三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「BALLOON」(邦題「バルーン 奇跡の脱出飛行」)

2020年07月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「BALLOON」(邦題「バルーン 奇跡の脱出飛行」)を観た。
 文句なしに面白い映画である。ストーリーも映像も音楽も言うことなしだ。暗い夜空に明るく浮かぶバルーンは美しくも危険であり、チェロやコントラバスの低音と打楽器の不気味な相乗効果で否が応でも緊迫感が募る。最初から最後までハラハラし通しだった。
 強権が国民を抑圧する東ドイツ。ゲシュタポがシュタージに代わっただけで、監視社会はそのままだ。ジョージ・オーウェルの「1984年」の世界である。おまけに全体主義的なパラダイムが支配的で、人々の中には国のためという大義名分で怪しい人間を通報する者も少なからずいる。密告を誇らしい行為だと思いこんでいるフシもある。
 反体制的な言葉は身の危険を招くから、本音は心の奥深くにしまっておくしかない。信頼できるのは家族と、ごく少数の知り合いだけだ。息が詰まるような暮らしの中で、ごく当たり前のまっとうな精神性を持った家族たちが主人公だから、自然に感情移入する。
 序盤で家族の置かれた息苦しい環境を紹介し、賭けに出た夫婦の失敗からさらに追い詰められていく場面を見せられ、不安に胸を締め付けられながらの鑑賞となる。一方で監視する側、取り締まる側にも焦点を当て、同じように窮屈な思いをしながら取り締まりをしていることも解る。当時の東ドイツは庶民も役人も抑圧されていたのだ。少数の非人間的な指導者のおかげで、誰もが声を上げられないでいた。
 互いに不幸な人々が取り締まる側と取り締まられる側に分かれて、緊迫のチェイスを繰り広げる。家族は逃げ切れるのか。そんな中で家族のドラマあり、小さな恋の物語ありという盛り沢山の内容が無理なく詰め込まれていて、とても濃厚な作品になっている。事実に基づく物語であるところも含めて、リアリティはこの上ない。
 映像と音響が非常に優れているので、映画館で観ないと損をする作品である。まだ観ていない人は、上映期間が終わらないうちに観たほうがいい。この大変な傑作映画の上映館が少ないのは、映画ファンにとって不運だと思う。

映画「WAR ウォー!!」

2020年07月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「WAR ウォー!!」を観た。
 ヒューマントラストシネマのodessa上映で鑑賞。odessaというのは新しい音響システムで通常の上映とは異なる音域での上映だそうである。簡単にいうと、音がでかいということだ。既にあちこちのシネコンでIMAXの上映を鑑賞しているので、特に驚きはなかった。
 本作品はアクションを楽しむ映画なので、大音響が向いている。その点ではodessa上映は悪くない。音楽と踊りも愉快だし、アクションも見事だった。インド映画といえば「バーフバリ 王の凱旋完全版」でお馴染みの俳優プラバースのようなややぽっちゃり気味のヒーローのイメージだったが、本作品の二人はボディビルダーみたいに脂肪を削ぎ落とした肉体で、マッチョであるにもかかわらず軽快なダンスを踊る。マイケル・ジャクソンみたいに細くてシャープな男が踊るのもいいが、ごつい男が太い腕を振り回してアップテンポに踊るのも見ていて面白い。
 ストーリーはミッション・インポッシブル風。アクションも同じくミッション・インポッシブルに似ている。軍人や諜報員といった現場で闘う役人が主人公だとどうしても似てくるのかもしれない。不死身すぎてリアリティに欠けるところがいまひとつで、あまりに超人的すぎる人物には誰も感情移入できない。
 鑑賞後に残るものは何もないし、雑魚キャラとして登場する沢山の男たちがむやみやたらに殺されるのはそれほど痛快なことではない。予想される危機の想定シーンがなくて、登場人物の台詞だけで説明されるから危機感や緊迫感がちっとも共有できない。危機感を覚えているのは登場人物だけだ。
 何も考えずにボケっと観る作品で、よほど時間が余ったとき向けである。

