書くと誰もわかりませんが、私はブラウザにインターネットエクスプローラーを使っていますと書くとみんなにわかります。だからクエリもピボットテーブルもそのうち日常的にみんなが使う用語になっていくのかもしれません。しんどい話だなあ、と思ってしまいますけれども。
 ブラウザがブログの記事をふるいにかける機能を持つのはおそらく当分無理な話でしょう。だからタイトルとブログ名からCMであるかないかを判断するしかありません。しかし、CMのブログは同じ契約者である限りずっとCMのブログですから、サービス媒体(ブログ人の場合はNTTコミュニケーションズ)が判断してマル囲みの「CM」マークをつけてそのブログがCMであることを明記するとかそういうことをしてほしい、なんてのはやっぱり無理な注文なんでしょうかね。CMのブログであろうがなかろうがサービス媒体の企業にとっては大事なお客さんだし、内容によって区別すると非難を浴びそうだし、時間的物理的にも困難だし、なんだかんだでおそらく無理でしょうね。でも無理とはわかっているけれども、なんとかならないものかと思ってしまいます。ブログ人のナビゲーションサイトが「CMあり」と「CMなし」のどちらかを選べるようになっているとか、それこそ各パソコンのブラウザに「CMフィルタ」機能があるとかね。
 インターネットの情報量は膨大だからどうしても「ふるいにかける」作業が必要だけれども、その作業が大変だからついつい検索エンジンのフィルタに頼ったりしがちです。すると必ずしも求める情報が得られるとは限らない。何十億もホームページがある時代だから、ブラウザにフィルタのカスタマイズ機能がほしいですね。


男の料理?

