三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「そして、バトンは渡された」

2021年10月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「そして、バトンは渡された」を観た。
 
 他人の人生の転機に立ち会うことはそれほどない。あったとしても、そのときはそれと気づかず、あとになって、そういえばあの時があの人の転機だったのかと思うことはある。ただ、明らかに他人の転機に立ち会っていることを自覚する時がある。結婚式だ。
 新郎新婦のふたりだけではなく、親や兄弟姉妹、祖父母、場合によっては息子や娘など、ふたりに深い関わりのある人たち全員のそれまでの人生が垣間見える。そこに結婚式の感動がある。少し前に当方が参加した結婚式で、父ひとり娘ひとりで生きてきた父が、花嫁姿の娘に向かって「娘よ」を歌ったときは、家父長的な歌だと知りつつも、思わず感動して泣いてしまった。
 秋篠宮家の眞子さんは結婚の儀をやってもらえなかったが、儀式としての結婚の儀はなくても、一般人として普通の結婚式をして、みんなから祝福されてほしいと願う。眞子さんだって同じ人間だ。たまたま皇室に生まれただけなのである。
 
 さて作品であるが、全体として何かダレるところがあった。五七五の俳句で表現できるところを、五七五七七の和歌で長々と語ってしまった感じなのだ。
 
 本作品のキーワードは作り笑顔と「ずるいよ」という台詞だと思う。作り笑顔については、ホラー映画を作り笑顔を浮かべながら観ると、怖さが半減するという実験の通りである。つまり脳は自分の身体からしか情報を得ることができないので、作り笑顔を浮かべると自分は笑顔だから大丈夫なのだと受け取り、恐怖心が薄まるというメカニズムなのだ。
 石原さとみの演じた梨花がみぃたんに教えたかったのは、まさにそういう脳のメカニズムだ。もちろん梨花がメカニズムを知っていたわけではない。しかし「女の子は笑顔で可愛さが3割増しになる」「笑顔でいるとラッキーがやってくる」といった台詞から、女の笑顔の威力を本能的に理解していたことがわかる。それは知識として知っているよりもよほど強力である。
 
 みぃたんもやはり本能的に義母の言うことを理解したのだと思う。笑顔はみぃたんの精神安定剤であり、みぃたんの強さである。それを維持しつづけたことで、みぃたんは誰とも争わない優しい高校生に育った訳だ。誰のことも責めないし、責められても柳に風と受け流す。みぃたんの本名は当然、優子でなければならない。
 その点を考えると、優子が森宮さんを非難したシーンには違和感を感じる。予告編で流れたあのシーンだ。優子の性格からは、あのシーンは生まれない。原作にもあるのかどうかは読んでいないので不明だが、あったとしてもカットしていいシーンではないかと思う。
 作品全体として微妙にダレるようなところがあったのは、そういった無駄なシーンと冗長な台詞をカットできなかったところに原因があると思う。
 
 ただ「ずるいよ」という短い台詞は、二度ほど胸のすくタイミングで使われていて、このふたつのシーンは見事だったと思う。他のシーンでももっと台詞をカットしたり短縮できたりする部分がたくさんあった。
 前田哲監督は「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」でも冗長な台詞が多かったが、大泉洋と高畑充希という芸達者のおかげで上手にまとまった作品になっていた。しかし本作品は役者がカバーできる以上に冗長なシーンが多かった。特に田中圭が演じた森宮さんがタイトルの意味を説明する無駄に長いセリフが最後にあった。登場人物がタイトルの意味を説明してしまうと、観客の想像力を削いでしまう。森宮さんと早瀬くんが眼を合わせて頷くだけでよかった気がする。
 
 ピアノのシーンはよかったと思う。早瀬くんが弾いたショパンの「英雄ポロネーズ」がとても力強くて感心した。少し前にサントリーホールで及川浩治さんが弾く「英雄ポロネーズ」を聞いたが、同じくらいの力強さだった。
 
 ラストも泣き虫のみぃたんで終わるのかと思ったが、最後の最後は、母の言いつけを守って満面の笑顔を見せる。おかげで、永野芽郁の渾身の泣き顔と、力一杯の笑顔が印象として残る作品となった。当方もひとこと言いたい。「ずるいよ」

映画「CUBE 一度入ったら、最後」

2021年10月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「CUBE 一度入ったら、最後」を観た。
 
