三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「苦悩のリスト」

2024年12月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「苦悩のリスト」を観た。
『ヴィジョン・オブ・マフマルバフ』公式ホームページ

『ヴィジョン・オブ・マフマルバフ』公式ホームページ

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 アフガニスタンでタリバンが2021年に復権したときのカブール空港の大混乱の様子は、強く記憶に残っている。残っているどころか、いまだにアフガニスタンは国中があんな感じなのだろうという印象さえある。タリバンはイスラム原理主義を掲げて、女性の権利や、人々の幸福追求の権利を蹂躙し、行動を制限して思想統制もする。まさにジョージ・オーウェルの「1984」のリアル版のイスラム教バージョンのようで、おかげでイスラム教に対する偏見がますます強まった感がある。そして、暴力を背景にした圧政の下でも、アフガニスタンの人口は増え続けている。

 3年前のタリバンの復権は、農村を中心としたタリバン支持を背景にしている。イスラム教は避妊も堕胎も禁じているから、子供が増え続けているのは仕方がないが、自分たちの権利を蹂躙しつづけるタリバンを支持する精神性は、先進国の人々には少しも理解できない。しかしそこを理解しないと、中東の紛争は永遠に解決しない気がする。その鍵は、イスラム圏で活躍している芸術家たちが握っていると思う。

 本作品では、タリバンを単に暴政の徒の集団として捉えていて、自由な精神の持ち主である芸術家たちが弾圧されることを心配し、なんとか回避させようと努力する人々が電話とインターネットで奮闘する様子が描かれる。彼らをアフガニスタンから、EU各国のどこかに亡命することができれば、アフガニスタンを救う道が残るということなのだろう。
 全体主義のタリバンを支持する一方で、女性の権利の解放を求めたり、イスラム教に頼りながらも、イスラム原理主義に苦しめられるという、意味不明の精神性には、それなりの理由があることはわかっている。それが人間の弱さだというなら、人類はいずれイスラム教に席巻されてしまうだろう。救われない魂は、永遠に救われないままになる。

 人類の愚かさに加え、なんだか底知れぬ恐ろしさを実感する作品であった。

映画「神は銃弾」

2024年12月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「神は銃弾」を観た。
神は銃弾 - 株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX

神は銃弾 - 株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX

「このミステリーがすごい!」 第1位!全世界のノワールファンを虜にしたベストセラー、待望の映画化!

株式会社クロックワークス - THE KLOCKWORX

 キリスト教の教えに従って、平穏に生きてきたし、世の中はキリストが教えた通りに健全に推移してくと信じていた主人公ボブ・ハイタワーにとって、全身にタトゥーを入れるカルト宗教は、理解できない世界であり、その信者は理解できない範疇に属する。
 そもそもそんな世界があることは知っていてもあまり考えなかったし、関わりたくもなかった。しかし向こうから関わってきたら、必要な対処をするしかない。ボブの心境はそういったところだろうか。ただ娘の奪還に対する執着は半端ではなく、通常なら受け入れがたいタトゥーの施術も受け入れる。このあたりから、主人公は警官というカテゴリーから自分を解き放っていて、目的のためなら何でもありという無法者に変身する。

 ある意味では爽快な変身だが、主人公の正当性を担保するためなのか、カルト側が一方的に絶対悪のように描かれているところと、家族第一主義のアメリカ映画の呪縛から脱しきれていないところがあって、本作品はB級作品に留まっている。その割に長いので、暇なら観ても損はない、という程度の評価にしておく。

映画「バグダッド・カフェ 4Kレストア」

2024年12月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「バグダッド・カフェ 4Kレストア」を観た。
映画「バグダッド・カフェ 4Kレストア」公式サイト

映画「バグダッド・カフェ 4Kレストア」公式サイト

アメリカ西部、モハヴェ砂漠にたたずむ寂れたモーテル「バグダッド・カフェ」。人々の心を温かく抱きしめた珠玉の名作が、公開から35年を経て4Kレストアされスクリーンに鮮...

