映画「イニシェリン島の精霊」を観た。
なんだかよく分からない理由で絶交されるというのは、子供の頃にはあったかもしれない。つまらないことで言い合いになって、そのまま口を利かなくなったというのは小学生同士ではありがちな話だ。本作品の登場人物たちも、お前たちは子供か、みたいな発言をする。しかし大人になったからといって、同じようなことがないとは限らない。
本作品はそんな大人の喧嘩を描いているのかと、序盤はそう思った。しかし中盤を過ぎると、どうやらそんな単純な映画ではないことに気がついた。
舞台は1923年のアイルランドの孤島イニシェリンである。Google Street Viewで見てみると、美しい海があり、映画に出てきたような家が点在している。カラフルな人物像が飾られた教会もあるし、湖もある。
農業や漁業で生計を立てる島民たちは、朝早くから仕事をして、午後にはパブに集まって酒を飲む。暮らしは穏やかだが退屈である。何も変わらない時間が流れている気がする。
しかし1923年といえば、アイルランド内戦の最中である。対岸には時々砲弾が撃ち込まれていて、大きな音がこちらまで聞こえてくる。その影響で人心は荒み気味だ。警察官はやたらに人を殴り、死刑に立ち会うことを喜々として語る。港の食料品店の女亭主は尊大で喧嘩腰だ。
そこで起きた諍いである。絶交を言い渡したコルムにはそれなりの言い分がある。しかし言い渡されたパードリックはプライドをひどく傷つけられ、被害妄想に苦しむ。なにせ全人格が否定されたのだ。復讐心が芽生えるのは時間の問題である。パードリックに理性や自制心があれば、問題は何も起きなかった。大人の男ふたりが互いに口を利かなくなった。それだけだ。周囲も少しは気を使うが、それだけで済む。
しかし被害妄想は得てして人間から理性を奪い、自制心を押さえつける。パードリックに世界に目を向ける視野の広さがあれば、自分たちの争いの矮小さに気がついただろうが、本さえ読まないパードリックは、被害妄想にのめり込んでしまう。
そこからは愚かな道が待っている。お互いが加害者になり、被害者になる。生まれるのは不幸と別れ、それに孤独だけだ。
大方の観客諸氏はそのあたりでお気づきになったと思うが、ふたりの争いの本質は戦争の本質と同じである。つまり本作品は戦争映画なのだ。戦争はかくも愚かに始まる。そしてかくも愚かな結末に進む。
親しき仲にも礼儀ありという態度で互いに接してさえいれば、諍いが起きることはなかった。一方的に相手の人格を否定して、一切の妥協を拒否すれば、相手の被害妄想に火を着けてしまう。
戦争もまた、愚かな人間がはじめる。礼儀を重んじて相手国の人格を尊重し合えば、付き合うことで得られるメリットを享受できる。しかし愚かな為政者が自分の考えを押し付けようとして、そして相手国の為政者が視野が狭くて自制心が欠如していたらどうか。
戦争は国民を苦しめ、被害者にしてしまう。本作品では、妹とロバがそれに当たると思う。原題にある「Banshee(妖精)」は多分、黒ずくめの老婆のマコーミックのことだろう。もしかしたらパードリックと妹にしか見えていないのかもしれない。
映画「金の国 水の国」を観た。
ほのぼのとしたアニメ作品かと思いきや、なんと戦争か平和かという究極のテーマの物語が展開されていて、驚いてしまった。日本を含めた世界がきな臭くなっているこの時期に、本作品が公開されたことには、映画人の危機感が現われていると思う。
日本のマスコミが岸田政権の軍拡を既定路線としてしまったために、論点が増税の是非にずらされ、肝心の軍拡の是非の議論が置いてきぼりにされている。このままだとタモリがいみじくも言ったように「新しい戦前」が始まってしまうのではないか、いや、すでに始まっているのではないか、そういう危機感だ。
役者兼左大臣の若い男が「民のくらしに力を注ぐべきときに兵力増強とは、戦争でも始めるつもりですか?」という意味の質問を右大臣に投げかける。これはすべてのマスコミが岸田文雄に問いかけなければならない質問と同じである。ちゃんとした答えを得るまで、何度も何度も質問しなければならない筈だが、マスコミは増税の質問しかしない。
本作品は、大本営発表と化したマスコミに代わって、現政権に対して「戦争するつもりか?」と質問を投げかけているのだ。軍拡は即ち、戦争をするつもりがあるということだ。戦争をするつもりがなければ軍拡の必要はない。国民のくらしに力を注ぐのが第一である。国民から預かった大事な税金を、勝手に兵器の購入に使うのは言語道断の話だが、軍拡が戦争に直結することを理解していない国民があまりにも多い。