 問答無用のシチュエーションムービーだ。ゴーギャンの絵のタイトル「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」みたいな極限状況の中で、偶然に出くわした数名が、外へ出るという共通の目標のために試行錯誤をする。
 初対面の人間同士の場合、互いに相手が信用できるかどうかを推し量るのが常だと思うのだが、本作品にはそういう個別の思惑は描かれない。従って駆け引きもない。ただ気の弱い人が気の強い人の主張に従ってしまうという一方的な展開である。だからなのだろうか、物語としての深みが感じられなかった。
 
 全員が同じ服を着ていて、同じような黒いトレッキングシューズ風の靴を履いている。そして偶然に同じ部屋に集まってくる。CUBEは立方体のことで別名は正六面体である。出入口のハッチがそれぞれの面にある。7人の登場人物が死体の真下の部屋で出会う確率はどれほどか。それを算出するためには、部屋の数と人の数を割り出さなければならない。情報が少なすぎる。異常な状況なのに7人全員が日本人というのはどういうことか。
 そんなことを考えれば、出会った7人が前に進むよりも、この部屋まで来た道筋についての情報をまず共有しようとする筈だ。その過程で、それぞれがそれぞれに対して信用できる人間とそうでない人間に分別するだろう。7人7様の思惑があるから、なかなか前に進まないはずだ。当然である。極限状況に置かれてむやみに動き回る大人はいない。まずは状況を見極めてからである。その遅々として進まない会話劇を見たかった。
 
 リメイクの元になったカナダ映画は観ていないが、同じ展開にする必要はない。ただ、目が覚めたらCUBEの中にいたという設定は秀逸だから、その極限状況に登場人物を放り出すところまでは同じでいい。その状況の中で、様子見が好きな日本人がどのように感じ、どのように判断して、どんな決断をするのか、そこから先はオリジナルでもよかったのではないか。こういうシチュエーションムービーは、次にどうなるかよりも、登場人物がどうするのかに興味が向く。
 しかし本作品は外へ出るという目標よりも、互いの人間関係の変化に主眼が置かれているように思える。つまり登場人物が互いに依存しているように見えるのだ。最後の決断は自分自身で行なうという自立が感じられない。
 菅田将暉のゴトウも岡田将生のオチも、抱えるトラウマが現実的にはあり得ないほど大きすぎて、少しも共感できない。やたらに出てくるゴトウのフラッシュバックがクドい。それに杏のカイの無表情には、最初から違和感を感じた。カイが第三者的な立場を崩さないことから、真相を察した観客も多いと思う。こんな真相は不要で、カイの役も不要だ。
 
 登場人物を典型的にしたかった意図は感じられるものの、過度に掘り下げたために逆につまらなくなってしまった。設定が極限状況なのだから、登場人物まで極端な人にすると、対比が弱くなる。もっと普通の人がもっと日常的なレベルで対応した方が、極限状況が際立ったと思う。
 普通の人にだってトラウマやコンプレックスや罪悪感はあるが、いちいち他人に説明する人はいない。まして極限状況に置かれたら、そんなことを考える余裕さえないだろう。本作品の登場人物は非現実的なのだ。
 こういう作品は登場人物に感情移入できるかどうかがポイントで、感情移入できれば一緒に脱出を図る気持ちになるが、そうでなければ対岸の火事だ。怖さも危機感も絶望感も共有できない。本作品はせっかくの秀逸な設定を無駄にしてしまったと言わざるを得ない。残念である。

映画「The Mole: Undercover in North Korea」

2021年10月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Mole: Undercover in North Korea」を観た。
 
 北朝鮮はアホな国を装ってはいるが、独立を宣言した1948年からすでに73年が経過している。ニュースで見るような一方的な国が73年も国としての体裁を保ち続けられる筈がない。朝鮮中央テレビはプロパガンダ放送だから、見せたいものだけを見せたいように放送する。アナウンサーがこれでもかというほど力んで喋る報道の何層も奥に、北朝鮮の真実は覆い隠されている。
 
