三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Maudie」(邦題「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」)

2018年03月27日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Maudie」(邦題「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」)を観た。
 http://shiawase-enogu.jp/

 知り合いにひとり、リウマチの女性がいる。頭のいい、仕事のできる人で、いつも明るくにこやかだが、使っているボールペンには柔らかい布が厚く巻かれている。硬いペンが指に当たるととても痛いのだそうだ。彼女も本作品のモードと同様に痩せ細っている。そしてモードと同様に、誰に対しても優しく振る舞う。
 彼女の様子を見る限り、リウマチは日常生活ができないほどではないが、痛みは相当につらいようである。座敷の和食店で木の床に膝をつくだけでもかなり痛いそうだ。
 痛みを我慢しながら生きているからこそ、他人の痛みが想像でき、そして他人に優しくできるのかもしれない。
 モードの優しさもまた、生きているだけでつらいこの世の中のつらさを理解している優しさだ。そこには見栄や驕りは微塵もない。ただただ真っすぐ正直に世の中を見つめて、美しいものを美しいと感じ、生きていることを素晴らしいことだと認める。そしてそれを絵にする。絵は描く人の優しさを投影し、人はそこに彼女の魂を見る。
 サリー・ホーキンスはアカデミー作品賞の「シェイプオブウォーター」の主演でもあり、今年は何かと話題の女優だ。まさに脂が乗り切っていると言っていい圧倒的な演技で、観客をひとり残らず惹き付ける。


映画「去年の冬、きみと別れ」

2018年03月27日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「去年の冬、きみと別れ」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/fuyu-kimi/

 岩田剛典は2016年の「植物図鑑」のときの演技に比べると、見違えるように上手くなった。真意を隠しながら仇敵にアプローチするというややこしい役柄をリアリティの感じられる演技でこなしていた。
 猟奇殺人事件とその真相を追うジャーナリストという構図が、物語が進むにつれて徐々に崩されていくプロットは、とても優れている。「全員、ダマされる」というキャッチフレーズも強ち大袈裟ではない。
 殺人の量刑は懲役5年から死刑まで幅広いが、放火も同じく懲役5年から死刑まである。二つが合わさった放火殺人となると、死刑になる確率が一気に上がりそうだ。この作品のリアリティはそういった法律的な側面にも裏打ちされている。
 山本美月も相当に演技力が鍛えられていて、このややこしい作品でもなるほどと頷かせる演技をしていた。監督の演出も要所要所で作品の世界観から逸脱しないように気を配っているように見える。
 プロットも役者の演技も監督の演出もとても優れた傑作だと思う。


映画「Tomb Raider」(邦題「トゥームレイダー ファーストミッション」)

2018年03月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Tomb Raider」(邦題「トゥームレイダー ファーストミッション」)を観た。

 http://wwws.warnerbros.co.jp/tombraider/

 トゥーム・レイダーはプレイステーションのゲームシリーズもやったし、アンジェリーナ・ジョリー主演の映画も観た。いずれも無敵の主人公が無尽蔵のスタミナでどこまでも活躍する内容だ。
 しかし本作品の主人公は、運動をやっている女性なりの身体能力はあるものの、比較的普通の女の子である。それが普通でない大冒険をするものだから、ハラハラしてとても楽しめる。共演のダニエル・ウーの演技も達者である。ただ、ゲームを攻略本などのヒントなしでやった者としては、謎解きの場面をもう少しじっくりやってほしかった。アクションばかりが続いて、少し慌ただしい作品になってしまったところがある。

 アリシア・ビカンダーは「エクス・マキナ」の印象が強烈で、エロス溢れる女性ロボットの役だったが、本作では一転して健康な若い女性を演じている。その間に相当に体を鍛えたようで「エクス・マキナ」のときに比べて筋肉が凄い。見上げた女優根性である。表情も声もいい。

