三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「旅のおわり世界のはじまり」

2019年06月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「旅のおわり世界のはじまり」を観た。
 https://tabisekamovie.com/

 黒沢清監督の作品はこれまでにふたつ観た。ひとつは「クリーピー 偽りの隣人」で、もうひとつは「散歩する侵略者」である。どちらも普通に見える人が実は殺人鬼だったり宇宙人だったりするという話で、人は誰も仮面を被っていて仮面の下にはまったく違う素顔が隠れている、その極端な例を描いていたと思う。なかなか面白かった。
 本作品はそれらとは逆に主人公の仮面の内側から世界を見ているようで、見知らぬ土地での不安や恐怖感を主人公と共有する。言葉がまったく通じない状況では誰でも疑心暗鬼になって他人の悪意を疑ってしまう。街なかは常に小走りだったり、何かを言われると必ずノー!と言ってしまったりするのは殆ど条件反射である。
 それでも仕事となると話は別だ。バラエティ番組のリポーターとしての役割をよく自覚している主人公は、カメラが回った瞬間に気持ちを切り換えて肯定的な言葉を連発する。仕事とは人格と時間をスポイルされることである。不味くても美味しい、気持ち悪くなる遊具を楽しいと、笑顔でリポートする。テレビに真実は要らないのだ。そしてそういうところにこの映画に漂う徒労感と無力感がある。不愉快に思う観客もいるだろう。
 しかしそれこそ本作品の狙いなのではなかろうか。意味のない虚しい現実を描き、そこに放り込まれた主人公の葛藤を表現することで、ラストシーンが救いになる。中央アジアの美しい山々は、旅の終わりと言うに相応しい。ここから主人公の新しい人生がはじまるのだ。

 主人公を演じた前田敦子は「さよなら歌舞伎町」での演技はそこそこだったが、本作品の演技はとてもよかったと思う。ときに弱くときに強い女心の気まぐれを上手に演じていた。
 脇役陣は達者な人ばかりで、それぞれなりに主人公を見守る。特に染谷将太がかなりの好演で、企画をゴリ押しするテレビマンもそれなりに心の闇を抱えていることがよくわかる。この人は「さよなら歌舞伎町」でも斜に構えた青年を好演していた。

 たくさんの消防士が死んでも彼氏だけが無事であればいいのかというツッコミはひとまず横に置いておくとして、愛の讃歌がエディット・ピアフの原詞に近いほうの訳詞で歌われていたのはこの映画に合っている。この歌が選ばれたのは原詞のbout du monde(世界の果て)からきているのだと思う。そしてウズベキスタンは、パリから行くとしたらまさに地の果てであり、日本から見ても遠い異国の地である。今後はウズベキスタンと聞くとこの作品のイメージが浮かぶことになるだろう。穏やかな通訳の男性、ちゃんとした料理を作ってくれた食堂のおばちゃん、それに紳士的な警察官。「ウズベキスタンはいい人ばかり」という主人公の台詞を信じてみたい気がする。


自衛隊はいらない

2019年06月19日 | 政治・社会・会社

 交番を襲うのは元自衛官と決まっているのだろうか。令和元年の今年もまた大阪の交番が元自衛官に襲われた。西武新宿線の中村橋駅の交番がひとりの元自衛官に襲われて警官二人が殺されたのは奇しくも平成元年だった。
 警官は自衛官に比べて近接格闘に圧倒的に弱い。自衛官の訓練が拳銃や小銃、ナイフなどを持つ屈強な男を想定して、相手を殺すことを目的としているのに対して、警官は一般人を相手の逮捕術の訓練しか受けていない。警官は丸腰の素人にしか勝てないのだ。
 訓練の差は覚悟の差でもある。自衛官は軍人だから人を殺すのに一瞬の躊躇もない。しかし警官はもともと人を殺すことを目的としていない。だから発砲するのは勿論、特殊警棒で殴打することさえ躊躇いがある。その差は決定的であり、闘う前から勝負は見えている。
 警官が自衛官並みの訓練をすればいいというのではない。それでは治安の悪いアメリカみたいな社会みたいになってしまう。暴力に暴力で対抗しようとするとどこまでもエスカレートする。武器から兵器への移行は境目がないから、個人の武器争いがいつの間にか国家の軍事力競争になる。アメリカは個人から国家まで武装している。日本で武器を揃えている連中がいるとしたら、暴力団か半グレ集団だ。ろくでなしである。アメリカは国家総出でろくでなしということなのだ。
 日本がそうならないためにも、自衛隊は解体する必要がある。武器や格闘術を放棄して、災害対策専門の部隊となればいいではないか。毎年5兆円もの経費をかけて、憲法で放棄しているはずの戦争の準備をするくらいなら、自衛隊などないほうがいい。自衛隊は階級社会だから、かつての日本軍のような陰湿ないじめが発生しやすい。自殺者も多分相当数に上るだろう。
 元自衛官であることをクローズアップすれば、自衛隊が抱える問題もクローズアップすることになる。だから報道は犯人の父親がテレビ局の常務であることばかりを報ずる。しかも内輪に甘いからしばらくはこの情報さえ出さなかった。このまま自衛隊が存続すれば、いずれはペルシア湾に派遣せざるを得なくなるだろう。戦闘になれば戦死者も出る。世界に誇る憲法第9条がなし崩しに破られてしまうのは見たくないのだ。


