映画「ロイヤルホテル」を観た。
オーストラリアは元々イギリス人が移住した土地だから、自動車は左側通行で右ハンドルだ。英語の発音もイギリス人に近いところがある。もっとも特徴的なのは、ayをアイと発音することだ。dayをダイ、todayはトゥダイ、payはパイとなる。最初聞いたときは、today が to die に聞こえて、何を言っているのか意味不明だった。
ハンナとリブはカナダ人の設定だから、オーストラリア人の発音がときどきわからない。それが地元の人を苛つかせる理由のひとつになっている。アメリカ人やカナダ人の中には、オーストラリア人やオーストラリア英語を馬鹿にする人もいる。
本作品はオーストラリア映画だから、馬鹿にされて僻んでいる精神性が存在することを、客観的に描きたかったのだろう。ただ、僻んでいるのは男ばかりだ。それはつまらないプライドの裏返しでもある。
そして本作品が描きたかったのが、男尊女卑の時代遅れの精神性である。つまらないプライドに直結する精神性だ。いじめっ子の精神性でもある。ロイヤルホテルのパブは、頭の悪いガキ大将並みの愚かな空気に満ちている。ガキ大将らしく、暴力にも走りやすい。若い女性なら、身の危険を感じるのは当然だ。
そもそも店長からして女性に向かって cunt という蔑称を使う。人格が破綻しているのは明らかで、それは将来が見えないことに由来するのだろう。客たちも同じだ。将来も未来も夢も希望もなく、帰る場所もない。仕事と酒にありつけるなら、ここで生きていく。どうせ最後は野垂れ死にだ。未来のないパブには、腐臭が漂う。
ハンナもリブも、カナダでは居場所がなかったようで、逃げ出すようにオーストラリア旅行に来たのに、金がなくなってこんなところで働く羽目になった。リブは運命を受け入れているようで、どんどん刹那的になっていく。しかしハンナは、自分は違うと思っている。ここは人間らしく生きる場所ではない。
ロイヤルホテルは、オーストラリアという国の縮図かもしれない。愚劣ないじめっ子で溢れていて、互いに貶めあって生きている。他人を貶めることでしか生きていけないのだ。その愚かさはオーストラリアだけでなく、世界中に蔓延しつつある。世界がロイヤルホテルになってしまったら、人間の帰る場所はない。
映画「幸せのイタリアーノ」を観た。
銀座のママたちに、男の匂いについて尋ねたアンケートを目にしたことがある。2位以下は忘れたが、とにかく無臭がダントツだった。回答したあるママによれば、無臭というのは、健康な証拠なのだそうだ。このアンケートは大まかすぎるものの、人間は健康な相手を選ぶ傾向にあるということは言えると思う。
たしかに、性的魅力の大半は、健康に裏打ちされているところがある。病気の人には申し訳ないが、初対面のときに相手が病気だと、好きになるハードルはかなり高くなってしまうことは否めない。
しかし、身体障害は病気ではない。ハンディキャップだ。本作品の主人公ジャンニも、最後はそう言っていた。ピアニストの辻井伸行さんのコンサートには何度も足を運んだが、演奏を聞くときは、彼が盲目であることなど無関係で、毎日一生懸命に練習した技術で、彼なりの世界観を表現した音を聞くだけだ。とても心地のいい音のときもあれば、演奏の激しさに面食らうこともあったが、対価に見合う感動をもらえたと思う。彼が盲目だから感動した訳ではない。
ジャンニはつまらない男だ。金儲けとガールハントにしか興味がない。そのために健康に気を使う。自慢することと言えば、金持ちであることと、スケコマシの成果だけだ。子供みたいでわかりやすい。友人たちにはそこら辺がウケている。
仕事は一元論で、自分はこのやり方で創業し、成功してきた。お前たちも同じやり方で成果を上げろと言う。会議で毎回同じセリフを言うから、秘書は覚えてしまっている。役員たちもウンザリだ。
50歳を目前にして、未だガキ大将の性格は、他人から愛されるキャラでもある。金儲けが上手でワンマンだから、恐れられている部分もあるが、大抵はバカにされている。気づいていないのは本人だけだ。対人関係の駆け引きだけが武器の男の、どこが尊敬できるだろうか。
しかし人間は、いくつになっても変わることができる。新しい文化に触れ、未知のことを学ぶ。他人の人権や人格を重んじるようになれば、いつしか自分の人格も重んじられるようになる。「できる人」から「できた人」に変貌するのだ。要するにそういう物語だった。