映画『バグダッド・カフェ 4Kレストア』公式サイト

 本作品は4Kデジタルリマスターだが、もともとは1987年製作のドイツ映画である。2024年のいまからすると、37年前だ。この間に世界で起きた最大の出来事は、もちろんインターネットの普及である。

 インターネットが生活の中に密に入り込んできたのは、電話端末の発達で、時と場所を選ばずに大量の情報を得られるようになってからだろう。誰もがスマホを持って、世の中で何が起きているのかとか、今いる場所だとか、次の行動のためだとかいった情報をのべつ幕なしに収集し、同時に自分の情報を発信したりしている。お陰で人々が隠していたバイアスが世の中に広く明るみに出され、問題化したのが現代だ。

 本作品では、バイアスを抱えた人々が互いに交流して、自分の中の偏見や無為なこだわりを解消していく様子を描く。人種や民族の違いで相手を拒否しようとするカフェオーナーのブレンダに対し、カフェの人々の純朴さを愛するドイツ人女性のヤスミン。オーナーのバイアスで拒否されてしまうヤスミンだが、持ち前のポジティブな精神性で異文化を受け入れ、みずからも提案し、積極的に関わっていく中で、関係性の改善を実現する。
 まさに今の時代に求められる姿勢であり、行動力だ。差別や分断を解消するには、差別用語を使わないように気をつけるなどといった消極的な姿勢ではなく、積極的な関わりと寛容の姿勢が求められる。
 共同体の指導者たちは、自分たちの立場を守るために人間をカテゴライズして、敵と味方に分け、敵を攻撃することで味方意識を増強させるというバカな政治を繰り返してきた。民主主義の時代になっても、有権者は指導者たちの本質を見抜けず、バカを選び続けている。本作品は人類の愚かな本質を砂漠のカフェを舞台に描いていると言っていい。

 ドイツはフランスと並んで哲学の国だ。カントやショーペンハウエルのように、世界の本質を見抜くDNAを連綿と受け継いでいるに違いない。本作品は、極めて日常的な様子を描いているように見えるが、扱うテーマは実に哲学的だ。傑作である。

映画「型破りな教室」

2024年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「型破りな教室」を観た。
映画『型破りな教室』公式サイト

映画『型破りな教室』公式サイト

治安最悪な国境の町の小学校で起きた奇跡の実話 12/20(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開

映画『型破りな教室』公式サイト

 ちょうど一週間前に、世田谷の小学校を記録したドキュメンタリー映画「小学校 それは小さな社会」を観た。子供たちを従順で隷属的な人間に育てようという国家権力の意思を、そのまま教育現場で実現しようとしている愚かな教師たちを描いていて、日本の小学校教育のレベルの低さに愕然としたのだが、メキシコの小学校も、似たような現状らしい。
 そんな教育政策に逆らって、独自のスタイルを試みる熱血教師が、本作品の主人公セルヒア・ファレスである。教育行政のお偉いさんに向かって「社会の歯車になるしか能のない人間を育てたいのか」と、独創的な啖呵を切る。見事な啖呵である。日本の教育の責任者にも言ってもらいたい。

 涸れ井戸に落ちたロバの話、ガウスの足し算の話といった、有名な話を織り交ぜつつ、子供たちが自分で考えて、原理や法則に辿り着く手助けをする。アルキメデスの浮力の原理を自分たちで思いつく場面は素晴らしい。もう子供たちは船を作れる。この調子だと、じきに揚力の原理にも行き着いて、飛行機も作れそうだ。

