三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Les parapluies de Cherbourg」(邦題「シェルブールの雨傘」)

2020年02月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Les parapluies de Cherbourg」(邦題「シェルブールの雨傘」)デジタル・リマスター版を観た。
 http://www.zaziefilms.com/legrand01_88/

 名作と呼ばれる有名な映画はテーマ曲も有名だ。「太陽がいっぱい」「ドクトル・ジバゴ」「ブーベの恋人」などのテーマ曲はそれぞれの映画の代表的なシーンとセットになって心の奥に刻まれている。本作品のテーマ曲もまた、非常に有名である。主役ふたりの場面で何度も繰り返し歌われる。特に本作はすべての台詞が歌という徹底したミュージカルであり、鼻母音の多いフランス語の歌詞は、イタリア語のカンツォーネと違って声を張り上げることが出来ないから、互いに語りかけるような歌になる。そこがこの映画の魅力にもなっている。音楽を担当したミシェル・ルグランは天才だ。
 歌唱を担当したダニエル・リカーリやジョゼ・バルテルなどの歌手の歌声も素晴らしく、演者の口の動きに完璧に合っている。デジタルではない時代の映画としてこれほどのクオリティを達成できたのは、ジャック・ドゥミ監督の類まれな才能というほかはない。
 90分の短い映画だが、恋と戦争、お金と生活、信頼と裏切り、赦しと幸福など、人生の岐路で悩むテーマのすべてが盛り込まれている。半世紀以上を経た現在でも新しい感動がある。本物の名作はいつまでも名作である。


映画「37セカンズ」

2020年02月25日 | 映画・舞台・コンサート

映画「37セカンズ」を観た。
 http://37seconds.jp/

 人間が最も好む異性の匂いは、無臭だそうである。免疫力が強ければ無臭になる。つまり健康ということだ。フェロモンだ何だというのは香水を売りたい商売人の宣伝文句に過ぎず、異性に対して健康に勝る魅力はないのだ。病気の美男美女よりも健康な十人並みのほうがよほどモテるだろう。
 自分の遺伝子を残すための相手に優れた遺伝子を選ぶのは人間だけではなく、多くの動物の行動に見られる。そういう動物の生態からして、身体障害者は異性を求める場合に大きな不利を背負っている。もちろん本作品の主人公ユマも例外ではない。そしてユマ自身がそのことを悟っていることは、作中の漫画によって表現される。ユマは自分を客観視できる大人なのだ。

 身体障害がある生物は、動物の世界では長く生きていけないだろうが、人間界には人権に関する自由と平等というヒューマニズムがある。日本国憲法第13条にも「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれてある。本来的には国家権力が個人を尊重しなければならないという、権力に対する縛りではあるが、日本国民全員が互いを個人として尊重しなければならないという覚悟も求められている。
 憲法の権力に対する縛りはいまや風前の灯となっていて、政権は憲法を無視して個人を蹂躙しようとしているが、少なくともまだ個人は他の個人を尊重する姿勢を持ち続けることができる。聖書に「人を裁くな、自分が裁かれないためである」(マタイによる福音書)と書かれてある。正義の味方になって他人を断罪することは、自分に跳ね返ってくるというわけだ。しかしSNSには正義の味方が溢れていて、弱い人を糾弾する。

 それでも世の中には優しい人間が存在する。強い人だ。世間の価値観やパラダイムに流されなければ、自分の価値観だけで生きていける。世間から軽んじられたり、貶められたりしている人にも優しくできる。世間からどう思われようと無頓着な強い人が、弱い人に優しくできるのだ。
 本作品で渡辺真起子が演じた娼婦の舞がそういう人間だ。繁華街のオカマたちもそうである。アウトサイダーにはそれなりの強さと優しさがある。そういった他人との関わりの中で、ユマは彼女なりの優しさを体得していく。それは強さを体得することでもある。