フランス映画のリメイクだが、身体障害者を登場させるにあたっては、相当気を使ったと思う。議論もあっただろう。身体障害者は病気ではないのだから、可哀想ではない。過度に気を使う必要はないが、差別してはならない。普通に接する中で、相手のハンディキャップをさり気なく補助できればいい。理想ではあるが、この場合、理想は必要だ。
ハンディキャップを個性と考えてもいい。個性的な人は世界観も独特だ。様々な世界観に触れることは、視野を広げてくれる体験でもある。多くの人が、狭量な拒否から、寛容な受け入れに転換すれば、この世界も住みやすくなるかもしれない。
映画「カミノフデ ~怪獣たちのいる島~」を観た。
登場人物の台詞回しは昭和のノリだ。昔のドラマの一部が短時間、テレビで流されることがあるが、みんな同じ感じだ。吉永小百合の若い頃の映画と今の映画では、話し方が異なる。演出がまったく違うのだ。最近は、舞台みたいな台詞回しを映画で聞くのは珍しいが、悪くない。
本作品は登場人物を見るのではなく、ひたすら怪獣の造形を鑑賞する映画だと思う。中でもヤマタノオロチが暴れまわるシーンは、特撮ならではの迫力と面白さがあった。本作品で最も時間とお金がかかっているに違いない。コンピュータの映像はリアリティがあるが、特撮のシーンは、人間の想像力が質感を伴って感じられる。怪獣に対する愛情のようなものがあるのだ。
エンディングで流れていた吉田美和の「僕は怪獣だ 怪獣は君だ」という歌詞に、妙に納得したのだった。
映画「めくらやなぎと眠る女」を観た。
以前から思っていたのだが、村上春樹の文体は、平易なのに読み進めるのが困難だ。未だに読破できていないサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝さん訳)の文体にも、同じような難解さを感じた。読者を自分の世界に引きずり込もうとする、底なし沼のような文体なのだ。足を取られまいとすると、前に進めない。多分、ハマる人とハマらない人に極端に分かれるのだと思う。ハマる人にはわかりやすく、あっという間に読破できて、読み終えた途端にファンになる。村上春樹ファンとサリンジャーのファンには、共通する部分があると思う。しかしハマらない人は、読破すらままならない。
両作家には、複数の短編小説が、寄せ集めると長編になるような関係性を持っているところも、共通している気がする。それぞれの作家の世界観が、現実世界の世界観と、決定的に相容れないところも、多分共通している。
本作品のポスターには、英語で based on works by Haruki Murakami とあるから、村上春樹の複数の仕事に基づいている訳で、それはつまり、いくつかの小説をひとつの映画にしたという意味合いなのだろう。村上春樹を読んでいなくてもそこは理解できる。
主人公というべき登場人物はふたりいる。コラージュのような作品だが、あまりとっ散らかっても困るので、ふたりの勤務先は同じになっている。部署も同じで、仕事はオーバーラップしている。
共通しているところは、世界への接し方だろう。ふたりとも、世界にも自分にも、多くを望まない。仕事は真面目だが、自分のやりたいことが何なのか、考えることはしない。ふたりの日常生活を描いたところで物語にはならないが、東日本大震災のもたらした心的ダメージと、同時に生活を一変させるような外的な変化を持ち込むことで、ふたりの日常を異化させる。ふたりは、追い込まれることで、これまで意識の外に追いやってきた、現実世界と自分の関わり合い方を考え直さざるを得なくなる。現実世界と自分の生、現実世界と自分の死。
勝手な推測だが、村上春樹の文章は、英語を翻訳したみたいなところがある。だから翻訳のサリンジャーと同じような読みづらさを覚えたのかもしれない。本作品は、日本語の小説がベースのフランス映画だが、言語は英語だ。それがよかったのだろう。
小説ではあれほど晦渋に感じた村上春樹の世界が、本作品ではいともわかりやすく、そして愛おしく受け入れられる。その世界観は至って普通で真面目で率直で、共感できるところも多かった。ストーリーよりも、現実に直面する主人公の心象風景が興味深く、楽しく鑑賞できた。
恐怖の克服という、般若心経とニーチェに共通する哲学をカエルが滔々と述べ立てたり、物語を説明するのに別の物語を披露したりと、村上春樹ワールドが自在に広がっていて、映画としては実に面白い。いろいろと腑に落ちた作品である。
映画「お隣さんはヒトラー?」を観た。