映画「ホドロフスキーのサイコマジック」

2020年07月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ホドロフスキーのサイコマジック」を観た。
 東京大学の脳科学者によると、意識と無意識の割合は最近の学説では1対数万と言われているそうだ。要するに人間の脳の働きの殆どは無意識ということなのである。
 解りやすくするためにいわゆる意識を顕在意識、いわゆる無意識を潜在意識と呼ぶ。顕在意識は潜在意識の海に浮かぶ漂流物みたいなもので、情緒や直感といった人生を左右する主要な働きは殆ど潜在意識が受け持っている。
 平凡な日常生活を送る中でも、人が選択を迫られる場面は1日に数百回もあるという。そんなに意識したことがないという人が多いだろう。つまり日常の殆どの選択は潜在意識が自動的に行なっているのだ。だからもし潜在意識をコントロールすることができれば、日々の選択は大きく変化し、つまりは人生も変化する。
 潜在意識が本人の人格や人生を否定する方向に働くこと、即ちそれが悩むということだ。逆に肯定する方向に働けば、恋や幸福感ということになる。しかし人間は顕在意識の方にばかり気を取られて病んでいく。鬱病は考え方の問題ではない。潜在意識のコントロールの問題なのだ。
 ホドロフスキーは潜在意識に直接的に働きかける。即ちそれは五感に働きかけるということである。身体に触る、声や音を聞かせる、光景を見せる、そして何かをさせる。脳は様々な情報を受け取っている筈だ。
 前出の脳科学者によると、脳は身体を通じてしか情報を得ることが出来ない、脳にはセンサーがないから、五感を始めとした身体の感覚から情報を得ているということである。自分の身体の動きも情報のひとつであり、たとえばホラー映画を笑顔で観たら、怖さが半減するらしい。脳はスクリーンに映った映像や音響と同時に、笑っている自分も情報としてインプットするから、笑っている自分=余裕がある=大丈夫だという図式が脳の中で瞬時に認識される。それで恐怖感が減少するとのことである。
 テレビで災害現場の被災者のインタビューを見ると、ときどき笑っている人を見かける。もちろん被災したことが嬉しいのではない。心が崩壊してしまいそうな状況で敢えて笑顔を浮かべることで自分は大丈夫なのだと脳に思い込ませるという、一種の防衛反応なのである。もう笑うしかない、という言い方はある意味真実なのだ。
 ホドロフスキーがやっていることも同じメカニズムで、潜在意識が抱えている漠然とした不安や恐怖感、偏見、憎悪、自己否定、絶望といったマイナスの情緒を減らす効果があると思われる。
 考えてみれば体に関する言葉には、潜在意識に働きかける内容のものがいくつかある。顔を洗って出直すという言い方は水に触ると気持ちが落ち着くことから来ているのだと思う。実際にスピーチの前などでアガっているとき、顔は洗えなくても手を洗うだけでも心が落ち着くものだ。この他に頭を冷やすとか、笑う門には福来たるといった言葉も同じだろう。潜在意識に働きかけて気持ちを変えようとする言い方で、多分昔の人は本当に頭を冷やしたり意図的に笑ったりしていたのだろう。笑うお祭りもあるし、お笑い芸人は社会的に必要な役割なのである。
 現代は鬱病の時代である。正論が幅を利かせていて、ともすれば何気ない行動が何かのハラスメントとして非難されるたりするし、SNSに投稿すれば炎上する。自粛警察という言葉が最近生まれたが、要するに社会のパラダイムに寄りかかった正義の味方である。自分の考え方や世界観ではなくいわゆる世の中の大義名分を振りかざして他人を否定する人々だ。そういう人も本質的には鬱病で、他人を否定する気持ちは諸刃の剣で攻撃は自分自身にも向けられる。
 コロナ禍で手を洗うことが奨励されているのは、期せずして鬱病の発症を防ぐことにも繋がっているのかもしれない。実際に自殺の件数は減っているようだ。今後は自粛しすぎて生活が苦しくなって自殺する人が増加していくだろう。必ずしも自殺を否定するわけではないが、少なくとも毎日入浴して一日に 何度も手を洗う人は鬱になりにくいのはたしかだと思う。
 ホドロフスキーのように個人個人の潜在意識を洞察して、五感を利用して特殊な働きかけをするのは一般人には難しいと思うが、絵を見る、音楽を聞く、花を眺める、森を散策するといった行為が潜在意識に澱のようにへばりついているマイナスの情緒を洗い流す効果があるのは誰もが知るところである。そういったことを命の洗濯というが、まさに潜在意識を洗濯するやり方である。悩んでいる人に説教や忠告をするよりも、一緒に水辺を散歩するほうがよほどいいという訳だ。

