映画「シン・デレラ」を観た。
シンデレラの物語にはたくさんのバリエーションがある。昨年日本公開されたノルウェー映画の「シンデレラ 3つの願い」はほのぼのしたストーリーであったのに対して、本作品はグリム童話の意図に近い、人間のおどろおどろしい本性をホラーにしている。
ただ、覚醒後のシンデレラの恐ろしさが、ちょっと弱い。ゴア描写は何度も出てくるが、スプラッターと呼ぶほどの生々しさはない。テンポも悪いし、殺し方も凡庸だ。スティーブン・キング原作の映画「キャリー」のような面白さはない。
復讐相手が若い義姉たちであれば、まず手脚を切り、切り口を焼いて血を止めれば、死なない上に自殺もできない。そうした上で、顔の表面を切り刻んだり鉄で殴ったりして、見るも恐ろしいほど醜く変形させてから、本人に自分の姿が見えるように鏡の前に放り出すなどして、自尊心を粉々にするやり方もあったはずだ。義母に対しては、簡単に殺すのではなく長時間苦しみ続けるような、三角木馬のような拷問道具を使ってもよかった。王子の場合は男根を切り落とすとか。
要は、グリム童話のように、シンデレラの欲深さと残忍さをこれでもかと見せつけて貰えば、いろいろな意味で溜飲が下がったのではないかと思うし、製作者の意図もそのあたりにあったと思う。役者陣は何度も絶叫するなど体当たりで頑張っていたが、いかんせん低予算でVFXを使えなかったのだろう、製作者の意図が上手く実現できていなかった。結局、ホラー作品としても、リベンジストーリーとしても、中途半端で終わってしまった感じだ。
映画「八犬伝」を観た。
滝沢馬琴1767-1848
葛飾北斎1760-1849
四代目鶴屋南北1755-1829
年代的には同時代の人たちと言っていいようだ。ちなみに原作の山田風太郎は1922-2001で、代表作の「くノ一忍法帖」のタイトルからも分かるように、いわゆる大衆小説の作家だった。
武士の「家」や「家督」という概念がないと、理解しにくい作品だと思う。といっても、現代でも家父長主義の親や教師はたくさんいて、その被害(?)に遭ったことのある若い人もたくさんいるだろうから、現状で言えば、大抵の人にわかりやすいエンタテインメントに仕上がっていると思う。とても面白かった。
江戸時代の識字率は世界各国の中でもトップクラスの高さだったという話もあって、寺子屋の普及などの効果だろうが、町人たちが字を勉強したのは、滝沢馬琴の著作をはじめとする話題作が読みたいという動機があったのではないかと思う。黒木華のお路が晩年の馬琴の手伝いをしたのも、続きが読みたかったという気持ちが、少しはあったに違いない。
役所広司が演じた滝沢馬琴は物理的な現実を「実」として、精神世界を「虚」と呼んでいた。馬琴は「実」を有為として「虚」を無為のように論じていたが、文化を「虚」とするなら、馬琴の「虚」も十分に有為である。しかし現代のように「虚」が「実」のように大きくなってしまって、弱い人をSNSで自殺に追い込むような社会は、どこか間違っている。それに比べれば、馬琴先生の世界観は、よほどまともだった気がする。
映画「BISHU 世界でいちばん優しい服」を観た。
アスペルガー症候群の人が、時として常人には考えられない才能を発揮することは、割と知られている。一度聞いただけの曲をピアノで完璧に再現したり、一度見ただけの光景を精密に描いたりする人がいる。人間の脳は、それだけのポテンシャルを持っているということだ。
本作品の主人公神谷史織もそのひとりで、並外れた記憶力と感受性を持つ。両親が絵を描かせれば絵の才能に、ピアノを弾かせればピアノの才能になっただろうが、本作品では、親の営む織物工場の織物に才能を発揮する。取引先が太鼓判を押すほどの才能だが、そもそも自閉症だから、人間関係が苦手だ。工場を切り盛りしていくには、経理や営業などの助けが必要だが、それさえあれば、ゴッホのように才能を発揮できるに違いない。
