三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

取り締まり強化

2006年09月30日 | 政治・社会・会社

 坐骨神経痛がひどく痛むときなど、自転車があると便利がいいかもしれないと思います。特にスーパーに食料を買いに行くときなど、行きは特に問題ないのですが、スーパーの中で品物を見ていると頭の中であれこれ献立を考えたりしているうちにどうしても滞在時間が長くなってきます。やっと会計を済ませて品物を袋に詰めて外に出ると、買い物の最中には忘れていた神経痛がどっと来てしかも荷物の負荷がかかって余計に痛みます。そういうとき自転車があると楽だろうなと思うんですが、東京の駐輪事情を見ていると買うのをためらってしまいます。
 公務員の飲酒運転が相次いだせいで取締りが厳しくなっているしそれは自転車も例外ではないそうです。もちろん厳しく取り締まってくれるのは大いにいいことで、それで事故が少なくなったり駅前の歩道が広くなったりして歩きやすくなるのは神経痛持ちにとって喜ばしいことです。しかし自転車を使う人にとっては、タバコを吸う人が肩身の狭い思いをするようになって吸う場所に苦労するようになったように、止める場所に苦労することになります。変な場所に止めると一発で持って行かれて罰金と場合によっては前科までつきます。
 ところで、たとえばマンションの自分の駐輪場に自転車を止めようとしたらすでに他人がそこに止めていたので、その侵入車を排除して表に出して自分の自転車を止めたあとに、外に出していた他人の自転車に誰かがいたずらをして壊してしまいました。駐輪場の持ち主には責任がなさそうなこの出来事ですが、その勝手に人の場所に止めた図々しい他人がさらに図々しさを発揮して、自分の自転車が壊されたのは勝手に表に出されたからだと言って、駐輪場の持ち主を訴えたところ、この理不尽な訴えが認められて壊された自転車を弁償しなければならなくなったそうです。
 なんで、どうして?と思う人がほとんどだと思います。私もそう思いました。しかしそれが現行の法律だそうで、駐輪場の持ち主が取るべき行動は直ちに警察に通報して勝手に他人の駐輪場所に自分の自転車を止めるという違法行為を法の手続きに従って処理するというものでした。しかしそんなことは考えただけで面倒くさいことですし、警察がそのために直ちにパトカーを現場によこして対応するとも考えにくい。しかし勝手に他人の自転車をどけたらそれだけで罪になってしまうというのですから、迷惑をかけた者が勝つという不明朗な社会になってしまいました。罪になりたくなければ非常に煩雑で面倒な手続きをとって訴訟を起こさなければならないという、どこかのアホな国と同じようなシステムになってしまったみたいです。訴訟社会、なんでも訴訟から始まるあの低能の国です。

 というわけで、どうも日常生活を営むのにも小さな迷惑行為が後を絶たないからそれをいちいち訴訟していたら日が暮れてしまうわけで、もしかしたらそのために司法試験合格者を大幅に増やしたのかと勘ぐられても仕方のない現状ですが、行政がもうちょっとちゃんとしたサービスをして日常生活の迷惑行為までいちいち訴訟しなければならないことのないように、たとえば警察官を増員して細かな迷惑行為をテキパキと取り締まるとかしてくれれば私たちも暮らしやすくなるし安心して自転車にも乗れるというものなのに、小泉さんが「小さな政府」とか言って民間に対するサービスを大幅に減らしたものだから、私たちの日常生活は非常に危険で安心できないものになってしまいつつあります。公務員が酔っ払い運転で人を殺すようになっているわけですから行政のサービスもへったくれもありませんわな。
 自分の自転車を勝手に他人の駐輪場所に止める程度の行為ならまだそれほどの大問題にはならないかもしれませんが、これだってれっきとした違法行為には違いないわけですからしっかりきっちりが大好きな安倍ちゃんはしっかりきっちりと取り締まっていただきたい。それから生命保険会社と契約してお金を借りた人を自殺に追い込んでいる大手サラ金武富士プロミスアイフルアコムレイクサンワなどもしっかりと取り締まっていただきたい。それから教育の現場に日の丸君が代を持ち込んで強要するテロリストも取り締まっていただきたい。怪しげな壺を法外な値段で押し売りしているカルト教団も取り締まっていただきたい。さらには北朝鮮を挑発して外敵扱いしそれに乗っかって人気を得ようとしてさらには憲法違反してまで核兵器を持とうとしている背任政治家としてご自身も取り締まっていただきたい。そうすれば前代未聞の歴史的な政治家として世界史にも残りますよ。どうでしょう、安倍ちゃん?
 安倍と書いてアンバイと読む。しっかりしないとアンバイが悪くなるよ。

 ところで、実は去年の10月に引っ越しまして、その時に返還請求した敷金がいまだに振り込まれてきておりません。面倒くさいから泣き寝入りしようかとも思っていましたが、もしかしたらそういうのって1年くらいで時効になるかもしれないので、そういう悪質な大家(この場合は管理会社ですが)を許しておくのもなんなので、肚を決めて戦ってみようかとも思っています。国民生活センター、内容証明郵便、少額訴訟、弁護士、いろいろ手は考えられます。しかしもちろん右翼ややくざを使っての取立てはしませんよ。あくまで合法的な手続きに従ってですが、20万円程度のためにモチベーションを維持するのも大変かもしれません。こういうときのための行政サービスがあるとどれだけの人が助かるかなと、つくづく思いますね。今後のご報告はまたの機会に。


ナショナリズムという刷り込み

2006年09月26日 | 政治・社会・会社
 ブログを始めた当初はできる限り頻繁に記事をアップしていこうと思っていましたが、そんなに甘くはなかったようです。毎日毎日ブログを更新するのはかなり大変なことで、それは仕事で忙しいとか時間がないとかいうことよりも、書くことがなくなるのが一番大きな理由です。
 このブログでは日々の暮らしの中でちょっと心に引っかかることを書いていこうとしていまして、何がどのように引っかかるのかを分析してみることで自分も見えてくるし世の中も少しは見えてくる部分があるんじゃないかという期待もあってはじめました。
 とはいえ、朝会社に行って夜遅くまで働いて疲れきって帰ってくる毎日を繰り返していると、だんだん神経が麻痺してくるのか、おかしいことをおかしいと思わなくなってくるんですね。それが「書くことがない」ということにつながってきます。本当は世の中おかしいことだらけで、だから心のアンテナがあればそれに次から次へと引っかかるものがあって当然で、実際に沢山のことが引っかかっていると思います。書くことがないどころではなくて、ありすぎて困っていなければならない。しかし疲れきった神経には世の中のおかしなことがおかしなこととして響かない。だから特に変わったこともなく泰平だなあと、なんの危機感も感ずることもなくそう思ってしまいます。神経だけに神経痛のせいもあるのかもしれません。

