三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「キル・チーム」

2021年01月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キル・チーム」を観た。
 本人がしたくないことを強要する事案は世の中に溢れている。悪いことばかりではない。飛び込み営業に行きたくない新人の営業マンを無理やり新規の会社の受付に押し出すといったことはよく行なわれているだろうし、それは新人の営業マンにとっての登竜門でもある。最初はしたくないことでも、そこを乗り越えてしまえば仕事として楽しくなったり、やりがいを持てたりするようになる。
 しかし規範に反する行為を強要するのは、その行為自体が犯罪である。身近な事案で言えば、学校でのいじめがそうだ。いじめっ子にはリーダーがいる。リーダーが誰かを殴れと言えば、気が進まなくても殴らなければならない。そうしなければ次は自分がいじめられるからだ。そしてそれとそっくりな構図が世界中に蔓延している。
 本作品もその例外ではない。特に軍隊という組織は特にいじめの構図が広がりやすい。国家の正義という後ろ盾があるから、正義を大義名分にすれば誰にでも難癖をつけることができる。加えて軍隊は究極のヒエラルキー組織だから上官の命令は絶対だ。上官がいじめっ子だったら部下に逃げ道はない。会社だったら辞めればいいし、学校だったら不登校になるか転校すればいいが、戦場にいる兵士はそうはいかない。軍隊という組織は構造的にいじめが起きやすい組織なのである。
 それに他の組織と決定的に違うのが、軍隊は強力な武器を持っているということだ。スタンリー・キューブリック監督の映画「フルメタル・ジャケット」でも軍隊におけるいじめが扱われていて、徹底的ないじめを受けた新兵のひとりは上官を射殺したあと銃口を口にくわえてフルメタル・ジャケットの銃弾で自殺する。衝撃的なシーンだった。本作品を観て「フルメタル・ジャケット」を思い出した人もいると思う。
 日本でも自衛隊内でいじめが多発していることは容易に想像できる。元自衛官がその戦闘能力を利用して交番を襲撃、拳銃を奪って人を殺す事件が複数件起きている。殺人以外でも元自衛官が起こす事件は多い。そのすべてがいじめのトラウマだとは言わないが、先程も述べたように軍隊という組織は構造的にいじめが起きやすい組織なのだ。
 米軍は中東地域で反感を持たれている。そもそも2001年の9.11テロは、長期間に亘るアメリカの軍事介入に対する中東地域の人々の憎悪が凝集した事件でもある。もちろん肯定される行為ではないが、アメリカは中東地域における米軍の理不尽な介入がどれほどの怒りを生んでいるかを自覚していないフシがある。
 戦場に赴任した兵士は、正義が自分たちにあると一方的に思い込み、自分たちに反抗する住民は不正義、つまり悪なのだと、単純に考える。赴任先の歴史など、必要な教育さえ受けていないのだ。本作品の軍曹の説教は、暴走族のカシラが新入りを説教するのとほぼ同じである。米軍にも暴走族にも哲学がなく、上っ面の間違った論理を振りかざす。
 繰り返すが、軍隊は構造的にいじめが起きる組織である。いじめっ子の論理は虐殺の論理とほぼ同じである。軍隊は武器を持った巨大ないじめ集団なのだ。一刻も早くすべての軍隊を解体しなければならない。自衛隊も早く災害派遣隊などに組織変更して武器を取り上げたほうがいい。

ローソンの笑止千万

2021年01月30日 | 政治・社会・会社

ローソンで公共料金を支払ったら、これまで一度も請求されたことのない手数料を請求された。
疑問に思ったので、ローソンのHPから問い合わせてみた。

■ご連絡内容 - 2021/01/29 07:50:35
>返信要・不要  :必要
>お問い合わせ種別:店内サービスに関するお問い合わせ
>店舗の種類(ナチュラルローソン):
>ご利用サービス  :公共料金の収納サービス
>お問い合わせ内容 :
>公共料金(電話、電気、ガス)の収納サービス利用時に1件あたり11円の手数料を支払いました。6件で66円。公共料金の収納サービスに手数料を支払ったのは初めてです。約2週間前の1月11日に公共料金(水道、電気及び一般企業のコンビニ支払)の収納サービスを利用したときには手数料を請求されることはなかったので、いつから公共料金の収納サービスに手数料が請求されるようになったのか御社のHPを確認しましたが同じ金額の表示を発見することが出来ませんでした。
>手数料がかかるのはナチュラルローソンだけでしょうか、それとも全てのローソンで公共料金の収納サービスに手数料が請求されるのでしょうか。