 本作品は冒険の物語だ。それも大冒険である。ユマは思い切って出掛けた先で素晴らしい人たちに出会い、助けを獲得して冒険に出る。冒険物語の主人公が成長して帰ってくるように、ユマも大きく成長する。人生を肯定し、自分を肯定する。わたしはわたしでよかった。
 脳性麻痺の人間がそうやって自分を肯定するまでに、どれだけのつらい思いがあっただろうか。映画は大人になってからのユマの話だが、ここに至るまでの苦労と葛藤は並大抵ではなかっただろう。そこに思いを馳せるとこちらが泣けてくる。絵葉書のシーンや旅先のシーンは回想シーンでもあると思う。

 新人で初主演の佳山明の奮闘に、神野三鈴、渡辺真起子、大東駿介などが渾身の名演技で応じる形でリアリティ豊かに物語が膨らむ。それもこれも、作品の世界観にキャストとスタッフの全員が共感していたからだろう。その一体感が作品を通じて伝わってくる。脚本、監督のHIKARIは恐るべき才能の持ち主だ。本当にいい映画だった。


映画「スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼」

2020年02月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼」を観た。
 http://sumaho-otoshita.jp/

 白石麻衣は身体がゴツくて逞しい。千葉雄大が童顔で細いから、役が逆でもよかったくらいだ。細くて弱々しい加賀谷が強気で逞しい美乃里を守るというのは、小学校の学芸会みたいな違和感がある。
 物語を動かすのは成田凌が演じた前作の犯人で未決の留置場に入れられている浦野である。成田凌の芝居はエキセントリックぶりを発揮して結構よかった。井浦新や音尾琢真、ズンの飯尾などが典型的な人物を典型的な演技で演じていて、物語自体はとてもわかりやすい。わかりやすすぎて大方の観客には犯人の目星がついたのではないかと思う。
 プロローグからエンディングまでが割と一本道のドラマなので、普段映画を観たり小説を読んだりすることがなくて物語に慣れていない人にも受け入れやすい作品だと思う。逆に言えば、物語に慣れている観客には少し物足りないかもしれない。
 前作で北川景子が演じた稲葉麻美のか細くて嫋やかな雰囲気がとてもよかっただけに、女らしさと優しさに欠ける今回のヒロインには少し不満が残る。乃木坂46と白石麻衣のファンの方には申し訳ないが、女優としてはまだこれからである。

 前作にも感じた通信の秘密の脆弱さは、今作でも感じた。最近は銀行の画面と区別がつかない画面が現れてパスワードを入力させようとしたりするそうなので、情報技術にもシステムにも疎い当方のようなアプリユーザーは格好のカモだろう。便利がいいので映画の予約もレストランの予約もスマホで済ましているが、本当は落とし穴がいっぱいの隘路を、たまたま落ちずに来ただけの気がする。
 海外のホテルに行くとWifiの接続先とパスワードを渡されるが、怖いなと思いながら使っている。海外でスマホ決済は避けるようにしているし、カードで決済するのは航空券とホテルくらいだ。街なかでは常に現金で決済する。海外でスキミングされたらおしまいだと思っている。
 インターネットが進んだおかげで、リテラシーの格差も広がった。日本の役所もインターネットで手続きするように呼びかけている。イギリス映画「わたしはダニエル・ブレイク」では、傷病給付も失業給付もインターネットで手続きするように言われ、長年大工として働いてきたダニエルはパソコンを持っていないし、そもそも使う技量もないから、手続きすらできない。
 ネットやシステムでは一部のリテラシーがとても高い人と、一般ユーザーと、ほとんど使えない人の3種類に分かれそうだ。今後更に進んで、日本でも行政手続きはインターネットで行なうことが必須になるのだろうが、ネットの環境も道路や鉄道と同じで、誰でも平等に利用できなければならない筈だ。
 本作品を観てITのリテラシーが低い人を嗤うのではなく、行政がリテラシーの格差を埋める役割を担わなければならないことを悟るべきだ。田舎で畑を耕しているおじいちゃん、おばあちゃんが不利になるような世の中はやっぱりおかしいと思う。


映画「Bombshell」(邦題「スキャンダル」)

2020年02月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Bombshell」(邦題「スキャンダル」)を観た。
 https://gaga.ne.jp/scandal/