 石原都知事の控訴についても、もろにおかしいことなので、書こうという気になって当たり前なのに、そうならなかったのは、石原さんという人はそういう人だから仕方ないと諦めている部分があったからでしょう。誰もが知っていると思いますが、石原都知事と東京都教育委員会は都立のすべての学校に入学式卒業式での日の丸と君が代を強制し、従わなかった教員と従わなかった生徒を担任する教員を処分しました。民主主義国家である日本の裁判所は当然ながら、強要すること自体を違憲であると判決を下しました。石原さんはそれに控訴するというのです。この人は頭のいい人なのにどうして「日本人なら日の丸と君が代を重んじるのは当然」という根拠のない教条をそのまま主張してしまうのか、そこがよくわかりません。
 逆の立場の人たちの主張も、少し変です。日本帝国主義は、天皇制のもと、アジア諸国を侵略する戦争を起こし、行く先々で凌辱と虐殺の限りを尽くした。だから天皇制帝国主義の象徴である日の丸君が代を式典に用いるのはよろしくないという主張ですが、どこが変かと言うと、国家という共同体の視覚的聴覚的な象徴として、日の丸君が代が作られたわけで、侵略の象徴だったわけではないからですね。つまり共同体と個人の関係性がうやむやにされたままの議論になっています。
 もちろん石原さんたちの主張にも同じことが言えるわけで、日の丸君が代は共同体がその構成員に対して共同体への帰属意識を高める目的で作ったデザインであり歌であるわけですから、共同体がなるべくなら個人にそれを強制したいというのは理解できますが、個人が日の丸君が代を崇めなければならない理由はひとつもないわけで、共同体の論理を個人にすり替えたに過ぎません。この主張を個人である石原さんが行うところがかなり変な話で、要するに、ナショナリストの頭脳構造なんてものはどこかで思い込みというか頑固なこだわりがあって、一切の論理を受け付けないその部分が思想の根幹になっているから、一言で言うと救いようがない、ということになります。
 共同体は共同体自体の存続を自己目的化してしまうもので、それはとりもなおさず共同体の変節を意味します。どういうことかと言うと、共同体は当初の目的としては同じ土地に住む個人同士が協力することでより多くの利益が得られるから成立したわけです。争いを防ぐ意味もありました。川の水を沿岸の農民が勝手に使ったら争いが起きますし効率も悪い。だから話し合って決める。そのときに誰が最終的に決めるかということになり、そこから支配層と被支配層が生まれました。中学校で習った誰でも知っている歴史です。で、支配層は権力を獲得し、それを維持したい。そのためには当たり前の話ですが共同体自体の存続が大前提になるわけでして、だから日の丸星条旗ユニオンジャックといったマークも作るし、共同体の敵という概念も生み出します。共同体の敵は個人の敵というところまで、共同体の構成員を心理操作したい。だからいろいろな理屈を生み出しました。
 お前は日本がどうなってもいいのか
 日本がダメになったらお前の家族もみんな死ぬんだぞ
 日本の未来はお前にかかっている
 お国のために死んでくれ
 と、こういったことはみんな、共同体の勝手な理屈です。もっと言えば権力を手に入れてその既得権を守ろうとしている支配層の理屈です。そしてここが不思議なんですが、選挙が行われている国では今日の与党は明日の野党なんてこともあるのに、石原さんたちが共同体の理屈を個人に対して主張し続けるのはいったいどんな理由なんだろうか、ということです。つまり支配層たるべき人間が一定していない場合は共同体の存続を願うその願いの強さは弱くなるはずです。にもかかわらず教員を処分してまで日の丸君が代を強要して共同体の論理を貫こうとしています。ここにやはり誤解があります。もしかしたら石原さんたちは自分たちこそ日本そのものなんだとか、日本を背負って立っているとかいった誤解をしているのかもしれません。日本を背負って立てる人などひとりもいません。
 共同体の敵は戦争相手や経済制裁の相手だけでなくて、スポーツや競争の相手としても想定されます。サッカー日本代表は宿敵韓国と対戦し大敗しました、なんていう報道を不思議に思いませんよね。それは日本という共同体がその構成員たる日本国民に対して、共同体の敵、という概念を植えつけることに成功した証です。敵、という概念自体の中に共同体の敵という意味が含まれているのです。何故かというと、「敵」の反対語は「自分」ではなくて「味方」ですからね。
 文化的な事柄になると敵という概念が介在しにくくなります。カンヌ映画祭で国対国の戦いなどないし、楽器のコンクールはどこまでも個人の評価です。ところがスポーツの国別対抗戦とかになると途端に敵、味方という概念が前面に出てきて、共同体が押し付けたその論理を疑いもせずに「ニッポン、ニッポン」なんてレベルの低いコールをする応援団が現れます。そしてメディアも一斉に大々的に報道します。ナショナリズムに乗っかった方が視聴率も部数も伸びるからですね。ナショナリズムとコマーシャリズム、マーカンティリズム、それにキャピタリズムの見事なコラボレーションです。日の丸と君が代を浸透させるのにこれほど有用なものはありません。現にサッカー日本代表を応援するのが日本人の義務であるかのような報道がありますし、半ばそれを信じている人も多いのではないでしょうか。
 石原さんたちは有利です。なんせ味方が多い。日の丸君が代に反対する教師や生徒たちは、自分たちが社会全体、共同体全体を敵に回す覚悟をしなければならないし、私も実はこの文章を書きつつ、自分にその覚悟ができるかどうかを案じているところでもあるのです。