取引先などの関係先は、それがわかっているから、史織ちゃんがいれば大丈夫だと、太鼓判を押す。しかし父親には、そんなことはわからない。身近すぎて客観的な見方ができないのだ。娘に人並みを求めようとするから、心配ばかりである。アスペルガーは娘の個性なのだと割り切ってしまえば、娘に相応しい人生があることを理解しただろう。
吉田栄作は、いまどき珍しいパターナリズムの父親を上手に演じたと思う。困難克服物語だから、いくつもの困難の設定が必要で、そのひとつが昭和の頑固親父だった訳だ。
授賞式などの俗なシーンを省略したのもいい。代わりに史織のイメージが膨らんで空を飛び回るシーンを2度も入れたところもいいと思う。脳はAIよりも遥かに素早く想像を膨らますことができるのだ。理詰めのAIに対し、脳の広大な無意識が成せる技だろう。
エンドロールでは、ファルセット気味の声が心地のいい主題歌が流れるが、主演の服部樹咲が歌っていると書かれてあって、ちょっとびっくりした。朴訥、飄々とした主人公の姿からは、こんなふうな歌声はとても想像できない。演技も歌も、それだけ振り幅が広いということなのだろう。まだ18歳。大したものである。
映画「徒花ADABANA」を観た。
画面が薄暗いのは、未来では明かりを煌々と照らしたりしないという想定なのだろう。エネルギーを無駄に使う反省が、未来にはあるに違いない。
本作品には、いくつもの問題提起があると思う。そもそも人間のクローンを作ることは、倫理的にどうなのだろうか。神をも畏れぬという視点はひとまず横に置いておいて、生殖以外の方法で人間が人間を作ることが認められると、真っ先に軍事利用が頭に浮かぶ。というのも、近代の技術革新の多くは、軍事的開発から生まれているからだ。優秀な兵士のクローンを大量生産してクローン部隊を作る。かつてプロイセン王のウィルヘルム1世が身長2メートル以上の兵士を集めて「巨人軍」を作ったのに似ている。「巨人軍」は破格の強さだったらしい。
本作品はクローンの医学利用で、自分の遺伝子からクローンを作り、将来的に臓器などに疾病が生じた場合に備えるという設定である。生命が自己複製のシステムだとすれば、クローンはオリジナルとほぼ同じで、自己複製が可能だから、それは生命そのものである。臓器移植は、移植元の生命を断つことになる。それは殺人ではないのか。
自分と同じ遺伝子の健康体があるのなら、脳の情報をそちらに移してしまえば、再び健康な人生が送れる。本来の意図とは逆だが、そう考える人が出てきてもおかしくない。クローンを生かして、自分が死ぬというパターンだが、この場合は、自殺幇助または殺人とならないか。そもそも人格とは何なのか。
井浦新の演技力に、改めて感心した。身体はもちろん、精神的にも病んでいるオリジナルと、きわめて健康で前向きなクローンを、全く違う人物であるかのように演じ分ける。死を前向きに捉えるかどうかの違いなのかもしれない。
本作品に似たような作品として、2022年の映画「プラン75」がある。75歳になった人に、死を選ばせる政策を仮定した作品だった。このところ、死をテーマにしている作品が、洋画、邦画ともに増えた気がする。高齢化社会を反映しているのだろう。人類全体が、真剣に死と向き合わねばならない時代になったのだ。戦争で殺し合いをしている場合ではない。
映画「ジョイランド わたしの願い」を観た。
これまでに鑑賞したイスラム圏の映画は、その殆どが、弱い人々がイスラムの戒律や家父長制、階級制度によって苦しめられている様子を描いている。特に女性の受難は多くの作品で描かれる。本作品も例外ではないが、LGBTを描いた作品は初めて観た。映画紹介サイトには、政府が上映禁止命令を出したと書かれていた。2022年製作の映画が2年後の今年になってようやく日本で公開されたのも、そういった影響があったのかもしれない。
主人公のハイダルはとても情けない男で、先ずそこにリアリティがある。彼は、イスラム社会のパラダイムに逆らったら生きていけないことを知っている。おかしいと思っても、声を上げることができない。