 御年52歳のニコル・キッドマンだが、本作品でも相変わらずのコケティッシュな魅力を振りまいている。同じことはシャーリーズ・セロンにも言えるが、今回は顔がいつもと違うのが気になった。鑑賞後に特殊メイクだと知ったが、必要性が理解できなかった。
「鯛は頭から腐る」とは、先ごろの日本の予算委員会での辻元清美の発言だが、シャーリーズ・セロン演じる人気キャスターのメイガン・ケリーが「魚は頭から腐る」と、同じ意味の発言をする。日本の政権が総理大臣から腐敗しているのと同じように、アメリカでは政治権力も企業もトップから劣化しているという訳だ。
 それにしても、マーゴット・ロビーを加えた三人のキャスターがあまりにもナイーブ過ぎるのが気になる。悪役に凄みがないこともあって、物語が随分と軽くなってしまった。日本の高校生のいじめのほうがずっと酷いだろう。警察の発表だけで毎年200人以上が自殺している。警察では遺書があるなどの明確な証拠で自殺に分類しているので、不自然死すべてを自殺とすると、凡そ1,000人の高校生が毎年自殺していることになる。日本の不幸な高校生よりも三人のニュースキャスターのほうが恵まれているように見えるのは当方だけではないだろう。

 アメリカの大統領選挙が近いので、本作品はアンチトランプのプロパガンダという意図もあるのかもしれない。しかし高収入のニュースキャスターに対するハラスメントは、生活苦に喘ぐ庶民にどれだけ響くのだろうか。コールセンターや企業のカスタマーセンターで、客を名乗る人物から毎日のように電話で罵声を浴びせられ続けている人々の安月給のほうがよほど問題だという気がする。
 ただ、トランプ〜FOX〜ロジャーという図式が安倍晋三〜読売〜ナベツネと同じであることを思うと、ナベツネがセクハラで追い出される想定はかなり痛快ではある。しかしナベツネが追放されただけでは何も変わらない。それはアメリカも同じだ。だから本作品は反トランプを明確に打ち出したのだろう。
 衣食足りて礼節を知るというが、それはケチな犯罪をしなくなるだけで、金持ちが礼節を弁えているとはとても思えない。同級生や後輩をいじめるのは大抵が金持ちの子供だ。不遇な庶民は更に立場の弱いカスタマーセンターの労働者に毒づく。
 セクハラもパワハラも、要はいじめだ。陰湿で愚劣な行為である。いじめがなくならないのは、人間が本質的にいじめ体質だからなのだろう。本作品はその上辺をなぞってみせたが、社会の底辺で社会全体からのいじめに遭っている人々を救う意図は示さない。それは大統領選のあとで新大統領が示してくれるという淡い希望を暗示するためかもしれない。


映画「1917 命をかけた伝令」

2020年02月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「1917 命をかけた伝令」を観た。
 https://1917-movie.jp/

 世の中に戦争をしたい政治家が後を絶たないのは何故なのだろうかとずっと不思議に思ってきた。現代の大抵の国では政治家は選挙で選ばれるから、戦争をしたい政治家が当選するのは、戦争をしたい有権者がいるからだということになる。しかし戦争をしたい有権者というのがどうもピンと来ない。
 日本ではどうかというと、当方の乏しい人間関係でも、知己の中に戦争をしたいと主張する人はひとりもいない。直接の知己でない人やメディアで見た人を含めても、戦争をしたい発言をしたのは「戦争しないとどうしようもなくないですか」でおなじみの衆議院議員、丸山穂高くらいである。
 世界で言うと、イスラム系の闘士は「トランプに死を」などと主張して戦争する気満々みたいだ。彼らの間にはアメリカに対する怒りが沸騰していて、自ら戦場に行こうとしている。しかしそういう人は世界でもごく一部である。イスラムの国々で生活する女性や子供や老人は戦争をしたいとは思えない。