夜明け前

2020年07月30日 | 映画・舞台・コンサート

作詞・作曲・唄 大友裕子

なれすぎた暮らしに あんたは疲れてしまい
冷めきった あたしに あんたは溺れてしまった
おんなは化粧をした顔を 自分の素顔だと思う
あんたは まだそれを知らない

愛は 生きてるうちにするもんさ
あたし一人に 縛られてちゃ いけないよ
夜明け前 あたしは この部屋を 出て行く
あんた あたしを さがすんじゃないよ
あんた むかしの あんたに 戻りなよ

やさしすぎることは 時には あまいってことさ
色褪せた 暮らしで あんたは 旅を忘れた
おんなは 悲しい時には ひとりに なりたいと思う
あんたが どんなにやさしくても

愛は一度で終わるもんじゃないさ
あたしは むかしの あんたが 好きだった
夜明け前 あたしは この街を 出て行く
あんた あたしを さがすんじゃないよ
あんた むかしの あんたに戻りなよ

(1979年7月)


映画「ステップ」

2020年07月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ステップ」を観た。
 妻に先立たれた普通の若い夫が子育てに奮闘する話である。それほど貧乏ではないが少なくとも金持ちではないという設定が絶妙で、主人公武田健一を人格の安定した常識人とすることができる。誰もが感情移入できる主人公だ。
 話の肝は、子育てをする過程で時折接することになる義父母との関係性が変化していくところである。当初健一は、自分は妻朋子と結婚したのであって朋子の両親と結婚した訳ではないし、子供の美紀は妻との子供であって朋子の両親の子供ではないと思っていたフシがある。だから君はもう息子だという義父の言葉に違和感を覚える。
 しかし妻朋子の両親は、朋子を幼児の頃から健一と結婚するまで育ててきて、その間に培った経験があり、親として豊かに育んだ愛情がある。その溢れんばかりの愛情が健一と美紀に向けられるのは当然だ。朋子の家族である健一と美紀は、両親にとって朋子の人生そのものなのである。
 健一は自分が美紀を育てていく過程で、徐々にそのことに気づいていく。義父母にとってそれが何より嬉しい。健一の幸せは自分たちの幸せなのだ。朋子の死は一生背負っていく記憶だが、健一には兎に角幸せに生きてほしいと願う。
 愛情に満ちたこの夫婦を名人の國村隼と余貴美子が演じ、相手役の広末涼子、幼稚園の保母さんの伊藤沙莉、喫茶の店員の川栄李奈(朋子の写真は多分この人)の3人の女優陣も好演。お膳立ては万全だ。
 そして徐々に変化していく主人公健一を山田孝之が名演。年齢や見た目が少しずつ変化していくのに併せて、考え方や心境も少しずつ変化していく。娘の美紀が育つのはある意味当然だが、実はこの十年間で一番成長したのは美紀を育てた健一自身なのである。
 美紀がこれから中学生、高校生となっていくにつれ、更なる試練が健一を待ち受けているのは間違いない。健一は周囲の人達の助けを借りながら、これからも少しずつ変化し成長していくのだ。
 少しずつ=一歩一歩=step by stepという意味と、義父母=step father、step motherという意味の両義から、本作品のタイトル「ステップ」が生まれたのだと思う。山田孝之の俳優としてのポテンシャルが存分に発揮された、とてもいい作品である。