映画「歎異抄をひらく」

2019年06月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「歎異抄をひらく」を観た。
 https://tannisho.jp/

 アニメの作り込みは今ひとつ。しゃべるのに鼻から上がまったく動かないで口だけ動くのは昭和のアニメのレベルである。最近のアニメはもう少し細かく出来ている気がする。声優陣は熱演で、アニメの不備を補っていた。
 親鸞といえば悪人正機説が有名だ。本作品では善人が救われるならそれ以上に悪人が救われるという悪人正機の考え方を中心に、善とは何か悪とは何か、善人とはどんな人か、悪人とはどんな人かを説いていく。
 しかしその説法に違和感があった。浄土真宗の開祖にしては言葉が浅いのだ。宗教を興すのはそれまでの宗教とは違った考え方を持っているからであり、つまり思索の人が新しく宗教を興す。にもかかわらず本作品の親鸞は一方的に浄土宗から引き継いだ悪人正機を説くだけだ。とても思索の人とは思えない。実際の親鸞は全然違うと思う。
 深みのない言葉に子供が納得するわけがないのに、いきなり説法を聞いた子供がその言葉に驚いて感心するのはリアリティに欠けると言わざるを得ない。ご都合主義的な臭いを感じた。
 平次郎たちの成長物語としてもいまひとつ。波乱万丈とまでは行かなくても、人生には紆余曲折があるはずだ。うわべは坦々と過ぎていったにしても、内面には苦悩や葛藤があって当然である。しかしそれが感じられなかった。ただ親鸞の言葉に感心し従うだけの若者というのは真実味に乏しい。おかげで物語に立体感も深みもなく、平板で底の浅いドラマになってしまった。親鸞という人物を掘り下げた物語が観られると思っていただけに、少しがっかりした。

 しかしこの作品のおかげで親鸞という人がどういう人だったのか興味が湧いた。五木寛之さんの「親鸞」を読んでみることにする。


映画「Men in Black international」

2019年06月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Men in Black international」を観た。
 http://www.meninblack.jp/

 若干退屈な作品。ウィル・スミスとトミー・リー・ジョーンズが主演した前作品と同等の面白さを期待していただけに残念である。TBSの王様のブランチでLiLiCoが褒めていたが、あれはほぼプロパガンダだからあまり気にしないことにしていた。それでも言葉の影響力はゼロではないから、心の底で期待を膨らませていたのかもしれない。テレビの映画評論は見ないに越したことはないのだ。
 考えてみれば前作までは宇宙難民たちの臭いや触感まで具体的に表現していて、少し気持ち悪い部分もあったが五感に訴えてくる迫力があった。しかし本作品は視覚と聴覚だけだ。リアリティに欠けるから怖さはゼロに近くなる。敵が怖くなければ面白さは半減する。主人公の活躍がパッとしないのだ。
 こういった娯楽作品は、キャラクター設定で笑わせたり、CGがすごかったり、主人公の活躍が爽快だったりすることで気分が上がるものだ。本作品はコースに起伏もバンカーもないゴルフを見ているようで、面白さとはほど遠かった。
 黒人と白人のコンビという点では前作までと同じだが、役者の演技に思い切りがない。前作までが主人公がひどい目にあっていたのに、本作品の主人公たちは顔も洋服も綺麗なままだ。ウィル・スミスは表情豊かな俳優だが、クリス・ヘムズワースは表情に乏しい。トミー・リー・ジョーンズのとぼけて飄々としているところが笑いを誘ったが、本作のテッサ・トンプソンにはそんなおおらかさを感じなかった。作品としてはSFコメディという位置づけでいいと思うが、それにしてはアクションも笑いも今ひとつで、評価できる要素に乏しかった。