2006年07月27日 | 食・レシピ
 男が料理するときに必ず作るのはどういったメニューなんでしょうか。思いつくままにあげてみると、カレーとスパゲッティ、ステーキ、トンカツ、オムライス、から揚げ、ビーフシチュー、チャーハン、ピラフ、炊き込みご飯、てんぷら、各種丼もの、サラダ、焼き魚、煮魚、中華風の炒め物、そういったものでしょうかね。
 テレビでタモリさんも言っていましたが、私も男の料理のご他聞に漏れず、材料や調味料を量ったことがありません。私の推測なんですが、お菓子を作るとき以外は、たいていの人は図らないんじゃないでしょうか。お菓子を作るとき以外というのは、お菓子だけはちゃんと材料を量らないととんでもないものができるので、不本意ではあるけれども、ちゃんと量って作るわけです。
 たとえばお店で大量にソースを仕込む場合は、もちろん材料をすべて量ります。そうしないとソースの味がぼやけたりまちまちだったりして、定番のソースではなくなってしまうからですね。しかしメニューにないけれど作れそうな料理をお客さんが頼んだ場合、よく中華なんかでは、材料を言って、あれとあれをオイスターソースで炒めてよ、あと適当に野菜も入れてね、なんて言いますが、そういうとき中国人のコックさんは笑顔で頷いてぱぱっと作ってくれます。材料を量ったりしません。調味料も適当にぶち込んでさっと鍋を一振りして、ハイ出来上がりといって出してくれます。これがまた例外なくおいしくできるんだから、やっぱり中国人は料理がうまいなあ、と感心するわけですが、それはさておき、料理本のレシピにはちゃんと分量が載っています。しかしその通りに作る人がどれだけいるかというと、どうなんでしょうか。
 私の場合は一応レシピを見るけれども、おおよその流れだとかイメージだとかがつかめた段階で、あとは自分の勘というかセンスというか、そういうものを信じて作っちゃいますね。分量は適当です。そして2回目からはレシピをまったく参照せずに1回目の出来上がりから改善点を見つけて作ります。すると何回も作るうちにだんだんおいしくなってくるし、材料や調理法にいろいろな応用が利くようになる。それに小技も身についてきます。この小技というのが料理においてはかなり重要な要素でして、小技の集積が皿の上に載ると言っても過言ではないくらいです。
 たとえば大根を煮るのにも、皮を厚く剥く、面取りをする、隠し包丁を入れる等の小技があります。プロの料理人はそういった小技を手早く正確にまんべんなく行なうので、お金の取れる商品になります。素人が大雑把に作った料理との違いがそこにあります。
 とはいうものの、違いを食べて見分けるのは意外に難しいものです。人間の舌は細かい味の違いを感じることができる一方で、大まかな面もあり、たとえば二つのハンバーグが出されて一つはこの道30年のプロが作ったもの、もう一つは家庭の主婦が作ったものというとき、意外にどちらがプロのハンバーグなのか、見極められないものなのです。料理でなく食材からして、キャビアの高級なのと普通なのと二つ出されても、どっちがどっちなのかわかりません。人造のキャビアさえもわからないことがあります。味覚って、案外いい加減なんですね。
 だから小技にしても重要な小技とそうでないものがある。魚をさばくときに水でよく洗わないと血が回って生臭くなるし、かといってイカなんかは洗ったら身がボロボロになってしまうし、そういったことは必ず知っておかないと料理ができないほど重要な小技ですよね。しかし豆腐を手でちぎって入れるとか、胡麻を振るときに指先でひねって香りを出すとか、そういったことはやってもやらなくてもそんなに違いはありません。プロの料理人は「いや違う」と言うかもしれませんけど、食べるほうからしてみるとそんなに変わらない。
 要するにおいしさの基本の材料、脂肪とアミノ酸、糖が入って、あとは塩味や辛味酸味苦味のバランスがよければ、おいしいと感じてしまいます。これは味の部分ですね。食感という面から見ると、気をつけなければならないのが、やりすぎということです。焼きすぎ、茹ですぎ、煮すぎ、蒸しすぎ、揚げすぎ、多すぎ、そういったことは徳川家康じゃありませんが、足りないのと同じでおいしくありません。プロの料理人はやりすぎもなく足りないこともなく、ちょうどいい感じで料理を仕上げます。
 おいしいトンカツ屋さんに行ってヒレカツを頼むと、テーブルに届いたときは真ん中あたりがまだ少し赤い色をしています。で、端っこから食べていくと、そのうちに余熱で火が通って、真ん中を食べる頃には赤味も消えてちょうどいい具合になっていて、しかもちゃんと火が通っているという絶妙な揚げ加減で出してきます。見事です。
 から揚げを何度も揚げてみて気がついたのは、から揚げもトンカツと同様、油から出しても余熱で火が通り続けるということです。最初はそれを知らなかったので、しっかり火が通るまで油で揚げていましたが、どうしても色が黒くなるし、食べると硬い。で、気がついて火が通る寸前に油から出すようにしたんですが、これが難しい。早めに出したようでもまだ揚げすぎで硬かったり、逆に早すぎて真ん中が生だったりしました。でも何度もから揚げを作っているうちに、肉の温度、油の温度と量によって、ちょうどいい加減がわかってきました。これがタイミングということです。
 プロの料理人が作るのを見ていると、微妙にタイミングが早い。たとえば中国人のコックさんが青菜の炒め物を作ると、えっ、もういいの?というタイミングで出してきます。下茹でも、さっと熱湯をくぐらすだけみたいな感じですし、炒めるのも、にんにくとしょうがを先に炒めて香りを出したらすぐに青菜を投入、スープをふりかけて塩こしょうしたらちょっぴり片栗粉でとめて、ネギ油を回しかけて鍋をさっと一振りでもう出来上がりです。食べると、火はちゃんと通っているのに青菜がくたっとし過ぎていなくて、とてもおいしい。家で作ろうとするとやっぱりあの強烈な強火がないので、同じようにはできません。下茹でするのに大量のお湯に少量の油と塩を入れること、厚手のフライパンを十分に熱してから炒めること、の2点を実行したら、ある程度はお店の青菜炒めに近いものができました。ずっと時間がかかりますけどね。
 よく知られている料理の小技のひとつに、ステーキを焼くときは肉を常温に近づけておくこと、決して冷蔵庫から出してすぐに焼かないこと、というのがあります。ステーキについては道具が大事で、テフロンのフライパンに比べると、ステーキパンを使ったほうがずっとおいしくなりますし、ステーキハウスのように鉄板で焼くとそれはもう肉のランクが上がったんじゃないかと錯覚するほどおいしく焼けますよね。逆に言うと、グラム1,380円の、町の肉屋では最高ランクの黒毛和牛でも、テフロンのフライパンで焼いたら、安い肉並みの味になってしまうということです。これはかなり悲しい。
 ということで、道具をそろえて、脂肪、アミノ酸、糖がすべて揃うように準備した材料をたくさんの小技を使って下ごしらえし、塩味辛味酸味苦味甘味をバランスよく味付けして、タイミングよく仕上げれば、料理は常にうまくいきます。当たり前ですね。
 食材にしても、料理の小技にしても、とにかくたくさんあるので、おいしいものを作ろうとするとかなり頭を悩ますことになりますし、誰もが何度も失敗をして自ら教訓を得ることになるでしょう。料理は奥が深い。定年後に料理教室に通う男性がたくさんいるそうですが、いいことだと思います。しょっちゅう料理を作っているとボケないでしょうね。


愛国心は必要か?