 イスラム戦士などを除けば、戦場に行きたい人などひとりもいないだろう。しかし若者を戦場に送り出したい人は沢山いる。アメリカの軍需産業がその筆頭であり、そこから支援を受けているトランプは既にあちこちに火種を撒き散らしている。トランプのポチとして尻尾を振っているのが安倍晋三の一味で、この1月には自衛隊員を中東に派遣してしまった。
 こういう人間たちは、現実の戦争がどれほど悲惨かを知らず、最前線の現実がどれほど厳しいものかを知らない連中である。自らは戦争の現場に行かないから、将棋の駒を動かすように好き勝手に人を動かす。生命を失うのはいつも前線の兵隊だ。

 戦争を知らない人間が戦争をしたがる。だからいつの世も、戦争の現実がどんなものかを知らせるために戦争映画がある。中には戦争を礼賛するような英雄映画もあるが、大抵の戦争映画は悲惨な現場をリアルに伝える。トランプも安倍晋三もそういうリアルな戦争映画を観たことがないのだろう。仮に観たことがあるとすれば、よほど想像力が欠如しているに違いない。想像力のない人間は他人の痛みを百年我慢できる。
 彼らに投票する人々もまた想像力のない人々である。ドナルド・トランプにも安倍晋三にも想像力が欠如していることは彼らのひと言ふた言を聞くだけですぐに解る。それが解らないか、敢えて解ろうとしない有権者が多いということだ。
 ヒトラーが人心を掌握して選挙に大勝したのは、メディアを操作して大衆の不満と怒りの矛先を上手く誘導したからである。情報が与えられない状況でヒトラーの雄弁な演説を聞かされ、想像力と思考力に欠ける大衆はまんまと愚かな集団になってしまったのだ。そしていま、いくつかの先進国で同じことが起ころうとしている。もちろん日本もそのひとつだ。

 ドイツが二度も世界大戦をはじめた国だからといって、すべてのドイツ人が好戦的な民族だとは思わない。ドイツにはカントやショーペンハウエル、ニーチェ、ハイデッガーなどの哲学者、ゲーテやヘッセなどの詩人、マルクスやエンゲルス、マックス・ウェーバーなどの経済学者がいる。政治家ではビスマルクが有名だ。文化も精神性も多様な国なのである。個人主義が徹底していて、レストランでは客も接客係も同じ人間として対等だ。日本のサービスのようにヘイコラしない。客としては満足感は低いが、そういうところで自尊心を満足させるという精神性はドイツ人にはないのだろう。悪く言えば無神経、よく言えば質実剛健なメンタルである。

 本作品もリアルな戦争映画のひとつである。戦場では死は日常であり、無造作に転がる死体は見慣れた風景だ。映像技術が日進月歩で進んでいるから、現在の戦争映画の生々しさは半端ではない。日常生活で目にしたら腰を抜かすだろうし、場合によってはトラウマになるかもしれない。
 戦場ほど死が身近な状況はない。彈はヒュンヒュンと飛んでいるし、草叢や物陰には敵が潜んでいる。殺されないためには殺すしかない。死に慣れることが戦場を生き延びるために必要なことなのだ。
 映画そのものは大変よく出来ている。臨場感もあり、リアリティもある。長回しの撮影で、塹壕が長々と伸びている場所に兵隊がひしめき合っていることも解るし、第一次大戦の肉弾戦の様子も生々しく伝わってくる。主人公の幸運と諦めずに突き進む意志の力が物語を前に進めていく力強い作品だ。
 本作品を英雄物語として受け取るのは、少し違うと思う。登場人物の会話から、当時のイギリス軍では功労のあった兵士にメダルを贈るらしいが、主人公はメダルに重きを置いていない。その点は、同じく第一次世界大戦を扱った映画「再会の夏」のジャック・モルラックにも似ている。本作品はイギリス映画で「再会の夏」はフランス映画だ。どちらの映画も戦場での功労を否定する兵士を描いた。戦争を一番否定しているのは最前線の兵士であるということだ。その点から本作品を観ると、戦争の本質がおのずから浮かび上がってくる気がする。


映画「グッド・バイ 嘘からはじまる人生喜劇」

2020年02月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「グッド・バイ 嘘からはじまる人生喜劇」を観た。
 http://good-bye-movie.jp/