ハイダルは、結婚の前に妻に仕事を続けていいと言っておきながら、家父長制を笠に着た父親から、妻に仕事をやめさせろと言われると、従ってしまう。本当に情けない男だが、イスラム社会ではやむを得ない選択なのだろう。ハイダルを非難することはできない。誰も他人に蛮勇を強制できないのだ。
妻は自分に未来がないことを知って絶望する。義姉に誘われて行ったジョイランドは楽しかったが、現実世界にジョイはない。自分にはジョブも禁じられた。
パキスタンはイスラム原理主義のタリバンが仕切るアフガニスタンほど極端ではないが、イスラム教の家父長制が幅を利かせていて、女の仕事は子供を産むことだみたいな、日本では考えられない主張が表立ってまかり通る。
成年の男たちには自由があり、性的マイノリティのショーを面白がる。しかし一方では、自分の家族がそうなることは絶対に許さない。本作品が面白いのは、ハイダルが自分に同性愛の傾向があることに気づくところだ。ドラァグクイーンのビバと惹かれ合い、ビバは手術を望んでいるが、ハイダルは手術しないほうがいいと言うシーンがあり、ハイダルの性的嗜好がわかる。
激しいキスを交わすのだが、それより先はビバに拒否されてしまう。キスで唾液の交換を行なえば、別のところでも粘液の交換をしたくなるのは自然で、ハイダルに罪はない。ビバが烈しく拒否したのは、ビバの心にも、イスラムの戒律が染み込んでいると考えれば納得がいく。
こういう作品を見ると、イスラム教というのは、社会的に強い人の利権を守り、弱い人々から自由を奪う宗教だというふうにしか思えなくなる。しかしイスラム教徒は年々その人数を増やしている。異教徒をイスラム教に改宗させるのがジハード(聖戦)だから、世界中がイスラム教徒になるまで、弱い人々の不幸は続く。
そして世界中がイスラム教徒になってジハードが終わると、イスラム教は目的を失い、内部分裂を起こして、世界は大混乱に陥る。その終末の景色はイスラム教徒にも見えていると思う。にもかかわらず、どうして人々はイスラム教徒をやめないのか。イスラム教には、棄教した者は殺すという戒律がある。やめないのではなくやめられないのだ。
当方はお酒が好きである。豚の生姜焼きやトンカツも大好きだ。ビールを飲みながら生姜焼きやトンカツを食べれば、至福の時間を過ごせる。お酒や豚肉を禁じられるのは、その時間を奪われることで、とてもじゃないが受け入れ難い。
本作品のような映画はこれからも製作され続けるに違いない。20億人の教徒を擁する巨大宗教に真っ向から反対するのは、さぞかし勇気のいることだろう。しかし当方の至福の時間が奪われないためにも、作り続けてほしいものだ。
映画「まる」を観た。
堂本剛は、無表情で周りの人に流される役が得意のようだ。もともと主演が少ない人で、広末涼子と共演したテレビドラマ「元カレ」でも、似たような演技をしていた。出演本数が少ないのは、そういう役があっているのを本人も自覚しているからなのかもしれない。
ドラマでも表情豊かな広末涼子に翻弄されていたが、本作品でも表情の豊かな綾野剛や吉岡里帆に翻弄される。それがまた妙に似合っているところがいい。荻上直子監督が描きたかったのは、主人公の感情ではなく、態度のほうだ。
ひとつの珍しい絵画作品を巡って大騒ぎを繰り広げる世間に対して、主人公サワダの泰然自若とした態度を対比させる。理不尽な要求をされても怒らないし、声を荒らげたり、怒鳴ったりすることもない。荻上監督はこれまでと同様に、本作品でも仏教的側面を出してきていて、森崎ウィンの外国人コンビニ店員に仏教の精神を語らせる。
脇役陣は典型を上手に演じていて、拝金主義の絵画市場担当者を演じた小林聡美や、格差を成功者への嫉妬にしてしまう愚かな女性を演じた吉岡里帆は、たいそう上手だった。
円や正方形といった幾何学的に代表的な形は、その合理性から、世界中に溢れている。禅宗の円相の概念を出してきて、価値観の混乱する現代社会がどれほど浅はかで流動的であるかを描いてみせたのが本作品である。それなりに面白かったし、エンドロールの堂本剛の歌は、とても味があった。やっぱりこの人は歌手である。