2006年07月25日 | 政治・社会・会社

 パトリオットミサイルという名前をはじめて聞いたのは、たしか湾岸戦争のときだと思いますが、パトリオット=愛国者というのはトム・クランシーの小説『愛国者のゲーム』で知っていました。この小説に登場する愛国者はIRAのテロリストでしたけれども。
 テロリストというと破壊活動、暗殺活動を行なう人たちだと思っていましたが、ちゃんと辞書を調べてみると、テロリズム=恐怖政治、テロリスト=恐怖政治家となっていまして、恐怖政治というと高校生の頃に世界史で習ったフランス革命後のロベスピエールらによる恐怖政治を思い出しまして、さらに調べると、恐怖政治はフランス語でTerreurであり、テロという言葉の語源であるとのことです。テロがテロリズムの略だと思っていましたがそれは誤りでterror(=恐怖)という言葉が先にあったようです。どうしてこういうことを調べたかというと、ホラー映画を調べていまして、そういえばホラー映画とは言うけどテラー映画とは言わないな、そもそもホラーとテラーはどう違うんだろう?ということから始まったわけです。ホラーもテラーもどちらも「恐怖」という意味だとは知っていましたが、テラーとテロ~テロリズムが同じだというのは私の中では結びついてはいなかったので、辞書を引いてみて少し驚いてしまいました。
 さて再びトム・クランシーの小説『愛国者のゲーム』ですが、主人公を狙うIRAのテロリストが同時に愛国者であるという設定が別に不思議でもなんでもないところがこの小説のリアリティの所以なんですね。愛国者は同時にテロリストでもありうる、ということ。もちろん愛国者がみんなテロリストである、とは言えません。しかし逆はどうでしょうか? テロリストはみんな愛国者、そういわれればそうであるような気がします。殺し屋もテロリストと呼ぶ場合がありますが、英語ではだいたいhitmanヒットマンと呼ぶみたいです。ちなみにこのヒットマンは企業においては費用や人員の削減など、非情な仕事を肩代わりする人のことも言うそうです。
 テロリスト=恐怖政治家と考えれば、テロリストは押しなべてみな愛国者、ということができそうです。算数で習った必要十分条件で言うと、テロリストは愛国者であることの十分条件であり、愛国者はテロリストであることの必要条件であると、そうなります。印象に過ぎないのかもしれませんが、アラブ諸国のイスラム原理主義者たちのテレビ等の映像を見る限り、アメリカ人などよりもずっと熱狂的な愛国者であるように見えます。自分たちの文化を守りたい、自分たちの風俗習慣信仰を守りたい、自分たちの国家とプライドを守りたい、そんなふうに見えます。見えるだけかもしれませんけれども。
 印象だけを比較するなら、日本人は愛国心の薄い民族に見えてしまいます。もともと表現方法の違いということが文化としてあります。わかりやすく言うとアラブ人が「動」なら日本人は「静」で、あちらの表現方法が体を動かす、声高に叫ぶ、拳を振り上げる、といった動的なものに対して、こちらはじっと座って、静かに語り、婉曲な物言いをする、といった極めておとなしい静的なものです。それは日本人の「距離感」に由来するのかもしれません。
 他人と会話するときの顔と顔との距離、これは親しさの度合いにも国民性にも左右されます。よく、パーソナルスペースなんて言い方をしますが、自分の守るべき範囲ですね、ここに他人が入ってくると警戒態勢になる距離のことです。日本人の場合はそれがかなり広いようです。初対面の相手との距離は、日本では最低でも互いにお辞儀ができる距離以上ですが、アメリカではたぶん握手ができる距離以下なんでしょう。日本ではある程度距離を置いて、ちゃんと聞こえる程度の声で話すことが礼儀正しいとされています。近すぎたり、声が大きすぎたりすると、下品だとか厚かましいとか思われてしまいます。
 だからたとえどんなに愛国心のある人でも「俺は日本を愛しているぞ」とは叫びません。しかし他の国の人の中には叫ぶ人たちも大勢います。だからといって日本人もそういった表現をしなきゃならん、とは誰も思いませんよね。かつて「日本は天皇を中心とした神の国だ」と発言した総理大臣がいましたが、それなりに問題になりました。政教分離の原則に反するとか、国民主権を否定するものだとか言われましたが、当の総理大臣の人柄から察するに、発言の舞台が神道政治連盟の会合だったことからして、単純に組織におもねる発言をしただけなんでしょう。愛国心の発露でもなんでもなかった。だから、彼がその発言をしたとき、「あ、やっちまったな」とは思いましたが、違和感は覚えなかった。
 もし彼が「私は日本国を愛しています」と大声で叫んだのであったら、それは違和感を覚えたろうと思います。日本人には公衆の面前で自分の気持を大声で吐露する習慣はあまりなく、もしそんなことがあったら、聞いているほうが恥ずかしくなるというものです。愛の告白は小声で言うほうが真実味があります。
 愛国心の強い日本人もいることはいるが、あまり表立って表現することはない、という認識がないと、「日本人は愛国心がない、どうしてもっと国を愛せないのか?」という発想になってしまったりします。
 ところで、そもそも愛国心というのがどうして必要なのか?
 泉谷しげるさんが昔「国旗はためく下に集まれ」と歌っていました。私が通っていた当時の高校では大はやりでしたね。「愛国心」とは対極のところにあるような歌詞で、あれが好きだった私たちには「愛国心」はなかったのかもしれません。
 愛国心というのは、たとえば校庭や訓練場に生徒または兵隊を並ばせて「右向け右、正面に敬礼!」と号令をかけさせて、壇上から返答の敬礼をしたい人たちがいますよね、そういう人たちが大好きなもののような気がします。
 北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのご両親、滋さんと早紀江さんは、あれだけのひどい目に遭っていながら激することもなくご自分たちの考えをいつも冷静に述べられていて尊敬に値しますが、お二人の口から「愛国心」という言葉が出ることはなく、それも当然のことで、拉致問題と日本人の愛国心とは別の問題だからです。
 拉致問題は愛国心などという小さな問題とは違って、人権という、いかなる共同体においても共通の基本的な問題ですから、愛国心のあるなしに係わらず解決しなければならない問題です。それがどうも、タカ派の政治家、評論家、フリージャーナリストたちが絡んできて、話がややこしくなっています。なんとかならないものかね。
 靖国神社の参拝問題に関して、天皇のメモが見つかったとかで騒いでいましたが、ここでも問題にされなかったのが、靖国参拝のそもそもの動機が何なのか、ということです。遺族会の票集めのためなのか、それとも本当に愛国心があって参拝するのか知りませんが、そもそも愛国心というものが本当に必要なのか、ということについては、なぜか一度も議論になったことがありません。
 別に愛社精神がなくても会社で働けるし、愛国心がなくても住民登録をして税金その他の公共料金をお上に支払えば、ひとりの国民でいられます。世の中はもともと、たいていの場合醜い欲望を原動力として動いているわけで、それをいい言葉で飾る必要があるのは円滑な人間関係を形作る上で仕方のないことと納得せざるを得ませんが、飾りだったはずの「愛国心」や「愛社精神」そういったものが一人歩きしていわば「信仰」の対象となってしまっている部分があります。
 カルト教団と同じ構造なんですが、あまりに一般的な教条なので誰も気がつきません。カルト教団の信者が「どうしてうちの教祖を拝まないのか?」と世に問うたら、頭がおかしいのかな、と思ってしまいますが、「どうして愛国心を持たないのか?」という発言を聞いても、頭がおかしい人の発言だ、とは思いません。しかし実は同じなんです。
 たとえば他人が「いやあ、うちの会社は最低の会社です」などと言うのを聞くと、自分の会社なんだからそんなふうにひどく言わなくても、と思ってしまいますよね。または、だったら、辞めればいいのに、とか。この心理が、実は愛国心と同じ構造の心理なんです。娘のことをけなした父親に対して「自分の娘をひどく言う父親がどこにいますか!」と非難したりしませんか? 「両親を尊敬しています」と言う若者を「立派な若者だ」と感じたり、「両親を尊敬しなさい」と子供に言ったりしていませんか? 外国人から日本を批判されたら頭にきませんか? そしてこれらの心理を当然だと思ったりしていませんか?
 構造的には、