すると返事が来た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平素よりローソンをご愛顧賜り誠にありがとうございます。
お問い合わせありがとうございます。
発行元企業のご判断で、一部のお支払いにてコンビニエンスストアで別途手数料が発生する場合があります。
データを確認させていただいたところ、関西電力様のお支払が手数料発生する用紙となっておりましたので、
恐れ入りますが発生要因については、発行元にご確認をお願い致します。
手数料につきましては、該当するお支払については、1件あたり60円(税抜)~300円(税抜)となっており、
弊社ローソン・ナチュラルローソン以外の他コンビニエンスストアでも、同様に発生するものとなります。
お手数をお掛け致しますが、ご確認の程よろしくお願い致します。
・・・・・・・・・・・・・

返事は以上である。笑止千万だ。
手数料は1件あたり11円とこちらが言っているのに「1件あたり60円(税抜)~300円(税抜)」と違う数字のことを回答している。
ローソンが言いたいのは、多分このページの半ばあたりに表示されている内容のことである。
https://www.lawson.co.jp/service/payment/receipt/
手数料について、以下の表がある。

※お支払い金額のほかに、別途手数料がかかる場合がございます。
金額      手数料
1万円未満    60円(税別)
1万~5万円未満 100円(税別)
5万円以上     300円(税別)

支払ったのは、156,211円 92,162円 2,457円 3,765円 759円 1,157円の6件である。
関西電力の分で60円の手数料が発生したのであればレシートは1件66円となっている筈で、実際にはレシートは1件11円で合計が66円となっている。せっかく質問の中で「同じ金額の表示を発見することが出来ませんでした」と書いたのに、意図が理解できなかったのだろうか。結局こちらの質問である1件11円の手数料については無回答のままだ。
現場の店舗に確認していないことは明らかで、不誠実な対応であることは間違いない。
挙句の果ては関西電力に確認しろとのこと。レシートが1件66円となっていれば確認する意味があるが、1件11円が6件あるわけだから、関西電力に確認することに意味はない。関西電力のせいにすれば誤魔化せると思っているのだろうか。確かに関西電力にこういうことを問い合わせるのは至難の業だ。電話はほとんど通じないし、HPから質問するには会員になる必要がある。ハードルを上げて諦めさせようという意図なのかもしれない。

その後、公共料金をファミリーマートで支払ったが、手数料の請求はなかった。
これからは公共料金をローソンの窓口で支払うのはやめることにしよう。
いや、ローソンを使うこと自体、やめることにしよう。