他人の痛み

2006年09月22日 | 健康・病気
 久しぶりに坐骨神経痛について。
 坐骨神経痛は人によって多分痛み方が違います。私の場合は腰からつま先にかけて常に鈍い痺れがあり、寝ていたり椅子に腰掛けていたりする分には大丈夫なんですが、長時間連続して歩いたり立っていたりするとだんだん痺れが痛みに変わってきて、最後は立っていられなくなります。どれくらいの時間でそうなるかというと体調や天候?によって違っていて、大体10分から30分くらいの間ですね。寝たり坐ったりしているときも脚に触れるとかすかなバイブレーションがあって、きっと神経が悲鳴を上げているんだろうなと思います。そのせいなのかわかりませんが夜中に脚がつることが非常に多くて、これがつらい。レム睡眠時の半覚半睡の状態であっても脚がつりそうになっているのがわかって目が覚めます。そして、確実に脚がつります。仕方なくベッドから降りて痙攣が解消するまで待ちますが、このとき失敗すると一日中痛むことになりますのでううっとうなり声を上げつつも、慎重に脚の筋を伸ばしていきます。脚がつるのはビタミンやカルシウムマグネシウム不足だと聞いたのでサプリメントでたくさんとりましたがまったく変わらないので、もしかしたらと思って調べると案の定、ヘルニアや脊椎管狭窄症が原因で脚がつることがあるのがわかりました。脚がつるのも腰痛のうち、ということです。
 しかし一番つらいのは通勤電車で、私が使っている東急線はいつもいつも行きも帰りも満員で、朝はまだ元気なので耐えられますが、夜になって帰るときには痺れが飽和状態に達していて、会社を出て歩き始めるとすぐに痛みに変わります。それで電車に乗るとただ立っているだけでも痛いのに、そこに電車の揺れやら他人の体重やらがかかってきて、思わず悲鳴を上げそうになりますが、そこは大人ですからグッとこらえつつも顔をゆがめて我慢しています。つらいのは自分が坐骨神経痛であることを他人に分かってもらえないことですね。一見病人に見えないところがつらい。松葉杖を突くとかすればわかってもらえるんでしょうけれど、松葉杖があってもなくても神経痛ですから関係ないんですね。つまり不必要なので松葉杖は突きませんけれども、たとえば電車の優先席に坐っていると目の前にお年寄が来たらやはり席を立たなければならない。説明するのもなんですし、かといって「私は坐骨神経痛で立っていられません」と書かれた札をぶら下げるのも同情を買おうとしている乞食みたいでとてもできません。
 同病相憐れむといいますが、同病でない人は決して憐れまないわけで、同じ坐骨神経痛であっても人によって痛み方が違うわけですから、坐骨神経痛でない人に坐骨神経痛の痛みがどれほどのものかわかるわけはないし、だから「腰痛くらいで休むな」という発言があったりします。この発言者は実は自分も腰痛持ちでそれに耐えつつ仕事をしているから同じ腰痛を抱える者に対して励ましの意味合いもこめて言ったんだと思いますが、坐骨神経痛の痛みはまた格別で、私の場合は特にすべり症もありますから、なんと言っていいかわからない、情けない感じの痛みなんですね。ヘナヘナとなってしまう痛み。

 やっぱり自分の痛みの話というのはあまり長いこと書けませんね。だんだん自分が情けなくなってきます。痛いのは自分の問題ですから、他人と分け合うことができません。ただ、自分が坐骨神経痛を経験すると、他人の坐骨神経痛の痛みがだいたい想像できて、さぞかし痛むだろうなと思いますし、そういう人が困っていればなんとか手を貸してあげたいと思います。坐骨神経痛は見た目ではわかりませんが、歩き方だとかが少し普通じゃないので、よく見ればわかります。簡単に言うと老人のような歩き方というんでしょうか。たいした段差じゃないのになぜか慎重に降りたりする人は、たいてい足腰に問題を抱えていると思っていいでしょう。逆にいうと、お年寄でそういう動きをする人は坐骨神経痛の人と同じように困っているわけで、やはり手を貸してあげたくなりますね。以前はお年寄がもたもたしているのに少し腹を立てたりすることもあったのですが、お年より自身はもっとすばやく動きたいし人に迷惑をかけたくないと思っているのに体が言うことを聞かないので非常にもどかしい気持なのではないかと、自分が自分自身について思っているように老人たちも彼ら自身について思っているのではないかと考えるようになってからは、体が動かずに困っている人を見ると必ず手を貸すようになりました。そういう意味では坐骨神経痛のおかげで少しは人の痛みがわかるようになったのかもしれません。
 毎年自殺者が3万人も出ている国の次期首相も少しは他人の痛みがわかってほしいものです。


安部でなくて安倍

2006年09月21日 | 政治・社会・会社

 ブログのトラックバックについての設定をずっと「トラックバックを受け付ける」のチェックボックスをONにしていまして、ブログをはじめてしばらくの間はトラックバックもコメントも何もなかったのですが、2か月を過ぎたくらいから、ときどきトラックバックが入ったとお知らせがメールで来るようになりました。どんなトラックバックなんだろうと最初に受けた頃は興味津々で見に行きましたが、ほとんどのトラックバックが商業主義の宣伝ばかりのページだと気づいてからは、ブログの設定を変更してトラックバックを受け付けないことにしました。
 そもそもトラックバックというのがどういう意味を持つのかいまだによく理解できませんし、理解できないということは多分私には要らないということだろうと推察しました。ましてや、あのようなコマーシャルばかりのページに私のページから案内されるというのは、あまり愉快ではありません。そんなわけで新しい投稿からはトラックバックを受け付けていないのですが、前に投稿した記事に、いまだにトラックバックをする企業がありまして、サラ金を批判した記事にサラ金のコマーシャルが、生保を批判した記事に生保のコマーシャルがそれぞれトラックバックとして貼られたのには参りました。資本主義というのはどこまでもめげないことを言うのでしょうか。それで非常に面倒くさい作業ですが何日かさかのぼって「トラックバックを受け付ける」のチェックボックスを外すと、やっとトラックバックが少なくなりました。
 ということですっきりはしましたが、トラックバックをたどって他人様のブログを見に行くことが多かったので、なくなると他の人のブログをあまり見なくなります。そこで最近はあえてブログ人のトップから政治経済社会教育くらいのカテゴリーは目次を見て、面白そうなのを読みに行っています。そこでいろいろな人の文章を読んで、自分がずっと間違いを犯していたことに気づきました。
 それは字です。アベさんのアベの字。あるブログで阿部晋三と書かれていたので、阿部じゃなくて安部だろうと思いながら読みつつ、なんとなく違和感があるような気がしてきましたので、ニュースサイトなんかを見て調べたら、なんと安倍と書かれていました。知らずにずっと安部と書いてきたので、申し訳ないやら情けないやらで、この場を借りて謝罪します。名前の字を間違われるほど不愉快なものはありません。この際だからと思い、IMEの単語登録に安倍晋三を人名として登録しちゃいました。こうするとabeと入力すると真っ先に安倍晋三が出てきます。しばらくは使うことになるでしょう。使わなくなったらすぐに削除できますしね。現実の総裁大先生のほうは簡単には削除できそうにありませんけど。
 日本人の苗字は、人口当たりの種類が多いんだそうで、同じアベさんにしても、安倍安部阿部安陪阿倍と、IMEの変換候補にだって5種類も出てきますし、ナガシマさんだって長島長嶋永島永嶋と二文字ずつの組み合わせで4種類あるし、逆に読み方のほうで言えば、中島という姓もナカジマさんとナカシマさんとナカノシマさんがいます。浜崎だってハマザキさんとハマサキさんがいます。釣りバカのハマちゃんやあゆみさんはどっちだったっけかな。ともかく苗字の読み方を間違えられて不愉快なことは釣りバカのハマちゃんが何度も表明しています。