 本作品は北朝鮮のしたたかな裏ビジネスを明らかにする。商品は兵器と覚醒剤だ。映し出された書類には英語で methamphetamine と書かれていた。メタンフェタミンは日本でも覚醒剤として取り締まる中心的な薬物である。
 商談はシビアだ。かつての日本の高度成長期のような接待攻勢をしたり、交渉の場所を地政学的見地で選んだりしている。女と食い物で誘い、一方で秘密の漏洩を警戒する。潜り込んだジェームズとウルリクが北朝鮮の警戒を解くのに10年という長い年月を要した。それほど北朝鮮政府の警戒は厳しいわけだ。
 バレてしまったらという恐ろしさは、並のホラーの比ではない。北朝鮮国内に拉致されて拷問を受けるのは間違いない。にこやかな商談の場は、MOLE (もぐら=スパイ)の側に立つと、薄氷の上を歩くようなものだった。
 
 武器については朝鮮中央テレビでロケットの打ち上げを何度も放送している。外国に対するデモンストレーションであると同時に、武器の宣伝である。最近では列車から発射するミサイルを宣伝していた。あれを見てミサイルを買う国もいるだろうと思う。
 本作品で映された書類を見ると、ミサイルは1機で3億円程度の価格である。戦争ではそれをバンバン撃つ訳で、百発敲てば300億円だ。どう考えても人殺しにそんな大金を費やすのはバカバカしいことこの上ない。しかし売る側にしてみれば、楽に儲かる商売である。北朝鮮がミサイル1機を発射するのに100万ドルの費用がかかるという。1億円ちょっとだ。それを3億円で売るのだから、笑いが止まらないだろう。北朝鮮はやり手の商売人なのだ。
 
 日本のニュースでは予算の具体的な数字は滅多に報じないが、いちいち報じたほうがいいと思う。軍事予算では、自衛官の給与を階級別に基本給から各種手当、そして平均賃金まできちんと報じるべきだ。公務員なのだから給与も公開するのが当然である。それに各種兵器の価格と総額。本作品では兵器の価格一覧表が映し出されていた。北朝鮮の売値である。
 
 日本の軍事予算5兆円といっても中身がわからなければ、一般国民には想像がつかない。情報を隠蔽している点では日本も北朝鮮も同じだ。そして報じる筈のメディアも腰が引けているのか、政府の発表だけを報じる。一方、民間企業は毎年決算をして税務署に報告しなければならない。棚卸資産はもちろんのこと、固定資産や償却資産についても報告する。
 国も民間企業と同じように、毎年決算をしている。民間が資産の一覧を報告するように、軍も兵器の一覧と価格、減価償却費を報告すべきだ。財務省には国の貸借対照表と損益計算書を毎年公開する義務を課すのがいい。
 民間企業の経理担当者は決算の数字を見ることができる。もし国の決算が公開されると、予算がどれほど丼勘定で、どれほど無駄なことに使われているかが分かることになるだろう。自民党政調会長の高市早苗が主張する軍事予算倍増なんて論外である。

映画「キャンディマン」

2021年10月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キャンディマン」を観た。
 
 観客席は閑散としていて、当方の他には5列くらい前にいちゃついているカップルがいるだけだった。3人だけの観客。あまり人気のない作品なのかもしれないし、たまたま観客が少なかっただけかもしれない。
 
 冒頭の楽しげな映像とキャンディマンというポップなタイトルが、一瞬にして不穏な空気に変わる演出がいい。最初の現場が一番迫力があった。次が学校の女子トイレの現場だ。恐ろしい殺人鬼も、徐々に見慣れてくればあまり怖くなくなる。ただ、キャンディマンは店の屋号と同じで、代々引き継がれているという伝説が怖い。描かれた絵も迫力満点だ。ホラーが好きな人には快作だと思う。
 
 終映後に階段を降りながら何気なくカップルを振り返ると、男を見上げる女の首が切れて、ぱっくり割れているのが見えた。背筋がゾッとして、思わず立ち止まった。しかしよく見たら、髪の毛の一部が首を巻いているだけだった。女が不思議そうにこちらを見た。なんだか死体に見られているように感じた。それが一番怖かった。

映画「Our friend」

2021年10月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Our friend」を観た。
 
 ガンと診断されて余命を告知される映画では、ジョニー・デップが主演した「The Professor」(邦題「グッバイ、リチャード!」)が群を抜いてよかった。文学教授のリチャードが余命を宣告されたあと、どのように生きるのかをリアルに描いている。ジョニー・デップの振り切った演技が本当にケッサクなので未鑑賞の方がいたら、ぜひ観て欲しい。
 