 邦題に「ファーストミッション」という副題を付けたものだから、誰でもセカンドミッションもあるのかなと想像してしまう。ネタバレの邦題だと言われないためにも、ここは原題のままでよかった気がする。


映画「blank13」

2018年03月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「blank13」を観た。
 http://www.blank13.com/

 昔、かぐや姫というフォークグループが「赤ちょうちん」という歌を歌っていた。その2番に「生きてることはただそれだけで哀しいことだと知りました」という歌詞がある。

 リリー・フランキーが父親、神野三鈴が母親、斎藤工が長男で高橋一生が次男という4人家族。
 人は往々にして準備も稽古も不足のまま子供を作る。子供は目的があって生まれてくる訳ではない。サルトルが言うように、人間は職人の頭の中にあるペーパーナイフではないのだ。
 生きることは苦しむことだから、人間は基本的に不幸である。人生は苦痛と恐怖に満ちているのだ。人間が生きているのは苦痛と恐怖を愛しているからだと、ドストエフスキーは看破する。

 本作品の登場人物はいずれも不幸な人々である。不幸であることを前提に、日々の小さな幸せに縋りつきながら生きている。しかし彼らは言う。自分は幸せだと。この世界観は素晴らしい。
 リリー・フランキーや高橋一生が時折見せる笑顔は、小さな幸せを上手に演技している。斎藤工の演出も世界観をうまく表現している。
 小品だが心に残る佳作である。


映画「Le confessioni」(邦題「修道士は沈黙する」)

2018年03月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Le confessioni」(邦題「修道士は沈黙する」)を観た。
 http://shudoshi-chinmoku.jp/

 貨幣は経済の血液という。血液は酸素や二酸化炭素だけでなく、いろいろなものを運ぶ。それで生物の活動や新陳代謝が成り立っている。貨幣も同じように社会の隅々に行き渡り、経済活動を容易にする。物々交換に比べて貨幣のほうがずっと効率的なのだ。
 何にでも交換できる貨幣は、たくさん集めることで交換できる物の種類や量が飛躍的に増加する。つまり金持ちの誕生である。そして貨幣を他人に期間を決めて貸し出し、利息を取ることを思いつく。金融のはじまりだ。
 資本主義が発達して貨幣に資本という別の価値を生むと、資本が金融と結びついて金融資本主義となる。資本は付加価値を生み出すから、金融は資本と資本、貨幣と貨幣の間を渡り歩くだけで莫大な利益を得ることができる。マネーゲームである。
 インターネットを頂点とする通信技術の進化によってマネーゲームはスピードアップしていく。と同時に、金融強者と金融弱者、ネット強者とネット弱者などの要因で、金銭的な格差もスピードアップする。持てる者は格差を固定化して変わらぬ夢を見続けようとし、持てない者は格差を解消する夢を持ち続ける。
 持てる者は権力を掌握していて非常に有利だが、数は持てない者が圧倒している。持てる者はいつか滅びるが、持てない者の中から次の持てる者が現れる。それは歴史の通りである。

 さて、本作品は格差を巡る覇権争いや権力闘争の深謀が、にこやかなうわべの裏で火花を散らす国際会議の開催中に、利害の外にいる聖職者がどのようにかかわり合うかを静かに描いている。神という絶対的存在に対して人間の価値観はなべて相対的である。今だけ、自分だけ、金だけという刹那的な価値観を修道士から一喝されると、頭脳明晰な出席者たちは、まさに頭脳明晰であるが故に反論の言葉を持たない。
 金融資本主義が世界中で固定的な格差を生み出し続ける世の中で、相対的な価値観に倦みはじめるのは、貧乏人よりもむしろ金持ちだ。今だけ、自分だけ、金だけという金持ちに神の許しを与える聖職者はいないだろう。ある意味胸のつかえがおりるような、爽快感のある映画であった。


映画「Mark Felt: The Man Who Brought Down the White House」(邦題「ザ・シークレットマン」)