ピアニスターHIROSHI リサイタル

2019年06月17日 | 映画・舞台・コンサート

 上野の東京文化会館大ホールでピアニスター「HIROSHI」のコンサートを観た。HIROSHIさんはかなり前にテレビで紹介されていて、面白いピアノを引く人だなという印象だった。調べてみたら、もうリサイタルを20回もやっていて、今年が20周年の21回目だそうである。1階は満席、2階席も相当に埋まっていたから多分2000人は入っていたと思う。
 東京藝術大学出身だけあって、正統派のクラシックは普通に弾きこなすが、2つ以上の曲をミックスして弾くのが効いていてとても面白い。無限と言っていいレパートリーはクラシックからジャズ、ポップス、民謡、童謡まで多岐にわたる。
 客席からタイトルをしりとりでもらって連続で弾くのがどうやらリサイタルのハイライトのようで、川の流れのように~日曜はダメよ~与作~くちなしの花~渚のアデリーヌ~盗んで開いて?~鉄道唱歌~などをうまくつないで弾いたときは客席が大いに盛り上がり、この日一番の拍手が起きた。
 合間には花束を渡す人がたくさんいて、テレビには出ていないけれどもコアなファンがいる人なのだと理解した。もうすぐ還暦になるそうだが、まだまだ指はなめらかに動いている。次回も観たいと思う。


映画「誰もがそれを知っている」

2019年06月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「誰もがそれを知っている」を観た。
 https://longride.jp/everybodyknows/

 予告編以外の情報なしで鑑賞したが、ストーリーは解りやすくて戸惑うことはない。家族と親戚が集まってくる長閑なシーンからはじまり、G線上のアリアが印象的な結婚式とそれに続く宴会はトラディショナルで楽しそうだが、記念のビデオをドローンで撮影するところは現代的で、スペインの田舎にもハイテクが入り込んでいる様子が窺える。
 事件発生以降はホームドラマが急にサスペンスに変わった感じで、観ている側も少し緊張する。起承転結のお手本のような作品で、登場人物同士の関係性はタイトルの意味も含めて徐々に明らかになる。このあたりの作り方は実にうまい。
 登場人物それぞれが何を考えているのか、どういう性格なのかが解ってくると、この村の人間関係がどのようであるかが浮かび上がる。結婚式に招かれた人々、そして来なかった人々。家族と友人の間に金が絡んできて、愛憎だけでなく損得の感情も生まれ、人間関係はさらに複雑になる。
 役者陣は喜怒哀楽の表情豊かなラテン人を自然に演じていて、ドラマの世界にスッと浸ることができた。誰がどのような決断をするのか。葛藤と相克でドラマは立体的に構成されていく。そのへんがとても面白くて、飽きることがない。登場人物が決断を迫られる場面が何度かあり、違う決断をしていればどうなったのかと考えてみたりする。登場人物と一緒になって観客も迷う。
 誘拐は悲劇しかもたらさない。邦画「64(ロクヨン)」でもそうだった。人間の欲望は他人を陥れてまで自分が楽をしようとする。その結果人間関係は破綻し、自分も他人も不幸になるだけだ。それでも誘拐は起きる。中には国家による誘拐もある。人間はどこまでいっても救いようがないのだ。


映画「コレット」

2019年06月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「コレット」を観た。
 https://colette-movie.jp/

