三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「リチャード・ジュエル」

2020年01月29日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「リチャード・ジュエル」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/richard-jewelljp/index.html

 イーストウッド監督らしく、主人公リチャード・ジュエルを長所も短所もあるリアルな人間として描く。リチャードは必ずしも好きになれる人柄ではないが、如何にも世間にいそうなタイプであり、ひとつの典型である。
 主人公に感情移入できない代わりにイーストウッド監督が用意したのが弁護士のワトソン・ブライアントだ。その心根には熱く滾るものがあるが、態度は常に冷静で、権力を恐れないし圧力に屈しない。弁護士だからといってクライアントであるリチャードに必要以上に強制したり、その人格を否定することもない。あくまで冤罪事件の被害者として彼とその母親の人権を守り、救おうとする。
 ブライアント弁護士のメンタルが安定しているので、そこからは落ち着いて鑑賞できる。ワトソンはFBIも役所のひとつに過ぎず、役人がどのように振る舞うかを知っている。日本の役人と同じく保身が命で、そのやり方は十年一日の前例踏襲主義だ。
 日本の警察では事件を効率的に処理するために、捜査本部の管理官は容疑者の凡その目星をつけて、恣意的に捜査を指揮する。目星をつけられた者は重要参考人として任意同行の名目で強制同行させられ、拷問に近い執拗な取り調べを受ける。警察にとって誰が真犯人であるかは問題ではなく、容疑者をいち早く検挙することが目的である。目星をつけた人間にアリバイがなければ自白を強要して犯人に仕立て上げることで事件の処理が終了する。自白があれば客観的な証拠は僅かでいい。場合によっては取調室で容疑者が飲み物を飲んだグラスに付着した指紋を凶器に貼り付けることもあるらしい。都市伝説かも知れないが。
 アメリカでは長時間の拘束による自白の強要は認められていない。この辺りは流石に民主主義の先進国である。捜査官は客観的な証拠をなるべく多く集める必要がある。事件の状況を細部まで頭に入れ、集めた捜査資料と照合して真実を浮かび上がらせる能力が要求される。警察官の能力の差が歴然と現れ、優秀な警察官がたちどころに事件を解決する場合もある。事件捜査がドラマになるのはそのためだ。しかし個々の警察官の能力差によって事件の解決に格差ができてしまうようでは法の下の平等とは言えない。おそらく今後はこの分野にもAI技術が導入されるだろう。データ照合の精密さなら人間はAIに敵わない。
 日本で同じ事件が起きていたら、リチャードは間違いなく有罪になっていただろう。警察官による暴行を受けてPTSDになっている可能性もある。取調室は密室で、昨年から可視化が法制化されたとはいえ、カメラの死角で何が行なわれているかは当事者以外にはわからない。容疑者を裸にして肛門に試験管を突っ込むと、容疑者の精神が崩壊して何でも自白してしまうという話がある。都市伝説かも知れないが。
 政府とマスメディアがスクラムを組めば、個人などひとたまりもない。しかしアメリカは個人が戦う場を用意する国である。日本との絶対的な違いがそこにある。民主主義とは手続きのことだ。アメリカは情報公開法によって立法府、行政府、司法府のすべての情報は保管され、一定期間を経た後には必ず一般公開される。書類を捨てたとか最初からなかったなどと誤魔化すのはもはや民主主義を放棄していることに等しい。推定無罪の原則は日本ではあってなきが如しだが、アメリカでは捜査当局、司法当局をどこまでも拘束する。民主主義が機能している国とそうでない国の違いである。

