三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「La corrispondenza」(英題「Correspondence」邦題「ある天文学者の恋文」)

2016年09月30日 | 映画・舞台・コンサート

映画「La corrispondenza」(英題「Correspondence」邦題「ある天文学者の恋文」)を観た。
http://gaga.ne.jp/tenmongakusha/

女心の映画である。
だから観客は主演女優の表情を延々と見続けることになる。しかしそれがちっとも嫌じゃない。心の変化が手に取るようにわかるほど演技が昇華されていて、まったく飽きないのだ。
愛おしい、もどかしい、淋しい、懐かしい、不安、罪悪感、安堵など、彼女の感情がこちらの感情に共鳴して、彼女が息を呑むときにはこちらも同時に息を呑んでしまうほどだ。

主演のウクライナ美人オルガ・キュリレンコは、心身ともに成熟した36歳の女性のポテンシャルを存分に発揮していた。ときには柔道で男たち相手に投げ技の練習を演じたり、スタントマン役を体当たりでやったりする。そしてひとりのときは繊細な表情によって移り変わる女心を豊かに表現する。裸じゃなきゃおかしいだろうというところでは堂々とフルヌードで演じる。
トム・クルーズと共演した「オブリビオン」のときから、それまでに比べると一皮むけた印象だったが、ここにきて随分といい女優になったものだ。

映画では、教授の娘が主人公に、あなたが羨ましい、自分のことをあれほど愛してくれる男性は決して現れないだろうという意味のことを言う。この言葉が愛の物語としての作品の肝だと思う。男の私には教授の愛の深さがどれほどなのか想像がつかなかったが、おそらく女性には共感できる言葉なのだろう。たくさんの女性客が泣いていた。

地球に降り注ぐ星の光は、同じ銀河系の星でも千年から十万年も前に発した光だ。光の速度は無限ではないから、光源から観察者に届くまでに時間がかかる。地上から見えている月は1.3秒前の月、太陽は8分前の太陽、北極星は千年前の北極星である。つまり我々が見ているものはすべて過去の光景なのだ。

星の光のように、過去から愛が届く。そこに教授が天文学者でなければならない意味があったのだ。
音楽も風景もとても美しい、宝石のような映画である。


映画「By the sea」(邦題「白い帽子の女」)

2016年09月28日 | 映画・舞台・コンサート

映画「By the sea」(邦題「白い帽子の女」)を観た。
http://www.shiroiboushi.jp/

Pitt夫妻の離婚訴訟が報じられたばかりだが、平日16時45分のシアターは閑散としていた。話題性は必ずしも興行成績に結びつかないということだ。
舞台が南仏ということもあり、映画ではフランス語と英語が使われる。登場人物にアメリカ的な喧噪はなく、ホテルで過ごす夫婦の気怠い日々が淡々と過ぎていく。若い頃によく使っていた「アンニュイ」という言葉を思い出した。

映画は壊れかけた夫婦関係の話である。夫は懸命だが、妻は自分の殻に閉じこもっている。夫婦だけで過ごしていたら、いつまで経っても何も進展しないが、他人が絡むことによって、こんがらがった糸が微妙に解れていく。
夫婦間のコミュニケーションとセックスのありように主眼を置いた愛がテーマの、フランス人好みの映画のように見えるが、そうではない。フランス人なら世界の本質に迫ろうとする客観的な見方があるが、この映画にはそれがない。やっぱりアメリカ映画である。
あるのは妻ヴァネッサから見た世界だけだ。世界や他人がどうなるかではなく、自分がどう感じるかだけが問題なのだ。それは取りも直さず、監督脚本主演であるアンジーの世界観に等しい。

観客は振り回される夫ローランドに感情移入しても、妻ヴァネッサには感情移入できない。ローランドと同じようにヴァネッサのひとりよがりに振り回されるうちに、映画は終わる。最初から最後までヴァネッサの自分探しみたいな作品だ。アンジー監督が自分自身のためだけに作った、思い出のアルバムである。そこに等身大の女はおらず、愛もない。


映画「Sully」(邦題「ハドソン川の奇跡」)

2016年09月28日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Sully」(邦題「ハドソン川の奇跡」)を観た。
http://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/

俗物の自分としては、本当にこんな人がいたのか?と思ってしまう。主役のTom Hanksが演じるのは聖人のような機長だ。

ハドソン川の奇跡の実話は有名な話なので記憶にある人も多いだろう。凡百の映画監督がこの実話を映画化しようとすれば、まず乗客たちそれぞれの事情をオムニバス的に描き、それぞれの人生が乗っていることで飛行機を襲った危機を重大なものに感じさせる手法を使うだろう。そして無事に着水し、全員が無事でメデタシメデタシで終わるところだ。
しかしさすがにClint Eastwood監督である。凡人には決して思いつかない切り口で事故の本質に迫る。