2018年03月22日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Mark Felt: The Man Who Brought Down the White House」(邦題「ザ・シークレットマン」)を観た。
 http://secretman-movie.com/

 ダスティン・ホフマンがワシントンポスト紙の記者を演じた「大統領の陰謀」に対して本作品は別の角度からウォーターゲート事件を扱っている。アメリカの政治学者の投票で史上最低にランキングされたドナルド・トランプが大統領を務めているいま、この作品が作られた背景は明白だ。3月30日にはメリル・ストリープとトム・ハンクスの「The Post ペンタゴン・ペーパーズ」が日本で公開される。

 リーアム・ニーソン演じる主人公は「フライトゲーム」のときのように、刻々と変わる状況を冷静に分析して敏感に反応する。現場のエージェントとは違って、管理部門の彼の武器はひたすら言葉だけだ。政治的な力関係を意識しつつ、第4の権力たるマスコミを上手に利用する。
 実話に基づく話なので結末は誰もが知る通りだが、言論の自由を守ろうとするアメリカのマスコミの姿勢は、日本のマスコミとまったく違っていると改めて思う。権力に阿る日本のマスコミは、戦前の大本営発表みたいに再び日本を戦争の惨禍に導こうとしている。言論人としての矜持があるなら、人間の内心の自由、言論の自由をどこまでも守り抜くために権力と戦う姿勢を見せてほしいところだが、権力者と食事やゴルフをしているようでは話にならない。国民の自由よりも自分の企業を守りたいようだ。
 役人は英語でpublic servantだ。publicは公のという意味で、servantは奴隷である。滅私奉公、民主主義のために自分の利益を捨てる覚悟がなければいけない。しかし我々が官僚に対して持つイメージは、保身、出世、前例主義など、マイナスの側面しかない。
 本作品の主人公のような、権力者の陰謀を告発する勇気がある役人は日本には出現しないだろう。日本社会は自由を守る構造になっていないのだ。


映画「空海 KU-KAI 美しき王妃の謎」

2018年03月22日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「空海 KU-KAI 美しき王妃の謎」を観た。
 http://ku-kai-movie.jp/

 世界三大美人のひとりである楊貴妃を演じるのは、どんな美人女優にとっても荷が重いのではなかろうか。予告編を見てそんなことを思った。
 しかし映画は楊貴妃の美人度にそれほど左右されないストーリーで、ある程度以上の美人なら大丈夫だ。容貌よりも楊貴妃の人となりの方が気になる展開だった。
 染谷将太は演技派の俳優らしく、悟りを開きつつある空海を好演。白楽天を演じた中国の俳優との掛け合いも見ごたえがある。
 栄華を極めた玄宗皇帝といえども、ひとたび権力闘争に巻き込まれれば、権威は相対化され、限りある肉体を持つひ弱な個人となってしまう。そしてそこにドラマがある。
 日本語吹き替えで観賞したが、本人の吹き替えに若干の違和感があったので、全編中国語の字幕バージョンも観たかった気がする。
 とはいえ言語にかかわらず、とても見ごたえのある大人向けのオリエンタルファンタジーであることは間違いない。


映画「The 15:17 to Paris」

2018年03月12日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The 15:17 to Paris」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/1517toparis/

 走る列車の中でテロリストを退治するだけで映画ができるのかなという疑問があった。以前にも似たような疑問を抱いた映画がある。メル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」である。
 しかし心配は杞憂に終わった。いずれの作品もハイライトのシーンに至るまでの主人公の人生が一定のベクトルで描かれているので、クライマックスに説得力がある。
 本作では主人公が3人いるので、それぞれの人生を描くと同時に、互いの関わり合いも描かなければならないが、イーストウッド監督はその辺りが実にうまい。