映画「聖なる犯罪者」

2021年01月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「聖なる犯罪者」を観た。
 カトリックの神父は身分証が必要らしい。しかし本作品を観て思った。・・・2000年前のイエス・キリストは、身分証を持っていたのか。時代からして身分証はないにしても、何らかの権威の裏付けがあったのか。それとも権力の後ろ盾があったのか。当然ながらそんなものは何もなかった。むしろ権威のある者から迫害され、権力から弾圧されていた存在であった。
 本作品には多くのテーマが盛り込まれているが、大別すると二つに分かれる。即ち、人はどこまで人を赦さないのか、あるいは赦すのかというテーマがひとつ。そしてもうひとつのテーマは、カトリック教会という権威は人を救うことができないのではないかということである。印象的なセリフがふたつある。「赦すとは愛することだ」と「権力はあなたにあるが、正しいのは私だ」である。
 前者は聖書の言葉「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイによる福音書第5章)そのままである。主人公トマシュ神父ことダニエルは、ユニークな説教で村人たちの心を掴みつつあった。そこで彼はさらに進んで、村人たちに彼らが憎んでいる男を赦し愛せるか、その覚悟を迫っていく。
 その裏でダニエルは自分の正体を見破られはしないかという不安に怯えつつ、村人たちとの触れ合いの中で、次第に聖職者としての自信を持つようになる。同時に権威や権力を疑うようになる。教会や教皇庁の権威さえ例外ではない。少年院で聖書を教わり、村に来てからは一層熱が入って聖書を読むようになったダニエルは、真の信仰は権威や権力とは無縁であることに気づいたのだ。そこで出たのが後者の言葉である。
 ダニエルにミサを託した神父は「自分は告解では救われなかった」と告白する。それを聞いたダニエルは、教会の中には権威だけがあって信仰も救いもないことを悟ったに違いない。託されたミサの説教の場面でダニエルは言う「神は教会の外にいる」。
 一方で若い肉体は背徳の欲望を抑えきれない。村人に信仰を説くその陰では酒を飲みタバコを吸い薬をやる。ロックを聞きながら踊り女を抱く。ダニエルに限らず人間は矛盾に満ちていて、はかないものだ。それは信仰のはかなさに直接的に結びつく。本作品は信仰を表現しているのではない。人間を描いているのだ。イエスは人の弱さを嘆き、信仰の薄さを嘆いた。しかしもしイエスが現れたら、愛されるのは教会か、ダニエルか。答えは言うまでもないだろう。
 ストーリーは一本道で必然的である。救われようとしていたダニエルの魂は権威と権力によって脆くも壊れてしまう。彼は何を赦し、何を赦さなかったのか。そして何が彼を赦すのか。ダニエルによってもう少しで救われようとしていた村人たちの魂も、やはり権威と権力によって押し潰されてしまった。しかしもしかしたらダニエルによって救われた魂もあったかもしれない。静かに進む作品だが、片時も目を離すことができなかった。

映画「さんかく窓の外側は夜」

2021年01月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「さんかく窓の外側は夜」を観た。
 終映後に舞台挨拶中継があった。登壇したのは主演の岡田将生、志尊淳、平手友梨奈と森ガキ侑大監督の4人だ。SNSで募った質問に答える形式で、作品の本質に迫るような鋭い質問はなかったが、4人それぞれの人となりが少し知れてよかった。映画では消極的なキャラクターを演じた志尊淳が積極的に場を盛り上げようとしたのには少し驚いた。岡田将生はスマートに答えをこなす。平手友梨奈は思っていたより普通で、森ガキ侑大監督は正直に一生懸命に話す。
 収穫はボツになったシーンの話で、志尊淳と岡田将生がワイヤーに吊られるシーンを1日がかりで撮影したが、どうにも違和感があってボツにしたとのこと。なるほど本作品で空中を飛んで移動するというシーンは確かに変だ。ボツは正解だと思うが、ディレクターズカットでお待ちしておりますと言った司会者の言葉が実現されるのも、ひとつの楽しみではある。
 予告編の印象とは違っていたが、結構面白かった。ホラーでもなくアクションでもなく、謎が続くという点でやっぱりミステリーのジャンルになるのかなと思う。となるとネタバレ厳禁だから迂闊なことは書けない。相沢友子さんの脚本がとてもよく出来ていて、無駄な言葉がないから想像力が膨らむ。次はどうなるのか、あれこれ想像しながら鑑賞するのは楽しい。岡田将生の冷川と志尊淳の三角の関係性が変化していくのもリアルである。平手友梨奈の非浦英莉可の立ち位置もダイナミズムを生じさせる。滝藤賢一の半澤刑事は、多分この人の存在がないと物語に収拾がつかなかったと思う。相変わらず上手な俳優さんである。
 三角が見る幽霊が持つ怨念のストーリーが殆ど紹介されなかったのは、いちいち紹介すると時間が果てしなく伸びるのと、幽霊が主役のドキュメンタリー集みたいになってしまうからだろう。本作品では兎に角、幽霊が見えることで社会的な存在としての自己との折り合いがつかないことに悩む三角と、自意識が目覚める時期を過ごさなかったことで自分の能力に何の悩みも持たない冷川の、それぞれが抱える不均衡が物語を力強く推し進める。
 伏線はほぼ回収されて気持ちよく終わるかと思っていると、最後に不穏なシーンがある。まだ終わっていないのかと思わせるのはホラー映画でよく使われるテクニックで、続編があるかどうかは不明だ。
 和久井映見が演じた三角の母親にもっと存在意義があればよかった。三角の能力がどこから来たのか、母親が知っているのかと思った人も多かっただろう。それにしても北川景子の使い方はとても贅沢で、全編を思い返すと何故か彼女のシーンが一番最初に出てくる。存在感のある女優になったものだ。