 ケラリーノ・サンドロヴィッチこと小林一三が脚本、演出した芝居「修道女たち」を下北沢の本多劇場で観たのは2018年の11月だ。修道女たちの口癖が「悔い改めなさい」と「悔い改めます」で、「アーメン」の代わりが「ギッチョラ」である。何かが起きるとすぐに祈り、どうにもならないことがあるとまた祈る。祈ってばかりの修道女たちが哀れに笑えるコメディだった。
 去年2019年の8月には日比谷のシアタークリエでケラリーノ・サンドロヴィッチ脚本の「フローズン・ビーチ」を観劇した。こちらはそもそも脚本にかなりの無理があった。芝居は典型的な人物が典型らしく振る舞うことでダイナミズムが生まれて物語を進めるエネルギーとなるものだが、不自然すぎるリアクションが続くとリアリティが欠如してしまう。笑える場面はいくつかあってそれなりには楽しめたが、心に残るものが何もなかった芝居だった。

 本作品も笑える作品ではあるが、やはり脚本が破綻している。途中までは太宰治の原作に忠実で面白いのだが、それ以降がいけない。原作の世界が急に壊れはじめ、サンドロヴィッチワールドに変わってしまう。太宰の、人間という存在そのものを笑うというスタンスが、下世話な楽屋落ちみたいな笑いにスライドしてしまったのだ。これはもう笑えない。
 主演が飄々とした演技の大泉洋だからなんとか作品として保ったが、映画が役者の力量に頼るようでは心許ない。太宰の物悲しい笑いを期待した分、落胆も大きかった。ただ小池栄子の演技は見事で、声が汚い、細いのに怪力、驚くほど大食いで、しかもすごい美人という、太宰の無茶振りみたいな想定がこれほどハマる人も珍しい。巨乳というおまけもあって、太宰本人が見たらたいそう喜びそうだ。その想像が一番笑えた。


映画「山中静夫の尊厳死」

2020年02月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「山中静夫の尊厳死」を観た。
 https://songenshi-movie.com/

 主演の津田寛治の芝居が素晴らしい。テレビドラマのイメージが強い俳優だが、こういうナイーブな演技もできると知って感心した。自ら監督もするようなので、この人の監督主演作品を観てみたい。
 本作品では生真面目な医師今井俊行を演じた。随分と痩せて見えたのは、もしかしたらこの役のためかもしれない。今井医師に似て、津田寛治も生真面目でストイックな役者だと思う。

 オランダをはじめ安楽死が合法とされている国はいくつかあるが、殆どの国では安楽死は認められていない。無論日本でも非合法だ。これを扱った映画では周防正行監督の「終の信託」が有名である。
 安楽死と尊厳死。ただ生かすだけの延命治療をせずに、患者の苦しみと痛みを取り除くところまでは同じだが、その先が違う。しかしその違いは実に微妙である。安楽死と尊厳死が違うことは誰もが解っているのだが、個々の医師によって解釈が異なる場合がある。また患者個別の事情によっても異なるだろう。

 本作品のタイトルが単に「尊厳死」ではなく「山中静夫氏の尊厳死」であることに深い意味がある。山中静夫の死を山中静夫以外の人間が死ぬことは出来ない。他の誰の尊厳死でもない、山中静夫の尊厳死についての物語なのである。
 日本国憲法第十三条には「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれている。「尊重されなければならない」ではなく、敢えて「尊重される」と言い切ったところに、作成者たちの並々ならぬ覚悟が窺える。
 個人の人格や生き方が尊重されるなら、同じように個人の死に方も尊重される筈だ。日本国憲法の精神からすれば当然のことだが、これを解っている医者は少ないと思う。人間の身体について医学で解っていることは1パーセントもないことは医学界の常識であり、どの医師も解っているはずなのだが、医療の現場にはまったく活かされない。つまり医者は他人の疾病に対して謙虚さを欠いているのだ。下手な料理人が食材をやっつけるように、医学で患者の身体をやっつけるのが医療だと思っているフシがある。