 人間が極限状況に置かれたとき、咄嗟にどういう行動をするのか。それはそれまでのその人の人生が大きく影響する。人間の行動はニュートン力学における運動と同じで、方向と速さとエネルギーがある。ひとつの行動は次の行動に影響する。どんな行動を選択するかによって次の行動の方向性が決まってくるのだ。何かが起きたときに人を助ける行動をするためには、日頃から人を助ける方向性の行動を連続する人生を歩んでいなければならない。咄嗟の行動にはその人の人生があるのだ。
 本作は実話で、本人が自分の役を演じているとのことである。咄嗟に身を挺して人を救う行動は英雄的であるが、褒めたたえるべきはその行動をもたらしたそれまでの人生であり、生き方であり、行動の数々である。イーストウッドらしいスケールの大きな世界観で、作品としても格調の高い映画になった。


舞台「シャンハイムーン」

2018年03月11日 | 映画・舞台・コンサート

 世田谷パブリックシアターで劇団こまつ座の芝居「シャンハイムーン」を観た。
 https://setagaya-pt.jp/performances/201802shanghaimoon.html

 上海での魯迅と日本人居住者との関わり合いを描いたヒューマンドラマで、井上ひさしらしい人間愛に溢れた芝居である。野村萬斎が魯迅を演じ、理論的でありながら頑固でもある人柄を生き生きと表現していた。この人の芝居は本当にハズレがない。
 魯迅の夫人役の広末涼子は意外と地味な印象だった。2年前にPARCO劇場で観た「猟銃」の中谷美紀さんが輝くような美しさだったので、同じようなオーラを期待していたが、ちょっと違っていた。演技は割といい。声ものびやかに出ているし発音もしっかりしている。芝居はとにかく言葉がちゃんと伝わるのが大事だ。まずは合格点といったところ。
 辻萬長、山崎一の二人が重要な役どころをしっかり押さえる。辻萬長は流石にこまつ座の俳優だけあって、井上ひさしの台詞の隅々を知り尽くしている。笑わせてくれるし、泣かせてもくれる。
 3時間5分(休憩15分)の長い芝居だったが、井上ひさしのこだわりの台詞が続いて、まったく飽きずに見られた。こまつ座の芝居は永作博美主演の「頭痛肩こり樋口一葉」と大谷亮介主演の「イヌの仇討」を観たが、今日の芝居も含めてどれも傑作だ。

 

映画「Beguiled」

2018年03月09日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Beguiled」を観た。
 http://beguiled.jp/

 日常生活に入り込んだ異物は、世界を一変させてしまう。日常が安定していると思っているのは実は間違いで、人間の生活は常に不安定な土壌の上に、危ういバランスで乗っているに過ぎない。日本でも軒先を貸して母屋を取られるという諺がある通り、必ずしも我々の生活の基盤は盤石ではない。そして平常から極限へと状況が変化する。入り込んだ異物によって、日常が異化される、つまり非日常となるのだ。
 女ばかりの中に若い男が紛れ込むとどうなるか、それは250年前もいまもあまり変わらない。科学や文明は進歩しても、人間そのものはそれほど進歩しないものだ。だからこの作品が成立する。人間は変化を夢見つつも、変化を恐れる。もし白馬の王子様が本当に現れたら、世の女性たちはみな引くだろう。勇気ある女性だけが彼と共に去る。誰が勇気を出すのか。女たちの駆け引きがさりげなく始まる。

 ニコル・キッドマンは年齢を経て、女の優しさや哀しみや喜びの入り交じった複雑な感情を複雑なまま表現できるようになった。本作では園の生活の安全と秩序を守らなければならない園長としての立場とひとりの女としての欲望が内心でせめぎあいつつも、うわべは平静を保ち続けようとする中年女性を見事に演じきった。
 この作品のハイライトは、燭台をもって男を部屋の入口まで送った仁コル・キッドマンが、男と見つめ合う場面だ。損得を計算する男と、欲望に突き動かされそうになる女。何が起きるのか。

 理性と欲望と計算とが、狭い園内に充満して、息が詰まるほど濃密な時間が過ぎていく。見終わってやっと、女たちの情念から解放された気分になる。