映画「The Personal History of David copperfield」(邦題「どん底作家の人生に幸あれ!」)

2021年01月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Personal History of David copperfield」(邦題「どん底作家の人生に幸あれ!」)を観た。
 
 デブ・パテルはロボットSF映画「チャッピー」で初めて見た。クソ真面目で一途な開発者を演じて笑わせてくれたが、本作品でも同じようにクソ真面目で一途な青年デイヴィッド・コパフィールドを好演。顔を見れば明らかなように、インド系の俳優である。
 本作品がユニークな点は、親子の人種が異なる点だ。主人公デイヴィッドの母親は白人のクララ・コパフィールドであり、白人貴族の家柄でデイヴィッドの友人スティアフォースの母親の役は黒人女優が務める。デイヴィッドの大叔母ベッツィの資産管理人である白人男性ウィックフィールド弁護士の娘アグネスは黒人である。最初は違和感があったが、そういう設定なのだと了解してからは普通に鑑賞できた。かなり新しい試みで、これからは人種を気にしないキャスティングが主流になるかもしれない。とてもいいことだと思う。
 もうひとつの工夫は、デイヴィッドの母親クララとデイヴィッドの妻ドーラを、モーフィッド・クラークが一人二役で演じていることである。ドーラ・スペンロウの登場シーンを見たときには、あれ?デイヴィッドの母親?と思った。幼い頃に引き離された母親の面影を、デイヴィッドはずっと忘れずにいた訳で、一目惚れするのも当然の話である。なかなか洒落た設定だ。
 本作品は明治の文豪が書きそうな波乱万丈のストーリーを2時間に凝縮したような映画で、行間を読み取っていかないとピンとこない印象になってしまう。チャールズ・ディケンズのことをよく知っているイギリス人向けの作品だと思う。日本で言えば、夏目漱石の半生を描いたような映画で、かなり省略しても日本人なら多くの人が理解できるはずだ。
 夏目漱石と言えば、イギリス留学時にディケンズの作品を読み漁ったと言われているから、時間と空間の広がりの大きなディケンズの物語に影響されたに違いない。本作品を観て、漱石の「行人」や「こころ」に雰囲気が似ていると思った人もいると思う。
 鑑賞後に、原作であるディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」を読むといいと思う。読みながら映画のシーンが蘇ってくるはずで、本作品をもう一度楽しめると思う。2時間の大河小説といった感じの傑作である。

映画「Les Parfums」(邦題「パリの調香師 しわせの香りを探して」)