 コーラやジャンクフードが大好きな幼児性の精神の持ち主であるリチャードだが、副保安官をしていたこともあり、遵法精神に富んでいてしかも権威に弱い。はっきり言って社会的にはいいとこなしだ。だがそんなリチャードにも見せ場がちゃんと用意されている。FBIの支部での取り調べが本作品のヤマ場であり、リチャード・ジュエルという人間の真価が発揮される場面でもある。イーストウッド監督が撮りたかったのは間違いなくこのシーンだ。
 何故か連想したのは、テレビドラマ「義母と娘のブルース」での主人公宮本亜希子の台詞である。PTAと揉めてしまい、訪れた学校で娘から「私が嫌われるようなことをしないで」と言われるが、その言葉に対して亜希子は、子供が嫌われることを恐れて口を噤み、陰で悪口を言うような姿を娘に見せたくないと力強く反論する。綾瀬はるかの名演とともにいまでも心に残る名シーンだ。ちなみに脚本は映画「花戦さ」の森下佳子さんである。いい脚本を書く人だ。
 権威や権力、パラダイムに表立って反対するのは勇気のいることである。しかし長いものに巻かれて唯々諾々と生きているのでは、人格が消し飛んでしまう。尊厳が失われるのだ。それは人間としての存在の危機である。だから人は最後の最後には覚悟を決めて戦う。戦い方にはいろいろあり、その場から逃げることも、意を決して自殺することも戦いのひとつとして認めていい。リチャード・ジュエルは逃げもせず自殺もせず、ただ淡々と自分の意見を語る。ここで観客は初めてリチャードの勇気に気づくのだ。一寸の虫にも五分の魂。リチャード・ジュエルの人生はひとつの立派な生き方であった。


映画「家族を想うとき」

2020年01月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「家族を想うとき」を観た。
 https://longride.jp/kazoku

 観ているのが辛くなる大変に苦しい映画である。主人公は教育程度は高くないが、真面目で勤勉な夫だ。独善的で愚かではあるが、家族の幸せを願っている。妻は良妻賢母だが子供たちはそこそこだ。よくある家族の一例である。ケン・ローチ監督らしく、主人公にも容赦がない。

 日本における偽装請負はキヤノンの事例が有名である。経団連会長の会社による違法行為として大きく報道されたが、オテアライが時の安倍晋三政権と仲よしだったおかげで何のペナルティも課せられなかった。2006年の話である。桜を見る会と同じ構図がずっと前から続いているということだ。
 同じようなことは世界中で起きていて、イギリスも例外ではない。権力は必ず腐敗する。長期政権になればなるほど腐敗の度合いは強くなる。安倍政権がいい例だ。官僚は政権が代わっても同じように仕事を続けるのが普通だが、政権に人事権を握られていては従うしかない。官僚も勤め人である。昇格降格昇給降給異動で脅されれば従うしかない。国民に奉仕する前に自分の生活が大事なのである。やむを得ない話だ。そんな官僚の弱みにつけこめば、政権はやりたい放題にできる。憲法を無視して戦争だってやろうとしているくらいだ。
 ケン・ローチ監督の前作「私はダニエル・ブレイク」では役人が自分の保身を第一に、税金が自分たちの金であるみたいな勘違いをしていることで、体を壊して失業したダニエル・ブレイクをとことん苦しめた。

 本作品は民間の話であるが、構造的にはあまり変わらない。金を持っている人間が弱者から労働力を搾取して太っていく。近江商人の三方良しではないが、客よし労働者よし会社よしみたいな企業は滅多にない。寧ろ逆の企業、つまりブラックな企業が多い。本作品に出てくる運送会社は典型的である。
 立場の弱い主人公は、偽装請負の契約を受けざるを得ず、その条件の中で懸命に頑張る。配達先の客の中には嫌な奴もいるが、そんなことは気にしていられない。なんとしても金を稼いで借金生活から脱出しなければならないのだ。しかし契約には落とし穴があって、様々な罰金制度が主人公をがんじがらめに縛り付ける。そして家族にはいろいろなことが起きるから、契約を履行できない場面もおとずれる。
 契約を完璧に履行して目論見通り稼ぐことができるのは、独身で超人的な体力の持ち主だけだ。それともうひとり、現場を取り仕切るボスである。会社が絶対に損しないように出来ているから、この男も損をしない。損をするのは常に労働者だけだ。被害者になっても尚、会社からたかられる。弱者にとって世の中は理不尽すぎる。
 あまりの不条理に耐えかねた主人公だが、どのような道があるのか。リアリズムの映画だからウルトラCはない。ダニエル・ブレイクは体を壊して職を失った貧しい老人として社会に抗議するささやかな行為を行なった。本作品の主人公リッキーはどうするのだろうか。