イスラエル映画だが、主人公のポルスキーが、ユダヤ人の気持ちを代表している訳ではない。ましてや、イスラエル政府の思惑とはまったくの無関係だ。それどころか、シオニズムを否定するような発言もある。イスラエル、ドイツ、ポーランドの合作であり、バイアスなしに鑑賞するのが正解だ。
悲劇寄りの喜劇というと、変な言い方になるが、老人のあるあるがたくさん詰まったユーモラスな作品である。隣人のヘルマンを演じた俳優はそうでもないが、ポルスキーの俳優さんはとても達者で、ちょっとした表情に豊かな感情が見える。
戦争で家族、特に黒いバラを愛した妻を失った悲しみがあり、家族を奪ったナチに対する怒りがある。恨みを果たしたい気持ちもあるが、許したい気持ちもある。もしかしたら忘れたい気持ちもあるかもしれない。
自分の残りの人生が、長いのか短いのかわからないが、どうやって生きていけばいいのか、途方に暮れているようなフシもある。それに身体が言うことをきかなくなりつつあるという情けなさもある。年老いた悲哀を一身に背負っているポルスキーだ。
一方の隣人ヘルマンには、消し去ることができない記憶があり、罪悪感がある。だから南米を転々としている。何度目かに越した先の隣人が、まさか大戦で生き残ったユダヤ人だとは思ってもみなかった。
ふたりのスリリングな日々が始まる。ポルスキーの努力は大真面目だが、何故か笑える。一体何のためにやっているのか、本人にもよく分かっていない様子が垣間見える。そのうち、疑念が徐々に確信に変わっていく。決定的なシーンの演出が見事だ。
ちょっとしたどんでん返しがあって、互いに戦争に蹂躙されていたのだと気づいてからは、二人の関係性が激変する。大切なものを贈りあうラストシーンはとてもいい。秀逸なヒューマンドラマである。
映画「劇場版モノノ怪唐傘」を観た。
「ここは大奥!」と、年寄の歌山の声が大広間に響き渡る。個性のない女中たちの顔は一様に渦巻きだ。個性を捨て去ることは、人格を捨てること、心を捨てること、魂を捨てることだ。それは人間として捨ててはいけないものではなかったか。
本作品の大奥は、クラインの壺みたいに摩訶不思議な構造をしていて、内が外、上が下みたいになっている。かろうじて重力があって、登場人物が動けるようになっているが、モノノ怪と、それを討ち取ろうとする薬売りには重力は無関係のようで、歪んだ空間の中で、怪しい術が大奥の情念に対峙する。戦いはフィジカルよりもメンタルとスピリチュアルに展開する。
物語は複雑だ。個性と自由を奪われた女たち。大奥には、押さえつけられた欲望や、心の奥底にひたすら隠しつづける怨嗟が渦巻いている。顔の渦巻きはその象徴でもあるのだろう。モノノ怪のエネルギーを生み出すのは、北川ひとりの恨みだけでは明らかに不十分だ。魂を差し出してしまった女たちの心の空洞の総量が、マイナスのエネルギーとして具現されたと考えるのが自然だ。
絵はきれいだし、ストーリーはリズムとスピード感に満ちている。しかし薬売りをはじめとして、登場人物の素性が不明なところが玉に瑕で、人間関係がわかりにくく、そのせいで物語そのものが難解になってしまっている。もしかしたら、続編でそのあたりの事情や世界観が明らかになるのかもしれない。なんとも気になる作品ではある。
映画「キングダム 大将軍の帰還」を観た。
前の3作品を観ていないので、ネットで予習してから鑑賞した。学校で習った中国史では、冷徹な戦略家だったと思われる秦の始皇帝も、吉沢亮が演じると、感情の豊かな人間に見える。実際のところは、どうだったのかはわからない。
わかるのは、中国史は殺し合いの歴史だったということだ。日本も同じだ。戦国時代や明治維新の殺し合いは、中国史と同じように残虐極まりない。
作品としては面白いのだが、自分がその時代に生きていたら、一瞬で殺されてしまうその他大勢の兵士のひとりに違いないと思うし、または略奪され、蹂躙される平民のひとりで、画面に登場すらしないとも思う。
日本では、国民のことを一顧だにしない政治家たちが、国会やその周辺で権謀術数に明け暮れている。大昔の中国でも同じだった。そういうことだ。
映画を面白いと思ったのは、たとえば大谷選手の活躍を応援する気持ちと同じだ。下手をすると、政治のド素人の野球選手に投票しかねない気持ちでもある。鑑賞後は、脱力感を覚えてしまった。
映画「越境者たち」を観た。