 メキシコの経済状況は厳しい。親は子供の教育よりも生活の維持を優先する。夢を見るな、現実を見ろという訳だ。攻めるよりも守ることが主体である。誰も既存の価値観を壊そうとしない。現状の中で少しでも自分や自分の家族が得をすることだけを考える。大人だけではない。メキシコにも半グレがたくさんいて、違法の凌ぎで荒稼ぎをする。
 そういった利己主義の価値観を壊して、新しい価値を創造することができる人間を育てようとするセルヒアの意志は、あまり理解されない。しかし子供たちは理解する。自分たちは変わることができる。社会を変える力もある。事なかれ主義だった校長も理解してくれる。大人の中で唯一の味方だ。太ったおっさんだって変われるのだと、心意気を見せている。なかなかいい。

 アベシンゾーが掲げた「美しい日本」という愛国主義は、戦争にまっしぐらに向かう世界観である。教育現場は、なんとしてもそんな価値観を壊し、理想を目指す子供たちを育てなければならない。どうすれば利するだろうかということばかり個人が考えていると、国家もどうすれば利するだろうかということばかり考える。つまり戦争に至る道だ。

 セルヒア教師は勇気があって、努力を惜しまない。その姿勢は見事だ。しかし教育の未来が教師の個人的な勇気に委ねられる社会は、健全ではない。
 原題は「RADICAL」である。英語でもスペイン語でも根本的という意味もある。社会の価値観を根本からひっくり返すのだ。世界はいま、戦争の価値観の真っ只中にある。ひっくり返さない限り、未来はない。セルヒア教師の教育観を標準化するのが近道だが、それだけの勇気のある政治家は、世界のどこにもいないかもしれない。本作品から学ばなければいけないのは、子供たちではなく、世界の有権者である。

 ニコが修理した船の名前は、すぐにわかった。セバスティアン・イラディエル作曲の古い歌のタイトルと一緒である。スペイン民謡と言っていいかもしれない。日本では津川主一の訳詞で有名だ。別れの曲である。この船名を使いたかったから、女生徒の名前を決めたのかもしれない。とても洒落ている。

映画「キノ・ライカ 小さな町の映画館」

2024年12月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キノ・ライカ 小さな町の映画館」を観た。

 篠原敏武という歌手の歌ははじめて聞いたが、なかなか味わいのある声である。聞き心地のいい声と言っていい。本作品ではチェスを指す場面に本人が登場していて、鼻歌でワンフレーズだけ歌った「雪の降る街を」がびっくりするほど上手かった。

 説明がなくて、誰が誰だかよくわからない作品だが、人々にとって、あるいは街にとって映画とは何なのか、映画館はどんな存在なのかを、みんなが語る。集約すると、映画館があって、バーがあって、観たばかりの映画の話をしながら、気のおけない仲間と酒を飲めれば最高だ、そんなふうになると思う。

 フィンランドは人と人の関係が濃密なのだろうか。作品について本気で語ると、ぶつかり合う場合も出てくるはずだ。当方などは、他人と言い争いたくないほうだから、映画について語ることがあっても、あまり本音は言わない。相手の意見を否定しないように注意しながら、ついつい心にもない当たり障りのないことを言ってしまう。だからレビューを書いている訳だ。自分に語っているのである。
 しかし本作品の登場人物は、かなり穿った意見を言い合いつつ、互いに相手を認める。芸術に対する懐が深いのだ。フィンランドの歌を日本語で歌う篠原敏武さんの歌が好まれるのも、懐の深さのあらわれだろう。人種も民族も言語も関係なく、いいものはいい。

 映画は総合芸術である。本作品は、映画が日常をどれほど豊かにしてくれるかを、たくさんの人々に語らせながら、芸術を力強く肯定する。篠原さんの歌も含めて、気持ちよく観ていられる佳作である。

映画「はたらく細胞」

2024年12月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「はたらく細胞」を観た。
映画『はたらく細胞』公式サイト