2021年01月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Les Parfums」(邦題「パリの調香師 しわせの香りを探して」)を観た。
 洋画の邦題は大抵センスが悪い。本作品の邦題はまさにその典型である。原題の「Les Parfums」(「香水」)に対して「パリの調香師 しあわせの香りを探して」は、いくらなんでもやり過ぎだ。そのまま「香水」でよかったではないか。本作品の登場人物は「しあわせの香り」など探していない。
 嗅覚は健康を守るためになくてはならないものである。猫や犬を見ていると、初めて与える餌は必ず臭いを嗅ぐ。猫の場合はその前に前足で恐る恐る触る。餌かどうかよりも危険がないかをまず確かめるのだ。自分に危害が及ばないことをまず確かめて、それからその餌が食べられるものかどうかを臭いを嗅いで確かめる。人間は猫犬よりもはるかに嗅覚が劣るとはいえ、嫌な臭いのする物を食べたくないと感じるところは同じである。嗅覚は身を守るための原始的な感覚のひとつだと考えていいと思う。
 多くの人は自分に自信がないのか、自分の感覚よりも他人からの情報を優先する人が多い。食べ物で言えば、まだ食べられるかどうかを自分で臭いを嗅いだり味見したりする前に、容器の消費期限や賞味期限を見る。食品の期限などは厚生省の役人がテキトーに決めた便宜的なものでしかないことを知らないのだろうか。信じるべきは自分の嗅覚であり、自分の味覚であり、自分の勘だ。自分が大丈夫だと思ったらその食品は食べられるのだ。期限などクソくらえなのである。
 香水と言えば、銀座でランチを食べているときに、急に物凄い濃い匂いがして思わず振り返ったことがある。イケメン風の男性が数人、入店したところだった。匂いというよりも臭いという漢字が相応しく、クサイと言ってもいいかもしれない臭いだった。これでは食事ができない。仲良くしていた店員に「あれ何?」と聞くと、困った顔で「最近できたアパレルの店の方です」と教えてくれた。昨年末に瑛人という人が歌った歌に出てくる店だ。なるほど、こんなにドギツい臭いの香水もあるのだなと思った。
 臭いと言えば、銀座のママたちにどんな匂いの男が好きかというアンケートを取った記事を見たことがある。結果は、銀座のママたちが一番好きなのは無臭の男だった。無臭の男とは、つまり若い男だ。新陳代謝が盛んで免疫力の強い若い男は雑菌を殺菌してしまうから、雑菌が増殖して発する臭いがしない。香水で誤魔化す男よりも健康な無臭の男を好む女性は銀座のママたちだけではないと思う。
 なんだか香水について否定的な話になってしまったが、日本では香水は人口に膾炙していないということだ。日本の飲食店に香水をつけている店員はいないし、寿司屋では香水をつけた客は予約客であっても断られることがある。しかし日本人も肉食が多くなってきたから、今後は香水文化が広がるのかもしれない。
 さて本作品は香水文化全盛のフランスが舞台である。調香師という職業が尊敬されるほど匂いに敏感、いや匂いにうるさいお国柄なのだ。主役は我儘で独善的な天才調香師のアンヌだが、本当の主役は運転手のギヨームである。ストーリーはこの二人の掛け合いで進んでいき、アンヌはギヨームに心を開いていくが、それは映画サイトに載っている話で、実際はギヨームの才能に気づいたアンヌがその才能をテコにして自分も再び輝きたいという熱意を燃やす話だ。そしてギヨームはそのおかげで人生を取り戻していく。
 アンヌを演じたエマニュエル・ドゥボスは脇役でよく見かける女優で、演技は抜群に上手い。そしてそれ以上に上手だったのがギヨームを演じたグレゴリー・モンテルである。我儘なアンヌに腹を立てるが、やがてアンヌに悪意のないことと、単なる独善的なおばさんで、たまたま才能があったから高飛車になってしまったことに気づいて、それから後はやんちゃな子供の相手をするように、ときには呆れながら、ときには指導者のように、ときには励ますようにして接していく。その微妙な変化を見事に演じ分けていくところがいい。特に、この世界は匂いだけではない、五感をすべて使うべきなのだとアンナを諭す場面がとてもよかった。
 人は才能のある人に接すると成長するものなのかもしれない。料理を作るためにはとびきり美味しい料理を数多く食べる必要があるし、絵の才能を伸ばすためにはいい絵をたくさん見なければならないし、いい小説を書くためには本を山のように読まなければならない。
 人生をよりよく生きるためには優れた人と話をするのがいい。一芸に秀でた人の話には、必ず人生の真実がある。その人の人格はどうあれ、ひとつのことを深く追及するには、それなりの深い世界観が必要なのだ。人間を知らずに香水は作れないのである。アンヌと接することでギヨームの世界観がどんどん深まっていくのが手にとるようにわかる。そこが観ていて凄く気持ちがよかった。