映画「Cold Case Hammarskjold」(邦題「誰がハマーショルドを殺したか」)

2020年07月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Cold Case Hammarskjold」(邦題「誰がハマーショルドを殺したか」)を観た。
 怖い映画である。並みのホラー映画よりもずっと怖い。何が怖いかと言えば、本作品で紹介されているのと同じような事例が世界中で起きているに違いないと思わせるところが怖い。
 当方はいわゆる陰謀論者ではないので、何でもかんでもCIAの陰謀だと言うつもりはないが、かつてラングレーに所在して3万人とも言われる職員が働いていた組織が、実は大したことはしていませんでした、という方が逆に信じ難い。似たような組織であるMI6やモサド、かつてのKGBも、世界情勢をただ調べて報告するだけの組織ではなかった筈だ。国防総省のNSAやDIAがどういうことをしていたのかはスノーデンの告発に詳しい。本作品の中で何度も言及される、ジェームズ・ボンドでお馴染みのイギリスのMI6は対内工作のMI5に対して対外工作を担当しているらしい。いずれもトム・クランシーやロバート・ラドラムの小説からの受け売りだが、当たらずと言えども遠からずの筈だ。本当のところはおそらく当事者にしかわからないようになっているのだと思う。
 そういうブラックボックスみたいな組織が60年近く前に何をしたのかを探ろうとするのが本作品である。国家権力の裏の顔とも言うべき組織を探るのだから、それ相応に危険が伴うのは当然だ。本作品があたかもフィクションであるかのように撮影されているのは、少しでも作品の影響力を弱めようとしているための気がする。諜報機関の存在自体を相対化する狙いもあるだろう。裏の組織と言っても人間で構成されている訳だし、考えてみれば彼らも役人だ。精神構造は前例踏襲主義と保身で成り立っている。
 役人にはいくつか種類があり、当方の勝手な分類では、手続を担当する事務職と実行部隊である現場職のふたつがある。霞が関の官僚はみんな事務職であり、警官や自衛官などは現場職だ。と言っても警察の上部組織や自衛隊の上部組織は事務職であり、官僚である。
 事務職の中には現場職に命令を下す立場の人間がいて、現場職は基本的に上官の命令を忠実に実行する役割である。現場に出る警官は皆そうだ。権力構造がそうなっているからで、現場職の仕事は権力の実力行使である。つまり権力の忠犬だ。犬のお巡りさんがどうして犬なのかがおわかりいただける話である。猫のお巡りさんだと勝手気儘過ぎて権力の実力行使がカオスになってしまうのだ。犬ぞりはあるが猫ぞりがないのと同じ理屈である。犬は命令に従い、吠え、噛み付く。犬は役人に向いているが猫は向いていない。
 権力の走狗たる役人たちが、前例を踏襲し自分たちの既得権益を守るために何をしたか。そこには常識では考えられない異常な精神性がある。森友問題で嘘八百を並べ立てた前国税庁長官や新財務事務次官の厚顔無恥な国会答弁を思い出すと、役人の中でも上級官僚になるとほぼサイコパスと同じような精神性になることがわかる。そうでない役人は国民のためにならない不正なことをした事実を恥じるし、中には自殺する人もいる。
 権力は異常者を生み出し、権力を背景とした実力行使をする。「007殺しのライセンス」みたいに殺人などの重大犯罪を犯しても権力によって守られる。各国の権力が互いに実力行使をすると戦争になるが、戦争にならない程度に闇に紛れて現場をかき回すのが諜報機関だ。現場は暴力にまみれて裏切りや逃亡が横行する。忠犬だったはずの役人たちが猫のように自分勝手になるのだ。それを次にやってきた現場職が制圧する。
 役人と言っても武器や格闘術がある現場職だからやることは恐ろしい。国連の事務総長を殺すくらいは朝飯前だろう。アメリカには巨大な軍需産業がある。世界の紛争がなくなると軍需産業は衰退し、場合によっては消滅する。紛争が必要な人々は権力に働きかけて紛争の火種を絶やさないようにするだろうし、その実行部隊は現場で雇う傭兵と役人たちだ。トランプ大統領の発言はまさに軍需産業を代弁している。誰がハマーショルド事務総長を殺したのかは明らかである。
 世界の紛争は必要だから起きている。人々の不寛容や無理解はマスコミやネットを通じて刷り込まれる。これからも何人ものハマーショルドが殺され続けるだろう。本作品を観て悪い予感を覚えない人はいないと思う。