原題は「Les savivants」で、直訳すると「生き残った人々」である。それぞれの事件や事故から生き残った二人が出逢う物語である。二人の名優ドゥニ・メノーシェとザーラ・エミール・アブラヒミの掛け合いは、臨場感といい、緊迫感といい、とても見ごたえがあった。
サミュエルは何故、チェレーを助けたのか。そこに本作品の核心があると思う。自由のない国から、自由を求めて越境してきたチェレーは、更に進んで、山の中にある難民施設を目指す。一方、サミュエルには罪悪感と義務感がある。過失は償わねばならないが、育てることを放棄することもできない。苦悩を抱えたサミュエルは、気持ちを整理し、考えをまとめるために別荘の山小屋に行く。
山小屋に侵入していたチェレーを見つけたサミュエルは、状況を瞬時に理解する。難民や越境者は、フランスでは日常茶飯事である。受け入れに対する賛否の議論も喧しい。フランス人のサミュエルがチェレーが難民であることを理解するのに、数秒もかからない。
おそらくではあるが、サミュエルはハムレットよろしく、生か死かに悩んでいたが、本人にはその自覚はなかった。チェレーを発見すると、助けが必要であることに気がつく。山に慣れていなければ、ちょっとしたことですぐに死んでしまうだろう。
助けることは自分の身を危険に晒すことを意味する。サミュエルは、それで死んでも構わないと考えたのではないか。自決を選ぶのは育児義務の放棄だ。しかし人を助けるために死んだのなら、八方に言い訳が立つ。助けられなかった記憶が、サミュエルの行動を決めたのだ。
多くのテーマが錯綜した作品だ。難民に対するヘイトのパラダイムがある。その主体は愚かな国家主義者だ。フランスは、自由と平等のパラドクスを解決するのは友愛であるという世界観を生んだ。しかし革命から200年以上の時代を経て、友愛の精神が薄れつつある。そして台頭したのが、ヘイトクライムを繰り返す極右の国家主義者たちである。
ヘイトは、自分の欲望の充足を阻害されるかもしれないという被害妄想から生じる。被害妄想は怒りに直接結びつく。同じ怒りを抱えた連中が連帯して、困っている人々を助けたい人々の行動を否定し、邪魔しようとする。怒りに駆られた人間は、自分の愚かさに気づくことはない。
サミュエルにとってチェレーとの逃避行は、自分の苦悩との戦いであり、世間の愚かさとの戦いでもある。ヘイトの連中にも人権はある。困っている人々にも同じ人権がある。廃れようとしている友愛の精神がサミュエルの心に蘇ったとき、未来が見えてくる。
チェレーがサミュエルにあるものを託すのだが、それは、何もかもが終わったら帰って来るという意味なのか、もう二度と帰ることはないという意味なのか、そのどちらでもないのか、よくわからない。ただ悪い意味ではないことだけはわかる。サミュエルが笑ったのはそのためだ。素晴らしいラストだった。
映画「墓泥棒と失われた女神」を観た。
アリーチェ・ロルヴァケル監督の作品では、2019年に「幸福なラザロ」を鑑賞した。ドストエフスキーの「白痴」に似た雰囲気と世界観を持つ作品として、高く評価した記憶がある。
本作品の主人公アーサーは、イタリア語でアートゥーと呼ばれる。田中という苗字の人が中国ではディエンツォンと呼ばれるようなものだろう。特技はダウジングで、棒や振り子がなくても探せる。
気になるのは、アーサーの能力はいつから目覚めたのかということだ。当方は、恋人ベニアミーナの失踪の後だという気がする。ベニアミーナを探そうとすると、気が遠くなることがあって、その地面の下には古代エトルリアの墓がある。
古代エトルリアは、現代のトスカーナ地方を中心に広がっていた都市国家群で、古代としては珍しく、女性の地位が低くなかったらしい。ベニアミーナの失踪は、古代エトルリアの遺跡と関係しているに違いないが、詳しいことは何も語られない。
ただ、ストーリーの上で女性が活躍するという点では、古代エトルリアに共通するものがある。そして何故かアーサーの周囲には女性がたくさん集まる。アーサーは考古学愛好家だから、ベニアミーナも同じように古代に詳しかったのだろう。特に古代エトルリアについては、彼女は好んで研究していたと思われる。
墓泥棒のろくでなしたちに重宝されて仲間に加わっているアーサーだが、仲間と違って、金儲けにはあまり興味がない。ベニアミーナを探し出して、また一緒に考古学の研究をするのが夢だ。アーサーがその意味の台詞を言うシーンはないが、物語の中でアーサーの真意が浮かび上がってくる。