 売れたのか売れなかったのか知りませんが、中島みゆきの「あの娘」という歌がありまして、よくある名前は忘れづらいとか優しい名前は愛されやすいとか法則のようなものが紹介されていますが、事務処理上でたくさんの名前に接していると、この歌を思い出しますね。鈴木さんや佐藤さんはすぐに思い出しますが、あまりない名前になると出てこないことがときどきあります。本人を目の前にして名前が出てこないときは少し焦りますね。それが10年来の友人だったりすると、さらに困ります。かなり若い頃からそういうことがありましたから、これはボケじゃなくて病気なのかもしれません。
 馬の名前も出てこないことがあります。レースは思い出すんですよ。いいスタートを切ったがそれほど前には行かず中断の内側でじっと脚をためて3コーナー過ぎから徐々に進出4コーナーで先頭に並びかけるとあとは後続を離す一方の楽勝だったなと憶えていても、肝心の馬の名前が出てこないことがありまして一緒に競馬談義をしている友人に聞こうとしたらその友人の名前が出てこないなんてことがありまして、正直にそう言うと笑ってくれました。

 しかしこれが外交になると笑って許してはくれませんよね。人の名前を間違えるなんて朝飯前だった森喜朗は数々の失言で最後は支持率5%になってしまいましたが、安倍チャンも気をつけて物を言わないと、あっという間に支持率が急落してまたぞろ政局になったりします。この間の日中国交回復の裏話についての発言は特にひどかった。田中角栄が日中国交回復をしたときに中国では日本人全員が戦争をしたかったのではなくて一部の人間が戦争へと国民を借り出したのだと自国民に説明することで反発を防いだいきさつがありましたが、そんなことは文書に残っていないから認められないと、当時の中国政府の苦労を全否定する発言をしてしまいました。これを笑って済ますほど中国政府は寛大ではないだろうと思いますよ。
 というわけで前途多難な安倍内閣がまもなく発足しようとしていますが、国民はなにもいい期待をしてはおらず、多分一部のタカ派の人々が軍国主義まっしぐらの安倍政権に大いに期待しているのでしょう。それが国民に何をもたらすのか、すぐにわかります。


「いい人」「できる人」「できた人」

2006年09月19日 | 政治・社会・会社

 最近ではあまり聞かない質問ですが、「尊敬する人は誰ですか?」と以前聞かれたときは、そんな人は歴史上も現在もいませんと答えていました。近頃は迷わず「河野義行さん」と答えることにしました。といってもこの二十年くらいは一度も聞かれておらず、決めたのに質問されないとどうもお腹がふくれるのでここに書くことにしました。それでこの河野義行さんのことなんですが、名前を見てすぐにピンと来る人はあまりいないと思います。しかし松本サリン事件のことはみんな覚えていますよね、そう言うとすぐにおわかりになるでしょう。そうです、あの事件で最初に犯人扱いされて、その後オウムがもっと真犯人に近い容疑者だということになったために無罪放免された、あの一般人の方です。

 詳しく知らない方のために一行紹介すると、サリン事件で奥さんも自分も被害を受けたのに警察とマスコミに犯人扱いされて日本中からバッシングを受けてさらに暴力的な取調べも受けたのにそれにめげずに真実を主張し、容疑が晴れた後もオウムについて自分と同じように「まだ判決が出たわけではないので犯人扱いはおかしい」とどこまでも公平公正な取り扱いを主張し、現在では元アーレフの信者を庭師として雇っていて、オウムを憎むところからはなにも生まれないと凄みのある発言をしている、そこらへんのチンピラ政治家が百人束になってもかなわない迫力のある信念と驚異的な精神力の持ち主です。
 実際にこの人の精神力は常人では考えられない超人的なものだと思います。同じように立派な人というと、横田めぐみさんのご両親の滋さんと早紀江さん、それからインドの独立運動の指導者マハトマガンジーくらいしか思い浮かびません。そしてこれらの人物に共通するのは徹底した非暴力と決して揺るがない信念です。ガンジーは誰でも知っている有名な人でその主張は現実に有効な政治手法であることが実証されています。中学生のときに習いました。「暴力はふるわないし抵抗もしない、しかし決して服従しない」ことがどれだけ大変な覚悟なのか、いまだに想像すらできません。キリスト教も同じように非暴力を説いていて、想像もできない大変な覚悟をしろと言っているのですが、世の中のキリスト教徒のどれくらいの人がそれを理解しているのか、はなはだ疑問でもあります。

 それはともかく、河野さんは松本サリン事件があるまではそれはもうまったくの一般の勤め人だったわけで、もし事件がなかったらおそらく今も真面目な勤め人としてあの超人的な精神力を発揮することもなく平凡に暮らしていたのでしょう。そう考えると、世の中には河野さんのような人もまだまだいるかもしれないわけでして、そう考えると、こんないやな世の中ですが、まだまだ捨てたものじゃないかもしれないと思うわけで、そう考えると、ならどうしていつも選挙は絶望的な結果になってしまうのかと思うわけで、そう考えると、やっぱり世の中どう転んでも救いようがないのかなと思ってしまいますね。

 世の中には優れて仕事のできる人がいて、そういう人は「できる人」と呼ばれますが、それ以上に人格的に優れた人がいて、そういう人は「できた人」と呼ばれます。「できる人」にはそれなりの才能があってそれなりの努力をすればなれると思いますが、「できた人」にはなかなかなれないでしょう。この「できた人」と「できる人」の話を教えてくれた人は「できた人」になりなさいと言っていましたけれども、そもそも「できた人」になれ、なんて言う人はたいてい自分自身は「できていない人」で、その人も例外ではなかった。「できた人」は人に何かを押し付けることをしないんですね。
 河野義行さんは稀に見る「できた人」だと思いますが、「できた人」の法則に従って、人に何かを押し付けることをしません。人に何かを押し付けない人が政治や経済の中心になることができるほど、人類は成熟していません。だから政治経済の中心人物はたいていが「できる人」のレベルで、自己中心的で自分の得になるように世の中や会社や経済を動かそうとするし、それ以外のほとんどの人はそういう人に魂を売り飛ばしてなんとか糊口を凌いでいるのがこの世の仕組みです。絶望的ですな。