「自分の国を愛するのは当然のこと」と考える心理、

「誰もがうちの教祖を拝むのは当然のこと」と考える心理、

「家族を愛するのは当たり前」と思う心理、

みな同じです。

「尊師を拝みなさい」と言うカルト教団の信者の心理は「日本を愛しなさい」という愛国者の心理と構造的にはなんら違う点はありません。

 他人から自分の親または子供を批判されたら、誰しもあまりいい気持はしません。かなり不快に感じたり、憎悪したり、あるいは批判した人に対して暴力行為を行なったりするかもしれません。実はそれは戦争行為となんら変わるところはないのです。
 トム・クランシーの小説に出てきて戦争を行なう登場人物たちはみな、家族思いの人ばかりです。家族思いの心理が戦争につながるのですから、人間というものはそもそも救いのない存在なんですかね。


『ワンダと巨像』

2006年07月22日 | アニメ・コミック・ゲーム
 ソニーコンピュータエンタテインメントから発売しているPS2用の『ワンダと巨像』というゲームをやっています。
 今月の初めに『ICO』というゲームをやって面白かったので、ソニーの同じチームが製作したということで買いました。『ICO』が城から脱出するだけだったのと同様、『ワンダと巨像』は『巨像』を倒すだけのゲームなんですが、『ICO』の世界観が継続していて、その意味でも楽しめます。買った価値はありました。
 やってみる前までは『巨像』を『巨象』と勘違いしていまして、しかも一体の象とずうっと戦うゲームなのかと思っていましたが、そんな筈はなく、いろいろな『巨像』が出ていて、それぞれに特徴や弱点があり、それを考えながら死なないように戦っていくゲームでした。操作性や視点移動が若干難しい点がありますが、『ICO』同様に主人公が驚異的な瞬発力と持久力、耐衝撃性を持っていて相当無理が利くところが、操作性その他の難点を補い、全体としてバランスが取れています。『ICO』並みの評価をしていいと思います。
 さて、『ICO』並びに『ワンダと巨像』の世界観ですが、時代は武器が剣と弓、乗り物は馬という時代ですね。言葉を喋っているので原始ではありませんが、近代でもないというところです。
 『ICO』の場合は、13歳になったある日突然頭に角が生えた少年ICOが、共同体の掟によって生贄として捧げられて、ずらっと並んだ箱のひとつに押し込まれますが、折から起こった地震によって、箱から放り出され、そこで見つけた白い少女とともに懸命に城を脱出しようとする物語で、仮に脱出できたとしても元の共同体には戻れないわけで、それでも生きていくために出口を求めてさまよいます。
 『ワンダと巨像』は、理由はわかりませんが主人公ワンダは、ある死んだ娘さんに蘇ってほしくて、娘さんの遺体を持ち出し、死者を蘇らせる力を持つという魔物が封印された、訪れてはならない土地を訪れ、魔物の言うがままに、ひとつひとつ巨像を倒し、封印を解いていきます。封印を解き終えたあとの自分の運命や、もし蘇らせることができたときの娘さんのその後がどうなるのか、ワンダにはわかりません。とにかく巨像を破壊していくのです。『ICO』と同じようにやはり共同体からの離脱、共同体の掟と主人公との関係が、物語を進めるダイナミズムになっています。
 人間は悲しい生き物なんだ、人類はどうにも救いのない存在なんだ、という自明の理を自明であるが故にあえて主人公の意識にのぼらせたり言葉で表現したりすることなく、無理なハッピーエンドもなしで、ただ主人公が懸命に生きるしかない姿をみせることで、より物悲しさを浮き立せています。しかしゲームをすることで、その物悲しい内容とは逆に、晴れやかな気持になるのは、かのアリストテレスの理論の正しさを証明するようでもあります。
 『ICO』にはなかったクリア特典などがたくさん用意されていて、長く遊べるようになっているのも好感が持てます。プレイステーションのソフトとしては最も優れたゲームのひとつでしょう。