 今井医師は、個人の死に方を尊重する数少ない医師のひとりである。個人の人格を重んじる姿勢は、息子とのシーンに如実に現れる。息子との禅問答のような会話は、父と息子の会話であると同時に、人と人の本音のやり取りである。今井医師の言葉はかつて自身も小説を書いた過去があることを示唆し、文学青年の息子はそれを敏感に感じ取ったに違いない。以降の息子の言葉には、父に対する尊敬の念が込められるようになった。
 理解できない妻には、仕事で疲れ切っているから仕事を離れたときまで他人に気を遣うエネルギーが残っていないと話す。息子を他人と想定するのは、息子の人格を認めているからだ。それに、解らないからと言って妻を否定することはない。その妻役の田中美里も好演。夫を気遣う素直な妻の姿に癒やされる。

 難しいテーマをひとりの人間の死に落とし込んで、現実の治療法や、患者の死が医師に及ぼす影響まで表現した意欲的な作品である。日本は世界史上、類を見ない超高齢化社会に突入している。今後どうなっていくのかは誰にも解らない。誕生よりも死亡が身近となった時代に、人はどのようにして死と向き合えばいいのか。課題は個人に託される。
 ちなみに日本では高齢者の入院が90日を超えると、病院に支払われる金額が極端に減少する。石丸謙二郎演じる事務長の言葉の意味はそこにある。病院も商売なのだ。


映画「The Good Liar」(邦題「グッドライアー 偽りのゲーム」)

2020年02月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Good Liar」(邦題「グッドライアー 偽りのゲーム」)を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/goodliar/

 オスカー女優のヘレン・ミレンが出るというだけで、簡単な詐欺師物ではないとは思っていた。そもそも原題が「The Good Lier」である。詐欺師の話なら、長澤まさみ主演の邦画と同じく「Confidence Man」でなければならない。しかしタイトルはGood Lierである。ということはつまり、この物語はコンマン(詐欺師)に対峙するライヤー(うそつき)という構図であることが解る。であれば、結末も凡その予想がついてしまう。邦題に「偽りのゲーム」という副題をつけてしまったから、もはやタイトルがネタバレさせている映画なのである。
 従って興味はイアン・マッケラン演じるロイとの掛け合いがどれほどかということになるのだが、これは両者とも流石にベテランの名優だけあって、台詞のひとつひとつに裏の意味を含ませているようで、それなりに面白い。暫く観ているうちに、登場人物が嘘ばかりを言い合っているという前提で観客に鑑賞させるためのタイトルであることが解る。おもしろい試みではある。
 気になるのは登場人物の年齢である。通貨がポンドであり、インターネット・バンキングが一般に浸透していたりスマートフォンを持っていたりするということは舞台は現代のイギリスということになるが、75年ちょっと前の大戦時に20歳前後だとすれば老人たちの年齢は95歳くらいとなる。どう計算しても辻褄が合わないが、これも作品のネタなのだろうか。
 疑問を抱かれたときのロイの咄嗟の言い訳も微妙で、詐欺師らしく見事に切り抜けるとまではいかなかった。またベティの動機に関する伏線がひとつもないから、ラストシーンの唐突感は否めない。まさに詐欺師が下手な言い訳をしているようなラストである。
 プロットのアイデアに頼りすぎた作品で、ネタバレを前提にした名優二人の台詞のやり取りは楽しめたものの、人物への掘り下げがないから登場人物の誰にも感情移入できず、なんとなく鑑賞してしまったというのが正直な感想である。★ふたつが精一杯だ。


映画「影裏」

2020年02月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「影裏」を観た。
 https://eiri-movie.com/

「流れ酔い唄」という歌をご存じの方は少ないかもしれない。大分県出身の不遇の歌手山崎ハコが二十歳で発表した大変に味のある歌だ。その1番の歌詞は次のようである。

 うちの目にうつるは あんたの嘘だけ
 うまいこと言うて心は 別のことを思いよる
 それでも責めることは ひとつもありゃせん
 誰でも弱いうそつき 弱いほどに罪深い

 本作品の世界観はこの歌のそれに似ている。綾野剛が演じる主人公今野は人柄のいいゲイの青年だ。田舎の未通女(おぼこ)が正体の知れぬ都会の男に惹かれるようにして、松田龍平が演じる日浅に惹かれる。しかし凡その都会の男がそうであるように、日浅も実は底の浅いつまらない人間だ。