金の国に水が不足しているのは、ある意味で象徴的である。日本は食料自給率が極めて低い。食料の輸入ができなくなったら、戦争どころではない。軍事の安全保障よりも、食料の安全保障のほうがよほど急がれる懸案だ。岸田政権は明らかに何も理解していない。
純情な恋物語と国家間のいがみ合いを一緒に描くのは、映画では割とありがちではあるが、全体とディテールが同時に表現できるから、有効な手法だ。本作品も成功している。それぞれの国の為政者の人となりまで、多少好意的すぎるところはあるが、ちゃんと描かれている。よくできた作品だと思う。
映画「アサシン・ハント エージェント:ゼロ」を観た。
殺し屋のモノローグで始まり、殺し屋のモノローグで終わる。しかし同じ殺し屋とは限らない。
殺し屋稼業は楽ではない。政府や諜報機関の仕事は報酬は高くないが、情報と準備期間はたっぷりある。成功率が高く、危険は少ない。マフィアの仕事は報酬はたっぷりだが、情報と準備期間が少なく、とても危険だ。ときには命を狙われることもある。ハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターンはどの業界でも一緒だ。
アンソニー・ホプキンスが演じたマフィアのボスは、ナイーブなところがあるように見せかけて、実は非情でとてつもなく冷酷である。
かつてベトナム戦争で一緒に戦った友人は、優しさを捨てきれなかった。それは兵士としては致命的な欠点だ。殺し屋にとっても同じで、彼の血を受け継いだ息子にも、似たような欠点がある。そこでボスは究極の試練を与えることにした。邦題の「アサシン・ハント・エージェント:ゼロ」は、ボスの考えた試練をそのまま表現している。
田舎町の食堂。誰がターゲットなのかは分からない。見定めるために神経を研ぎ澄ませて観察する。即時に計画を立てて実行していくシーンは緊迫感の連続だ。
直感は誤らない。誤るのは判断の方である。主人公はプロフェッショナルであることにこだわるあまり、直感よりも判断を信じてしまうというミスを犯す。殺し屋にミスは許されない。自分の死に直結するからだ。
原題の「The Virtuoso」は名人、達人の意味だ。自分をVirtuosoと呼ぶ主人公は、いまだにVirtuosoたりえていなかったのである。
画面は暗いが、決して見にくくはない。カメラワークが見事で、ひとつひとつのシーンに迫力があった。観応えのある佳作である。
映画「離ればなれになっても」を観た。
1960年代に生まれた世代の3人の悪友たちの物語である。思春期を過ぎて、酒を飲み、煙草を吸い、ダンスホールで女の子をナンパする。湧き上がる性欲の衝動を抑えながら、生きていくためには金が必要だということを覚え、徐々に大人になっていく。
恋もすれば、別れもあった。破滅的な人間とも絡んで、逃げ出したこともある。成功があり、失意があった。それでも人生だ。恥じることは何もない。
紆余曲折、波瀾万丈の果て、3人は行きつけの居酒屋でしたたかに酒を飲む。そして言うのだ。「俺たちはみんなガキだ」と。ガキだが、鷹揚なガキだ。なにせ人を許すことができる。もともと悪意がある訳じゃない。許せなくてどうする。
大人になるのは悪いことじゃない。しかし何かを捨てなければならない。上手く捨てて自分を欺いた者が成功者になれる。しかしそんな人生はクソだ。俺たちはガキのままでいい。
イタリア人らしい、人生を肯定し謳歌する青春物語である。ジジイになっても、まだまだ青春なのだ。なにがなんでも、青春なのだ。
映画「ヒトラーのための虐殺会議」を観た。
前日にセルゲイ・ロズニツァ監督の映画「新生ロシア1991」を観たばかりである。同監督には「バビ・ヤール」という、ナチスドイツによるキエフ近くでのユダヤ人大虐殺を描いた作品がある。2022年10月に今回と同じ映画館で鑑賞した。バビ・ヤール大量虐殺は1941年の事件で、本作品はその翌年に開かれた会議の話だ。
バビ・ヤールが大変だったから、次はもっと効率的なやり方を考えなければならない、というのが会議のテーマのひとつである。大人の男たちが大量に人を殺すやり方について大真面目に議論している。信じられないが、実際にあったことだ。
アイヒマンが際立って優秀な役人であったことは、本作品を観ればよく分かる。実は本当に恐ろしいのは、こういう事務的に職務を遂行する役人たちだ。アイヒマンが淡々と説明する内容は、常人の神経では聞いていられない凄惨なものである。