環境保護という絵空事

2006年07月19日 | 政治・社会・会社

 藤原新也という写真家が、箱根ホテルが工事のためにツバメの巣を撤去したことについて激しい非難を行なっています。この人は変わった考え方をしていて、ひとつの図式を示しています。

 ユダヤ人=経典にやたらに数字が登場=組織では数値優先=非人間的
 アリコ=ユダヤ資本→営業はメディアのみ。人間の営業活動なし=非人間的
 箱根ホテル=ユダヤ資本→日本人従業員が精神的にユダヤ的に変化=非人間的

 そういう理由から箱根ホテルがツバメの巣を撤去したという「ひどい事件」が起こってしまい、その後の謝罪文も「官僚が書いたような文章」ということで、藤原さんはこれも「非人間的」だと言いたいみたいです。日本人にはツバメに対して「特別な親近感」があり、「残酷な手段」でツバメのヒナを殺すのは考えにくい、ということを書いていて、それはユダヤ資本のせいで精神構造が非人間的なものになってしまったからだということも言いたいようです。
 藤原さんがこういうことを書くきっかけになったのが、箱根ホテルを定宿にしている人からのメールで、その人はツバメの巣が撤去されたのを知ると、工事を担当した工務店まで行って、ツバメの巣がどうなったのかを調べたようです。そして工務店の事務所の裏の土嚢袋にヒナが巣ごと無造作に捨てられていたのがむごいことだと書いています。

 鳥獣や環境を保護する活動をしている人たちは社会的にそれなりの役割を果たしているのかもしれませんが、ときどきヒステリックになったり無茶な行動に出たりすることがあります。いかがなものでしょうか。

 そもそも、なぜ鳥獣や環境を保護しなければならないのか?

 昨日(7月18日)放送の「踊るさんま御殿」に柳生博が出ていましたが、日本野鳥の会の会長さんなんですね、知らなかった。で、さんまの「とりは食べないんですか?」という質問に対して「鶏(家禽)は食べます」と正直に答えていました。
 私は競馬をやるので、どうも馬肉を食べるのに抵抗があります。しかしもちろん他人が馬肉を食べるのはまったく平気で、それは自分の好き嫌いを他人に強制することはない、という常識的な感覚です。馬肉以外の牛肉や豚肉、羊肉、鶏肉は食べます。あと魚介類、野菜もむろん食べます。
 「命の大切さ」という教条を振りかざすのであれば、生きていること=食べること=他の生物を摂取すること、ですから、何も食べられないことになります。生きていけません。
 野鳥野獣の命と、家畜家禽の命は、どちらが大切なんでしょうか?
 倫理や道徳、法律などは主に共同体の存続が第一の目的ですから、人間の命が一番重いことになっています。次はというと、他人が飼っている生物の命ですね、これは他人の財産に相当しますから「民の生命、身体、財産を守る」という趣旨に適っています。従って法律的には野鳥よりも家禽の命のほうが大切だということになります。(最近では鳥獣を保護する法律もできているようですが、箱根ホテルと同じく、私も知らなかった。)
 では法律的にではなく、野鳥と家禽を比較するとどうでしょう? ツバメの命と名古屋コーチンの命ではどちらが「大切な命」なんでしょうか? 
 あるいは逆に、罪の重さの比較でいうと、ツバメを殺すのと食肉目的で飼っている鶏を殺すのとでは、どちらが罪が重いのかというと、 「命の大切さ」を言うのであれば、どちらも罪は同じということになります。しかし感覚的には違いますよね? 鶏は食べるのが目的だから道理があるが、ツバメを殺すのは単に残虐な行為だから道理はない、ということでしょうか。 実は鶏を殺すのもツバメを殺すのも、殺す行為自体はどちらも同じで、一方が残虐で一方は残虐ではない、ということはありません。
 鶏を殺して食べることはシステムとして安定しているし、そのこと自体が共同体に不安定をもたらすものではなく、一方、ツバメを殺すのは商売でやっているわけでもなく、共同体に不安と不安定をもたらす行為だから、それを「残虐な行為」と感じてしまうんですね。
 雉や鴨、ホロホロ鳥、ウサギなんかは「ジビエ」として食材になりますが、ツバメはそうなっていないので、殺すのに抵抗があるというわけです。日本ではジビエさえも一般的ではないので尚更でしょう。

 藤原新也さんは、ユダヤ人は幼少から経典その他で数字に親しみ、数字を基本に考える非人間的な組織運営をするので、ユダヤ人がトップになった会社の日本人従業員も同じように非人間的な精神構造に変化させられてしまったのではないか、それがツバメの巣撤去などという「ひどい」行為につながったのではないか、と書いておられますが、ツバメを殺すことが「ひどい」ことだという感性そのものが、共同体の存続のために刷り込まれたものである、という皮肉な話になってしまいました。