機長には、42年間飛行機に乗ってきて随分と危ないこともあったが、常に無事に帰還できたという自負がある。だから着水が間違った選択だったという安全委員会の指摘は非常に心外である筈だ。しかし彼は決して怒ったり声を荒げたりすることはない。自分は仕事として正しい判断をしたのだし、委員たちは仕事として真実を追及しようとしているのだ。
機長が守りたかったのは自分のことではない。事故が起きたときはまず乗客乗員の生命を守ることに専念した。そして安全委員会の追及を受けたときは、家族の未来と同僚の名誉を守るために自分の判断の正しさを証明しようとした。いずれも無償の利他的な行為である。機長は筋金入りのヒューマニストなのだ。

Eastwood監督が描きたかったのは、このヒューマニズムだと思う。格差社会でギスギスしてしまったアメリカにも、こういう覚悟を決めたヒューマニストがいるのだということ。そして機長の言葉通り、救出に関わった誰もがヒューマニストであり、誰もがハドソン川の奇跡の主人公なのだということだ。いまのアメリカはナショナリストに席巻されてしまったが、少しでも良心が残っている人は、この映画を観て自分を恥ずかしく思うに違いない。

Tom Hanksのきっぱりとした英語の口調も作品を格調の高いものに押し上げている。監督、主演ともに見事な「仕事」である。


映画「Ya Tayr El Tayer」(英題「The Idol」邦題「歌声にのった少年」)

2016年09月28日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Ya Tayr El Tayer」(英題「The Idol」邦題「歌声にのった少年」)を観た。
http://utagoe-shonen.com/

「祖国」という言葉を世界からなくした方がいいと主張すれば、世界中から反発を食らうだろう。しかしいまやグローバル化の時代である。ヒトもモノも自由に行き来する。映画をはじめとして文化も自由に国家間を行き来し、我々は他国の文化を存分に享受している。
政治家の二重国籍を追求するような幼稚な精神性の国もあるが、世界は、自国も他国も公平に均等に尊重する時代になりつつある。外国を居住の拠点として世界中で活躍している人も多い。彼らにも祖国はあるが、祖国に拘泥する生き方はしていない。どこに生まれたかよりも、現在の自分の存在そのものを優先しているからだ。

祖国という言葉は、故郷という言葉に似ているが、ひとりの人間の故郷が他の人間の故郷に対立しないのに対して、ひとりの祖国は他の人間の祖国に対立する意味合いがある。つまり、故郷同士が戦争をすることはありえないが、祖国同士は戦争をすることがあるのだ。
それは故郷という概念が人それぞれの記憶の中に存在するものであることに由来する。同じ地域の出身者でも、時代が違えば故郷は異なる。山が削られ海が埋め立てられて、工場やらビルやらが軒並み建ってしまったら、その前と後では同じ故郷とは言えないのだ。故郷という概念はどこまでも個人に帰属する。
対して祖国は、厳然として存在する共同体であり、帰属意識も高い。しかも排他的である。祖国の対義語は異国であり、すなわち敵国だ。必然的に同調圧力も高くなり、国民の精神性が国に依存することになる。近代の戦争は、指導者が祖国という概念にまつわる精神性を利用して、自国民を戦場に送り込んだのだ。
国家という共同幻想を相対化し「祖国」の呪縛から精神を解放する時代にならない限り、世界から戦争が終わることはない。国家と故郷は異なるのだということを理解しなければならない。

この映画の主な舞台はパレスチナであり、とりわけガザ地区だ。度重なる戦争の歪みを未だに背負い続けている地域である。そして祖国同士の争いを現実の被害として被っているのがパレスチナの難民だ。主人公ムハンマドが運転するタクシーの窓から映し出される破壊された街の様子が生々しい。片脚あるいは両脚を失った人が街のいたるところに何人もいる。そんな難民にも日常生活があり、束の間の平穏もある。しかし子供たちはガザに未来がないことを知っている。
映画は、歌の才能があるムハンマドがその才能を生かしてガザを抜け出す物語だが、インタビューを受けたムハンマドが「祖国」という言葉を万感の思いを込めて言うことに、世界の問題の深刻さがある。この映画は、自由を人間性を求める一方で、祖国の呪縛から逃れられない人間の張り裂けそうな悲痛の思いを比喩的に表現している。安易なサクセスストーリーとして受け取ってはいけない。

世界中の人が観るべき作品である。


クミコスペシャルコンサート2016

2016年09月25日 | 映画・舞台・コンサート

EX THEATER ROPPONGIでのクミコスペシャルコンサート2016に出かけた。
クミコさんは銀パリで歌っていたベテランのシャンソン歌手で、兎に角歌がうまい。