 「できた人」に比べるとずっと手前の段階に感じますが「いい人」というのがあります。リーダーは「いい人」になるな、というのがビジネス業界の鉄則ですが、見かけ上は「いい人」と「できた人」の区別があまりよくわかりません。それに比べて「いい人」と「悪い人」の違いは割とわかりやすい。割と、と書いたのはいかにも悪人面の「いい人」がいたり、どう見ても「いい人」の悪人がいることも世の中結構あるからです。で、いまの世の中は人間がまだまだできていないので、「悪い人」が牛耳ることになります。「できる人」でしかも「悪い人」が現代のリーダーの条件なんですね。オリックスの宮内さんを例に出すまでもなく、たいていの人はご自分の周囲のリーダーたち、中小企業のおっさんとか警察署長とか自治体の首長とかやくざの親分とか、そういう連中はたいていが「できる人」で、ひとりの例外もなく「悪い人」です。そうでしょ?

 できることなら「できた人」が政治経済社会を緩やかにリードしていく社会になれば過ごしやすいと思いますが、そこまで人類が成熟する前に、人類自体が存続しているかどうか、危ぶまれるところです。


頑張れ「後藤田くん」

2006年09月18日 | 政治・社会・会社

 ずいぶん前の話になりますが、女優の水野真紀さんがデビュー作の映画に出たとき、その撮影場所にいたことがあります。彼女が主演女優で、たしかそのとき19歳でした。現場にはその前に共演の山本陽一さんという若い男優さんが来ていて、まだ撮影の準備もできていないのに、軽くステップを踏むような踊りを鼻歌と共に踊っているのを見たときは、申し訳ないんですけど「コイツ、大丈夫なのかな?」と思ってしまいました。そこに水野真紀さんがふわっとした感じで現れたときは、見たこともないほどかわいい娘で、逆にますます共演の山本陽一さんが心配になりました。映画自体は多分あまりヒットしなかったと思いますが、このときの水野真紀さんには「近づきがたいオーラ」がありました。その後の水野真紀さんは無理にお嬢様キャラを作ろうとして失敗し、タレントとしてもちょっと低迷した時期がありました。それからは得意の料理を生かしてあまり無理をしない自然体のキャラクターに変えたみたいで、そうすると好感度も上がり、それなりのポジションを獲得したようでした。初代の「きれいなおねえさん」でもありましたしね。まあその頃になると、デビューの頃に感じた「近づきがたいオーラ」のようなものはなくなり、庶民レベルにまで降りてきたと言いますか、隣のお姉さんくらいに近しく感じられるようになって、それが好感度につながったんだろうなと思いました。ところがその後国会議員と結婚することになって、ああ、やっぱりお嬢さんだったのかな、と改めて見直しちゃいましたね、いい意味でも悪い意味でもありませんけどね。

 ということで、よくも悪くも注目された「後藤田くん」ですが、一週間くらい前に、金融政務官を辞任しました。例のよからぬ噂の立っている貸金業規制法(通称サラ金規制法)の改正をめぐっての話です。この法律の問題は、わりとわかりやすい構造問題でして、テレビでもっと取り上げれば世論が一定の方向に向かうんじゃないかなと思っていました。しかしまったく無視に近いくらいどこの局も取り上げないし、政務官が辞任するほどこじれているのに、辞任の話もほとんど扱われません。実はそれも含めて、構造問題なんですね。わかりやすく並べると、次のようになります。

 