 環境を保護するという行為は人類特有のもので、何から保護するかというと、これまた人類の行為から保護する、という形になります。保護しなければ絶滅してしまう、という観点から希少動物を保護するのが世界的に当然のような話になっていますが、もともと人類登場以前からたくさんの動物が進化の過程で絶滅していったわけで、人類が登場してからの絶滅のスピードが比較にならないくらい上昇していることを考慮に入れてもなお、絶滅するべくして絶滅しているのが大部分です。
 環境保護について、次の図式が成り立ちます。

 環境破壊の主体=人類
 環境保護の主体=人類
 環境保護の究極の形=人類不在=環境保護の不成立

 命を食べて生きている我々人類は、道具を使って狩猟を行い、定住して農耕を営み、品種改良や肥料の工夫で植物分布を変化させ、または家畜を飼育して動物の品種改良や分布も変化させてきました。誰も環境破壊の「罪」から逃れることはできませんし、環境保護を謳う資格もありません。


心のリセット

2006年07月18日 | 政治・社会・会社

 腸内洗浄が一時話題になったことがありました。最近ではデトックス。これは腸内洗浄も含んでいるのかわかりませんが、とにかく身体の余計なものを排泄して健康になろう、ということです。身体のリセットですね。
 たぶん一番いいのは絶食で、消化吸収に使っていたエネルギーが身体の調整や余分なものの排泄に使われるようになるらしく、わずか一日絶食しただけでも、少し調子がよくなります。現代人はおそらく食べすぎなんでしょう。
 古代エジプトの諺で「あなたが食べている食事は実は4分の1で十分であり、残りの4分の3は医者が食べている」というものがあって、これが6000年前の諺だということよりも6000年前にも医者がいたということに驚きを覚えたものですが、要するに「病は口より入る」という諺と同じことで、小食がよろしいということですね。
 買い物をするときに新品と中古があって、もし値段が同じなら100人が100人とも新品を選ぶでしょう。中古の長所は新品よりも安いという、その一点だけですから。人間は新品が好きなんです。しかし身体のように買い換えが出来ないものの場合はどうするか。たとえば調子の悪くなった冷蔵庫の場合は、一度電源を抜いて中の物を全部出してガス圧やパッキンやファンや放熱板を調整したり掃除したりして、新品並みの機能に戻します。これをオーバーホールというのかな。
 で、自分の身体の手っ取り早いオーバーホールが絶食ということです。絶食で排泄を促進して身体をリセットすると、新品並みとまではいかないけれども、ある程度は機能を取り戻すことが出来ます。もっとも有名な絶食の話はむろん聖書に書かれてあるイエスの40日間の絶食ですが、絶食の仕方についてイエスが注意しています。

『断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。』

 聖書では触れられていませんが、エジプトとの関連とそのエジプトの先ほどの諺を考えると、健康法としての絶食が一般的にあったであろうことは容易に想像できます。昔もいまも、人の悩みは同じなんですね。

 リセットしたい、という願望は誰にでもあるものなのでしょう。大正時代の詩人、中原中也は『汚れっちまった悲しみに』と言って、心身ともに浮世の色に染まってしまったことを嘆いてみせました。
 身体だけなら絶食その他の方法で少しはリセットできますが、心は普通リセットできませんよね。心をリセットするというのはどういうことかというと、仮に記憶を消してしまったら人格を消し去るのと同じでその人ではなくなってしまうでしょうから、多分そうではなくて、心のかたくなな部分、こだわり、不安、恐怖、憎悪、自信過剰、自意識過剰、いろいろな欲望や嫌悪、そういったものを捨て去ってしまうこと、でしょうか。もちろんそんなことは出来っこありませんが、努力する人はいます。そしてもしできたら、お釈迦様になれます。

『リセットしたい』と言って家に放火して義理の母と弟妹を殺してしまった奈良の少年は、リセットできないことがわかっていた。だから二度とリセットできない行為を犯して、そして環境を劇的に変化させた。「二人は無期で三人は死刑」という慣例を出すまでもなく、死刑が適当ですが、少年にとって死刑は悪いことではない。むしろ望む結果なのでしょう。不幸なのは彼のお父さんです。ある意味で自業自得ではありますけれども。