 本作品はガンで余命宣告をされたニコル・ティーグ、その夫のマシュー(マット)、二人の共通の友人でありデインの3人のそれぞれの微妙な気持ちの変化を、時を行き来しながら描き出していく。ただ行き来が目まぐるし過ぎて、どの段階でデインがキレたのか、マシューが美女から誘われたのが何年のことなのかなどがこんがらがってしまった。
 頭の中で場面を並べ直しながら鑑賞することになって、そっちの方に頭を使う分、感情が追いついていかなかった。時を遡ったシーンはよく使われる手法ではあるが、本作品のように使いすぎてしまうと観客は混乱してしまう。もっと普通に時系列に沿って物語を進めたほうがよかった気がする。
 
 役者陣は総じて好演。特にケイシー・アフレックは変わっていく妻と反抗的な長女を相手という微妙な演技が要求されるマシューを見事に演じきった。主演映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」のときの演技に匹敵する熱演である。
 一方、ジェイソン・シーゲルの演じたデインは、自分の時間の殆どをティーグ夫妻のために費やし、私生活をかえりみない。私生活の方面から非難されるが、ティーグ夫妻に自分が不可欠であることを知っている。しかし尽くしすぎて自分の精神が危うくなる。こちらも難役を上手にこなしたと思う。特にニコルの症状が進んで暴れたり暴言を吐いたりする場面では、仁王立ちになってニコルのすべてを受け止める演技が印象に残る。
 ダコタ・ジョンソンが演じたニコルのシーンでは、デインに恋人が出来ないのは、デインが現実に身をさらす覚悟が出来ていないからだと看破する。この賢さがニコルの特質のひとつだ。ニコルが指摘する通りならば、デインがティーグ夫妻を手助けするのは、現実の自分に戻りたくないからなのかもしれない。しかし夫妻の喜怒哀楽や修羅場を経験して、現実を受け入れる準備ができたようだ。
 
 日本では年間で140万人が死んでいる。1日に3,835人だ。自殺者は1日100人。統計的な数字にはあまり感慨がないが、身近な人間の死は、それなりの衝撃がある。それは3,835人の中の1人ではない。
 ニコルはひとりしかいない妻、ひとりしかいない母だ。心の交流が多いほど、喪失感は大きい。マシューやデインや娘たちの悲しみは伝わってくるのだが、あまり心に響かない。やっぱり普通の時系列で観たかった。

映画「DUNE デューン 砂の惑星」

2021年10月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「DUNE デューン 砂の惑星」を観た。
 
 ティモシー・シャラメは前作の「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」での繊細な演技がとてもよかった。本作でも懐疑的で内省的な青年ポールを好演。レベッカ・ファーガソンはヒュー・ジャックマンの相手役を務めた映画「レミニセンス」ではセクシーな歌手だったのが、本作品では化粧も変えて、姉かと思うほど若い母親を演じる。ポールの本当の母親かどうかは不明だ。
 
 本作品はアメリカ映画なので、ハリウッドの家族第一主義から一歩も出ない上に、国家主義的な世界観で描かれているから、支配する側とされる側の戦いとなる。支配される側が理不尽な支配者を打ち破って、新しい支配者となるのがお約束である。本作品がPart 1 なら、Part 2 か Part 3 に大団円が用意されているのだと思うが、もしかしたらお約束とは違った結末になる可能性もある。期待薄ではあるが、少し楽しみではある。
 
 何も予習しなかったから、映画を鑑賞しただけの理解は次のとおりである。
 
 人間関係は中世の封建時代のようで、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵といった華族の階級が登場する。王がいて、皇帝がいる。民主主義革命が起きる前に産業革命が起きて、文明が高度に発展した世界だ。文明の発展の先鋒が軍事であったように、この世界でも軍事技術が最も発達している。中にはインスタントで発動するボディシールドもあって、これは現実に存在したら物凄く役に立つと思う。そんじょそこらのナイフは貫通できないから、まずレイプがなくなる。ストリートファイトも減少するだろう。支配層の人間たちにはどうやら超能力もあるようだ。
 
 封建主義的なのに、女性の権利は認められているみたいだ。やや整合性に欠ける。しかし巫女(シャーマン)のような女性(シャーロット・ランプリングが怪演)も存在し、王や皇帝を操る。これがラスボスになるのだろうか。
 皇帝または王または君主がいて、広大な広場に兵士が整列する光景は、北朝鮮や中国のようである。本作品は支配者たる中国の皇帝に衛星国家である北朝鮮がいくつも存在するみたいな世界で、支配層や指示系統上位の人間しか登場しないから、庶民が主役となる日は来ないだろう。つまり本作品の結末に民主主義はない。
 