毛糸のような赤い糸が、いくつかのシーンで登場する。運命の赤い糸のようだ。ベニアミーナとアーサーを結ぶ赤い糸。いつか赤い糸の端を探し出し、それを辿ってベニアミーナのもとに行く。そう願っているアーサーだが、行き着くのはいつも古代エトルリアの墓や遺跡だ。
現実と幻想が錯綜したアーサーの精神性を上手く描いた作品で、現実なのか夢なのか分からぬまま、赤い糸の端に出逢う。その先にベニアミーナがいるに違いない。アーサーは糸を掴む。しかしすぐに現実を知ることになる。糸は切れるのだ。それはたぶん、女神像の頭部を折ったのと同じだ。だからあのときアーサーは激怒した。
古代と現代、生者と死者。時の流れがすべてを忘却の彼方に押しやるが、忘れられないものもある。欲に塗れた世の中だが、美しいものはまだ残っている。アーサーは優しさに巡り逢えるだろうか。
ところで、トスカーナと言えば、葡萄のサンジョヴェーゼ種。サンジョヴェーゼと言えば、赤ワインのキャンティである。キャンティはたくさん種類があって、置いているレストランも多い。これからキャンティを飲むたびに、この映画を思い出すことにしよう。
映画「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」を観た。
黒猫が前を横切ると縁起が悪いというのは、魔女狩りの歴史に関係している。黒猫は魔女の使いで、不幸をもたらすというのである。迷信だ。黒猫は幸運を呼ぶという迷信もある。夏目漱石の「吾輩は猫である」のモデルは黒猫だったという話がある。街角で見かける「シャノアール」という喫茶店は、フランス語の Chat noir(黒猫)に由来する。ちなみにChatはオスの猫でメスの猫はChatteだが、Chatte noire と言うと大変な意味になるので、ご注意を。
本作品では黒猫がある種のトリックスターとして登場する。不幸をもたらすのか、幸運を呼ぶのか、それともその両方なのか。個人的な話だが、前日に映画「化け猫あんずちゃん」を観たので、猫に縁がある気がしたが、こんなシンクロみたいな話も迷信の一種か。
商売人はプロモーションをとても大事にする。どのようにすれば売れるか。それにはPR(パブリックリレーションズ)の捉え方が重要だ。同じ商品でも、プロモーションが上手くいけば売れるし、そうでなければ売れない。実は公職の選挙でもプロモーションが大事で、戦略に失敗したらどれだけ人格や政策が優れていても、当選できない。
逆に言えば、上手くやれば無能な人間でも当選させることができる。マーケティングやプロモーションのプロは、有権者には人格や政策の優劣を判断する能力がないと決めつけている訳だ。
中国の諺で朝三暮四というのがある。プロモーションが成功した典型的な事例で、本質を理解できない民衆の愚かさを表現している。日本では萩生田百合子の都知事3選の事例もある。有権者の大半は愚かだと言われても、何も反論できない。アメリカでも事情は同じだ。バイデンかトランプの二択という絶望的な状況を作り出したのは、政党というよりも愚かな有権者だと言える。
詩人の中原中也は、民衆の愚かさを次のように表現している。
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂(わら)はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤もと感じ
一生懸命郷に従つてもみたのだが
(「山羊の歌」より「憔悴 Ⅴ」の一節)
スカーレット・ヨハンソンが演じるケリーは、民衆が何に利益を感じるか、恥をかかないために何を求めるか、よく知っている。PRの本質がそこにある。だからそこに時間と労力とカネをかける。資本の投下だ。つまり海老で鯛を釣るのが資本主義なのである。誠実さとは正反対だ。嘘をつけない人間は、稼げない人間として切り捨てる。そこには、女だからとして不当に切り捨てられた過去の恨みもあるに違いない。
そんなケリーの改心はやや安直すぎるきらいがあり、またキリスト教の熱心な信者である議員との会話に違和感を覚えたが、アメリカのパラダイムを考えれば、納得できる部分ではある。誰もが知る歴史的な偉業を、当事者でも科学者でもない視点から描き、異化させた点は評価されていいと思う。映画として面白かった。
本作品では、シーンごとに変わるスカーレット・ヨハンソンの衣装にも目を奪われた。女盛りのふくよかな身体には、どんな衣装もよく似合うが、女性が女性であることを武器にしなければならない時代でもあったということだ。現代でもそれは変わらない気がする。