 一般に、悪い環境に置かれたとき、人間はその環境に慣れようとします。そして多くの場合、劣悪な環境であっても慣れてしまいます。しかし、現在の環境よりもましな環境を経験したことがあったり、違う環境も存在するという情報を得た場合には、人間はどのように振舞うのでしょうか。
 方向は二つありまして、外部へ向かうもの、内向するものの二種類です。
 外へ向かうのも多岐にわたりまして、環境自体を変えようとする者、つまり政治活動その他の活動を行なうことで共同体のありようから家族の形態まで変えてしまおうとする方向、あるいは環境は変えようがないと判断して別の環境へと逃げる者、他には現在の劣悪な環境の中でも快適な地位というものがあってそこまで上り詰めようとする者、いろいろな形があると思います。
 内向する部分では、現在の環境は非常に劣悪で生きるのがつらいけれども、何とかしてそれに慣れるか、諦めきるか、または環境は環境、自分は自分と達観してしまうか、などといった自分の精神の持ちようで安定を図ろうとします。
 人間は複雑で、外部にも向かうし内面をさまよいもします。どこかで折り合いをつけようとするんですね。しかしそう簡単に折り合いはつかない。ある者は怨念の塊と化して環境に復讐しようとする。どうもそういう類の事件が多いような気がします。
「衣食足りて礼節を知る」という諺もありますが、衣食がどこで足りているのか、人によって判断はまちまちでしょう。一度着た洋服は二度と着ない人もいる一方、ここ数年洋服を買っていない人もいると思います。私がそうです。で、不足を感じているかというとそういうこともない。
 あまり洋服に興味がないからなんですが、別の考え方もありまして、「知足」という言葉がある。文字通り「足るを知る」ということですね。洋服は寒さを防げればよい、食物は空腹を満たし燃料になればよい、家は雨風を凌げればよい、それ以外は必要に応じて調達すべし、ということです。子供は元気に育てばよい、と簡単に考えることができれば、世間体を子供に押し付けることもなく、妻と子供を殺されなくてもよかったのではないかと、ちょっと思ってしまいました。


麻婆豆腐

2006年07月13日 | 食・レシピ
 こんばんは。休職中の耶馬英彦です。今日は料理の話を。
 会社を休み始めたのは3月の始めからですから休職も5ヶ月目に突入してしまっているわけで、どうも坐骨神経痛が治りそうもないし、この間は病院に行ったら担当医が変わっていて、その医者が言うには、少しよくなっているがと前置きされたあと、どうもこれまでは椎間板ヘルニアと腰椎分離症の併発だったといわれていたのが、さらに脊椎管狭窄症も発症している模様とのことで少なからずショックでした。会社の好意ということで休職という形(給料は出ないが健康保険は有効)にしてもらっていますが、だんだん心苦しくなってきました。しかし少し歩いたり立ち続けたりすると途端に腰からつま先にかけて痺れと痛みが襲ってきますので、この状態で復帰してもまた迷惑をかけるだけなのがわかりきっているだけに、なんともつらいところ。お金も減っていきますしね。
 ということでほとんど外食せずに自炊しています。最初の頃は調味料や調理器具などを揃えるのにやたらに金がかかって、もしかしたら外食のほうがかなり安いかも、と思っていましたが、揃ってしまえばあとはそのときどきの材料を少しだけ買えばよく、とても安上がりになることがわかりました。刺身やステーキなんかを食べたらそれは外食並みにかかってしまいますが、簡単な和食や中華、パスタや鍋なんかを作っている分にはかなり安く出来ます。
 たとえば麻婆豆腐を作るにしても、木綿豆腐と挽き肉とニラを買うだけで、豆板醤その他の調味料は大体揃っているので大体200円程度で出来ます。

 私の作り方は、
 ネギ、ニンニク、ショウガのみじん切りを炒めて
 そこに豆板醤と挽き肉を入れてさらに炒め
  お湯とガラスープの素、
  老酒
  甜麺醤
  搾菜
  豆鼓
  冬菜
  芽菜
  醤油
  砂糖
  中国醤油
  山椒
 を入れてから味を見て、
 塩味と辛味を調整したあと
 湯通しした角切りの木綿豆腐を入れてしばし煮込み
 片栗を打ってとろみをつけてから
 ニラとネギ油と胡麻ラー油を入れ
 ひとあおりしてから器に盛り
 粉山椒を振りかけて
 ハイ出来上がり。

 木綿豆腐じゃなくて絹豆腐を使う人もいらっしゃると思いますが、私は湯通しした木綿豆腐だと味が入りやすく、食べたときも「麻婆+豆腐の豆腐」ではなくて「麻婆豆腐の豆腐」を食べている感じがするので木綿のほうがいいかな、と思っています。
 ちなみに麻婆豆腐の名前の由来はたいていの人がご存知の通り「麻」(あばた顔のこと)のおばあさん(婆)が作った料理だから、となっています。この「麻」には痺れるという意味もあって、字で書くと一目瞭然ですが、麻痺の麻、麻薬の麻ですね。料理の場合は山椒の痺れる辛さの意味になります。唐辛子の辛さはラー油の「辣」で、山椒と唐辛子の両方が聞いた料理には「麻辣」(マーラー)という作曲家みたいな名前がつくことになります。
 さて、麻婆豆腐のような辛い料理はご存知カプサイシンのおかげで新陳代謝が活発になり汗をかくくらい体温を上昇させて体内の脂肪を燃焼させますが、同時に食欲増進効果もあるのでついつい、カプサイシンの働き以上に食べてしまうこともあります。それに辛さは味覚に働きかけてもともとの料理をよりおいしく感じさせる効果もありますからね。かつて道場六三郎さんが「料理の鉄人」というテレビ番組の中で「辛くすりゃ何でもうまいんだよ」と吐き捨てるように言っていました。たしかに和食の料理人は胡椒も山椒も唐辛子も使わない繊細な料理を苦心して作りますからね。それはそれで大したものですが、かといって辛い料理がズルをしているわけではありません。単に辛いだけではおいしくありませんから。
 麻婆豆腐の話に戻りますが、注目すべきは材料の中に搾菜と芽菜と冬菜という三種類の漬物を入れていること。漬物は最近スーパーで売られているものは漬物という名の味付け野菜ですが、本来は発酵食品のひとつで、胃腸が動物性脂肪に対して強くない日本人は漬物で乳酸菌を補給していました。たいていの場合体に良いものはおいしいもの、ということで漬物を三種類も入れることで単に辛いだけの麻婆豆腐ではなく、味に奥行きのある麻婆豆腐が出来ますよ。料理に興味のある方はぜひお試しください。