ユダヤ人をひとりひとり射殺していくのは、手間がかかる上に、殺す兵士が精神的に病んでしまうことがある。アウシュビッツのような強制収容所にユダヤ人を集めて、列車の到着と同時にガス室に送り、死体の処理をユダヤ人にやらせればいい。短時間で大量の人間を殺すことが出来る。殺す人間と殺さない人間が直接的に接触しなくて済むし、作業を分業化しやすい。
アイヒマンの説明を聞いたナチの高官たちは素晴らしいと拍手をする。こちらも並の神経ではない。ユダヤ人が先にドイツに被害を与えた訳で、今後の被害を防ぐためにユダヤ人を根絶やしにするのは当然だ、人道主義など一顧だにしないことが大事だと、ナチの思想の最も恐ろしい部分を平気で口にする。
個人個人は別の考え方を持っているかもしれない。しかし全体主義の社会では、反体制的な思想を一片でも見せてしまうと粛清されてしまう。それは政府高官も例外ではない。誰もが唯々諾々と反ユダヤ主義に従うしかないのだ。戦前の日本の「お国のため、天皇陛下のため」という思想と寸分たがわない。
岸田文雄は日本の軍事費を2倍にするという。この時代にあって、軍拡が戦争の抑止になると本気で考えているようだ。精神性の根幹は金正恩と同じだ。そして日本の役人たちはアイヒマンと同じように淡々と軍拡を進めようとしている。かつて辿った道、侵略戦争への一本道だ。そこが何より恐ろしい。
映画「新生ロシア1991」を観た。
この映画は、帝政ロシアからソビエト連邦の成立、そして崩壊の歴史を知らなければ、ちんぷんかんぷんの作品である。当時の広場に集まった人々は何に怒っていて、実際に政権の中枢では何が起きていたのか。
2022年2月のロシアのウラジミール・プーチン政権によるウクライナ侵攻から間もなく一年が経つ。ミハイル・ゴルバチョフによるソ連の改革と解体、ボリス・エリツィンの台頭からプーチンの独裁に至る現代史には、ロシア人の精神性が色濃く現われていると思う。
本作品はゴルバチョフのペレストロイカ、グラスノスチという政治改革に反対する共産主義の保守派が1991年8月にゴルバチョフを軟禁したクーデター事件を扱っている。
ソ連は同年1月にバルト三国に軍事侵攻している。ソ連国民はこれに反対して、ゴルバチョフの退陣を求めた。それに乗じてペレストロイカに反対する保守派が政権を掌握しようとした訳だ。同年6月にロシア大統領に選出されたエリツィンがクーデターに反対してゴルバチョフを救出した。一躍英雄となって、ソ連崩壊後のロシアの政治をリードする形になった。ゴルバチョフはエリツィンの独裁的なやり方に懸念を覚えていたフシがあったが、時代の流れには逆らえず、共産党を解党し、大統領を辞任してソ連を実質的に解体した。
本作品で集会に参加した人々が訴えるのは、生活を向上させてほしいという、いわゆる庶民の一般的な願いと、共産主義からの解放だ。「偉大なる同志」であるスターリンによる抑圧的な政治はスターリンの死後も続いていて、ソ連国民を苦しめてきた。これを機に、70年余の受難の時代が漸く終わるのだ。
一方で人々の声の中に混じるのは、ロシアという言葉である。そこには「祖国」という響きがある。ロシア民謡に根深く息づいているロシア人の精神性だ。それは日本人の精神性に通じるところがある。組織や共同体を個人よりも優先する精神性だ。自己犠牲を美とし、善とするから、お上の言うことには逆らわない。ロシア人が長い間の圧政に耐えてきたのは、その精神性によるものだと思う。
本作品は、祖国を愛して礼賛する一方で、個人の生活の向上も同時に願う人々を描く。ある意味で矛盾している心のありようだが、この矛盾がそのままロシアという国の矛盾になっている。
日本も同じで、生活が楽になったり、困っている人が救われる社会を望んでいるにもかかわらず、選挙では国家主義の勇ましい妄言を並べ立てる政治家に投票する。
日本がどんどん貧しくなっているのと同じく、ロシアは一部のオリガルヒを除いて貧しくなった。エリツィンによる急激な資本主義化が格差を生み出したのだ。
本作品はロシアの資本主義への以降の最初期の生々しい様子を、人々の細かな表情とともに伝えている。チャイコフスキーの「スワン・レイク」が象徴的に使われて、当時の人々の、考えの纏まらない乱れた精神性をあぶり出してみせた。
映画「グッドバイ、バッドマガジンズ」を観た。