 田舎の少女の成長物語はオルコットの「若草物語」やモンゴメリの「赤毛のアン」などがあり、世の共感を得てベストセラーになっている。サリンジャーの「The Catcher in the Rye」と同じで、自分と似たような感性の主人公が生き生きと描かれる様子を読めば即ち自分自身が肯定されている気がするのだ。コレットの「クロディーヌ」も同様であっただろうと思う。
 本作品ではそういう牧歌的な小説とは乖離した、作者の自由奔放な生き様が描かれる。逆に言えば、パリでの都会生活が故に長閑な田舎暮らしを表現できたのかもしれない。それほど都会の生活は損得勘定に塗れ欺瞞に満ちたものだったのだ。
 そして「クロディーヌ」の好評で自信をつけた彼女は封建的な価値観と虚栄の社会に反旗を翻す。それは「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの生き方にも似て、退屈な男性社会に風穴をあけるものだった。
 終始、挑戦的で挑発的な彼女の生き方が描かれるが、自分の欲望に忠実な振る舞いばかりを見せられると、最後には主人公が少し嫌いになってしまった。それは多分優しさの欠如であり、葛藤の欠如であると思う。コレットの魂が見えてこないのだ。どうしてこうなってしまったのか。
 作中でコレットが書く文章はフランス語である。しかし映画はすべて英語だ。配偶者の浮気には寛容な筈のフランス人が嫉妬を露わにするシーンに首を傾げてしまった。
 ウエストモアランド監督は「アリスのままで」ではジュリアン・ムーアの豊かな表情を通じて若年性アルツハイマー病の苦悩を見せてくれたが、本作品では結局フランス人女流作家の我儘ぶりを見せられただけだ。
 コレットは仮にも物書きである。もう少し複雑で奥行きのある精神の持ち主だったのではないかと思う。ちょっと残念な感想になってしまった。


映画「町田くんの世界」

2019年06月14日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「町田くんの世界」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/machidakun-movie/

 ふたつのテーマが同時進行する。ひとつは高校生の恋愛事情である。主人公の町田くん以外は今どきの高校生らしく性知識もあり、同級生を演じた前田敦子の台詞のように、マンガや恋愛ドラマのパターンで他人の恋愛を分析しようとする。恋愛は相手と一緒にいたい、触れ合いたいという気持ちのことで、つまりは性欲である。しかしそれだけではない。性の一致は勿論互いの相性という点で大きな要素ではあるが、どんなに相性がよくてもしばらくすると飽きる。子供が常に新しい玩具を欲しがるのと一緒である。別に恋愛が長続きすることがいいという訳ではない。ただ性の充足以外にも恋愛の喜びはある。同じ価値観の共有であったり感性の一致であったり、そういったことが二人により大きな幸福をもたらす。そしてこのあたりまでは、どうやら高校生たちもなんとなく理解しているようである。
 しかし町田くんはそんな段階を飛び越えて更に上を行く。それは人を憎むことを知らない博愛の精神である。生まれてこのかた好き嫌いなど無関係に生きてきた。町田くんの世界には敵も味方も存在しない。先日観た映画「幸福なラザロ」とそっくりで、ただ人が喜ぶことが自分の喜びであるという珍しい承認欲求の持ち主だ。欲望から出発した恋愛観を持つ高校生たちが町田くんの前では軒並み自分が駄目な人間に思えるのは当然である。そしてこのことはもうひとつのテーマにも繋がっていく。
 そのもうひとつのテーマというのが池松壮亮や佐藤浩市の台詞に表れるペシミズムやニヒリズムである。世の中は悪意に満ちているという実感のこもった池松壮亮演じる雑誌記者の文章は誰もが頷くところである。しかしその考えを根底から覆す存在が、すなわち町田くんなのだ。必然的に雑誌記者は町田くんのことが気になって仕方がない。人の悪意をものともしない、その圧倒的な善意は一体どこから来るのだろう。
 一方町田くんは、初めて感じたオスとしての本能というか、つまり恋愛感情に戸惑う。日頃の聖人のような姿とのギャップが笑える。誰も傷つかない笑いであり、製作者の喜劇づくりの技量を感じるところだ。
 ラストにかけて荒唐無稽なシーンが連続するが、コメディであることを考えれば、これもまたありかと思う。無垢で純真な善意が周囲を幸福にするというお伽噺ではあるが、こういう話があってもいいと思う。主人公の善意にほっとする良作である。


映画「長いお別れ」

2019年06月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「長いお別れ」を観た。
 http://nagaiowakare.asmik-ace.co.jp/