映画「ソング・トゥ・ソング」

2021年01月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ソング・トゥ・ソング」を観た。
 かつてのパンクの女王パティ・スミスが出ていて少し驚いた。以前レコード屋で何も知らないままに、ただ痩せ細ったジャケット写真が気になって「フレデリック」を買って聴いた記憶がある。
「フレデリック」は軽快な明るい歌で悪くなかったが、B面の「不審火」(「Fire of unknown origin」)がなんとも異様な曲で、低い声で唸るように歌われていたのが記憶に残っている。引っ越しで失くしてしまったが、今ならYou Tubeで聴けるのだろうか。
 本作品はストーリーのない叙情詩のような映画である。窓から外を眺めるシーンが多く、その度に俳優の顔がアップになる。そしてモノローグ。その多くは内省的で、心象風景をそのまま言葉にしているようである。しかしモノローグだからどれも一方的で、会話から生まれる飛躍はない。登場人物の台詞の多くが監督・脚本のテレンス・マリックの独白だから、飛躍は必要ないのだ。
 一見金持ちの若者たちの道楽の風景に見えるが、よく見ると男女ともに引き締まった身体をしているのがわかる。それなりにストイックな生活をしているという訳だ。食べ物を川に投げ捨てたり、レストランで料理を沢山残したまま立ち去ったりするところから、食に対する執着はないようだ。しかし性に対する執着はかなりのもので、性を讃えたり、性を弄ぶことを非難したりする。二律背反のようなモノローグは、どれもテレンス・マリックの精神性なのだろう。自分の中の矛盾を登場人物の対立する考え方で表現する。
 ストーリーがわかりにくい映画だから、苦手な人はたくさんいると思う。しかしタイトルを「Song to Song」にしたことと、イギー・ポップやパティ・スミスを登場させているところから、人生にとって音楽が重要な役割を果たしていること、音楽の趣味も女性の好みも変化していくことを表現しているのが判る。ケイト・ブランシェットのアマンダからルーニー・マーラのフェイへと女性歴が変遷し、一方のフェイも喪失感から同性愛へと走りそうになりつつも、パティ・スミスの音楽と出逢って心が空っぽにならずにすんでいる。誰だか不明の年老いた女性はアルツハイマーの前兆に怯えて泣き叫ぶ。
 これらすべてが美しい景色の映像とともに遠景で、あるいはアップで執拗に繰り返されるものだから、人によってはお腹いっぱいになったり眠くなったりするだろう。当方も少しそういう部分があったが、テレンス・マリックの深くて複雑極まる精神世界をゆらゆらと旅をするような感じの心地よさもあった。不思議な作品だが悪くないと思う。

