三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「かかってこいよ世界」

2023年08月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「かかってこいよ世界」を観た。
映画『かかってこいよ世界』公式サイト

映画『かかってこいよ世界』公式サイト

若手女性クリエーターたちが描く、半径5mの世界。2023年8月25日テアトル新宿ほか全国公開

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 チープな恋愛物語だが、そこかしこに社会の悪意が見え隠れする。特に差別主義が取り上げられていて、ヒロインの母親が差別主義者の典型だ。朝鮮人は日本人を憎んでいると、根拠のない発言で他民族を貶める。北朝鮮と韓国を合わせると人口は7700万人を超える。その全員が日本人を憎んでいるという明確な証拠はない。日本人はアメリカが好きだと言うのと同じだ。アメリカが好きな日本人もいれば嫌いな人もいる。決めつけるのは人格を軽んじている証拠であり、決めつけられた方は不愉快だ。

 残念ながら本作品では、そういった人間の心理が深く掘り下げられていないから、ヒロインの気持ちにちっとも共感できない。恋愛と差別を絡める物語は割と多くて、大抵は困難を乗り越えて恋愛が成就するパターンだ。本作品の困難は微妙すぎて、困難とは呼びがたい。とってつけた感じだ。
 母親との関係も結局はなあなあに終わる。差別主義者と対立するなら、その世界観を全否定するくらいで臨む必要がある。母親を人間のクズと罵るようなシーンや訣別するシーンが必要だったが、結局は融和してしまう。それも含めて全体的になあなあでリアリティに乏しい。たしかに現実の人間関係はなあなあかもしれないが、物語がなあなあだと魂のぶつかり合いを感じることができない。そのせいで作品が力強さに欠けている。

 役者陣はそれなりだったが、ひとり菅田俊だけが渋い演技で存在感を示していた。この人がいたから、かろうじて映画が成立している。そんな気がした。ただ、孫の件で商取引を反故にするのは強引すぎて白けてしまった。新人監督のデビュー作なら、作品の出来は別にして、心に突き刺さる何かが欲しかった。いろいろな意味でもったいない作品だ。

映画「あしたの少女」

2023年08月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「あしたの少女」を観た。
映画『あしたの少女』オフィシャルサイト

映画『あしたの少女』オフィシャルサイト

『私の少女』から8年―チョン・ジュリ監督最新作。実際の事件を映画化したキム・シウン、ペ・ドゥナ主演の社会派人間ドラマ。2023年8月25日より全国公開。

映画『あしたの少女』オフィシャルサイト

 驚いた。もし本作品の状況が韓国の現状だとすると、韓国社会に蔓延しているパラダイムは全体主義である。戦前の日本とほぼ同じだ。全体主義とは、簡単に言えば全体(共同体、組織)のためなら個人の人権を犠牲にしても構わないという考え方である。そのままでは身も蓋もないから、得てしてお国のためにだの、日の丸を背負ってだの、オブラートに包まれた表現をされる。
 
 本作品ではそういった言い方は生ぬるいという製作側の姿勢が明確で、登場人物は本音を正直に、声高に主張する。内容は全体主義と保身と責任逃れだ。国の名誉、組織の名誉を傷つけたという非難が未だに成立する社会だから、個人が追い詰められる。民主主義社会では、個人の人権が蹂躙された、個人の尊厳が傷つけられたということで非難されるはずだ。逆に言えば個人の人権と尊厳を守るのが民主主義なのだ。だから日本国憲法第13条に「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれてある。
 
 しかしよく考えてみると、日本では表現はオブラートに包まれているものの、全体のために尽くさなければならないというパラダイムは根強く存在するし、そのパラダイムを根拠にして他人を非難する事例は、国中に溢れかえっている。日本も本質的には韓国と同じように全体主義の精神性が支配的なのだ。自己を滅して全体のために努力しろという同調圧力は、家庭内まで入り込んでいる。悪い言い方をすれば、全体主義に蝕まれているのだ。
 
 全体主義の社会はヒエラルキーの社会である。上下関係が厳しい体育会系の社会である。上の者に従っていれば褒美がもらえる。逆らうと厳しい罰が待っている。上の者は下の者を評価してランキングし、生産性を挙げるために競争させる。理不尽が上から下に次々に押し付けられるのだ。
 下位の人間は強いストレスに晒される。ストレスを解消するためには、自分よりも弱い人間に当たるか、犯罪を犯すか、匿名で他人を非難するか、あるいは自殺するしかない。WHOの発表では韓国の自殺率は、リトアニアに次いで世界第2位である。女性に限ると第1位だ。韓国女性の立場の弱さは、映画「82年生まれ、キム・ジヨン」で印象的に描かれていた。SNSの匿名での非難が集中した有名人の自殺は、韓国でも日本でも報道されている。
 