映画「日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人」

2020年07月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人」を観た。
 素晴らしいドキュメンタリー映画である。今回プロデューサーの河合弘之弁護士が監督した映画「日本と原発」を六本木シネマート(いまは閉館)の試写会で鑑賞した記憶がある。原発の再稼働反対の映画で、弁護士として法という側面からの戦いのドキュメンタリーであった。
 本作品でも同じように法的な側面で、諸外国に残留した日本人の救済の問題の解決を図る。戦争という国家犯罪によって外国に置き去りにされた人々を、国家でなく民間人が救済している活動の報告である。
 国家という共同体は常に流動的だ。学校で習う世界史では、たくさんの国家が成立と消滅を繰り返してきたことになっている。現在の国家も決して盤石ではなく、これから征服されたり統合されたりすることも無きにしもあらずだ。
 第二次大戦後の世界は、戦争によって膨大な犠牲者を出したことの反省を基盤として、帝国主義を否定して国家間の紛争が武力衝突に結びつかないよう、人類全体が知恵を出したことで漸く安定している。経済的にはグローバリズムが浸透して、国家の枠組みを超えたビジネスが数多く誕生し、莫大な利益を生み出した。その結果、国家という枠組みは、地方自治体が担う行政サービスの元締め的な役割と危機管理及び社会問題のソリューションが主な目的となっている。
 ところが最近になって、再びアイデンティティとしての国家という共同幻想が存在感を増してきていて、嫌韓とか反日といったレッテル貼りをする人々が多くなった。石原慎太郎のような精神性の人々である。本来は流動的である国家という概念を固定的な概念とし、本来は全く異なるはずの国家と国民とを同一視して、例えば中国史は殺し合いの歴史であったから中国人は人を殺すのを厭わない残虐な民族であるという言い方をする。こういう言い方は、日本で親族間の殺人事件が多く発生していることを理由に、日本人は全員人殺しであるという言い方と変わらない。つまり議論が不正確なのだ。
 正確な議論をするためには、粘り強く考察する精神的なスタミナが必要だ。日本人はどうだとか、中国人はこうだといった言い方は、必ず不正確な断定となり、レッテル貼りとなる。思考停止の現れである。日中戦争や太平洋戦争当時の日本では、中国人をチャンコロ、欧米人を鬼畜米英などと呼び、個人個人に個性や考え方の違いがあることを無視して、国家という大枠でその国民を断じていた。戦争という短絡的な結論に至るためには思考停止が必要であり、実情を無視した断定が必要となるのだ。
 最近の世の中には、こうした思考停止や根拠のない断定が多く見かけられる。そういう精神性は戦争をする精神性である。戦後のヒューマニズムは国家ではなく個人に焦点を当ててその人格を重んじることにあったのに、21世紀になってから個人を無視して国家と国民を同列に断じる議論が増えていることは、悲劇の到来を予感させる恐ろしい現象である。
 本作品は国家という共同体に属することで受けられる法律的な恩恵について改めて知らしめてくれる。そして国家が犯した戦争という犯罪の犠牲者となった人々が未だに数多く存在していて、彼らにとっては戦後はまだ終わっていないのだという事実も教えてくれる。
 フィリピンの残留日本人、中国の残留孤児。いずれも戦争の犠牲者である。彼らを救わなければならないのは本来は戦争犯罪を犯した日本という国家である。その国民である我々は過去の日本人が犯した過ちを反省し、自らの税金を使って、その後始末をする義務がある。しかしそれを実践しているのが行政組織としての国家ではなく、民間団体だというところに問題があるのだ。本来は国の行政サービスの一環として実践しなければならないソリューションの筈だ。
 人は人を差別する。言語や文化の違いで差別し、出自や血統で差別する。フィリピンの残留日本人や中国残留孤児は、現地にあっては出自や血統で差別され、日本に来ては言語や文化の違いで差別される。差別する側は、異質なものを危険とみなし、自分たちの安全や権利を守ろうとするのかもしれない。親しんだもの=善で、未知のもの=悪という単純な精神性だが、単純だけに容易にはなくせない。
 グローバリズムが進んで文化交流も盛んになり、東京にいれば世界中の料理が食べられる。タイ料理が好きな人は身の回りにもたくさんいる。しかしタイ人が好きだという話はあまり聞かない。タイ料理は馴染みがあるが、タイ人には馴染みがないからだ。それでも積極的にタイと交流した人の中にはタイ人と結婚する人もいるだろう。属する国家とは無関係に個人を受け入れることが文化面でのグローバリズムである。それには寛容な心が必要だ。
 本作品は個人が人間らしく生きる権利を守ろうとする人々の話である。国家などなければそれに越したことはないが、国家が個人のアイデンティティを保証するシステムになっている以上、そのシステムを利用するしかない。そのシステムがすなわち法である。法によって人権を蹂躙してきた日本が、戦後の反省を礎にして、今度は法によって人権を守らなければならない。しかし現在の権力はそれを十分に行なっているとは言えない。河合弁護士の戦いはこれからも続くだろう。御年76歳。健康に気をつけてこれからも頑張ってください。