 令和の年号になって、岡林信康の「山谷ブルース」を知らない人も増えただろう。つまり知っている人がたくさん死んでいったということだ。その「山谷ブルース」の歌詞は次のようにはじまる。
 今日の仕事はつらかった
 あとは焼酎をあおるだけ
 どうせどうせ山谷のドヤずまい
 ほかにやる事ありゃしねえ
 仕事が終わって一杯飲んで、仕事のことや仲間のこと、その他よしなしごとをつらつらと意味もなく語り合う。酔ったら寝て明日はまた仕事だ。なんだかんだ、ここまで生きてきた。後悔はたくさんあるが言っても仕方がない。将来のことなどわかりもしないし考えたくもない。
 「山谷ブルース」が発表されたのが1968年。それから52年。ITが急速に進み、スマホも普及したが、労働者の環境は何か変わっただろうか。

 ケン・ローチが告発するのは政治家でも役人でも資本家でもない。時代というやつだ。世の中の理不尽を勝ち組、負け組という言葉で両断し、勝ち組に入ることを人生の目標とする世の中。取りも直さずそういう世の中を作ったのは、人々自身である。自分だけは勝ち組に入ると信じて疑わない人々、負け組に冷たい人々が自分たちに似た政治家に投票し、格差社会を作り上げてきた。いざ自分が負け組に入ったことを思い知らされたとき、すべての間違いに気が付くが、時はもう遅い。


映画「2人のローマ教皇」

2020年01月27日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「2人のローマ教皇」を観た。
 https://www.netflix.com/jp/title/80174451

 現在のローマ教皇ベルゴリオの人となりは、2017年に観た「ローマ法王になる日まで」でひと通り紹介されていた。本作品では生前退位したベネディクトとの関わりの中で、長い間の信仰についての真意を吐露する。
 本作品は、権威主義的な世界観だった「ローマ法王になる日まで」とは一線を画し、現ローマ教皇と次のローマ教皇が虚心坦懐に語り合うシーンが中心だ。映画だから本物の教皇がどう考えているかは別の話ではあるが、本作品の中では権威主義に縛られているのは教皇庁であり、教皇本人は権威主義とは無縁であるように描かれている。実際のベネディクトやベルゴリオの演説などを聴くと、本作品の教皇は実際の教皇に近いのではないかと思われる。
 サン・ピエトロ大聖堂の威容やシスティナ礼拝堂の見事な天井壁画の下での会話で、ベネディクトはそこに描かれた神は神ではなく人間だと喝破する。聖職者にとって神は見るものではなく、その声を心で聞くものであり、その存在を感じるものなのだ。
 初代ローマ教皇は十二使徒のひとりであるペテロ(ペトロ)であったらしい。神の子イエスの使いである。二人は教皇が神の使いに過ぎないことを知っている。神の権威を借りているだけなのだ。教皇庁と教会にはそこを誤解している人がいる。人間はどこまでもひとりの人間に過ぎず、何の権威もない。二人は虚栄心や自尊心を捨てて、信仰と真摯に向かい合う。夜の会話。聞いていてとても心地のいい会話である。ドビュッシーの月の光の旋律が美しい。
 ドイツ人のベネディクトとアルゼンチン人のベルゴリオは英語とラテン語で語り合う。ベネディクトが英語の多義性を嘆くシーンが面白い。意味に幅のある言語は、誤解を生みやすい反面、短い言葉に多くの意味を含ませることが出来る。
 当方はクリスチャンでも仏教徒でもないが、聖書の言葉や仏教の経典には真実が含まれていると思っている。もともとの言葉は書かれた言葉ではなく、語られた言葉である。あるいは歌である。しかしイエスもブッダもいなくなると、口伝か、紙に書かれた言葉を読むしかない。
 ドイツ語の聖書、スペイン語の聖書、英題の聖書、そしてラテン語の聖書。現教皇と次期教皇は様々な言語の向こうにイエスの言葉、神の言葉を聞こうとする。まるで虹の向こうに行こうとする子供のようである。しかしふたりは子供ではない。汚れつちまつた悲しみを知る大人である。それでも聖職者である。汚れを振り落として心を無垢に保とうとする。その努力が美しい。魂が洗われるような佳作である。