出資法と利息制限法の利息の上限が異なっている。ダブルスタンダードである。

サラ金業者はこのうち利息上限の高い出資法を拠りどころとしている。

それはおかしいという議論は以前からあった。

しかしうやむやのままだった。

貸金業規制法はいわゆるヤミ金融を取り締まるために成立した。

しかしすでに支払ってしまった返済は、たとえそれが利息制限法を超えていても返済として有効、つまり返還を請求できないものとした。これは最高裁の判例に反している。

小泉政権によって格差が拡大し、サラ金の利用が増加した。

小泉政権下ではセーフティネットが外され、貧乏な人はどこまでも貧乏になった。

地方自治体の役人も腐敗していて、生活保護の申請を受け付けもしない。

その結果、サラ金ヤミ金の利用がさらに増加した。

小泉政権によって市場の自由化がはじまり、アメリカのハゲタカ資本が一部のサラ金を傘下に収めた。

テレビコマーシャル等によって簡単にサラ金に手を出す人がますます増えた。

テレビコマーシャルをやってもらっている以上、テレビはサラ金の事件をあまり報道しない。

テレビコマーシャルはサラ金を消費者金融として好印象を狙うものだった。

大体電通が作っている。しかもうまく作っている。

その結果、コマーシャルの印象に騙されて若者たちもサラ金を利用するようになった。

コマーシャルだとずいぶんやさしい企業みたいだ。

しかし実態は違法な取立てがまかり通っている。脅し暴力なんでもありである。

暴力団もオウムも軍隊も顔負けである。

給料は上がらないし、返済は大変である。

死んでお返しします、というのが現実になっている。

生命保険会社は金融業危機を迎え、なりふり構わず利益を追求した。

だからサラ金とも手を結び、借金を命で返す契約も平気で行なった。

その保険金目的のサラ金による自殺の強要なども日常的に行われている。

つまり「死んでお返し」している。

サラ金は死体の山の上に城を築いている。

違法な取立てがバレたり、サラ金事務所の爆破事件などもあって、マスコミもサラ金問題を取り上げざるを得ないこともあった。

政治家もサラ金問題を取り上げざるを得なくなった。

そこで貸金業規制法を改正することにした。

ヤミ金もサラ金もこの法律で取り締まることが可能だ。

しかし相変わらずコマーシャルを流しているのでテレビはあまり報道しない。

テレビ局はスポンサーと電通にはあまり逆らえない。

電通はサラ金の味方である。お金をくれるところなら何でもいいのである。

金融庁はダブルスタンダードをやめて利息の低いほうに一本化しようとした。

後藤田正純金融政務官も低いほうの利息に一本化して、サラ金利用者の負担を軽減しようとした。

それだと儲からなくなるので、サラ金団体は政治家に圧力をかけた。

アメリカのハゲタカ資本も儲からなくなるので政治家に圧力をかけた。

保岡興治という政治家が、例外的に高金利を残す主張をした。

アメリカのハゲタカ資本は改正阻止のためアメリカ政府に圧力をかけた。

アメリカのハゲタカ資本に圧力をかけられたアメリカ政府はやはり金融庁に圧力をかけた。

アメリカのハゲタカ資本は金融庁に直接圧力をかけた。

金融庁は腰砕けになり、9年も据え置き期間をおこうとした。

保岡興治は相変わらず高金利をそのままにしろと主張している。

後藤田正純金融政務官は、怒り心頭で辞任することにした。

相変わらずコマーシャルを流してもらっているのでテレビは報道しない。

相変わらず電通はサラ金のコマーシャルを作っている。

 と、そういうことのようです。保岡興治という政治家は今年で67歳かな、八方美人の内股膏薬の典型みたいな政治家さんで、安部晋三さんと同様に統一教会と深い縁があるそうです。要するにサラ金で借りたお金で壷を買いなさいと、多分そういう政治家だと思います。

 水野真紀さんの旦那さんがどれほどの政治家かについては、会ったことも話したことも調べたこともないのでよくわかりませんが、怒り心頭で辞任するしかなかったということは、金融庁も与謝野馨も、保岡興治や安部晋三に負けず劣らず、みんな腐っているということでしょう。
「後藤田くん」はこの問題に関しては、このまま主張を貫く努力をしてほしい。魑魅魍魎と物の怪の跋扈する永田町なんていうお化け屋敷にいれば、それはそれは怖い思いもするでしょう。いろんな圧力もかかるだろうし、脅しすかしに鞭に飴、何でもありでしょう。問題は「後藤田くん」がそういったことすべてを跳ね返して、貧しい人、弱い人のために頑張る政治家を貫けるかどうかです。もし、このままあと20年頑張ることができれば、そしていまの「後藤田くん」の主張を曲げない成果を出せれば、そのときは「後藤田総理大臣」が誕生するでしょうし、私ももしそのときまで生きていれば、それを歓迎するかもしれません。

頑張れ、「後藤田くん」。


どこまで個人どこまで組織

2006年09月17日 | 政治・社会・会社

 オウムの松本の死刑判決が確定となりました。テレビに評論家がたくさん出て、松本サリン事件、地下鉄サリン事件のことやオウム真理教のこと、松本自身のこと、弁護団や裁判についてなど、さまざまなことを述べていましたが、気になったことがひとつあります。ある評論家が現在の信者やアーレフについて、オウムとなんら変ることのないテロ集団だと断定していたことです。この断定の仕方は正確性を欠いているのではないかと思いました。

 たとえば会社員が会社の起こした不祥事について、当の会社の社員であることによって、偏見や先入観を持って見られるの同じで、その人物がその不祥事について関係があったのかなかったのかを些かも検証することなく、ただ同じ会社の社員だからということで断罪されてしまうのは、ちょっとおかしい。ブッシュがイラクに戦争を仕掛けてたくさんのイラク人を殺したからといって、アメリカ人はみんな人殺しだと断罪することができないのと同じ構図です。だから、オウムはサリン事件を起こした、オウムの信者はみなテロリストだ、というのは短絡的に過ぎます。オウムがサリン事件を起こしたから、その後継組織のアーレフも同じように危険な組織である、その信者もみな危険な存在である、という言い方も正確ではありません。

 私は別にオウムを弁護しようというのでもないし、知り合いや親戚にオウムがいるというのでもありませんが、組織と個人の係わり合いについて、正確を期したいと思っています。私も会社勤めですが、私の会社の社長がたとえば痴漢をして逮捕されたからといって、私まで痴漢扱いされるのは勘弁してほしいわけです。自分のことは、そうやってみんなわかっています。組織は組織、自分は自分。家族もそうです。父親は父親、息子は息子。お父さんが汚職をした官僚だからといって、その小学生の息子も同じように汚職官僚扱いされることはありません。却って同情されるくらいですよね。家族というもっとも小さな単位にもかかわらず、その構成員は同一には扱われないのに、会社とか国家とかいった大きな単位になると、「あの会社の社員は」「日本人は」「中国人は」「アメリカ人は」という言い方になってしまう。私も日本人ですが、「日本人は」という言い方には引っかかるものを感じます。
 だから、オウムとオウムの信者とアーレフとアーレフの信者をひと括りにして話すことについて、やはり同じように引っかかるものを感じます。たとえばちょっと前に大規模な牛乳食中毒事件を起こした雪印の社員は今後も食中毒を起こす、という言い方はできませんし、三菱自動車はリコールを隠した、だから三菱の社員はみんな嘘つきだ、という言い方もできません。ここまでは誰もが理解できると思います。理解できるのは、もし自分がその立場だったらと考えるからわかるんです。もし自分の父親が痴漢をしたらとか、もし自分の会社がなんか起こしたらとかですね。しかし、オウムとか中国人とかアメリカ人とか、自分がその立場になることがない組織に属している人間のことは、どういうわけかひと括りにして断定、断罪してしまうんですね。

 もちろんある組織の傾向としての特徴はあるでしょうし、たとえば「アメリカの意向は」という言い方をしなければ表現できない場合もあるでしょう。それは組織全体としての方針や発表などについての場合です。「ゲーム会社のカプコンは来年春にバイオハザード5を発売すると発表しました」と報道する場合、「カプコン」を個人名に変えることはできません。会社の方針として売り出すわけですから個人を特定できないというのがその理由です。では次の言い方はどうでしょう。

「中国人は不法入国し不法滞在して犯罪を犯す」

 この言い方だと全ての中国人が不法入国して不法滞在して犯罪を犯すみたいで、誰もが変に感じると思います。なにせ13億人もいるし、全員が海外に行くことはありえませんからね。しかし次の言い方になるとどうですか?