 観ていて苦しい作品だが、ペ・ドゥナの好演もあって、スクリーンから目が離せない。タイトルの通り、こういうことが世界中で起きていることに思いを馳せる。
 日本の電通女子社員の自殺、木村花の自殺は、それぞれ過労死、SNSの炎上として別々のカテゴリーみたいに扱われているが、全体主義のパラダイムが蔓延した社会という共通項を考えれば、原因は同じである。社会が彼女たちを自殺に追いやったのだ。弱い立場の人間を自殺に追い込む社会である。そういう社会が世界で増加していることにぞっとする。

映画「キャメラを持った男たち 関東大震災を撮る」

2023年08月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キャメラを持った男たち 関東大震災を撮る」を観た。

 関東大震災が起きたのは、大正デモクラシーの、自由と女性解放の空気の真っ最中だった。映画は当時をときめく新興産業で、新しい会社が設立されたり、アメリカから技師が招聘されたり、新人監督がデビューしたりと、発展の要素が満載だった。これからというときに震災が襲ってきたのである。
 本作品で紹介された動画は、映画という動画の存在が広く知られていたから、録画のカメラを持って被災地を回っても、武器に見られたりせず、無事に撮影できたのだろう。時代と人材と条件が揃ってはじめて撮影できた貴重な動画である。
 本作品の動画は、ありのままの状態を撮影したもので、疑いようのない事実だ。そこからどのような真実を読み取るかは、見る側の問題だろう。映像には何の細工もないのだ。

 しかし映像技術が飛躍的に発達した現在、関東大震災のちょうど100年後のいまは、映像を様々に加工することが可能だ。映画はFSXを存分に利用して、効果的な動画を製作している。悪い言い方をすればフェイクだ。技術的に可能になったのだから、報道の映像にも、フェイクがないとは言い切れない。顔を入れ替えるみたいな嘘の映像でなくても、意図的に部分を切り取ったり、音声を消してみたりすることはあるだろう。某国営放送の映像は特に疑わしい。権力者に寄り添った映像は、頭から疑ってかかるのが賢明だ。

 終映後のトークイベントでは、立正大学教授の徳山善雄さんから貴重な話が聞けた。印象に残ったのは報知新聞が死体の山の写真を載せた記事を出そうとしていたのが、官憲の検閲でストップされてしまったことである。震災の翌日には政府は戒厳令を発布し、国民の行動や言論に規制がかけられた。「民は由らしむべし知らしむべからず」という権力者の驕りの現れである。国民をバカにしているのだ。

 映画人は基本的に反骨である。権力が真実を嫌うからだ。逆に言えば、映画人は真実を愛するから、その表現を妨げようとする権力に対立する立場になる。感情的に反感を持っているわけではない。自然な流れなのである。
 アベ政権が総務省の権力を使ってテレビや大新聞に圧力をかけて以降、テレビや大新聞は骨抜きになってしまったが、映画人だけは真実を描くことに専念した。結果として反権力になってしまうのは、多分権力のほうが間違っているからだと思う。本作品を観て、その思いをさらに強くした。

映画「春に散る」

2023年08月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「春に散る」を観た。
映画『春に散る』 公式サイト

映画『春に散る』 公式サイト

人は何度でも輝ける―二人の男の再起をかけた感動ドラマ『春に散る』2023年公開

映画『春に散る』 公式サイト

 瀬々敬久監督の作品は結構観ている。古い順に列記してみる。

「ストレイヤーズ・クロニクル」(2015年)
「64 ロクヨン」(前編・後編)(2016年)
「菊とギロチン」(2016年)
「8年越しの花嫁 奇跡の実話」(2017年)
「友罪」(2017年)
「楽園」(2019年)
「糸」(2020年)
「明日の食卓」(2021年)
「護られなかった者たちへ」(2021年)
「とんび」(2022年)
「ラーゲリより愛を込めて」(2022年)

 こうして並べてみると、表現者としての映画監督というよりも、映画の職人さんのイメージである。人の生き様、死に様と人間関係の機微といったところが、得意の範疇だろう。

 本作品はボクシング映画だから、ボクサーの心理については相当調べたと思う。試合中に相手の家族を気にするのは、集中力の欠如だし、何より相手に失礼だ。そんな態度で試合に臨むならボクシングなんかやめちまえと言いたくなるのも頷ける。

