礼儀作法や立居振舞について正式に詳しく学んだ人はあまり多くないと思います。庶民の日常生活に殆ど必要がないからで、国語算数理科社会のように、それについて最低限の知識がないと社会生活に支障を来たすものであれば義務教育の課目になっているでしょうし、親も熱心に教える筈です。1+1=2を知らないと生きていけませんが、正しい箸の扱い方を知らなくても自己流で十分やっていけます。
野球の投手の投げ方が悪ければ、肩を壊したり肘を故障したりします。ですから指導者は正しい投げ方を教え込みます。それが理にかなっているからです。
テニスのトッププレイヤーを見ていると、いつも基本どおりのきれいなフォームで打っています。やっぱりそれが合理的だからです。
プロのスポーツ選手は練習を繰り返すことで合理的なやり方を身につけます。そうしなければ勝てない訳ですから、当然のことだと思います。プロの選手でなければ体を壊すほどスポーツをする訳ではありませんから、自己流で構いません。仲間内でボウリングをしているときに、投げ方が正しくないからと非難されることはまずありません。非難する人もいません。
ところが、箸の扱い方については「正しいマナー」を教えるお節介な人がいます。たしかに箸の「持ち方」は、正しい持ち方をした方が合理的であるように思いますが、箸の扱い方については「正しいマナー」が必ずしも合理的であるとは言えません。また、やってはいけないとされている箸の扱い方が、必ずしも同席の人に対して不快感を与えるとは言えません。
たとえば、「渡し箸」は、箸を椀や皿の上に置くことを言いますが、これはもうお腹一杯で、器に蓋をすることから、食事が終わったとき以外にしてはいけないとされています。しかし箸置きがない場合、ビールを飲むのに、箸を持ったまま飲むよりは、「渡し箸」の方が合理的だと思います。特に同席の人に対して失礼とは思いません。箸を持ったまま飲むと、箸についていた汁が衣服に落ちるかもしれない危険性もあります。
箸で碗を叩いたり、人のことを指したりするのは人に不快感を与えるのでやらない方がいいと思いますが、同じものばかりを食べるのがいけないとか、食べ物に箸を突き刺してはいけないとかいう「正しいマナー」は、あまり気にする必要はありません。「渡し箸」は大抵の人がやっていると思いますし、大抵の人がやっていれば、それはマナー違反ではないのです。
因習からきている「マナー」はダジャレみたいなもので、合理性に欠けており、守る必要のないものです。たとえば、病院のお見舞いに鉢植えを持っていくと「根付く」から「寝付く」を連想するのでよくないなんて「マナー」がありますが、笑止千万です。擂り鉢のことを、「する」は博打でお金をなくすことだから「当たり鉢」と呼ぶのと五十歩百歩です。同じこじつけでスルメをアタリメと呼びます。人に強制するような崇高なマナーではないのです。
和食店舗の苦情で、こういうのがありました。
「ご飯の大盛りを頼むとテンコ盛りにしてきたが、あれは葬式の供物と同じだ、見たことがないのか?そういうしきたりを知らないのか? 縁起が悪くて気持ち悪い」
ここまで思い込みが激しいと、何を言っても理解されません。ご飯は葬式の供物ではなく、仏壇にお供えするもので、お供えして念仏やお経を唱えたあと、家族で食べます。だから決して縁起の悪いものではありません。要は亡くなった人を思いやる気持ちと、食物をありがたくいただく気持ちが大事なのです。縁起が悪いという言い方は、亡くなった人に対しても、ご飯に対しても失礼です。
礼儀作法もマナーも結構ですが、人に強制するのはどうかと思います。
道を歩いているときに、横に並んで歩いていたり、傘を振り回しながら歩いたり、または歩き煙草をしたりするのはよろしくないと思いますし、かなり迷惑です。他人の迷惑を考えることをマナーと呼ぶなら、マナーはなるべく守った方がよろしい。
しかし他人の迷惑という観点ではなく、因習からくるマナーは、特に守る必要もないし後世に引き継ぐ必要もありません。
最も悪質なのは、因習から来るマナーを「文化」だと言い張って、それを商売にする輩です。マナーを教えてお金を取るという、詐欺師みたいな連中。たとえば日本人はお辞儀をしますが、お辞儀の角度によって「会釈」「敬礼」といった分類をして偉そうに教える人がいます。こういう人に対して、お辞儀の仕方なんかを細かく分類してやるのは日本だけで、特に必要性を感じないという意見を言うと、「あなたは日本人でしょう。日本人なら日本の礼儀作法を守るべきです」と反論してきます。
やっぱりね。礼儀作法という「文化」の根幹にあるのは国家主義なんです。だから日本の「文化」が優れていると思っている。外国人を「毛唐」と呼ぶ「文化」です。実はこの精神構造は外国でもっと顕著で、自国の「文化」を他国に押し付けようとするのは日本の比ではありません。中国では所謂中華思想という思想がありました。自分たちが世界の中心にあって「華」であるという考え方です。東夷西戎北狄南蛮と言って、夷も戎も狄も蛮も全部「野蛮人」の意味ですから、東西南北全部、、無教養な野蛮人ばかりであるということで、自分たちの「文化」こそが重要で正しく、したがって他国民も従わねばならない、ということになります。つまり戦争をして支配しようとするのです。
ということは、お金を取って「マナー」を教える人たちは、実は戦争を仕掛ける人殺しと同じ精神構造を持っているということになります。先の「テンコ盛りご飯」の意味合いを誤解しているクレーマーも、同じです。こういう精神構造の人たちが、国家主義を盾に権力を握り、国民に「マナー」の遵守を強いて、場合によっては戦争に駆り出しているのが現代の国家の構造なんです。
本来文化は人類共通で、価値観は時代によって変遷するものの、押し付けたり押し付けられたりするものではないし、差別もありません。日本人の指揮者がドイツのオーケストラを指揮しても何の不思議もないこと、それが文化です。ドストエフスキーが世界中で広く読まれること、それも文化です。「もったいない」という言葉を広めようとしているアフリカ人がいること、これも文化と言っていいでしょう。
しかし箸の扱いやお辞儀の仕方を教え、それで金を稼いでいるのは、決して文化ではありません。それは商売、または詐欺です。こういう人たちが救いようがないのは、自分のことを正しいと信じこんでいる点で、「テンコ盛り」クレーマーと同じく、何を言っても理解しない、独りよがりの精神構造になってしまっています。ヒトラーの精神構造です。そして、周囲の人間も彼らを説得することを諦めています。だれからも何も言われないと、人間は増長し自尊心が肥大化します。肥大化した自尊心の持ち主は、往々にして他人に平気で厳しくすることができ、思いやりの欠片もありません。そして現代社会では、驚くべきことに、こういう怪物人間が支配層にいるのです。寛容な人と不寛容な人が権力争いをすれば、不寛容な人が必ず勝利します。そういう社会なのです。
私たちはこれからも当分、不寛容な「文化」を押し付ける詐欺師の犠牲者であることを強いられ続けるのです。やれやれ。