三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「彼女がその名を知らない鳥たち」

2017年11月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「彼女がその名を知らない鳥たち」を観た。
 http://kanotori.com/

 蒼井優は「東京喰種トーキョーグール」で恐ろしい人食い女を演じて驚かせてくれたが、この作品で演じた役は、ある意味それよりもずっと恐ろしい。

 主人公の十和子は所謂ニンフォマニア、色情狂である。好きなのは背の高い二枚目だ。竹野内豊や松坂桃李といった配役は十和子の願望に添ったものである。電車に乗ってきた男もそうだった。そういった男を見た瞬間に、性欲のスイッチが入り、付き合いはじめると同時に精神的にものめり込んでいく。
 一方の陣治は十和子の夫で、年月を経ても十和子への献身的な情熱は衰えることがない。世間体よりも十和子が第一の異様な情熱である。鬱陶しくも有難いこの情熱を十和子は受け入れ、陣治という船に乗って漂っていく。
 陣治が料理をして二人でそれを食べるシーンが何度となく出てくる。性欲と食欲。どうしようもなく煩悩に翻弄される人間のありようを、アップを多用したカメラワークがフラットに映し出す。

 蒼井優は持って生まれた女らしいフォルムの肉体で、輝く演技をした。陣治の阿部サダヲもエキセントリックな役柄を振り切った演技で見事に表現していた。
 脇役陣も、煩悩から一歩も抜け出せないどうしようもない人間たちになりきっていて、安上がりのテクニックを駆使する女たらしを演じた松坂桃李といい、虚栄心から抜け出せない弱い男を演じた竹野内豊といい、ぴったりと役柄に嵌まっていた。

 エキセントリックであればこそ描ける人間の本質を上手く表現できた名作である。蒼井優、阿部サダヲの両俳優の代表作となるに違いない。


映画「不都合な真実2 放置された地球」

2017年11月23日 | 映画・舞台・コンサート

 映画映画「An Inconvenient Sequel: Truth to Power」(邦題「不都合な真実2 放置された地球」)を観た。
 http://futsugou2.jp/

 最初から最後までアル・ゴアの英語の主張が続く映画である。この人の主張は不思議にくどさがなくて、聞きやすい。パリ会議の合意がひとつの目標ではあるが、ゴールではない。
 経済的な豊かさを求める活動は地球の温暖化を加速度的に早める。先進国は温暖化を止めるために化石燃料の使用をやめ、原子力の使用をやめる傾向にあるが、途上国は先進国の段階になるまでは自由にしたいという。そうでないと不公平だという主張である。
 いま生きている人の幸福は必ずしも将来の人々の幸福に一致するとは限らない。まともな地球を未来に残すことを、アル・ゴアは全世界に訴える。主張は批判され、否定され、ときには物をぶつけられる。気象の問題を主張するのは必ずしもすべての人々の賛同を得られる訳ではないのだ。
 世界は南北問題、人種差別、国内での格差など、資本主義の行き詰まりに伴う問題が顕在化している。ひとつを解決しようとすると他の問題を増長させることになったりする。ドナルド・トランプが抵抗勢力の象徴みたいな設定で登場するのは、ある意味、すべての問題を集約している。
 何も打つ手がないように見えるが、それでもできることはあると、アル・ゴアは言う。根拠のない希望は語らない。未来は必ずやってくる。いい未来とは限らない。悪い未来かもしれない。現在の我々は、未来に禍根を残さないためにあらゆる努力をすべきだと、彼は主張する。
 目の前の利益にしか興味のない現在の人々に、彼の主張は響くのだろうか。


舞台「24番地の桜の園」

2017年11月23日 | 映画・舞台・コンサート

 Bunkamuraシアターコクーンで舞台「桜の園」を見た。風間杜夫、小林聡美、八嶋智人などの達者な俳優たちが、廃れてしまうさくらんぼ農場を舞台に繰り広げる群像劇である。
 ほぼチェーホフの原作通りだが、脇役たちの人生にもスポットを当てることで芝居に奥行きと深みを出している。なかなか見事な演出だ。
 台詞も物語もわかりやすくて、長時間だがとても楽しめる舞台だった。


映画「KOKORO」

2017年11月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「KOKORO」を観た。
 http://www.kokoro-movie.jp

 高収入の夫とティーンエイジャーの二人の子供がいて広い家に住んでいるという、主人公のステレオタイプの幸福は、弟の死によって崩れ去ってしまう。死がこんなにも身近で肉体はいとも簡単に滅びてしまうという事実は、主人公を魂の救済の旅へ押しやる。
 弟を怒らせて事故に至らせてしまった罪悪感はいつまでも消えないが、訪れた自殺の名所で自殺の危機に瀕した人々が本当に自殺してしまったり、或いは思い止まったりするのを目の当たりにすることで、いつしか生の本質に気がつきはじめる。
 主役の女優イザベル・カレはこの映画で初めて見たが、表情を豊かに表現するタイプではないように見えた。しかしそれは、静かに時間が過ぎていく環境の中で心もまた静かに変化してゆく様を表現するためだったようだ。この人が陽気に笑う顔を見てみたい気にさせる好演であった。
 門脇麦はエキセントリックな役柄を演じるのがとても上手である。この作品では主人公を誘導する狂言回しの役割を上手にこなしていた。
 國村準は何でもこなす名人だ。この作品では、自殺する人たちを時には助け、時には死体を確認しながら、未だに悟りを得られない自分自身を正面から受け止める退役警官の役が見事であった。
 ストーリー性のない、情景描写と心象風景の映画だが、見終わってどこかホッとする、とても哲学的な作品だ。人間存在の本質を問いかける実存主義の映画といってもいい。静かで上品な作品である。


映画「Nelly」(邦題「ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で」)

2017年11月03日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Nelly」(邦題「ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で」)を観た。
 http://nelly-movie.com/

 カナダのケベックという場所は英語圏のカナダにあって、日常的にフランス語を話す特異な地域であることは学校で習った記憶がある。また、世界最古の職業は売春婦だということも習った。

 この作品は自意識が認識する自己と現実に物理的に存在する自己との乖離が大きくなった場合、人間がどのように振る舞うかの一例を紹介している。作家で娼婦であるという生き方は、知的な思考実験と本能的な欲求の発露という両極端の場面に順不同に直面することだ。ストレスの大きさは計り知れない。
 人間には自意識があるから、自分が認識する自己と実存としての自己との乖離は多かれ少なかれ誰にでも存在する。自覚している人もいれば、無自覚な人もいる。どちらが生きやすいかと言えば、当然無自覚な人である。
 俺は、俺だという時の主辞と賓辞の間に横たわる深い溝については、埴谷雄高が小説『死霊』の中で詳しく述べている。所謂、自己同一性障害である。非常に哲学的なテーマだ。
 本作品は、埴谷雄高が小説の中で主に会話によって表現したのと同じような思考実験を、飲んで食べて性交する主人公の即物的な行動によって表現した稀有な映画である。場面は時制を超えてあちらこちらに飛び回る。必死についていきながら観客が理解するのは、ストーリーではなく主人公の心の闇だ。