この日はあまりシャンソンを歌わないコンサートだったが、それでも私がとても好きな「わが麗しき恋物語」を歌ってくれた。
http://www.uta-net.com/movie/80388/
何度聞いてもホロッとくる歌だ。
作詞の覚和歌子さんは木村弓さんの「いつも何度でも」の作詞でも有名な詩人で、日本語の文法や形式に捉われないで直球の詞を書く。しかし「わが麗しき恋物語」はひとりの女性の視点から時の流れが描かれている、整った詞だ。竹内まりやさんの詞に似ていると思う。
原曲はフランス語で「Ma plus belle histoire d'amour」で、わたしの印象では「とても美しい私の愛の歴史」という感じだが、シニカルなフランス人らしくbelleという女性形の「美しい」という形容詞には反対の意味合いも込められている。覚和歌子さんの詞はそのあたりも踏まえて、過去を自ら笑う女性の諦めと寂しさをよく表現している。

クミコさんは非常によく喋る人だが、石巻での大震災被災体験を語るときは沈痛な面持ちになる。そしてチェルノブイリの話、永六輔さんの話。永六輔さんは戦前生まれで、言いたいことを言い続ける人だった、これからも言いたいことを言える世の中であってほしいと、クミコさんは話す。同調圧力が強く、弱い人や仕組みから外れた人をいじめたり排斥したりする今の世の中の傾向をとても憂えているように見えた。


映画「怒り」

2016年09月25日 | 映画・舞台・コンサート

映画「怒り」を観た。
http://www.ikari-movie.com/

凄惨な殺人事件の犯人らしき3人の男たちの話だ。
テーマは人を信じられるかどうか、ということだと思う。人を信じるというのはどういうことか、その人の言葉を信じるのか、人格そのものを信じるのか。非常に哲学的なテーマである。

映画では、3人の男たちはそれぞれに周囲に嘘を吐く。嘘を吐かれてもなお彼を信じられるかどうか。人を信じるというのはオールオアナッシングではなく、程度の問題であったりする。そして信じている度合いがそのまま自身に跳ね返り、魂が揺さぶられる。登場人物は、或いはハラハラと泣いて彷徨い、或いは慟哭する。難解な作品で、グロテスクな表現もあるが、非日常の極限状況をストレートに描写していて、追い詰められた人間性のありように迫っていく。
こちらが精神的に弱っているときに観ると、心臓を鷲掴みにされるような衝撃を受けるので、観るにはエネルギーが必要だ。人間の関係性について極論ともいえる状況下での振る舞いを冷徹に描く秀作である。


映画「Colonia」(邦題「コロニア」)

2016年09月25日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Colonia」(邦題「コロニア」)を観た。
http://www.eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=535

ドストエフスキーの「悪霊」の登場人物が次のように言う。
「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。いまは苦痛と恐怖ばかりですよ。いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる」
そして「カラマーゾフの兄弟」ではイワンがこう言う。
「人間はパンのためにだけ生きるのではないのかもしれないが、パンを与えられれば喜んで自由を投げ出す」

人間は多かれ少なかれ、不安と恐怖に苛まれながら生きている。パンを得るために時間的、身体的な自由を投げ出して労働を提供しているうちに、精神的な自由まで投げ出してしまう。あるいは、パンを与える側は、労働者の時間と身体を拘束するだけではなく、精神まで拘束できると思うようになる。
システム化し常態化すると、それが社会の規範となってしまう。組織や共同体のために魂を売るのが正しく、自由を求めるのは背任であり、非国民であると。

恐ろしいことだが、そういった状況は世界各地で起きているし、今も続いているのだ。モーリタニアという国ではいまだに奴隷制度が厳然と存在する。戦前の日本でも思想統制があった。フランスでの思想統制の象徴はあのバスティーユ牢獄だ。そこに入ったら、おぞましい拷問を受ける、身の毛もよだつ日々が待っている。

この映画は、バスティーユ牢獄とカルト教団のアジトを合わせたような恐ろしい場所から恋人を救い出そうとする勇気ある女性の物語である。規則と食べ物と言葉によって主人公を精神的に隷属させようとする組織を相手に、正気を保ち続ける精神力の持ち主を、美しいEmma Watsonが見事に演じていた。

見ていてつらい部分もある映画ではあるが、人類の不幸の歴史をコンパクトにしたような組織と自由への道を求めて戦うという普遍的なテーマの作品であり、それなりに見ごたえがある。