映画「オリ・マキの人生で最も幸せな日」

2020年01月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「オリ・マキの人生で最も幸せな日」を観た。
 https://olli-maki.net-broadway.com/

 スウェーデン映画「ボーダー 二つの世界」に出演していたエーロ・ミロノフが出ている。こちらはフィンランド映画なので、ミロノフがスウェーデン語とフィンランド語のバイリンガルなのか、それとも2作品とも同じ言語なのか不明である。そういうことが気になるということは、あまりのめり込むことができない作品だったということだ。

 オリ・マキというフェザー級ボクサーが主人公だが、はじめの方のシーンを観たときから試合の結果がほぼ予想できる。そしてエーロ・ミロノフ演じるマネジャーが登場すると、その予想は確信に変わる。
 ボクサーというのは因果な商売で、ファイトマネーで生活できるのは世界チャンピオンクラスのごく一部とされている。練習する場所はジムに提供してもらわなければならないし、指導はスパルタである。独自練習で強くなれるのはチャンピオンレベルのボクサーだけで、しかも極端にストイックでなければならない。無名のボクサーはいろいろな面でジムに頼らざるを得ないのだ。
 まだチャンピオンになっていないボクサーをジムが客寄せパンダに使うのは無理がある。しかしジムの経営は楽ではない。引っ張れるカネは残らず手に入れておきたいのが本音だ。カネがなければボクサーを練習に集中させられない。かくしてオリ・マキの練習環境は客寄せパンダとの両立という劣悪な条件になってしまう。

 英題の「人生で最も幸せな日」というタイトルの意味は多義的だ。その日は世界タイトルマッチの日であり、ボクサーとしての苦役から解放される日であり、そして婚約の日でもある。名誉や地位といったものに価値を感じないオリ・マキにとって、最も大事なのは何だったのか。それは原題の「微笑む男」に秘密がありそうだ。間違いなくそのときオリ・マキは微笑んでいた。

 あまりのめり込むことの出来なかった作品ではあるが、見終わると不思議な後味がある。16ミリのモノクロの映像が醸し出す雰囲気は、如何にも昔の話であることを表し、かつてこのような青春があったのだと確かに実感した。面白いと思わなかったにもかかわらず、もう一度観てみたい気もするのであった。


映画「マザーレス・ブルックリン」

2020年01月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「マザーレス・ブルックリン」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/motherlessbrooklyn/index.html

 文句なしに面白い作品である。144分という長めの映画だが、あっという間に感じる。ウィレム・デフォーとアレック・ボールドウィンのランドルフ兄弟が悪役としてはややステレオタイプというきらいはあるものの、総じて気の抜けない作品だった。

 レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説に雰囲気が似ていると思った。フィリップ・マーロウという探偵が主役の一連の小説だ。第二次大戦中から戦後にかけて書かれており、本作品と時代が近い。マーロウの台詞として有名なのが「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」という言葉である。森村誠一原作の角川映画「野性の証明」のプロモーションでも使われて有名になった台詞だ。
 本作品の主人公ライオネル・エスログの雰囲気もどことなくフィリップ・マーロウを思わせる。頭の回転が速くていち早く真相に辿り着くが、俺が俺がと自己主張するタイプではなく、控えめで人にやさしい。好感の持てるキャラクターである。マーロウも銃を持っていたが滅多に撃たなかった。その点も似ている。
 黒人差別、迫害、権力者の横暴、業者との癒着と、当時の政治社会問題を背景に、ボスが殺された事件の真相に迫っていくエスログ。ボスだからといって必ずしも絶対視も神聖視もしない。仲間だからといって全面的に信用するわけでもない。ひたすら事実だけを積み重ねて推理していく。エスログを敢えて精神障害者にしたのもいい。社会問題の場面では自然に被害者側の立場になる。
 他の登場人物も魅力的で複雑なキャラクターである。単なる善人や単なる悪人というのは登場しない。それぞれの思惑が交錯して、主人公の行動を邪魔したり助けたりする。淡々とした描写もハードボイルドタッチである。BGMは当然ジャズだ。
 息もつかせぬというほどではなく、適度にゆるいシーンもあるが、登場人物の人となりを紹介するのに必要なシーンでもあったと思う。緊迫のシーンと交互に見せることで観客の集中力を持続させる高等技術なのかもしれない。