 砂虫の巨大さをはじめ、登場するすべてが巨大であり広大だ。音楽とともにその巨大な映像はそこそこ楽しめる。惑星ごとに特色があり、本作品で描かれる砂の惑星DUNEはサハラ砂漠と似ていて、気温が昼は70℃、夜は氷点下という厳しい環境である。暑さと寒さと砂の3つを防がなければ生きていけない。ずっと前からこの惑星に生きている(多分移住してきた)人間は、それなりの進化を遂げている。
 
 高度に発達した軍事技術と、封建主義と帝国主義から少しも発展しなかった人間社会の対比は、SNSがない時代だったら面白いと思ったかもしれない。軍事技術があれだけ発達していれば通信技術が発展しないはずもなく、膨大な情報が互いに共有されれば、一般の兵士が盲目的に従うことはありえない。
 しかし情報の共有があると軍隊はカオスになる。本作品では情報統制の場面は登場しないが、北朝鮮のように庶民はインターネット等の情報網にはアクセスできないようになっているのだろう。そうでないと作品が壊れてしまうのだ。高度な軍事技術を背景にした巨大で広大な舞台だが、支配層を中心とした登場人物だけのこぢんまりとした物語である。

映画「燃えよ剣」

2021年10月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「燃えよ剣」を観た。
 
 とても見ごたえのある作品である。岡田准一はじめ、俳優陣はいずれも好演だが、中でも柴咲コウが素晴らしい。世の中に女の優しさがあるとすれば、演じた雪がその典型ではないかと思う。分け隔てない気遣いがあり、無私の奉仕がある。与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」の歌詞「妻を娶らば才長けて見目麗しく情ある」を体現したような雪を、柴咲コウは全身で演じきった。見事である。
 
 本作品で描かれる新選組の精神的支柱は土方歳三である。本人曰く、武士になりたい、武士道で生きたいと願ってきた田舎のバラガキである。同じくバラガキの兄貴分であった近藤勇を局長として祀り上げ、自分は副長に納まって実質的に新選組を支配した。
 天下国家について考えてきた訳ではなく、国の舵取りをしたい訳でもない。ただ何も基準がないこともない。正しくないもの、非道なこと、理にそぐわないことを本能的に嗅ぎ分けて「形がよくない」と否定する。そして「形がいい」と判断された行動を取る。それは土方の美学である。つまり新選組は思想集団でも利益集団でもなく、土方の美学によって結成された、得体のしれぬ結社なのだ。そんな結社が長続きするはずはない。おそらくは池田屋襲撃事件がピークだったと思われる。
 
 ただ土方には、薩長同盟の台頭を「形がよくない」と明確に否定する根拠があった。それは明治維新が明らかな軍事クーデターであり、得をする一部のエリート層と損をする大多数の庶民とに、国を分断するものだからである。
 現在でも明治維新を是として戦後民主主義を否定する政治家がいるが、軍事クーデターを肯定して平和主義を否定するのと同じだ。実に愚かである。
 
 美学に生きた土方歳三は俳句を嗜んでいた。同じように俳句を好み、絵を描く雪もまた、美学の人であった。惹かれ合ったのは当然である。まことに美しい恋のありようであり、司馬遼太郎の美学がここに結実した。原作者もまた美学の人であったのだ。

映画「最後の決闘裁判」

2021年10月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「最後の決闘裁判」を観た。
 
 マット・デイモンが演じたジャン・ド・カルージュは、権威主義のお人好しである。名前に「ド」がついているから、貴族の出身であることがわかる。ボンボンなのだ。だからル・グリの人間性を洞察することができず、親友だと思っている。可愛さ余って憎さ百倍となる。百年戦争のさなかに生まれて戦闘が日常になっているから、生きていく頼みは自分の戦闘力だ。その戦闘力も、誰かに認めてもらわなければ生きる糧とはならない。認めるのは権威である。ジャンがすがろうとする権威は君主なのか、王なのか、それとも神なのか。意外な平等思想の持ち主で、大人の女は自分で決めることができると発言する。
 