映画「キング・オブ・シーヴズ」

2021年01月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キング・オブ・シーヴズ」を観た。
 タイトルの直訳は「泥棒の王様」で、華麗に盗みを決める洒落た老人たちの話かと思っていたが、所謂泥棒アクションとは一線を画していて、互いの欲のせめぎ合いと、主導権の取り合いが演劇のように展開する作品だった。
 本作品を観て思い出した小説がある。SF作家星新一ショート・ショート「成熟」という作品だ。3人の男が強盗に成功し、隠れ家で一人ずつ順番に見張りに立つが、残りの二人が見張りの男を殺してしまおうと、順番に密約を交わす話である。全員が残り二人を殺すことになり、自分は残りの二人から殺されることになる。それに気づいて・・・という話だ。興味のある方は「ひとにぎりの未来」という文庫に入っているのでお読みください。
 星新一の小説はショート・ショートだから単純な構成だが、本作品は7人の泥棒たちがそれぞれの思惑と信じる信じないの駆け引きを繰り広げる。強気な老人と弱気な老人がいるが、弱気な人間が必ずしも負けるとは限らない。強欲さにかけてはどちらも負けていないのだ。タイトルを「Greed」(「強欲」)としたほうがよかった気がする。
 イギリスは民主主義の先進国ではあるが、監視社会でもある。というか、監視カメラ社会といったほうがいいかもしれない。ダニエル・クレイグ主演の映画「007」のどれかのバージョンで、ジェームズ・ボンドがロンドンを逃げる様子を監視カメラを次々に繋いで捉え続けているシーンがあった。
 本作品も舞台はロンドンである。当然犯罪者は監視カメラを意識する。本作品の老人たちも少しは意識するのだが、網羅しきれるほどではない。というか、網羅できないほど多くの監視カメラが存在する。かつてのスコットランドヤードとは違って、現在のロンドン警察は監視カメラなしでは何の操作もできない。凶悪犯罪の検挙率が低いことでおなじみの警視庁と同じだ。再犯率は日本と同じくらい高いから、監視カメラと犯罪者リストから多くの犯罪容疑者を絞り込むことができる。
 再犯率が高いなら死刑を増やせば再犯率は低くなるのに、世界的に死刑廃止の動きがあるのはなんとも不思議だと考える人もいるだろう。その考えだと万引き以上の犯罪をすべて死刑にすればこの世から犯罪者は激減するということになる。その議論も一理はあるのだが、冤罪が生じた場合は取り返しがつかない。それに、捕まらなければいいという犯罪者特有の考え方が改まるわけでもない。
 本作品の老人たちは全員が再犯者だ。スコットランドヤードにデータがしっかり残されている。変装なしで街を歩けば足取りが割れる。デジタル社会に乗り遅れたアナログの犯罪者の集団が本作品の老人たちである。悲しい話だ。
 しかしそんなデジタル社会の現状を知ってか知らずか、強欲の老人たちは各自の哲学を披露することに余念がない。他人に自分を理解させようとするのは甘えている人間か、強引にリーダーシップを取ろうとする人間だ。老人たちは見事にそのふたつに当てはまる。そしてそのふたつの間で振り子のように揺れながら、互いの人間関係のバランスを微妙に維持していく。本作品はそのあたりが見どころなのだが、名優マイケル・ケインの演技力をもってしても、当方のように字幕で鑑賞する日本の観客には少し通じ難いところがあった。

映画「43年後のアイ・ラヴ・ユー」

2021年01月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「43年後のアイ・ラヴ・ユー」を観た。
 破れ去った恋の思い出はほろ苦くも美しい。そして誰にも語ることはない。ひとりのとき、ふとしたことで当時の楽しさや切なさを思い出す。若くて美しかった彼女は、記憶の中ではいまでも美しいままだ。逢いたい気持ちはある。しかし本当に会うのは野暮である。歳を経てそれなりに美しく熟している可能性もあるが、そうでない可能性が大きい。確かめてどうするのだ。
 本作品の主人公クロードは元演劇評論家だ。数多の恋を知っている立場にある。当然ながら、昔の恋人リリィに会うのがどれだけ野暮か知っている筈だ。それでも会おうとしたのは、新聞に出ていた彼女が昔の面影そのままだったからに違いない。もしかしたら思い出してくれるかもしれないという淡い期待もあっただろう。老人の彼が少年のようにときめき、非常識な計画を立てるところがとてもいい。
 アルツハイマーは当人にとっては不幸ではない。シモの世話をしたり徘徊しないように四六時中監視する周囲の人間は大変だが、当人はほぼ赤ん坊だから自覚も記憶もない。そして死の恐怖もない。死にたくないと思いながら死んでいくのは不幸だ。痴呆になるのは死の恐怖にベールを被せてくれることなのかもしれない。
 元演劇評論家のクロードが一計を案じ孫娘の協力を得て、かつて恋人が主演した劇を観劇する場面は本作品のハイライトである。リアルで素晴らしいシーンだった。
 リリィを演じたカロリーヌ・シオルという女優さんは本作品で初めて見た。化粧の効果もあるだろうが、それにしても古希を超えてこれほど目の大きな人は珍しい。これ以上ない適役だ。クロードを演じた84歳のブルース・ダーンも見事である。ブライアン・コックスとの場面がいたずらっ子同士のやり取りに見えて、こちらも楽しい。
 ラブ・コメディも高齢者になると、互いに相手の気持ちを慮る場面が多く、野暮な台詞や説教臭さは皆無である。クロードの洒落た生き方が羨ましい。粋な作品である。