映画『はたらく細胞』公式サイト

大ヒット上映中!映画史上最小主人公、誕生!笑って泣けてためになる!!メガヒット漫画が実写映画化 武内英樹 監督

 鶴見辰吾が演じた担当医が「感謝するのは僕ではなく、頑張った自分の体に感謝してください」と言うシーンがある。本作品の世界観は、この言葉に集約されていると思う。

 原作を読んだ人によると、マンガには阿部サダヲ、芦田愛菜ちゃんの親子は登場しないらしい。それどころか、体の主も誰かわからないままだそうだ。体の主たちの人間模様を描いたのは、映画のオリジナルのようだ。秀逸なアイデアである。構成が立体的になって、とても面白かった。

 息子さんが急性骨髄性白血病になった知人の女性がいる。毎日泣いていて、ときどき慰めたりしていたのだが、残念ながら息子さんは亡くなってしまった。医療関係の知人は、若い人は治りやすいんだけどねと、嘆息していた。
 そのときに、実は人体について医学でわかっていることは、厳密に言うと1パーセントくらいしかないんだ、とも言っていた。なるほどと思った。多種多様な生命の形態を見るにつけ、この生物はどうしてこんな形になったのだろうとか、進化の不思議を実感するが、人間が長い年月にわたって進化してきた膨大なプロセスの、ひとつひとつが解明されない限り、医学が人体を完全に理解することはできないのだろう。

 公開から1週間経っても、映画館はとても賑わっていた。子供たちもたくさんいて、上映前のお喋りは騒音に近いものがあったが、上映が始まると作品に見入ったのか、大人しくなった。お行儀のいい子供たちだ。

 本作品は、現時点の医学で判明していることを元にして、細胞と細胞の協力関係や分業関係を上手に描いてみせている。人間が進化の最終形とは言い切れないから、これからも人体は変化していくだろうし、医学は次から次へと新しい課題を抱えることになる。医師はそのときの医学で最善と思われる治療を行なうが、最後は本人の体が生きよう、治そうと頑張るのを期待するしかない。
 それでいいと思う。遺伝子の段階にまで踏み込んでいくのは、大豆やとうもろこしの遺伝子操作に似ていて、医学のあり方としてちょっと違う気がする。また生命最優先で、植物状態にある患者をたくさんのパイプやら電極やらを繋いで生かしつづけるのも、ある意味、異常である。当方なら、人間としての尊厳まで蹂躙されて延命されるのは、真っ平ごめんだ。

 俳優陣はいずれも楽しそうに演じていて、複雑で広大な人体ワールドの世界をわかりやすく、愉快に堪能できる作品だ。子供たちが観れば、いろいろ勉強になるだろう。大人でも、人体についての理解が深まるかもしれない。とにかく楽しかった。

映画「小学校 それは小さな社会」

2024年12月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「小学校 それは小さな社会」を観た。
映画『小学校 〜それは小さな 社会 〜 』公式サイト

映画『小学校 〜それは小さな 社会 〜 』公式サイト

世界が喝采!日本の小学校に驚いた !! いま、小学校を知ることは、未来の日本を考えること 。 1 2/13 ( 金 ) よりシネスイッチ銀座ほか全国順次公開

映画『小学校 〜それは小さな 社会 〜 』公式サイト

 驚いた。日本の小学校の教育の構図は、戦前とまったく同じだ。つまり既存の価値観や独善の押しつけと義務化である。学校行事の意義や何故開催しなければならないかの説明もなく、どうすればうまくできるかを課題にしてしまう。そして、それを子供たちに自分たちで考えさせるという自主性だと主張する。この欺瞞を教師は誰も自覚していない。
 教育カリキュラムをそのまま実行するのが教師の仕事だと言われればそれまでだが、教師の思想はないのか。もしかしたら、子供たちに説明しても理解できないと、子供をバカにしているのではないか。
 日常の教師たちの態度を見ても、自分たちが上で、子供たちが下だと思っているのがわかる。今年(2024年)の12月に「子供に人権はない」と発言した津市の市議会議員がいたが、教師たちの世界観も同じである。基本的人権をもう一度勉強し直したほうがいい。