 それにしてもランドルフ兄弟が中川家に見えて仕方がなかったのは当方だけだろうか。


映画「Una storia senza nome」(邦題「盗まれたカラヴァッジョ」)

2020年01月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Una storia senza nome」(邦題「盗まれたカラヴァッジョ」)を観た。
 https://senlis.co.jp/caravaggio/

 スパイとマフィアと政治家がせめぎ合う状況に、ド素人の女事務員がひとり放り込まれる設定である。この設定だけでストーリーが走り出しそうだ。主人公ヴァレリアは平凡なオールドミスだが、母親が只者でないところがいい。
 素人が陰謀に巻き込まれてしまったらどんなことになるのか、どんなふうに行動するのかを考えるのはなかなか興味を引く。そして一番気になるのは、自分だったらどうするだろうかということである。観客は皆、主人公と同じ立場に身を置いて、一緒になって恐怖を覚え不安に慄く。
 本作品の原題は「名もなき物語」であり、表に出る方の脚本家ペスが口からでまかせに決めた劇中劇のタイトルでもある。観客はこのタイトルを聞いた瞬間に、本作品の二重構造がおぼろげに理解できる仕掛けになっている。ある意味で親切なプロットなのである。だから邦題も「名もなき物語~盗まれたカラヴァッジョ」としておけば、当方のような日本語字幕の観客も理解しやすいだろう。

 ヒロインを演じたミカエラ・ラマゾッティもよかったが、引退した老スパイを演じたレナート・カルペンティエリの存在感は大したものだ。こういう頭の切れる老人は確かに現実の生活でもときどき見かける。スパイといえば「暗殺者」で有名なロバート・ラドラムの小説にスパイが人心を掴む技術の非凡さが書かれていたが、本作品の老スパイのそれは想像を超える見事さであった。

 イタリア映画らしく食欲と性欲を力強く肯定する人々で画面が噎せ返るほどで、40歳を過ぎても母と同居する独身女子の主人公も、イタリア女性のご多分に漏れず殿方のお誘いには積極的に乗る方だ。しかし一方では、自ら招いた種とは言いながら、ゴーストライター稼業のおかげで巻き込まれた争いの中で、次第に覚悟ができてくる。そのあたりの主人公の成熟ぶりを楽しむドラマでもある。
 あまり多くはないが、いくつかの伏線はすべて回収される。母親との関係性の変化も面白い。肉食の看護婦には笑った。イタリアは流石にマフィアの発祥の地だけあって、本場のマフィアは怖いということを思い知らされるが、怖いだけではなく笑えるシーンもいくつかあって、楽しく鑑賞できる作品である。意外と印象に残る傑作かもしれない。

 

映画「ラストレター」

2020年01月22日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ラストレター」を観た。
 https://last-letter-movie.jp/

 言葉が大切に扱われる映画である。話された言葉、紙に書かれた言葉。日本語の言葉、英語の言葉。言葉選びはとても大事で、例えばこの作品では「重い」という言葉が上手に使われるシーンがある。「あなたの親切は却って迷惑です」と言うと身も蓋もないが「あなたの親切は私には少し重いのです」と言えば、親切は有り難いがこちらにとっては負担でもあることを伝えられる。「迷惑」と「重い」とでは言葉の攻撃力が異なるのだ。
 言葉を大切にする登場人物の中で、言葉に頓着しない代表として庵野秀明演じる漫画家を登場させることで、言葉の選び方を対比させたのではないかと思う。それと仲多賀井高校という名前。これは実在なのか洒落なのか、それともふざけているのか解らないままだが、高校の名称としては印象的であることは確かだ。宮城県には多賀神社や多賀城市があるから何か関係があるのかもしれない。二頭のボルゾイの名前はボルとゾイに聞こえた。言葉を大切にするとともに言葉遊びをしているところに余裕があり、観客の気持ちをニュートラルにしてくれる。自然体で観ていられるのだ。