映画「中島みゆき 夜会VOL.20「リトル・トーキョー」劇場版」

2020年07月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「中島みゆき 夜会VOL.20「リトル・トーキョー」劇場版」を観た。
 ここはトーキョー♪ リルトーキョー♪ トーキョーにはないトーキョー♬
 1952年生まれの中島みゆきは、本作品の基のコンサート゛夜会VOL20「リトル・トーキョー」゛の公演期間2019年1月30日(水)~2月27日(水)の間に、67歳の誕生日を迎えている。古稀に近づいても力強い歌声は健在だった。
 渡辺真知子は久しぶりに見た。1956年生まれ。コンサートのときは62歳だった。それにしてはよく声が出ていて、歌手というのは訓練を続けていればいくつになってもちゃんと声が出るものだと感心した。それにパワーのある歌声に驚いたのは石田匠。
 コンサートでは毎度のことだが、舞台の歌手の歌声はテレビやネットで聞いているより、ずっと声量が大きい。アンプの増幅ではなく、本人の地声が大きいのだ。夏川りみや城南海のコンサートで特にそう感じた。中島みゆきの声もCDの声よりずっと大きかった。
 実は「夜会」のコンサートの申込みはずっと続けていたが、一度も当選したことがない。代わりにと言ってはなんだが、中島みゆきリスペクトコンサート「歌縁(うたえにし)」に2018年3月(日本武道館)と2019年3月(新宿文化センター)の二度、お邪魔している。いずれも中島みゆきの代表的な曲とも言うべき「時代」「世情」「糸」「おもいで河」「ファイト!」「銀の龍の背に乗って」などを研ナオコ、クミコ、中村中、新妻聖子、平原綾香、島津亜矢、咲妃みゆ、半﨑美子、由紀さおりなどが歌い上げる。今年は開催の情報が入ってこなかったからコロナ禍で中止なのだろう。
 本作品では30曲あまりの歌が披露されたが、その全てが一度も聞いたことがない歌ばかりで、中島みゆきといえばというマイナーコードの歌ではなく、メジャーコードの歌が主体だった。簡単に言うと暗い歌ではなくて明るい歌だ。そうか、中島みゆきにはこういう側面もあるのだと、新しい発見があった。瀬尾一三さんの編曲は大変に壮大で、音楽劇としての盛り上がりは十分だった。
 長く想い続けた恋、恥ずかしくておどけてしまう悲しさ、友情、家族愛、お金の話など、詰め込みたいだけ詰め込んだようなストーリーだが、中島みゆきの優しさが全体を包み込んでいる。歌を聞いているうちにこちらまでその優しさに包まれるみたいで、ときどき意味もなく涙が出る。
 「夜会」コンサートのチケット料金は20,000円。本作品の料金は2,600円だ。コンサートの臨場感も楽しめてこの価格ならリーズナブルであろう。今後のコンサートはコロナ禍で中止になっているようだから、現役の中島みゆきをこちらで鑑賞できたのは貴重であった。