 山﨑努は宮本信子主演の1985年の映画「タンポポ」で安岡力也と殴り合いの喧嘩を力一杯演じていたのが遠い昔になった。伊丹十三監督の妹の夫の大江健三郎がノーベル賞を受賞したのが1994年で、伊丹十三が亡くなったのが1997年。一方山﨑努は映画に出続けて、たくさんの役をこなしてきた。今回はとうとう痴呆の老人の役である。
 痴呆症を扱った映画で当方が鑑賞したのは、ひとつはジュリアン・ムーア主演の「アリスのままで」である。現役の大学教授が若年性アルツハイマー病を突然発症した設定で、アルツハイマー病の遺伝子の問題もあり、家族それぞれが苦悩する話である。
 もうひとつは升毅主演の「八重子のハミング」である。こちらは介護の現場を生々しく表現した作品で、妻の若年性アルツハイマー病とどのように向き合ったかを夫が講演会で話し、都度思い出のシーンが挿入される構成だった。升毅と高橋洋子の演技が凄くて多くの人が感動したと思う。

 中野量太監督は前作の「湯を沸かすほどの熱い愛」でも家族愛を描いたが、本作でも同じように家族愛を描く。そして前作では死んでいく人間の覚悟を描いたが、本作では死んでいく人を見守る家族を描いた。要するに家族愛と死がこの監督の大きなテーマなのだ。
 どのように生きるかは、どのように死ぬかとほぼ同じことである。生は死を内包するが、人は生きているうちに死を経験することはできない。死の認識はどこまでも介在的で、他人の死を見て自分の死を想定するしかないのである。
 死は恐ろしい。大抵の未知のものは恐ろしいが、死は凄絶な痛みを伴うように思えて、先ずそれが恐ろしい。明日食べようと冷蔵庫に入れたスイーツを食べないまま死ぬのも口惜しい。予約した芝居やコンサートに行けないのも残念だ。大きなプロジェクトの途中だったのに完成を見ないで死ぬのは心残りである。死が恐ろしいのは恐怖だけでなく、生への執着があるからなのだ。死は生のすべてを奪う。死の恐怖と不安、そして生への執着は人間の根源的な不幸である。恐怖と不安は幸福な悟りの境地である涅槃の対極にあるのだ。
 人間は恐れ慄きながら死ぬ場合もあるが、歳を取って死と自然に向き合いながら、それを迎え入れるように死ぬ場合がある。人がボケるのは死の恐怖と生への執着から解放されるためかもしれない。山﨑努が演じた本作品の主人公はとてもいい表情をしている。そこには恐怖も不安もない。生への執着もない。そういう状態になればもういつ死んでもいいのだ。
 樹木希林さんが生前、しばらく絶食していてだんだん食べ物に対する欲求が消えていくと今なら死ねると思ったという話をしていた。食欲は生きるための基本的な欲求だから、それがなくなるということは死んでもいい準備ができたということなのかもしれない。ボケた老人は菩提薩埵よりも仏に近いのだ。

 作品は中野監督らしくほのぼのとして泣ける話である。心に残るいいシーンがたくさんある映画で、ローレライのメロディで回るメリーゴーランドに乗るお父さんと、それを見上げて声をかけながら手を振るお母さんと娘たちのシーンはとても印象的だった。それに特急列車で長年連れ添っている愛妻に改めてプロポーズするシーンは、松原智恵子の名演もあって胸に染みた。家族の優しさが溢れる佳作である。


芝居「化粧ニ題」

2019年06月08日 | 映画・舞台・コンサート

 新宿のタカシマヤサザンシアターで井上ひさし脚本の「化粧ニ題」を観た。有森也実と内野聖陽のそれぞれの一人芝居を続けて上演する芝居である。
 子供を捨てた母親と捨てられた子供がともに劇団の座長で、本番の前に鏡に向かって化粧をし衣装を整えながら台詞を言う。それぞれに来客があり、母親の客は子供の居場所がわかったから会いに行くのをすすめ、息子の客は客席に母親を連れて来たと言う。
 井上ひさしらしく所々に決め台詞を鏤めながら機関銃のようにまくしたてるので、注意深く聞いていても聞き逃した台詞がある。しかしふたりとも表情が達者で、それぞれに複雑な気持ちがよく伝わってくる。見事な舞台であった。