 人が嘘を吐(つ)くのは山崎ハコの歌の通り、弱いからである。自分の価値観がないか、または信じ切れず、世間の価値観に負けてしまっているから、それで嘘を吐く。虚栄心は世間の価値観に依存している証だ。例えばゴータマ・ブッダには虚栄心はない。世間の価値観も時代のパラダイムも、ゴータマの前では何の意味も成さないからである。だからゴータマは決して嘘を吐かない。イエスもマホメットも同様である。世間の価値観から自由になって独自の価値観を説いた人々は、弱さを克服した人々なのだ。
 思えば世界は弱い人で溢れ、嘘で満ちている。世の価値観から自由になって寛容さを獲得するのは至難の業だ。世間がそれを許さないという側面もある。異分子に対する弾圧はいつの世も自由な人を苦しめてきた。弱い人は自由な人を許さない。世に蔓延するヘイトスピーチはその現れだ。

 主人公今野の生き方は美しい。寛容であり、嘘を吐かない。外見からは想像しづらい強さがある。弱い人を守ろうとする優しさがある。人は強くなければ優しくなれない。本当に強い人は弱そうに見えるものなのである。綾野剛は名演だった。日浅には今野の強さが見えていなかった。それが見えていたのは、中村倫也が演じた副島だけである。
 それに対して日浅は弱かった。松田龍平の演技もまた見事である。日浅は禁煙の場所で喫煙し、利いた風な口を利くが、その実、内心では世間の価値観に負けてペシャンコになっている。弱い人ほど虚勢を張って強いフリをするものだ。しかし誰も彼を笑えない。二十歳の山崎ハコが歌ったように、誰でも弱いうそつきなのだ。責めることなどできやしない。


映画「La promessa dell'alba」(邦題「母との約束、250通の手紙」)

2020年02月14日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「La promessa dell'alba」(邦題「母との約束、250通の手紙」)を観た。
 https://250letters.jp/

 幼い頃の魂が幼いままに人生を放浪するような物語である。ひとりの少年とその母の半生を描いた極めてプライベートな物語なのに、どこか一大スペクタクルを見たようなスケール感がある。満足感を通り越して満腹感がある。凄い作品だ
 中原中也に「頑是ない歌」という詩がある。「思えば遠く来たもんだ」ではじまる有名な詩だ。十二の歳から世帯を持って子の親になるに至った、思えば長い道のりだった、どこまで行っても十二の歳の魂はついて来る、そんな詩である。
 本作品のロマンも、成長するにつれて世間ズレしたり人扱いが上手くなったりするが、魂は決してブレない。母の厳しい愛情を一身に受け、沢山の忠告と励ましの言葉を聞かされた子供の頃の記憶は大事に保たれ、必ずしもフランス万歳という母の価値観は共有しないものの、母の優しさだけは残っている。

 物語のテンポがよくて、ロマンの成長と体験がよく分かる。聖人ではないが、悪意のない優しい大人に育った。波乱万丈の人生を送っても、心の奥底には母の優しさがある。そして母の励ましがある。だから母と同じように人に優しくなれる。母と違って思い込みがないから、母ほど他人に厳しくはない。
 映画の原題の「La promessa dell'alba」(夜明けの約束)は、ロマンの自叙伝的小説のタイトルでもある。その原稿をロマンの妻が読むという形式で、読んでいる内容が映像化されたのがこの映画だと言っていい。安心感のあるこの二重構造に支えられて、母とロマンの放浪がリアルに描かれる。エキセントリックで思い込みの激しい母だが、ロマンは幼い頃から自分が母の愛に包まれていることを知っている。これほど愛されたことも、これほど愛したこともない。
 母の愛と優しさは、その底なしの深さによってロマンを絶望に追い込むことになるのだが、それはまた別の物語だ。息つく暇もなく鑑賞できて、鑑賞後には強い印象が残る。台詞も映像も音響も役者陣の演技も素晴らしい。非の打ち所のない傑作である。