映画「Aos olhos de Ernesto」(邦題「ぶあいそうな手紙」)

2020年07月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Aos olhos de Ernesto」(邦題「ぶあいそうな手紙」)を観た。
 優しい老人の物語である。主人公エルネスト78歳。誰もがこんな風に老いることができればと願うような知性に溢れる老人だ。隣人ハビエルと老人同士のユーモアのある洒脱な会話を交わす一方、つつましい暮らしでさえ脅かすブラジル政府の福祉切り捨て政策もチクリと皮肉る。
 街で暮らす若者たちは定職がなく生活が安定しない。老人たちと同様に若者たちにも不安が広がっている。そんな中で貧しい老人エルネストと貧しい若い女性ビアが出会い、互いの人間性を探り合いながらもささやかな幸せの時間を楽しむ。エルネストには多くの経験と思い出があり、人生のいくばくかの真実は承知している。ビアは五感がよく働き、様々な知識や教訓を吸収できるし、最新の電子機器に関してはエルネストよりずっと詳しい。
 邦題の「ぶあいそうな手紙」も悪くないのだが、エルネストが口述しはじめた紋切り型の手紙ではなく、真情を率直に伝えたほうがいいというビアの提案を受け入れたことと、ビアが目の見えないエルネストに代わって手紙を書くことから、当方なら邦題を「ビアの代筆」としたい。
 本作品は老境を迎えたエルネストの生き方を描いているとともに、エルネストの優しさと人柄に触れることで、正直に真っ直ぐに生きることを選択したビアの成長物語でもある。若者の瞬発力は体力だけではなく精神面にもあって、何が正解なのかを一瞬で理解する能力がある。そしてこれまで抱えてきた過去や人間関係をあっさり捨てる能力もある。そしてエルネストにはどうやらそれを予見していたフシがある。目は悪いがなかなかどうして侮れない老人なのだ。
 人生は別れの連続だ。「さよならだけが人生だ」という漢詩もある。エルネストは抜け目がなくてずる賢いビアとの邂逅を楽しんだのだ。日常の損得だけで生きる家政婦にはそれが理解できなかった。終盤のエルネストの選択にはちょっと驚いたが、ビアの瞬発力を真似たのかもしれない。タクシーからいったん降りて、46年間暮らした街を港から眺めるシーンは、年老いたエルネストの寂寥がひたひたと波を打つようだった。いい作品だったと思う。