映画「ビバ・マエストロ! 指揮者ドゥダメルの挑戦」を観た。
クラシックの音楽家を主役にした映画は、劇伴に有名なクラシック曲が使われるので、それだけで盛り上がる。本作品の主役であるグスタヴォ・ドゥダメルの指揮は、メリハリをしっかりつけて、楽器同士を競争させたり調和させたりしながら、印象的な演奏をする。
日本では、イルミナート交響楽団の西本智実さんが、同じように強い指揮をする。池袋の東京芸術劇場と渋谷のオーチャードホールのコンサートで聴いた、彼女の指揮する演奏の音色が呼びさまされた。聴覚の記憶はやはり強い。
ウィーンフィルのコンサートは、赤坂のサントリーホールで聴いたことがある。とても澄んだ音色で、これぞ交響楽団の演奏だと感心した。激しい演奏で感情を揺さぶろうとするドゥダメルの指揮とは正反対だが、その後ドゥダメルがウィーンフィルの指揮をしていたとは知らなかった。上品な演奏を続けてきた楽団員には、いい刺激になっただろうと思う。
本作品を観ると、ドゥダメルの恩師であるアブレウ博士が1975年に創設した子供向けの音楽教育機関エル・システマを、ドゥダメルがどれほど大切にしているかがわかる。人は入れ替わったり増減したりするが、エル・システマの音楽は、ベネズエラの子供たちに脈々と受け継がれていていくという彼の希望は、音楽の力で世界を変えられるという、音楽家らしい世界観に基づいている。
独裁政権がベネズエラのオーケストラの演奏を制限することは、彼には断じて許すことのできない暴挙であった。しかし彼が怒りを露わにすることはない。怒りは絶望が生むものだ。彼には希望がある。
実に素晴らしい才能と、生き方である。映画では出てこなかったが、お金の問題や自身の私生活の問題もあるだろう。しかしそれよりもまず音楽だ。最高の演奏だ。こんなふうに生きることができたら、さぞかし楽しいだろうな。
映画「若き見知らぬ者たち」を観た。
磯村勇斗が演じたアヤトは、不条理な現実をすべて受け入れ、自分ひとりで背負って生きようとする。父親は借金だけを残して死んだ。母親は心の病で一日中、夢遊病のように勝手気ままに行動する。赤ん坊なら家で泣いているだけだが、大人だから外に出て他人に迷惑をかける。その対応もしなければならない。弟は格闘家でジム通いだ。月謝を渡さなければならない。借金の督促状も来ている。
八方塞がりの悲惨な環境だが、もしかしたらアヤトは、それに慣れたのかもしれない。ごめん、すみません、と他人に頭を下げながら生きていく。不器用な生き方だ。もう少しうまく立ち回れば、社会の援助システムを利用したり、親戚やらご近所やらに助けを求められたかもしれない。
誰にも相談せず、誰にも頼らない。反論もせず、ひたすら頭を下げるだけだ。一度だけ、国家権力の濫用を注意したことがあるが、その警官は権力を行使することの反省よりも、権力を笠に着るタイプの警官だった。ツイていない。この不運がのちのちの不運に重なって、アヤトを悲惨の極致に陥れることになるのだが、不器用なアヤトは、何も知らず、ただ眼の前のことを淡々とこなし続ける。
ドストエフスキーの「白痴」の主人公ムイシュキン公爵を思い出した。アヤトは白痴ではないが、馬鹿正直で愚直で、狡さの欠片もない。迷惑な母親をちからづくで拘束したりしないし、怒鳴りもしない。ただ優しく諭すだけだ。見た目を飾らないから、貧相な見た目で判断されてしまう。誤解を恐れずに言えば、株やFXなどの金融取引でアブク銭を稼いでいる者たちの対極にあるような存在だ。政治はアヤトに株をやりなさいとでも言うのだろうか。
我々が日常的に駆使している狡さを全部取り去ったら、アヤトになるのかもしれない。社会は正直者、欲のない者に、容赦がないのだ。とても苦しく、とても辛かったが、スクリーンから目が離せなかった。
映画「The Great Escaper」(邦題「2度目のはなればなれ」)を観た。