人間の食事は文明が進むほど、単なる栄養補給ではなくなっている。料理は食べやすくしたり消化しやすくするという目的をはるか後方に置き去りにして、美食や栄養食といった文化を形成するようになった。本屋を覗くと、食材の本、料理の本がたくさんある。しかし元はと言えば人間の本能である食欲が、随分と出世したものだ。
ところが、同じように本能である性欲は、食欲のようにストレートに表現されることはない。映画や文学で性表現を見かけることは時折ある。アパレルで表現される「フェミニン」「コケティッシュ」「マニッシュ」「セクシー」などは、性欲の婉曲な表現だと理解している。性欲に訴えることが商売につながることは、食欲の場合と同じだ。しかし表現はあくまで間接的である。
ただ、性欲がストレートに表現される場もある。ポルノ映画やエロ漫画、エロ雑誌だ。レストランの料理を紹介するみたいに、モデルや道具や店が紹介される。しかし大っぴらにはできない。電車の中で料理本を読んでも問題ないが、エロ雑誌を開いていると、変な注目を浴びる。場合によっては訴えられるかもしれない。猥褻という概念のせいだ。日の当たる場所にいる食欲に対して、性欲は日蔭者である。コソコソと隠れながら情報を交換するしかない。
食の好みが人それぞれであるのと同じように、性の好みも人それぞれである。あまり食に興味がない人がいるように、性に興味のない人もいる。もちろん逆の人もいる。性衝動は多かれ少なかれ、人間が本来的に持っているもので、フロイトはそれをリビドーと呼び、あらゆるエネルギーの素になると主張した。しかしフェティシズムは人によって異なる。
食欲と性欲の決定的な違いは、食欲が物が対象であるのに対して、性欲が人を対象にしているところだ。普段は他人に見せることのない生殖器を使うことだけではない。キスをしたり手を繋いだりすることも、性欲の発露である。ある意味で自分の一部分を他人に委ねるわけだから、多少なりとも信頼関係が必要だ。仕事として出演するAVでも、相手が自分を傷つけたりしないと信じていなければ絡みはできない。
エロとは何なのか。作品全体を通して問われ続けるテーマだが、はっきりとした答えは示されない。しかし状況は説明される。東京五輪の開催に向けて、コンビニからエロ雑誌が駆逐される。それを紹介するのは日本語の得意な外国人のAV女優だ。エロ雑誌が未だに置かれている個人店のコンビニでは、高齢の男性が毎月のように買っていく。
殆どの人が興味を持ち、チャレンジしたいと思いながら、知識が不足していたりコンプレックスがあったりで尻込みしてしまうもの、しかし恋愛の涯には必ず行き着くもの、それがセックスであり、エロである。エロはエロス。人間の人間に対する性欲のことだ。対象は必ずしも他人とは限らない。性欲の対象が自分自身に向かう人もいるだろうし、老若男女の多くが他人の性欲の対象となるだろう。
猥褻という言葉でエロ雑誌が迫害される世の中は、不自由な世の中だ。エロはもっと自由でいい。LGBTの解放は、エロの解放である。いつか町の食堂で食事をするように、気の合った人同士が気楽にセックスを楽しむような社会が到来する時代が来るかもしれないが、現状ではその日は遠い先の未来だ。様々なエロが自由に認められるには、食の安全と同じくらい、性の安全が前提となる。セックスで身体が傷ついたり、望まない妊娠をしたりするのでは、自由なエロは成り立たない。人類のエロはまだまだ進化途中なのだ。
映画「Last film show」(邦題「エンドロールのつづき」)を観た。
色付きガラス越しの線路の映像や、光の筋に翳した手の周りをホコリが舞うシーンなど、光の使い方がとても見事である。一方では、サマイの母が料理を作る様子を、まるで手品みたいに映し出す。匂いがあり、音がある。当然味もある。どの料理も驚くほど美味しいに違いない。
サマイにとって、映画は光の魔法だ。知り合った映写技師によると、映画は物語が重要だという。フィルムのコマとコマの間は光を遮断する。それでも映像が繋がっているように見える。残像効果だ。黒い紙にスリットを何本も開けて、下の画像を動かすと動いているように見えるあれである。残像効果を繋げるのは物語だ。
物語ならサマイは得意だ。その場での作り話を友達に聞かせて楽しませている。多分あれを大掛かりにして、光で魔法をかけたのが映画に違いない。
学校の教師は映画を作りたいなら、まず英語を習得して、そしてこの町を出ていくことだと教える。この町は古いパラダイムに縛られている。自分はバラモンの家系だなどと自慢している場合ではない。服装も髪型も自由でいい。やりたいことがあるならやればいいのだ。古い町ではそれが叶わない。