 卒業式の練習で、笑った生徒を怒鳴りつけた教師がいた。真剣にやっているのを笑うとは何事だという論理だが、真剣にやっているからこそ、滑稽なのだ。卒業式はなくても誰も困らない。卒業証書はPDFにしてメールで送ればいい。
 そういう無意味な儀式を有難がって、練習で全力を出しているから面白い。笑うのは自然である。それを怒鳴りつけてしまっては、自由な感情の発露ができなくなる。こういうところに、子供たちの精神を制限して、窮屈な人生にしてしまっている過失があるのだが、当の教師はまったく気づかない。愚かな教師から教わる生徒が不憫だ。
 こういう教育を受けてしまうと、権威や権力者の望むことをしようとする人間ばかりが育ってしまう。社会のパラダイムに疑いを挟むことなく、お上の言うことに唯々諾々と従うのだ。戦前の教育も同じだったから、お上が戦争を礼賛すれば、ガンバレニッポンと応援する。欲しがりません、勝つまでは、と必要なものも我慢する。

 新しい価値観は、既存の価値観を相対化することから始まる。創造は破壊からスタートするのだ。作中で公演を行なった大学の教授が指摘していたとおり、全員が参加する行事は、ともすれば全体責任といった考え方になり、誰かの不作為さえもみんなの迷惑になると追及されて、追及された子供は居場所がなくなったり、いじめにあったりする。
 自分のことを「先生」と呼び、学校行事の是非を鑑みることもなく、ただカリキュラムをこなしていくだけの教師たちは、自ら反省することもなく、正論ばかりを子供に押し付ける。誰からも尊敬されないし、顧みられることもない。

 本作品の制作陣は、日本の標準的な小学校のありようを、好意的に伝えようとしているように思えるが、炙り出されたのは全体主義と独善である。期せずして小学校教育の本質的な問題点を考えるきっかけになった訳だ。

映画「お坊さまと鉄砲」

2024年12月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「お坊さまと鉄砲」を観た。
「お坊さまと鉄砲」

「お坊さまと鉄砲」

『ブータン 山の教室』の監督が贈る現代を生きる人々に気づきをもたらすハートウォーミング・テール『お坊さまと鉄砲』12/13(金)ROADSHOW

「お坊さまと鉄砲」公式サイト

 かつて日本各地に「弘法さま」という行事があった。空海が死んだとされる旧暦の3月21日に「弘法大師」の幟や旗を玄関に出している家があって、その家を訪ねて「お参りに来ました」と言い、案内された仏壇や祭壇に向かって小銭を賽銭して「南無・・・・・・」と唱えると、お菓子やお餅がもらえる。本当は「南無」以降の文句もあったはずなのだが、忘れてしまった。
 ハロウィンの祭りに似ている。10月31日に玄関に飾りがあったり、かぼちゃの置物が飾られている家を、仮装して訪ねて「Trick or Treat」というと、お菓子がもらえる。悪魔除けの祭りである本来のハロウィンである。弘法さまは、未来永劫に亘って人々の幸せのために祈ると誓って死んでいった弘法大師を讃える祭りだ。

 ハロウィンは形骸化して、日本ではバカの集まりになっているし、弘法さまは廃れて、誰も知らない行事になってしまった。しかしブータンでは、敬虔な仏教徒が多く存在し、僧侶は敬意を払われている。少なくとも本作品ではそうだった。
 インターネットやテレビが普及して、外国の様子などの情報が流入すると、ブータンは世界一幸福な国ではなくなってしまった。他人と自分を比較する行動は、必ず人間を不幸にする。分断と対立を生むのだ。選挙は他人と他人を比較しているようで、実は、自分と他人を比較しているのが本質である。やはり分断と対立を生む。
 その様子を顕著に表現したのが本作品で、親が応援する候補の違いで子供が虐められ、おとなしい住民たちが大声を上げるようになる。本来、仏教は争いと殺生を好まない。敬虔なチベット仏教徒である国王が治世している間は、分断も対立もなく、平和な毎日が坦々と過ぎていた。住民は疑問に思う、どうして選挙が必要なのか?