映画「聲の形」

2016年09月25日 | 映画・舞台・コンサート

映画「聲の形」を観た。
http://koenokatachi-movie.com/

意外だったが、原作者も監督も若い女性だ。だから登場する子供たちの気持ちが豊かに表現されているのは当然としても、大人たちの感情も繊細に描かれているのは見事である。
アニメの表情は柔らかくて主張しすぎず、観客はそれぞれの経験をもとに子供たちの気持ちを理解する。実写ではなくアニメの多義的な表情だからこそ、観客の想像力を喚起するのだ。そして次のように理解する。子供たちは喜怒哀楽だけではなく、自尊心や虚栄心、不安や恐怖といった複雑な感情を抱えて生きている。いじめる子供もいじめられる子供もそれぞれに心の闇を抱えているのだ。
この世界観は公平で客観的であり、故に狭い価値観の隘路に迷い込むことなく、登場人物の行動に自由を与えている。自由に行動する中で、子供たちは自らの心を解きほぐしていく。

アニメとしては出色の、とてもよくできた傑作である。


映画「四月は君の嘘」

2016年09月19日 | 映画・舞台・コンサート

映画「四月は君の嘘」を観た。
http://kimiuso-movie.jp/

スポーツにしろ、音楽にしろ、世界的な名プレーヤーになるためには幼い頃から始めることが必要だ。大人になってから楽器を始めた人間がショパン国際ピアノコンクールに出場できることは絶対にない。
楽器はそれなりの値段がするし、家で練習するためには防音装置や防音壁が必要だ。子供に文房具を買うのさえやっとの貧乏な家庭に育った子供は音楽家に縁がない人生を送るしかない。
親の立場で言えば、子供が小さい時にピアノを弾きたいと言い始めたら、それはもう大変だ。通常の養育費よりもずっと高い出費を強いられる。ピアノは中古なら100万円以下で買えるかもしれないが、防音の工事が必要だし、継続的なレッスンを受けることも必要だ。それが何年も続くことを考えると気が遠くなる。経済的に余裕のない親には子供の希望を叶えることはできない。
しかし別の角度から見ると、小さな子供は視野が狭いから身の回りのことしか関心を示さないものだ。日常に音楽がなければ音楽をやりたいとは言いださないだろう。貧乏人の子供が音楽をやりたいと言い出すことはあまりないのだ。
つまり、子供のころから音楽をやっているというのは、子供が自ら希望したことではなく、親のエゴでやらされているのだ。子供はまだ世界観もなく、なぜ楽器を演奏しなければならないのかという疑問を抱くこともない。大成するかもしれないし、しないかもしれない。大抵は「子供のころピアノを習っていました」というレベルで終わるだろう。
それでも貧乏で楽器に触れることもなく成長するよりはましかというと、そうでないかもしれない。親から受けたスパルタ教育が、恐怖心の強い、コンプレックスの塊のような人格を形成する場合もあるからだ。

そういった現実的な背景に眼を瞑り耳を塞いだ上で作られたのが本作である。登場人物の設定は高校生だが、高校生ともなれば、世の中に対する自分なりの見方や考え方もあるし、執着も憎悪もあれば、普通に喜怒哀楽もある。音楽は文化のひとつであり、接し方、対し方も人それぞれにニュアンスが違うだろう。それらをすべて一緒くたにして、音楽は素晴らしい!という方向性だけに話を進める強引さが鼻につく。人物に深みがないのだ。
広瀬すずちゃんはとても可愛かったが、演じる役は上っ面の類型で、そこに人生はない。


レース回顧~セントライト記念とローズS

2016年09月19日 | 競馬

セントライト記念の結果
1着ディーマジェスティ ◎
2着ゼーヴィント    〇
3着プロディガルサン   無印

私の印
◎ディーマジェスティ 1着
〇ゼーヴィント    2着
▲ステイパーシスト  10着
△マウントロブソン  7着

3着のプロディガルサンがヌケでハズレ。3連単1820円なんて堅すぎて買えない。
皐月賞馬ディーマジェスティは後方から徐々に進出して直線半ばで先頭に立つ競馬。ディープインパクトよりも祖父のブライアンズタイムが濃く出た馬なので、こういう競馬ができれば距離が伸びても大丈夫だろう。菊花賞に視界良好となった。ゼーヴィントは本番では押さえ程度か。 


ローズSの結果
1着シンハライト 〇
2着クロコスミア 無印
3着カイザーバル △

私の印
◎ジュエラー    11着
〇シンハライト   1着
▲レッドアヴァンセ 8着
△デンコウアンジュ 4着
△フロムマイハート 6着
△カイザーバル   3着

頭で買ったジュエラーが期待外れの11着でハズレ。2着のクロコスミアも買えなかった。
それにしても早めの競馬から直線で伸びると思われたジュエラーがズブズブ。対照的にシンハライトはやや後方からの競馬で逃げたクロコスミアをゴール前できっちり捉える競馬だった。秋華賞はシンハライトが中心になる。久々とはいえ掲示板さえ外してしまったジュエラーは本番では苦しそうだ。