父は悩む。自分は息子の夢を邪魔しているのではないか。古い考えを押し付けているのではないか。もう自分の時代ではない。サマイたちの時代だ。新しい発想、新しい価値観で何かを成し遂げてくれるに違いない。
原題は「Last film show」である。アナログの映画がデジタルに取って代わられるから、この手作りの上映が最後かもしれない。映写機がスプーンに生まれ変わるのは、その比喩である。これまで手で食事をしていたインドの庶民がスプーンを使うようになった。時代は変わったのだ。
インド映画と言えばダンスシーンだが、本作品では映画館で上映される映画のダンスシーンで代用されている。過去の映画の巨匠たちのオマージュがあるから、盗用ではない。
溢れる映画愛をパン・ナリン監督はサマイ少年に具現化してみせた。教師も父親も母も、サマイを一人前の人格として認めている。家系がバラモンだからなのかもしれないが、いずれにしろ、映画を文化として認めたということだ。
サマイを演じた子役は相当に上手で、演技に無駄がない。他の役者陣もそれぞれの典型を好演。フィルムからデジタルへの過渡期を物語にして描いた、完成度の高い佳作である。
映画「On the line」(邦題「ミッドナイト・マーダー・ライブ」)を観た。
横断歩道を渡りながら手を振る女たちや変わった名前の警備員、エレベータの表示とカウントダウンのシンクロなど、ディテールをきちんと描いているから、物語に信憑性がある。だから観客は上手いことミスリードされる。当方もまんまとやられてしまった。
何を書いてもネタバレになりそうで、レビューの書きづらい作品だ。面白いか面白くないかと言えば、とても面白い作品に入るのだろうと思う。穏やかな日常のシーンから始まり、放送局に到着すると不穏な事件が起きて、再び日常に戻ったかと安心する間もなく、急に緊迫感に満ちた展開になる。このあたりの緩急のつけ方は見事だ。音響もいい。
メル・ギブソン主演にしてはかなりエッジの効いた作品で、凄く印象に残った。
映画「そして僕は途方に暮れる」を観た。
「生まれてきてごめんなさい」
「生きていてごめんなさい」
アベシンゾーのような自己愛性パーソナリティ障害でもない限り、家族や親類や世間様に対して、多少はそんなふうな申し訳ない気持ちになることがある。
主人公菅原裕一の周囲の人々は、社会のパラダイムの代表だ。浮気はいけない、人には感謝しなければならない、定住して定職に就かなければならない、親孝行しなければならない。そんなパラダイムが支配的な社会は、テキトーでいい加減な裕一にとって不自由な社会である。かといって、トヨエツの演じた父親のように、何に対しても、誰に対しても、一切責任を取らず逃げ回るのは生きづらい。夏目漱石が「草枕」の冒頭に書いた通りである。
だから裕一が手に入れた手段は、すべてを曖昧にしてしまうことだ。人と向き合って話をしない。何か言われたら、ちゃんと返事をせずに中途半端な笑顔と呟くような「おぉ・・」という返事で済ませる。将来のことなど考えない。明日死んでもいい。なんとか一生を曖昧なままに逃げ切りたい。
しかしいざそうやって逃げ切ろうとしている父親を見ると、これでは駄目だと思ってしまう。人間は社会から逃げたいと同時に、社会と関わらないと生きていけない。多くの人の悩みがそこにある。鬱病になる原因も殆どが人間関係だ。無人島に鬱病はない。
戦前にはお国のために死ぬというパラダイムがあったが、いまではそんな人権無視のパラダイムは完全に否定されている。浮気はだめだとか、親孝行しなければならないとかいうパラダイムもそのうち時代遅れになるだろう。定職につかなければならないというパラダイムは、そもそも企業が非正規雇用をさらに増やそうとしている現在の日本では、なかなか難しい話だ。
パラダイムを簡単には信じることができないのは、裕一が馬鹿ではないという証拠である。パラダイムは簡単に変わったりなくなったりするものだ。そんなものにすがって、自分は大丈夫だと考えている世間の人々の方に無理がある。
裕一に明日はない。しかし自由はある。明日と引き換えに自由を投げ出す方がよほど勇気のない生き方ではないのか。明日のパン、明日の住居、明日の衣服のために今日の自由を投げ出すのは、奴隷の生き方ではないのか。
そんな主張は誰にも響かないかもしれない。しかし、自分たちの現在の状況が必ずしも盤石ではないということはみんな知っている。明日の不安に苛まれつつも、自由気儘に今日を過ごし、いつか野垂れ死ぬであろう裕一の生き方は、必ずしも否定されなくていい。