 民主主義は善だと信じてきた人間には、ショッキングな作品である。選挙は分断と対立を生み、政治腐敗と世襲と格差を生む。それは教育と運営の問題だと思っていたのだが、もしかしたら選挙というシステムの本質的な欠点なのかもしれない。欠点だとすれば、それは民主主義の欠点でもある。
 都知事選では三井不動産と組んで東京を破壊しようとしている緑の老女が圧勝し、アメリカ大統領選では分断と対立を煽る老人が勝利し、兵庫県知事選では、職員を二人も自殺させた元知事の男がゼロ打ちで当選した。今年の選挙結果は常軌を逸している。
 衆愚という言葉が頭に浮かぶ。かつて大宅壮一はテレビの普及を見て「一億総白痴化」と警鐘を鳴らしたが、ブータンでも、インターネットとテレビの普及が、同じような状況をもたらしているのかもしれない。

 パオ・チョニン・ドルジ監督は前作「ブータン山の教室」では、辺境の村で暮らす人々の気高い精神性を描いてみせたが、同時に情報過多がもたらす不幸についての危惧も表現していた。本作品の世界観も同じで、コメディ仕立てのわかりやすい作品に仕上げながらも、深い問題意識を表現してみせた。秀作だと思う。

映画「クラブゼロ」

2024年12月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「クラブゼロ」を観た。
映画『クラブゼロ』オフィシャルサイト

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12月6日(金) ロードショー|ミア・ワシコウスカ主演 ヘルシーで幸福度がアップする“最高の健康法” それは「食べないこと」

映画『クラブゼロ』オフィシャルサイト

 本作品を観る数日前に、巨大資本による食品業界の寡占を扱った映画「フード・インク ポスト・コロナ」を鑑賞したばかりだ。超加工食品の危険性について共感できた。それで本作品では、なるべく食べない健康法を実施しようとする主人公側に共感しながらの鑑賞となった。

 ゴータマの生前の発言をまとめた「ブッダのことば スッタニパータ」(中村元=翻訳)には、食という漢字が161回も登場する。それだけ人間にとって食は人生の大きな要素を占める訳だ。スッタニパータで説かれた食についての要諦は、貪ることなく少食が大事だということだ。そうすることで頭が冴えて心が落ち着くという説である。チーズやクリームのことも書かれていて、それらは体によいから、牛を殺す理由はないとも書かれている。
 チーズやクリームは加工食品だが、超加工食品ではない。本作品にはスナック菓子などの超加工食品が登場する。父親が娘に無理やり食べさせたのも、ソーセージという超加工食品である。ソーセージやベーコン、ハムなどの食肉加工食品には、亜硝酸ナトリウムが含まれていて、発がん性が指摘されている。健康に気を使っている風な父親が、ソーセージを強要するのは、違和感があった。

 動物は他の生物を食べることで生命を維持しているが、食べるという行為は、生命維持だけが目的ではない。食べることそのものが、ひとつの快楽なのだろう。飼い猫や飼い犬が放っておくと太ってしまうことから、動物にとっても食べることは、快楽のひとつに違いない。
 快楽であるからには、必要以上に食べてしまうのは必然で、人間はそもそも太る運命にある。痩せている人は、もともと太りにくい体質の人以外は、意志の力で痩せていると言っていい。ブッダは、快楽を貪ることは快楽に囚われることなので、食欲や性欲から自由になるのが大事だと説いた。だが、そのためには心を律することができるようになるための厳しい修行が必要だ。
 ゴータマ・ブッダから3世紀後に快楽主義を説いたエピキュロスも、食欲や性欲から自由になって得られる心の平安こそが真の快楽であり、幸福だと説いた。ブッダの説によく似ている。

