ポレポレ東中野で映画「戦場ぬ止み」を観ました。
米軍の辺野古移転問題を扱った映画で、座り込みやカヌーでの接近など、反対運動をしている人たちを中心に取材したドキュメンタリーです。沖縄の地上戦を経験したおばあが反戦運動として参加していることに長尺を使っていました。
こういう映画の場合、善悪をつけてしまって一方的に非難するような見方は適切な見方ではありません。映画の中でも埋立地を警備するボートの海上保安庁職員と反対派として漁船で近寄る女性船長の日常的な会話が取り上げられていました。「近寄って映像を撮らせてくれてありがとね」という呼びかけがありました。
「やめてくれって言ってもらえん?」
「俺たちは言えんよ。自分で言って」
こういった会話の意味するところは、たまたま対立構造が生まれて、その中に巻き込まれている人間同士だという共通認識があるということです。
そして、おばあの「憲法9条を大切にして、優しい国になってほしい」ということから、現政権がかつて沖縄の地上戦を招いたような危険な政権であることを示唆しています。
何故国は辺野古への移転を強行するのか。
アメリカはどうして日本にそれを強制するのか。
そんな自民党が何故昨年の総選挙で大勝したのか。
どうして戦前と同じような空気になっているのか。
そういった問いを突き詰めると、個人と共同体の構造の問題になっていきます。共同体も個人もどちらも利己主義があり、共同体の利己主義は個人の利己主義よりもはるかに強烈で、暴力を含むあらゆる手段で個人の人権を蹂躙します。しかし個人の人権が蹂躙されすぎると、個人の集合としての共同体自体が成り立たなくなる。そこで両者のバランスを取る必要が生じます。それが民主主義の手続きです。歴史的にも、王政、全体主義、民主主義の流れになっているのは、そうしないと共同体が崩壊してしまうからです。
そして重要なのは、民主主義の手続きがどのようにして損なわれていくのかという問題です。 この映画のように毎日のように座り込みをつづけても民主主義の手続きが正当に実施されないのが日本の現状であるなら、何故そうなったのかを追求しなければなりません。座り込みや大規模なデモが行なわれて初めて民主主義的手続きが保たれるというのはあまりにもしんどい。普通に生活している中で正当な手続きが行なわれなければ、個人の幸福はありません。
空気が読めないということで非難されるようなモラルがある国では、全体主義に陥りやすい空気が蔓延しています。和をもって尊しとなすとは古人の言葉ですが、場を乱さないことが美徳とされて、人権を主張することが利己主義と断じられる現状は、全体主義を醸し出す絶好の土壌と言えるでしょう。
場を作るのがマスコミで、その情報の真偽を見極める能力がない、あるいは疑いもしない有権者が大半を占めるとすれば、去年の総選挙での自民党の大勝も頷けます。現在の状況を生み出したのは、他ならぬ日本の有権者なのです。
辺野古の問題や戦争法案の問題は、愚鈍な政治家によるものではありますが、当選させたのは有権者です。そしてその有権者ひとりひとりは、おそらく何の悪気もありません。話をされて、握手をされて、よろしくお願いしますと頭を下げられれば、政治的な知識のない人、自分で物事を考えない人はその人に投票してしまうでしょう。そういう構造は日本だけではありません。オリンピックで自国の選手を盲目的に応援することが即ち同じ精神構造なのです。自国の選手を応援するのと同じように暗愚の首相に投票してしまった訳です。
個人と共同体を対立構造の中で考えるのは非常に厳しい生き方となります。精神的な強さも必要とされるでしょう。それが出来ないから共同体に蹂躙される。オリンピックで自国の選手を応援しないことと辺野古の反対運動が同じでなければいけないという事実を、厳粛に受け止めることが、民主主義の手続きを阻む構造的な問題を解決する唯一の手段です。
人類がオリンピックやワールドカップに盛り上がっている間は、真の民主主義は決して実現しないし、いつまでも戦争が続きます。それがこの世界の構造なのです。