映画「ヒッチャー」

2021年01月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ヒッチャー」を観た。
 大変に面白かった。今回観たのはHDニューマスター版のリバイバル上映で、最初の公開は1986年である。二十世紀にはこういう作品を作れたのに、二十一世紀のハリウッドは、金をかけるだけかけてつまらないB級映画を作るのに余念がない。観客が勧善懲悪の分かりやすいドラマを求めているからどうしてもそうなる。政治家のレベルは有権者のレベルに等しいと言われるが、映画も同じなのかもしれない。
 本作品はスピルバーグのデビュー作と言われている映画「激突」に雰囲気が似ている。「激突」が主人公の悪意のある行動をきっかけとしていたのに対し、本作は善意の行動をきっかけとしているのが対照的だ。「君子危うきに近寄らず」とはよく言ったもので、人の善意につけ込む族(やから)がいるのは古今東西、同じである。
 ヒッチハイクの場面で始まる映画なのでタイトルの「ヒッチャー」はヒッチハイクをする人だと思っていた。当方の英語力不足を露呈して汗顔の至りだが、本作品でのhitcherは「監視する人」という意味もあるようだ。多義的で秀逸なタイトルである。
 土砂降りの中でヒッチハイクをする大柄な中年男を拾ったところから既に不穏な雰囲気に満ちていて、案の定というか、デスパレートな展開になる。善人の若者だった主人公ハルジーがどんどん変わっていくのも見どころだ。それは成長ということではなく、陰惨な場面や暴力に慣れていくということである。人間は何にでも慣れるものだ。これがひとつのテーマだと思う。
 もうひとつのテーマは、ルトガー・ハウアー演じるヒッチハイカーの謎の行動である。タイトルのHitcherの通り、どこまでもハルジーを追いかけてくる。理由不明の暴力行動には底しれぬ恐ろしさがある。何故追いかけてくるのか、どうして無慈悲な行動を続けるのか、理解できない。
 人間は必ずしも道理に叶う行動ばかりする訳ではない。2018年には元自衛官による富山市の交番襲撃事件は真相が闇のままである。元自衛官と言えば練馬区の中村橋の交番が襲われた事件もあった。いずれも警官が死んでいる。ストーカー事件は数え切れないくらい起きているし、本人にしか動機がわからない事件や、本人にも動機を説明できない事件もたくさんある。
 本作品のヒッチハイカーの行動に似た行動を日常的なレベルに下げて考えてみることもできる。例えば学校でのいじめである。いじめる子は何故自分がいじめるのか説明がつかない部分もある。いじめられている側は不条理な攻撃を受けて戸惑い、継続するいじめに心が病んでいく。
 そんなふうに考えていくと、本作品のヒッチハイカーの理由不明の行動は、人間の不条理な行動を極端な形で表現したのだとも言えると思う。いじめられている子には、いじめる子がどこまでも自分を追い詰めようとするのがわかる。まさに本作品のとおりである。
 アメリカは銃社会だから、いじめっ子もいじめられっ子も場合によっては重装備していないとも限らない。やたらに発生している乱射時間もある。日本では金属バットによる家族殺人程度だが、金属バットと機関銃では圧倒的な攻撃力の差がある。本作品はアメリカの日常を虫眼鏡で拡大してみせただけなのかもしれない。