処方箋の行方

2006年07月11日 | 健康・病気
 今日は朝の九時から整形外科で診察を受けました。起きてから病院に着くまで約1時間と短かったからなのかもしれませんが、まだ腰の痛みがはじまる前で、診察を受けている最中にはあまり痛みを感じなかったので医者にそう告げると「少しずつよくなっているみたいですね」と希望的なことを言うので、こちらもその気になっていましたが、帰りにツタヤに寄ってゲームを買い、薬局に処方箋を出したあとに生協で食料品を買って、それから帰宅してすぐに料理を作り始めたときに、ついに痛みがやってきました。間の悪いことにちょうどビーフシチューに入れるルウを作っているときだったので、色がよくなるまでには時間がかかるけれども火から離れるわけにいかないし、かといって火を強めたら小麦粉が焦げてしまうし、ということで我慢しつつルウを作りました。気を紛らすために、小麦粉を色がつくまで炒めるその色というのは狐色なんだけど小麦色ともいうのかな、ん? 小麦粉を小麦色に炒める? そもそも小麦粉というのにどうして小麦色ではないのか? あ、小麦と小麦粉は当然別なものだからか、などとくだらないことを考えつつ、ひたすら炒めて、そこにスープを注いで延ばしてからシチューの圧力鍋に戻してやっと一息つきました。
 薬局に処方箋を出して、いつもすぐには揃わないから後日取りに来ることにしたときに思ったことなんですが、病院からもらうこの処方箋というやつに関しても当然健康保険が使われているわけで、国の側から見ると7割負担ですよね。病院は社会保険庁に対して国庫負担額を請求することになりますが、処方箋の薬に対してはどの段階で請求を決定するのでしょうか? わかりにくい話ですがつまり、東京では(地方ではどうなのか知らないので)医者が処方箋を患者に渡し、患者はそれを自宅や仕事場の近くの「処方箋受付」の看板がある薬局に提出して薬をもらいます。代金は薬と引き換えにその薬局に支払います。ここで疑問なんですが、もし薬をもらわなかった場合、つまり処方箋を薬局に提出することなく期限(3、4日)が過ぎてしまった場合はどうなるんでしょうか? その場合もやはり病院が提出したとおりに薬品に係わる国庫負担額が病院に支払われるのか? もし支払われるとすれば誰も受け取っていない薬について社会保険庁から病院にその代金の7割が支払われることになり、それはおかしい。かといって、処方箋を受け取って薬を患者に渡した薬局が処方箋を根拠に国から7割を受け取るのも変ですよね。いや、要するにそうなると病院が儲からない気がするからです。たとえば今日の診察料は410円でしたが、それに対して薬の代金は1か月分で約4~5千円くらいかかります。薬のほうが国庫負担額が断然大きく、病院がその儲けを全額見知らぬ薬局に渡すはずがないし、「患者を薬漬けにして儲ける悪徳医者」の事件が説明できなくなるし、そのあたりのからくりがどうなっているのか、素人にはよくわかりません。
 医療費の問題だけではなくて医療そのものに関しても、もし患者が処方箋をなくしたりお金がなかったり単にいやだったりして薬を受け取っていない場合、医者は自分が処方したはずの薬を患者が飲んでいない、ということを知らないままですよね。それとも処方箋を受け付けた薬局が医者に連絡することになっているのかもしれませんが、もし連絡がなかった場合もそれに気づくかどうか、または気づいても薬局の人が連絡を忘れたかな、と思ってしまう場合もあるでしょう。どこの薬局に行くかは患者に任されているわけですから医者には確認のしようがない。そもそも次から次に患者が来る状態では、処方箋を渡した患者が薬を受け取ったかどうか確認するなんて物理的時間的に不可能でしょう。
 かといって病院の薬局ですべての患者の薬を賄うのもまた不可能だと思います。大きな病院では総合受付の事務員でさえ10人以上いて、しかも「現在の待ち人数」が平均50人だったりします。薬を病院で揃えるとなると大規模の薬局が必要になって、雇う薬剤師も大人数、それでも患者は大行列、ということになりますから、現在の「患者の近くの薬局」制度は病院の混雑緩和のためにも必要なんでしょう。しかし医者との連携が不十分という問題が生じてしまいます。
 健康保険料や厚生年金を黙って支払い続けている側としては、制度がしっかり機能しているのか知りたいところですが、社会保険庁ホームページを開いてみても、各種手続きだとか保険料の徴収対象を広げたことその他の言い訳だとかばかりが書かれていて、全体像がちっとも見えてきません。情報公開というか社会告知というか、このあたりをちゃんとしないと「百年安心できる年金制度」も少しも安心できませんよね。