 広瀬川をはじめとする仙台の美しい風景が物語の背景となる。時期としてはおそらく七夕まつりが終わった頃だろう。祭りの後の微妙に気だるい気分と夏真っ盛りのうるさいほどの自然とがぶつかる狭間をストーリーが静かに進んでいく。ショパンの有名な練習曲が流れ続けているような、観ていてとても心地のいい作品である。穏やかな水の流れに漂うように映画の時間が過ぎていく。
 広瀬すずが進化したと感じた作品でもある。一人二役の美咲と鮎美とで僅かに表情や声のトーンを変えていて、幸せな少女時代を過ごした美咲とそうではなかった鮎美との違いを浮き上がらせる。この困難な演技を広瀬すずは楽々とこなしているように見えた。大変な集中力だ。
 手紙を中心に、優しい言葉、真実の言葉が縦横無尽に行き交う。ひとつひとつのシーンがとても大事に丁寧に作られているのが解る。飾らず、誇張もせず、嘘もつかず、ただ朴訥に正直に発せられた言葉が記憶を呼び覚まし、その時の感情も呼び起こす。涙が自然に溢れ、遺影がぼやける。少女たちとおじさんのシーンだ。年を経た乙坂鏡史郎が慟哭を心の中にしまい込んで、ただ静かに泣いているシーンには心を敲たれた。福山雅治は役者である。
 どんなに酷い男だろうと思っていた阿藤が豊悦で少しホッとした。意外なことにこの男さえも真実を語る。一体何があったのか。

 もう一度観てみたい気もするし、一度きりの鑑賞を大切にしたい気もする。色々な仕掛けがあるように思ったが、それらを明らかにしても映画の深みが増すわけでもない。予備知識なしで鑑賞するべき作品だ。ハラハラと泣けて、時々クスッとできる。悲惨な部分はすべて観客の想像に任せ、作品として可愛らしくまとめた印象だが、見せるところと見せないところの二重構造になっている。奥行きのある名作である。


映画「記憶屋 あなたを忘れない」

2020年01月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「記憶屋 あなたを忘れない」を観た。
 https://kiokuya-movie.jp/

 山田涼介の演技がいただけない。主人公の吉森遼一は突然大声を出すようなキャラクターではないし、そんなシーンでもないのに、どうしてこんな演出をしてしまったのか。スタートから中盤までは悪くなかったが、大声を出すシーンで興ざめしてしまい、以降は惰性で鑑賞することになった。
 そもそも設定に無理があるのは多分みんな解っている。しかし記憶屋の存在を想定することは、人間にとって記憶とは何なのかという問いかけを投げかけるものであり、様々なドラマツルギーが考えられる。実は面白いアイデアなのである。しかし映画はそのアイデアを活かしきれなかった。
 河合真希役の芳根京子の演技も明るすぎて、全く感情移入できない。この演出もどうかと思われる。全体に暗めのトーンで演出したほうがリアリティもあり、ちょっとは面白さを感じることができたかもしれない。広島弁も大げさすぎて違和感がある。少なくとも個人的に知っている広島の友人や親戚はこんな広島弁は使わない。佐々木蔵之介や蓮佛美沙子の演技が自然でよかっただけに、主役ふたりが浮いてしまい、悪目立ちになってしまった。ちなみに蓮佛美沙子の杏子が働いている喫茶店は、世田谷区の三宿にあるアンティーク家具と喫茶の店GLOBEだと思う。この店の右脇の階段を降りていったところにあるサンデーというカフェ・レストランでは2015年に何度かランチをいただいたことがある。