 アダム・ドライバーの演じたジャック・ル・グリは好色で狡猾な策略家である。ジャン・ド・カルージュのことは、親友だという名目で体よく利用している。ル・グリの目的は性欲と食欲の充足を中心に、人生を楽しむことだ。そのためには君主にも取り入るし、乱交パーティにも積極的に参加する。斜に構えているから人生も軽く見る。権威主義のジャンも自分と同様に女を軽んじているだろうから、責められるのは自分ではなく妻のマルグリットだろうと高を括っている。そこにル・グリの誤算があった。
 
 マルグリットに権威は関係ない。頼るのは夫ジャンの権力である。夫を信じてはいるが、夫の権威主義が理解できない。つまり夫を尊敬してはおらず、愛してもいない。しかし大人の女は自分で決めるという発言で、夫が自分の自由を重んじてくれていることはわかった。女としてのプライドがあり、容易く誰とでも寝たりしないが、夫が女の歓びであるオルガスムスを与えてくれないことにやや不満がある。母となっては徹底してプラグマティストだ。裕福に不足なく生きていくことが望みである。
 
 三者三様の人生観の違いで、同じ出来事がどのように違って映るのか、本作品はそれを上手に描き出す。このあたりはマット・デイモンとベン・アフレックの脚本がとてもよくできていると思う。
 ル・グリから愚かだと思われていたジャンだが、ル・グリの奸計を目の当たりにすることで、信義や友情が必ずしも信頼性のあるものではないと悟る。妻が自分を愛していないことも同時に悟るが、もともと妻には跡継ぎを産むことだけを求めているのであり、愛は求めていなかった。ただ妻の人格を認めているのはこの時代にあっては画期的な夫の姿である。
 ジャンが頼ろうとした法だが、法を司る若い王は、残虐な快楽主義者である。ジャンはそのことも見抜いていたフシがある。王を信頼できなければ権威も信頼できない。権威のためにある家も名前も、もはや何の意味も持たない。自分の腕っぷしだけに賭ける以外の生き方がないのだ。虚しさに満ちたジャンの顔が悲惨であった。やはりマット・デイモンは素晴らしい役者である。

映画「草の響き」

2021年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「草の響き」を観た。
 
 奈緒はこのところ映画にテレビドラマに大活躍である。主演した映画は「ハルカの陶」と「みをつくし料理帖」で、まったく異なる役柄ながら、見事に演じきっている。今年(2021年)公開された映画「先生、私の隣に座っていただけませんか?」や「君は永遠にそいつらより若い」でも、重要な役どころを好演。いま最も勢いのある女優のひとりと言っていいと思う。
 心が壊れてしまった主人公を東出昌大が演じるのは、あまりにもぴったりきすぎている。演じた主人公の和雄の悩む表情が、不倫発覚時の記者会見のときとまったく同じ表情だった。最後まで妻の杏が許してくれると信じていたのだと思う。いくつになっても甘えん坊の男である。なんだか気の毒に思えてしまった。
 
 心が壊れてしまった男の妻の立場はとても辛い。夫の心が壊れた責任の一端は自分にあるように思えてしまうからだ。避妊をせずにセックスする夫。にもかかわらず妊娠を素直に喜べない夫。喜ぶ余裕がないから喜べないのであって、悪気がある訳ではない。それがわかっているから逆に辛い。その辛さを、奈緒が上手に演じる。今回も素晴らしい演技だった。
 辛い夫と辛い妻。苦しいだけの夫婦だ。実際の東出昌大が妻の杏に寄りかかっていたように、本作品でも夫の和雄は妻の純子に精神的に寄りかかっている。東出はよくこの作品に出演したものだと思う。現実とほぼ重なり合っている。
 和雄には妻に対する感謝の気持ちがない。努力を当然のことのように受け止められてしまうと、妻の努力が報われず、気持ちが宙に浮いてしまう。当たり前の対義語はありがとうである。ありがとうのひとつも言わない和雄に、純子はだんだん疲れてくる。人として尊重されていないと感じれば、愛はなくなる。人を人として尊重しない人はもはや尊敬できない。尊敬がなくなれば、同時に愛もなくなる。
 
 一方、友情はどうだろう。こちらも同じだ。一緒にいたり遊んだりすれば楽しい時期がある。しかし楽しさはいつまでも続かない。その時期を過ぎても一緒にいたいと思うのは、相手を尊敬する気持ちがあるからだ。弟子と師匠の関係と同じである。弟子は師匠を尊敬するからついていく。尊敬できない師匠についていく弟子はいない。友情は互いが弟子であり師匠である関係でなければならない。相互的に尊敬の関係でなければ続かないのだ。
 