「中国人はエチケットやマナーを守らない」

 もしかすると、まさにその通り!なんて思っている人もいるのではないでしょうか。しかしこの言い方も間違っています。間違っているのに間違っていないような錯覚を起こす言い方であるところが、こういう言い方の罪深いところなんですね。逆に日本に住んでいる中国人が「中国では・・・・」と言うときも、たいてい、間違っています。その人は「私が中国にいたときは・・・・」という言い方をするべきです。その中国人が中国のことを代表しているわけでも、中国については古今東西隅から隅まで何でも知っている、というわけでもありませんから。たとえば日本人について、

「日本人は眼鏡をかけて腰に刀を差してちょんまげを結っている」
「日本人は着物を着て革靴を履いて首からカメラを提げている」

 といった笑って済まされる誤解については、まさに笑って済ませますが、笑って済ませない誤解もあります。

「日本人はまた戦争をしようとしている」

 誰がですか?と、真剣に聞き返したくなるような誤解が現にアジア全域に広がりつつあります。そのように誤解されることは日本人として本意ではありません。しかしこれも、私たちが「中国人は」や「アメリカ人は」として外国人を国家という共同幻想のもとに断罪しているのと同じで、組織と個人の区別を他人に対して行わない、という法則の現われなんですね。

 個人が組織に属するのは、その組織に属しているのが得だとか安全だとかそこから収入を得ることができるとか、そういう理由からです。メリットデメリットの関係だったり権利と義務の関係だったり契約関係だったりしますが、組織に完全従属してしまっているわけではありません。会社勤めだからといって会社の汚名を全部かぶることはないし、会社の奴隷でもありません。こういう、わかっていることが実はわかっていないために、日本人が戦争しようとしているというとんでもない誤解にまで発展してしまいます。

 日本人は日本という国家の奴隷ではありません。

 そんなことは誰もわかっている? そうでしょうか? 「日本人は日本という美しい国を命を懸けて守らなければならない」とか、そういうとんでもないことを言っている人はいませんか?
 そういう人は個人と組織の関係性も、個人と組織とをどこで区別しなければならないかも、そもそも国家という共同体の成り立ちについても、多分何もわかっていないと思います。


銀シャリ

2006年09月13日 | 政治・社会・会社

 今の子供は「銀シャリ」なんて言葉は当然知らないと思いますが、麦と米を比べると麦のほうが断然安い時代がありまして、それは麦は荒れた土地でも実らせることができたので、人件費や農薬や肥料などが米に比べて断然安かったからなんですが、その当時はよく麦飯を食べました。麦100%だとやっぱりおいしくないので、お米と混ぜて炊くんですが、混ぜ具合はその家庭の経済状況に応じたもので、貧しい家庭では麦が多く、それなりに豊かな家庭では米が多く、そしてお金持ちの家では麦なしの米だけのご飯が食卓に上ります。それを「銀シャリ」と呼んでいました。
 少し前の深夜テレビでダウンタウンの浜ちゃんの番組につんくが呼ばれている回がありまして、そのときは画面が出るなり土鍋でご飯を炊いている場面で、つんくの説明によれば少しの米を多めの水でゆっくり炊くんだそうで、なかなかに話がうまく、おかずが梅干だけだったにもかかわらず、とてもおいしそうに見えました。やはり米のご飯というのは日本人の五感にストレートに響くものらしく、土鍋のふたを開けたときに立ち昇る湯気とか、つややかに光るご飯の見た目から、テレビなのに香りが立ち昇るように感じて、そこはかとなくお腹が空いてきたりもしました。
 そこで、このところ、ご飯の味というものをあまり気にしなかった日常に気がつき、昼ごはんをお店で食べるときなど、ご飯そのものの味を味わうように心がけました。すると、あまりおいしくないんですね、これが。ラーメン屋でラーメンと餃子ライスのセットを頼むと、チャーハン用に固く炊いたご飯が出てきて、どうもご飯として食べるのには向いていない炊き方だなと思いましたし、定食屋では柔らかすぎて歯ごたえのないご飯が出てきて、どれもあまりよろしくない。
 自宅でご飯を炊くとどうしても余るし、炊けたらすぐに食べないと、どんどん劣化して臭くなったりパサパサになったり、ひどいときはカピカピになったりします。どうにかしてうまいご飯が食べたいなと思いはじめたとき、テレビで高級炊飯ジャーが紹介されていました。なんと一台10万円。お店で大量に炊く大きな電気釜が大体3万円から4万円くらいですから、家庭用のせいぜい5合炊きの炊飯器が10万円というのは、100万円の自転車と同じくらい高価なわけで、とても手が出せないと思いました。絶対に故障しないという保証があるならともかく、10万円の炊飯ジャーでご飯を炊いて3回くらい感動して食べたら、4回目には故障して炊けなかったなんてことにならないとも限らないし、ご飯3膳分の感動が10万円というのはどう見ても高すぎます。
 それでも結構買う人がいるから売っているわけで、格差社会というものを身をもって感じてしまいましたね。10万円の炊飯器を何の迷いもなくポンと買う人種は、100万円のマウンテンバイクもポンと買う人種だろうし、娘の二十歳の誕生日にベンツをプレゼントしちゃう人種なんじゃないかと、ヒガミ根性120%で想像してしまいます。もしかしたらフェラーリだったりしてなどと考えたりもします。10万円の炊飯器を横目で見ながら安売りの乾電池を買う自分に、心から同情しました。


金玉に核兵器

2006年09月12日 | 政治・社会・会社

 人のことを許せない人が増えています。そして同じように、人の迷惑を顧みない人が増えています。早稲田実業の高校生を追い掛け回すマスコミもそうですが、それに踊らされて同じようにその子を追い回すアホ丸出しの女性たちは、いったい何を考えているのかわかりません。あの子が芸能人などの人気商売だったらまだ理解できます。人気商売だったら高校生であるなしにかかわらず、追いかけられることに耐えなければなりません。人気を得てそれでギャラが上がるのが人気商売ですから、人気があることを喜びこそすれ、迷惑に感じることはありません。しかしあの子はいくら全国高校野球で優勝した投手だからと言って、一般人です。追い掛け回されるのは、普通に迷惑です。なぜそんな簡単なことが理解できないのか、なぜマスコミが造った人気者に振り回されるのか、いつから日本人はそんな浅薄な精神構造になってしまったのか、まるで理解できません。理解できないけれども、非常に悲しい事実ではあります。
 小型であるなら日本も核兵器を所有できる、と主張するのは安部さんだけだと思っていましたが、あれほど小泉さんに反対していた平沼さんも同じくタカ派のようで、核兵器所有ぐらいのことを言ってくれるなら自民党に復党してもいいと、平沼さんに投票した有権者を見事に裏切る発言をしています。選挙で勝つためなら節操がなくても許されるのがこの国の政治家ですが、それはともかく、日本も核を所有できるなら、世界中のどの国も核を所有できることになる、という論理に気づいていないのでしょうか。非核三原則を世界中に公表し、いかなる兵力もこれを保持しないという憲法を持ち、そして世界で唯一の核兵器被爆国である日本が核を保有できるなら、保有できない国はどんな国でしょうか?
 もちろん、そんな国はありません。北朝鮮でもトンガ王国でもみんな、核兵器を持つことになります。二十年以上前だと思いますが、筒井康隆が『アフリカの爆弾』という小説を書いていて、アフリカの部族国家の王様が、うちも核兵器を持つ、どうせなら馬鹿でかいのがいいと、武器商人に注文し、届いたのが一発で地球が滅んでしまうほど巨大な核弾頭を持つ核爆弾で、輸送手段がないからみんなでそれを抱え上げて運ぶという、いわゆるスラップスティック(ドタバタ)小説で、笑いながら読んでいましたが、今はもう笑いごとではなくなっています。武器商人は相手の国がどんなイデオロギーだろうがどんな政治体制だろうがお構いなしで、とにかく儲かればいいわけですから、どこにでも武器を売ります。もちろん金玉を奥さんにしている金正日にも売ります。
 もしかすると安部さんや平沼さんは、日本は核兵器を所有できるけれども、北朝鮮は持っちゃいかん、という理屈が通用すると思っているのかもしれません。普通の人は追い掛け回しちゃいかんけれども、あの高校生は追い掛け回してもいいのだ、迷惑に感じるのはおかしいのだ、という女性たちの論理と同じ精神構造です。
 自分の迷惑は喉が裂けんばかりにギャーギャーと叫んで権利を主張しますが、他人の人権を蹂躙したり迷惑をかけたりするのは全く平気、そういう精神構造です。日本が女性化した、と言うとまた女性差別だと元国会議員のおばさんあたりが騒ぎそうですが、そういう意味ではなくて、雄々しいとか女々しいとかいう言い方をするなら、日本は戦後60年を経て、本当に女々しい国になってしまいました。