世界的な高齢化のせいか、老人のひとり旅の作品が増えている気がする。耄碌(もうろく)という言葉があって、歳をとって精神的肉体的に衰えている様子を一語で表現する便利な言葉だ。耄碌ジジイが一人旅をすれば、必ず親切な人が手助けをしてくれる。人々の助けを受けながら目的地に到着し、目的を果たす。困難克服ストーリーだから、万人受けする。商業主義で老人の一人旅の作品がこれからも作られるだろう。
ただ本作品は、ちょっと切り口が変わっている。第二次大戦の帰還兵であるバーナード・ジョーダン(バーニー)が、戦時中の心残りを抱えたまま、ノルマンディー上陸作戦の記念日D-デイの式典に参加するために、妻レネにも励まされて、単身フランスに上陸する話である。道中に知り合った元軍人のエピソードが、自分の心残りに関わっていることを知る。そこから物語が広がっていく展開がとてもいい。
本作品のハイライトは、式典近くのカフェでドイツの帰還兵たちと交わる場面だと思う。あのときノルマンディーの海岸に、イギリス兵として、ドイツ兵として、同時にいたのだという事実に、互いに万感の思いを寄せる。軍隊式の敬礼は、悲惨な戦争を生き延びた尊敬の証だ。
悲惨な戦争の記憶の一方で、現代のSNSやマスコミが自分を面白おかしく扱っていることを知ったバーニーの鬱屈は、半端ではない。誰も戦争の悲惨さを知らず、ただ戦争の英雄が70年前の任務を果たそうとしているなどと、意味なく書き立てる。戦争には英雄などいない。ただ死んだ人間と、生き残った人間がいるだけだ。
妻だけが、それを理解してくれる。戦争は体験者にしか理解できない。そして二度と体験したくないものだ。自転車で疾走する連中は、事故を起こしたときの悲惨さを想像できない。一度事故でも起こしてみたら、人混みで自転車を飛ばしてはいけないことを知るだろう。
本作品は、反戦映画なのである。
映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を観た。
前作で、通りがかりみたいにビジネスエリート3人を殺したあと、アーサーの中で犯罪に対するブレーキが外れて、気に食わない人物を殺し、そして大笑いする。エリートやテレビの権威を抹殺して哄笑する姿は、虐げられた人々にとって、ある種の英雄であった。
しかし逮捕されたあと、自由を奪われて暴力で痛めつけられる日々が、彼をジョーカーからアーサー・フレックに戻してしまう。ジョーカーという稀代の犯罪者に登りつめたあとの、いわば下りの様子を描いたのが本作品である。
山登りは、上りよりも下りのほうが何倍も難しいという。山で死ぬのは、上りよりも下りが多いそうだ。エベレスト登山では死者の7割が下りで死んでいる。上りには目的があり高揚がある。しかし下りには恐怖しかない。視野の広さにも関係していて、上りは眼の前の道を進むしかないが、下りは視野が拡がって、エベレスト級の山では奈落の底にしか見えないらしい。
アーサー・フレックがジョーカーの突き抜けた悪、犯罪や殺人に対する躊躇いのなさを、どれだけ維持できるかが、彼がジョーカーとして無事に下山できるかどうかの決め手となる。下りの道は細くて、危険に満ちている。僅かな躓きが滑落、転落に直結する。奈落の底へまっしぐらだ。
レディ・ガガがリーと名乗る謎のトリックスターとして登場することで、アーサーの下りの道はさらに困難になってしまった。悪の権化としてのジョーカーを愛するリーの存在は、逆にアーサーをジョーカーからフレックに戻してしまう。ジョーカーに残された道は、リーを殺すことしかない。かつて司会者マレーを殺したのと同じだ。アーサーは上手く着地できるだろうか。
アーサーの葛藤とは裏腹に、本作品ではレディ・ガガのミュージカルみたいなシーンがいくつも投入される。エンドクレジットを見ると、レディ・ガガがいくつも曲を提供しているのがわかる。製作陣に対して商業的な力が働いたのは明らかだ。
ガガ演じるリーの圧倒的な歌唱力には感心するが、アーサーの物語を矮小化してしまったのは否めない。せめてアーサーがジョーカーの格好のまま、リーを射殺するシーンでも挿入していれば、辛かったアーサーの人生がここまで惨めにならずにすんだかもしれない。