 本作品はふたつの似たような関係を微妙に触れ合わせながら、人と人とのつながりの儚さと孤独を描く。他人の死を死ぬことができないように、他人の人生を生きることはできない。自分の死を死ぬ者は自分しかいないのだ。その覚悟ができている者とできていない者。最後は別れが待っている。
 人間関係はどんなに濃いように見えても、実はいつも希薄だ。そこを冷徹に描ききったのが本作品の真骨頂である。いい作品だと思う。

映画「メインストリーム」

2021年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「メインストリーム」を観た。
 
 観ていて不愉快な映画だが、何故か目が離せないまま、最後まで鑑賞した。どうして不愉快に感じたのか、どうして目が離せなかったのか、そのあたりを考えていきたい。
 SNSはその成立過程はどうあれ、いまや誰もが不特定多数に対して自分をアピールできる場となった。フェイスブック、ツイッターは主に文字と写真でアピールするから自己主張のツールとなり、インスタグラムやユーチューブは画像と動画だから主張に関わらず何でもアピールすることができる。
 SNS開発者たちはアピールの度合いがひと目で分かるように「いいね」クリックを発明した。「いいね」はフェイスブックではその数を増やし、いまは「いいね」「超いいね」「大切だね」「うけるね」「すごいね」「悲しいね」「ひどいね」と7種類もある。
 ユーチューブでは再生回数だ。これはテレビの視聴率に似ていて、数百人しか見ていなければ誰も見向きもしないが、数百万人、数千万人が見ているとなれば、テレビと同じようにスポンサーが付く。宣伝効果があれば企業は費用を惜しまない。動画をアップしている人の中には、一再生が0.1円などといった割合で金を受け取る人が出てくる。ユーチューバーの誕生である。
 
 テレビの視聴率と同様に再生回数だけが指標とされるから、コンテンツの内容は問わない。猫や犬の動画が多くの再生回数となることもあれば、ただ食事をしているだけの動画が再生回数を稼いでいることもあるらしい。短期間で沢山の「いいね」や再生回数を稼ぐことを「バズる」というらしい。なんとも下品な響きの言葉だが、最近の日本語に上品も下品もないのだろう。
 主人公リンクの目的はバズること。フォロワーに受ければ内容はなんでもいい。密かな性的欲望をくすぐったり、人間が心の底に隠している悪意をあぶり出したりすることでもいいのだ。そのあたりの節操の無さというか、思いやりや寛容の欠如が、本作品に感じた不愉快の本質である。
 
 聖書には「人を裁くな、自分が裁かれないためである」と書かれている(マタイ福音書第7章、ルカ福音書第6章)。しかしSNSでは沢山の人々が互いに裁き合っている。自分は匿名の陰に隠れて、見ず知らずの他人を批判し、非難し、否定し、攻撃する。攻撃された方は不特定多数から容赦なく攻撃される訳で、ひとつひとつのコメントを見てしまうと、場合によっては精神を病んでしまう。最悪の場合はプロレスラーの木村花のようになる訳だ。
 本作品はSNSが今後どのようになっていくのかを暗示する。リンクの主張する通り、SNSを否定する方向に社会が向かっていくかもしれない。しかしSNSを否定をすることをSNS上で行なうとなれば、それを矛盾だとする指摘に対して、何の反論もできない。やがてSNSから離れていく以外に道はなくなる。ネット上での匿名で間接的な関わり合いを捨てて、実名の直接的な関わり合いに戻っていくのだ。
 それでもSNSは情報源として生き続けるだろう。中にはTwitterのDappiというアカウントのように悪質な書き込みを請負業務として続けるような会社もある。しかし大多数は個人の発信であり、中には有用な情報や思想も見つけられる。我々の取捨選択能力がいよいよ試される時代になるのだ。これからは情報処理だけでなく、情報の断捨離が必要科目になるに違いない。
 とても不愉快だが、とてもよくできた映画だった。アンドリュー・ガーフィールドは流石の演技力である。メル・ギブソン監督の「ハクソー・リッジ」で主演したときに匹敵する熱演だったと思う。マヤ・ホークという女優さんは初めて観たが、とても好演だったと思う。調べたらイーサン・ホークの娘らしい。頑張ってお父さんのような名優になってほしい。