ファッション=ファッショ

2006年09月10日 | 政治・社会・会社

 某夕刊紙の9月9日分に、肩書きがファッションイラスト・ライターとなっている綿谷寛なる人物が、堀江貴文の洋服について、言いたい放題を書いています。

 ホリエモンのトレードマークだったセレブカジュアルはどこへ行った

 右も左も知らない社会人1年生のリクルートスタイルでもあるまいし、いまさら紺無地スーツで優等生ぶってどうする!

 潔白を主張するなら時代の寵児らしく、もっときばりやー!

 といった調子です。堀江貴文のかつてのTシャツスタイルを「セレブカジュアル」と勝手に命名して、それを「どこへ行った」と非難する頭脳構造がどこから来たものなのか、理解不能です。私は別に堀江貴文の味方でも何でもありませんが、有名人とはいえ見ず知らずの人間を、その洋服について傍から批判する神経は、どうかしているとしか思えません。しかもその内容は「優等生ぶってどうする!」とか「時代の寵児らしく」などといった意味不明な批判で、さらにイクスクラメーション(!マーク)を打って自分の精神年齢の低さをさらけ出すという、まことにもって読むのが恥ずかしくなるような低レベルのコラムでした。

 中原中也という夭折した詩人がいまして、「憔悴」という詩の中に次のように書いています。

 さて、どうすれば利するだろうか、とか
 どうすれば哂(わら)はれないですむだろうか、とか

 要するに人を相手の思惑に
 明けくれすぐす、世の人々よ、

 洋服や着物はそもそも衣食住の衣に過ぎないものです。そこに美意識というものが絡んできたから話がややこしくなった。美意識について論ずるのは哲学的になりすぎるのでここでは省略しますが、簡単に言うと、その地域、その時代で流行するものがあり、それは洋服だったり化粧だったり髪形だったり靴だったりしますが、それは決して絶対的な価値ではなくて、すぐに移り変わるものです。そんなことは年中行なわれているファッションショーを見れば一目瞭然で、流行り廃れの速さは季節の流れよりも速く、無常感を感じる暇さえないほどです。
 なぜファッションを人が気にするかという本質は、中原中也の詩そのままで、つまり、変な格好をすると人から哂われるかもしれない、ダサいと言われるかもしれない、そういう自意識です。そして中原中也が言っているのは、そういうものは常に移り変わるもので、何の価値もなく、付き合いきれないので、私はもう自分のしたいようにするのだ、ということです。しかし中原中也だからそうできるので、私たちはどうしても他人の目を気にしてしまう弱さを持っています。ダサいと言われたくないし、できれば洋服のセンスを褒められたい。たとえそれが一過性の価値に過ぎないとわかっていても、です。
 人間のそういう弱さにつけこんでいるのがファッション業界であることは、誰も認識していません。洋服の流行り廃りを決め、次から次へとトレンドを変化させていかないことにはファッション業界は飽和状態になってしまいます。だから、去年着た洋服はもうダサすぎて今年は着られない、という感覚を世間に蔓延させようとしています。それに応えるかのように「一度着た洋服は二度と着ない」などという叶姉妹みたいなノウタリンが出現して、傾向を煽っています。
 自分たちが作ったものを売るために、自分たちが作ったものが最新の流行であるかのような印象を植え付けたい。そのためにブランド、ファッションリーダーなどといった言葉に権威を持たせ、一般人が好き勝手に自分の好きな洋服を着ないような方向にもっていく。評論家やマスコミも操作する。
 可哀想な一般人はそれに左右され、またファッション誌という名の扇動雑誌を買って、それを食い入るように読み、中で自分にあったものを買う。「ポップでキュートな」といった、日本語として意味を成さない言葉に踊らされていることには気づきもしていません。
 ファッション業界のやり口は、かつてヒトラーが行なったやり方にそっくりです。もうこんなデザインは古い、これからはこういうデザインの時代だ、という言い方と、アメリカの支配は終わった、ユダヤ資本が悪の元凶だ、これからはゲルマン民族の時代である、という言い方は、心理構造までまったくおなじです。人間の弱さにつけこむ卑劣な商売、それがファッション業界である、という本質を認識すると、洋服を選ぶのに苦労することはなくなります。

  The clothes that are considered right to wear
  Will not be either sensible or cheap,
  So long as we consent to live like sheep
  And never mention those who disappear.
 着るのにちょうど恰好の衣裳を見ていると
 間が抜けているうえに、値段が決して安くない、
 羊のように従順に生きる限りは
 失せる奴らに遠慮しているあいだは。
     (ウィリアム・オーデン、深瀬基寛訳)

 まさか中原中也やオーデンもこんな文脈の中で自分の詩の一部が紹介されるとは思わなかったでしょう。しかしファッション業界が、中原中也やオーデンといった、人間の本質に迫ろうとする詩人たちの感覚とは対極の位置にあることは、よくわかります。