 L字ガードは、先般の井上尚弥vsスティーブン・フルトンのタイトルマッチで井上が採用したガードの形だったので、試合を見た人は思い出したのではないだろうか。それ以外にも、窪田正孝のトレーナーが山中慎介だったり、プロライセンスを持つ片岡鶴太郎が仲間だったり、横浜流星が実際にライセンスを取得したりする。このあたりはボクシング好きの好奇心も満たすと思う。
 なんだかんだとボクシングを研究して製作しているところが、流石に瀬々監督だ。ボクシングの基礎が下半身であることも知っているようで、パンチを当てるにはフットワークが必須だというシーンがある。横浜流星をやたらに走らせるのも同じ意味だ。井上尚弥の強さのひとつが、並外れたフットワークにあるのはよく知られていて、彼のステップインとバックステップは驚くほど速い。横浜流星のフットワークもなかなかのものだった。

 山口智子をスクリーンで久しぶりに見たが、この人だけ、違和感があった。ブランクのせいかもしれないが、演技が瀬々演出と食い違っているのだ。どうしてこの人を使ったのか、ちょっと意味がわからない。あるいは違和感を出したかったのか。それにしては不自然だった。

 片岡鶴太郎はとてもいい。やさぐれているけれども優しさを失っていない。その優しさは主演の佐藤浩市と横浜流星にも共通していて、作品の肝になっている。瀬々監督の作品には、優しさを失わない、優しさを取り戻すといったプロットが多いと感じる。本作品も例に漏れず優しさが溢れているし、ストーリーもいい。まったく飽きずに面白く鑑賞できた。

映画「ファルコン・レイク」

2023年08月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ファルコン・レイク」を観た。
映画『ファルコン・レイク』公式サイト|2023年8月25日公開

映画『ファルコン・レイク』公式サイト|2023年8月25日公開

映画『ファルコン・レイク』公式サイト|2023年8月25日公開

 しばらくは少女マンガみたいな印象だった。平凡で坦々としたストーリーだが、そこはかとなく青春の機微がある。そんな感じで鑑賞していたのだが、ラスト近くで若者たちが対岸に向けて泳ぎだすあたりから急に雲行きが怪しくなる。
 タイトルの「ファルコン・レイク」を何故か「ファントム・レイク」と間違って憶えてしまっていたのだが、はからずも間違いのタイトルの方が物語の真実に近かったのは、我ながら驚きだった。

 水死した若者の言い伝えがある湖。クロエの口からでまかせなのだが、幽霊のコスチュームを着て写真に映るバスティアンが妙に似合う。そのあたりが伏線だ。言い伝えはクロエの予言だったのだ。バスティアンが素直で性格のいい少年だったので、逆に言いしれぬ恐ろしさを感じる。
 ラストシーンをどのように捉えるかで本作品の評価も変わりそうだが、当方の解釈が間違っていなければ、ホラー映画のジャンルに入れていいと思う。それなりに面白かった。

映画「シン・ちむどんどん」

2023年08月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シン・ちむどんどん」を観た。
http://shin-chimudondon.com/

 今年(2023年)の2月に公開された映画「センキョナンデス」の沖縄知事選版である。本作品を観る前に、7月に公開された沖縄が舞台の映画「遠いところ」を観て、デニー知事が頑張っても、政治は困っている人を救うまでには至っていないのだなと思い知った。
 万が一、基地問題が解決しても、貧困は残るし、成人式で暴れる若者たちの刹那的な精神性も残るだろう。そして基地問題は、万が一にも解決しない。それは本土の有権者がそれを望んでいるからだ。

 一度だけ民主党が政権を取り、鳩山首相が沖縄の基地について「最低でも県外」を主張したことがあった。しかし官僚たちが、偽の資料を大量に用意して鳩山に断念させたと、鳩山自身が後に語っている。官僚たちは政権交代をさせた国民の意向を踏みにじった訳だ。それは官僚たちの前例踏襲主義と、自分たちの間違いを認めない狭量と、自分たちの立場と権益を守る保身によるものだ。アメリカのように政権が交代したらホワイトハウスをはじめとする官僚たちを全部交代させるくらいでないと、政策のドラスティックな転換は望めない。

 官僚に抵抗されて外務大臣の田中真紀子が吠えたことがある。「外務省は伏魔殿だ」と彼女は言った。官僚たちを伏魔殿に跋扈する魑魅魍魎たちと同じだと喝破したのだが、小泉純一郎がすかさず彼女を更迭して、女性のヒステリックなわめきという印象に変えてしまった。そして田中真紀子は力を失った。