映画「SKIN」

2020年07月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「SKIN」を観た。
 コロナ禍の毎日、インターネットで猫の動画を見て癒やされている人もいると思う。猫の動画で何故癒やされるのかというと、医学的には脳内ホルモンと言われるセロトニンやドーパミン、愛情ホルモンと呼ばれているオキシトシンなどが分泌されるからとされている。どうしてそういうホルモンが分泌されるのかについては、医学は答えを持たない。種の保存本能だろうか。人は小さい哺乳類が傷つけられるのを嫌うのかもしれない。
 という訳で可愛らしい子猫を捻り殺すようなことは残忍な行為とされる。こちらに害をなさない動物を殺すのは、普通の人にとって実行するのがとても難しい行為だ。どうしてもやらなければいけない場合は、慣れるしかない。中国で大量の民間人を虐殺した日本軍の兵隊は、最初は殺せなかったが、チャンコロと呼ぶことに抵抗がなくなるのと並行して、殺すことにも抵抗がなくなっていったらしい。
 必要もないのに害をなさない動物を殺すのは異常者だが、生まれついての異常者というのは考えづらく、やはり幼少から生きてきた環境で異常になっていくのだと思う。つまり慣れるということだ。親から殴られ続けて育ったり、先輩から殴られる部活動にずっといたりすると、殴られることに慣れ、やがては殴る立場になる。同じように動物でも人でも、害のない相手を簡単に殺す集団にいると、殺すことに慣れてくる。そしてそれは不可逆である。一旦慣れてしまうと、慣れていない頃の精神性には戻れないのだ。
 人を殴れる人間、人を殺せる人間に、そうでない人間は恐れをなす。正常な人間は異常な人間を怖がるのだ。そして恐怖心から生じる主従関係になって人格を蹂躙される。実はこの図式が世界中の多くの集団に蔓延している。異常者が正常者を支配するという歪んだ図式である。暴力団も暴走族も学校の部活もあくどい企業も、皆同じなのだ。

 本作品の主人公も育ってきた環境から、異常な集団の一員になる。異常な集団の最後の踏絵は、自分に害をなさない人間を殺せるかどうかである。銃で撃ってくる敵なら反射的に撃ち返すし、殺すことも厭わないだろう。しかし見ず知らずの無抵抗な人間を殺せるかというと、普通の神経では殺せない。子猫の首を捻って殺すことができるかと同じだ。普通の人は子猫を殺せない。しかし慣れれば別だ。子猫の顔を掴んで黙らせる、別の手で首を親指と人差指と中指で掴み、手首を返して首の骨を折る。心を凍らせて手順を踏める人間だけが子猫を捻り殺せる。そして無抵抗の人間も同じように殺せる。

 そんな人間はおかしいと思うことから、主人公の戦いが始まった。それは暴力的な自分自身との戦いでもある。組織に矯正されて子猫を殺せる人間になる前に、殺せない人間でいることを選び、そこに踏みとどまるのだという強い意志があった。
 ヘイト集団だけが異常な団体ではない。異常者が指導するあらゆる組織、団体、そして共同体は、国家も含めて世に蔓延している。組織は抜け出そうとする者を許さない。裏切り者という言葉がある。会社でも部活でも暴走族でも、異常者の牛耳る集団をやめる人間はみんな、集団から裏切り者扱いされる。裏切り者に対する懲罰は苛烈を極める。次の裏切り者の出現を許さないためだ。
 主人公ブライオンは組織の中でも幹部だ。覚悟の証である入れ墨は顔にまで入っている。逆に言えば顔の入れ墨のおかげで幹部になれたのかもしれない。根っからのレイシストではないが、家族に恵まれなかった彼は組織を家族だと思いこんでいて、家族の意向は自分の意向だと考える。殆どネトウヨの精神性と同じである。
 本作品はヘイト集団から脱出しようとする物語であると同時に、ヘイト集団と似たような組織が世界中にあること、場合によってはそれが国家であることも含めて、勇気を出せばそこから脱出できるという物語でもある。