 ブッダもエピキュロスも知らなければ、本作品の親たちのように、子供が食べないことを心配し、食べさせないようにマインドコントロールする教師を悪だと断じてしまうかもしれない。しかし前述したように、人間は放っておくと太ってしまい、生活習慣病になる確率が高くなる。貧乏な人ほど安価な食品に頼りがちで、安価な食品は大量生産の超加工食品だから、添加物山盛りの危険食品である。だから貧乏人ほど病気になりやすい。どこぞの財務大臣が「運動不足や食べ過ぎなど、日頃の行ないが悪い人間が糖尿病になって、その医療費を俺たちの税金で払っている」と妄言を吐いていたが、勘違いも甚だしい。

 人間は放っておくと太りやすいという他に、放っておくと他人を差別し、最悪の場合は殺してしまうという傾向もある。歴史がそれを証明している。欲望に忠実だと、必ずそうなる。平和や健康を維持するためには、欲望を律する必要がある。
 食べない努力は大変なものだが、メリットも大きい。一方で、食べることは楽しいし、それなりの満足感があるが、それなりのデメリットがある。
 人間は能動的な努力ばかりを重視する。頑張る人が科学を発展させて生活を便利にしてきたのは確かだ。しかし生活よりも前に軍事を便利にしてきた訳で、大量殺人ができるようになったのも科学だ。
 医学の進歩で長生きができるようになったが、たくさんのパイプに繋げられて何十年も横たわって生き続けることが、人間の幸せなのか。
 本作品では、何度も瞑想のシーンが登場する。瞑想している間、その人は何もしないし、何も生み出さない。善も生み出さないが、悪も生み出さない。人類の発展は、善と悪の両方を生み出してきた歴史である。地球環境が人間の不断の努力によって悪化したこの時代、何もしないことのメリットも考えるべきではなかろうか。そういう意味でも、意義深い作品だったと思う。

映画「どうすればよかったか?」

2024年12月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「どうすればよかったか?」を観た。
映画『どうすればよかったか?』公式サイト

映画『どうすればよかったか?』公式サイト

映画『どうすればよかったか?』12月7日より劇場公開

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 統合失調症のことを、以前は精神分裂病と呼んでいた。人間の先天的な気質は、躁鬱質と分裂質と癲癇質の3つに分類されるという、クレッチマーの説を大学の心理学の講義で学んだ記憶がある。分裂質は、内省的で知性の高い人に多いそうだ。

 本作品の雅子さんは、知性の高さ故に自分を追い詰めた典型例だろう。意味不明の発言を繰り返す精神の奥底には、もしかしたら覚醒した知性が目を見開いているのかもしれない。
 そんなふうに覚えながら鑑賞していた。すると、監督である弟が、姉である雅子さんに「なにか聞きたいことはない?」と質問したシーンの雅子さんの表情を観ているときに、雅子さんが聞きたい質問が頭に思い浮かんだ。
「私はどのように死ねばいいの?」

 本作品のタイトルと呼応する質問である。こんな質問をされて、まともに答えられる人はいないだろうし、自分からこんな質問をする人もいないだろう。しかし精神分裂病の自分を自覚している雅子さんなら、家族にこの質問をしたいときがあるかもしれない。あるいは雅子さんでなくても、病気が進行して自分の死を予感した人なら、誰かに聞きたいときがあるかもしれない。
 誰にも質問できないときは、自分自身に質問することになる。
「自分はどのように死ねばいいのだろう?」

 日曜日の映画館は満席で、上映前にはたくさんのお喋りが聞こえていたが、終映後は、誰一人として言葉を発する人はなく、押し黙って退場していた。もしかしたら、各自で自問していたのかもしれない。
「どのように死ねばいいのか?」