 記憶が人格に占める割合は非常に大きいものである。記憶は意識にも無意識にも刻まれている。人間の脳における意識と無意識の割合は1対99とも1対数万とも言われていて、人格を形成するのはほぼ無意識と言っていい。人間の感情は意識からではなく、無意識から生まれる。例えば、さあ怒ろうと意識してから怒る人はいないわけで、怒りの感情は無意識に湧き上がるものである。他の感情も同様だ。
 一定の記憶がなくなれば、情緒も変わるし性格も変わるはずだ。顕在意識で憶えていることだけが記憶ではないのである。本作品では顕在意識だけを表現してしまっているから、無意識(潜在意識)が生み出す人間の複雑さを表現できていない。物語に深みがないのだ。
 記憶屋という面白いアイデアを活かしきれず、不完全燃焼で中途半端に終わってしまった作品という印象である。残念だ。


映画「帰郷」

2020年01月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「帰郷」を観た。
 https://www.jidaigeki.com/kikyo/

 最近はあまり使われないが「今生の別れ」という言葉がある。2019年の11月に朝倉あきが主演した「私たちは何も知らない」という芝居の中でこの言葉が使われていて、大変に感銘を受けたことを憶えている。この世の最後の別れのことを今生の別れという。卒業式のあと友人に対して「これが今生の別れなら、私の思いを伝えておきましょう」などという使い方をする。
 本作品は「今生の別れ」を描いた作品だ。別れというと、別れに関する曲や歌をたくさん思い出す。世の中には出逢いの曲よりも別れの曲のほうが多い気がする。真っ先に浮かぶのはショパンの「別れの曲」であり、次いで「別れのワルツ」つまり「蛍の光」である。スコットランド民謡に稲垣千穎が日本語の歌詞をつけたのがつとに有名であり、日本では主に卒業式に歌われる。デパートやレストランの閉店音楽としても流されることがある。
 稲垣千頴の歌詞は 4番まであることが知られているが、3番と4番は何だかお国のためにみたいな歌詞で、右翼的な政治家がその歌詞を演説に悪用したことがある。1番と2番の歌詞は本当に素晴らしいと思う。特に2番の歌詞は、今日を限りにここを出て行く人とここに留まる人のそれぞれに、互いに対して万感の思いがあるけれどもそれをたった一言、ご無事でという言葉にこめて歌う、そういう歌詞なのである。
 とまるもゆくも かぎりとて
 かたみにおもふ ちよろずの
 こころのはしを ひとことに
 さきくとばかり うたふなり

 仲代達矢が演じた主人公宇之吉と、三十年ぶりに再会した橋爪功の佐一が酒を酌み交わしたあと、右と左に別れていくシーンで、この2番の歌詞が心に浮かんだ。宇之吉が発する「達者でな」は、互いの万感の思いをこめたひと言だ。まさに今生の別れのシーンであり、人生の切なさが凝縮されたような、美しいシーンである。
 本作品に登場する堅気もヤクザも、生きていくのは苦しいことばかりだ。それでも人と人の関わり合いの中に生きる喜び、ささやかな喜びを見出して生きていく。宇之吉はこれまで、自分のためだけに生きてきた。恩を仇で返したこともある。罪は罪。自分が一番よく知っている。先をも知れぬ老いた宇之吉にとって、人が喜んでくれることは何にも代えがたい嬉しい思い出となるに違いない。
 終始、美しい木曽路の風景が全編を通じての背景となっていて、8Kの映像はこんなに綺麗なのかと驚いた。常盤貴子は8Kの鮮やかな映像にも堪える美貌を存分に見せてくれたが、ひとつだけ不満を言わせてもらうと、演じたおくみのキャラクターがどうにもはっきりしないところがあって、終盤で少し違和感を感じた。
 それ以外は田中美里のおどろおどろしい演技も含めて、役者陣は満点だ。特に浅吉を演じた谷田歩が素晴らしい。ヤクザの幹部らしい肚の据わり具合と物言いは凄みがあった。中村敦夫が演じた九蔵は、宇之吉にとって好敵手のような存在であり、九蔵との再会が物語にダイナミズムを与えて、坂を転がるようにストーリーが進む。しかし待っているのはいつも今生の別れである。
 悲しくて寂しくてやりきれない物語だが、木曽路の自然が人の一生を包み込んでくれるようだ。ラストシーンでは登場人物それぞれの人生がフラッシュバックのように次々に脳裏に浮かぶ。時代劇のよさを余すところなく見せてくれた作品だと思う。


映画「Doubles vies」(邦題「冬時間のパリ」)

2020年01月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Doubles vies」(邦題「冬時間のパリ」)を観た。
 http://www.transformer.co.jp/m/Fuyujikan_Paris/

 原題の「Doubles Vies」は直訳すると「ふたつの人生」となる。もう少し踏み込むと、人生に裏と表がある、つまり二重生活の意味となる。
 アルファベットのWは英語だとUがふたつで「double U」ダブリューだが、フランス語の場合はVがふたつで「doubles V」ドゥブレヴィである。この発音は本作品の原題と同じなのでタイトルは「W」でもよかった。少し洒落た話である。本作品は「夏時間の庭」(原題「L'heure D'ete」)と同じ監督だから「冬時間のパリ」にしたのだろう。この邦題は悪くない。
 高校の必須科目に哲学があるほど哲学好き、議論好きのフランス人ならではの映画である。どんなに議論が沸騰しても誰も感情的にならない。これがアメリカ映画だったら必ず殴り合いに発展するだろう。アメリカ人にとってはそのほうがリアルだからだ。
 他人の意見に寛容であると同時に、フランス人は浮気にも寛容だ。日本の男性タレントが「不倫は文化だ」と言ったとかいう話があったが、フランスでは文化とまでは言わないにしろ、人間性のひとつというか、ある意味でやむを得ないものとして認められているように思う。
 さて本作品は二組の夫婦を中心とした人間模様のドラマである。配偶者が浮気をしていることを薄々感じながらも、夫婦としての愛情も維持している。浮気を隠してはいるが、バレることを恐れてはいない。このあたりは儒教的な教育を受けて倫理に厳しい日本人にはなかなか理解できないところだ。
 延々と続く会話は、電子書籍の話であったり、小説の話や政治の話、時には浮気の話であったりする。その会話のいずれもが、男と女の間で微妙に論点がずれて噛み合わないのが面白い。たとえば政治に関する議論で論点がずれていると感じたのは、男の作家が現実の政治を批判したのに対して、別の作家の妻が理想としての政治を擁護したところだ。作家の妻は政治家の秘書でもあり、自分の立場を正当化するためにも政治を前向きに捉える必要があるのだ。それは作家の妻が必ずしも頭の回転が速い訳ではないことを示している。しかし一方で、夫である作家の浮気の兆候には敏感だ。女の本能は頭のよさとは無関係なのだ。
 微妙に噛み合わない議論は製作者の狙いだろう。噛み合いすぎて論争に発展したら物語にならない。人の意見をちゃんと聞く。自分の意見もちゃんと言う。結論を出す必要のない議論では結論を出さずにおく。みんな大人である。大人と言っても、日本人の大人と違って、互いの意見の相違を受け入れる寛容さや、性行為をレジャーのように楽しむおおらかさは流石に自由の国フランスである。
 本作品はフランスの大人たちの精神性をあけすけに描いてみせた。当然ながら子供は登場しないし、子供みたいな精神性の大人も登場しない。誰もが少しずつ自尊心を傷つけられるが、だからといって激昂したり恨んだりしない。こういう鷹揚な精神性に触れてホッとするというか、自分のせせこましさを反省するというか、人間そのものを肯定してもいいのかもしれないと思わせてくれる作品である。
 ジュリエット・ビノシュはこの作品でも輝いていて、妖艶だったり、ただのおばさんに見えたり、大人の女のたくましさを見せたりと、多面的な演技をしていた。それは人間の存在が多面的であることに通じていると思う。最後のオーディオブックの話ではジュリエット・ビノシュに朗読を頼もうという楽屋落ちみたいなギャグも入れ込んでいて、製作者がこの作品を楽しんで作ったのが伝わってくる。