 官僚たちはなかなか変わらないが、その多くは東大卒といった頭脳明晰な連中である。不安と恐怖に囚われて政策を変えることができないでいるが、選挙で何度も政権交代が起きれば、次第に慣れてくる。米軍基地NOという政権が何度も誕生すれば、さすがの蒙昧な官僚たちも、事務処理を変更せざるを得ない。民主主義は手続きだから、事務処理が変更されてはじめて、政権交代が実現する。
 有権者はそれが分かっていないから、部分的な印象だけで民主党政権はだめだったと思っている。しかし経済データ等を並べれば、安倍、菅、岸田政権よりも遥かにマシだったことが分かる。自分で考えない有権者は、沖縄を地獄に突き落とし続ける。日本の民主主義は沖縄では実現せず、日本国憲法は無視され続けるだろう。しかし本土の有権者に責任の自覚はない。
 デニーさん、勝って兜の緒を締めよ。踊っている場合じゃありませんよ。

映画「ふたりのマエストロ」

2023年08月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ふたりのマエストロ」を観た。
映画『ふたりのマエストロ』公式サイト

映画『ふたりのマエストロ』公式サイト

「コーダ あいのうた」の製作陣、最新作 映画『ふたりのマエストロ』 2023年8月18日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下、シネ・リーブル池...

映画『ふたりのマエストロ』公式サイト

 ウィーン・フィルハーモニー・オーケストラの公演をサントリーホールで聴いたことがある。そのときのアンコール曲がモーツァルトの「フィガロの結婚 序曲」で、美しく澄んだ豊かな音楽に感心した記憶がある。本作品でも聴けて嬉しかった。

 推し量り難かったのが、スカラ座の音楽総監督の立場がどれほどの名誉職なのかということだ。ウィーン・フィルやベルリン・フィルの首席指揮者と比べてどうなのだろう。そもそも指揮者の仕事はオーケストラを纏め上げて聴衆にいい音楽を届けることにある。収入には差があるだろうが、どのオーケストラの指揮者であっても関係がない気もする。

 人間関係はさすがにフランス人で、相手の土俵にズカズカと踏み込むが、人格までは否定しない、自分も含めて俯瞰で物事を見る、といった精神性がある。人を不快にすることはあっても、絶望させることは避ける。登場人物は言いたいことをいうが、他人の人生を尊重するところが、SNSの言いたい放題とは一線を画している。
 それにしても主人公のドゥニは温厚で寛大だ。別れた妻ジャンヌは、人間としては優しさに欠けるが、マネジメント能力は優秀だ。人格否定をせず、いいところと付き合う。新しい愛人ヴィルジニは、音楽的な才能はいまひとつでも、ハンディキャップにめげずに強く生きているところが尊敬できる。愛情の深い彼女との時間はとても大切だ。どうにかグレずにいる息子は、頭がよくて優しさもある。
 問題は父親のフランソワだ。弱い人で、権威にすがりたがる。怒鳴り散らすことを権威と勘違いしているフシもある。しかし音楽に対しては一途で、他人に対する悪意はない。根は善人なのだ。なんとか彼を傷つけないでおきたいドゥニの気持ちはよくわかる。
 と、そこまで考えて、スカラ座の音楽総監督に指名されたフランソワの嬉しさが漸く理解できた。スカラ座という施設には、18世紀から続く歴史的な価値がある。つまりそこの音楽総監督になることは、歴史が認めた権威ある職に就くことなのだ。権威主義者のフランソワが殊の外喜んだのはそういう理由である。なんともつまらんじいさんだ。

 ドゥニがどうしてそんなつまらんじいさんに遠慮するのか、最後の方になって、ようやくその秘密がわかる。Miou-Miouが演じたドゥニの母親は、若い頃は結構な発展家だったという訳だ。狷介な父親と違い、ドゥニには優しさと大らかさがある。フランソワの権威主義を理解し、失った自信を取り戻してもらいたいと考える。そして「フィガロの結婚 序曲」である。拍手。

映画「グライムズ・オブ・ザ・フューチャー」

2023年08月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「グライムズ・オブ・ザ・フューチャー」を観た。
映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』オフィシャルサイト

映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』オフィシャルサイト

8.18 Fri 新宿バルト9ほか全国公開|デヴィッド・クローネンバーグ監督 ヴィゴ・モーテンセン×レア・セドゥ×クリステン・スチュワード 未体験のアートパフォーマンスへよ...

映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』オフィシャルサイト

 実験的な作品である。
 人類から痛みという感覚がなくなった設定だ。生物の進化は誕生からだから、かつて痛みを感じていた人間が急に痛みを感じなくなるわけではない。ある世代から、痛覚のない人間が生まれるということだ。つまり痛みの感覚だけでなく、その記憶もない訳だ。そうなると、不安や恐怖の感じ方も劇的に変わるだろう。同様に快感や幸福の感じ方も劇的に変わる。痛みを感じたことがないまま生きている人間にとって、痛みの感覚はある種の憧れとなるかもしれない。

 痛みがないということは、外的な刺激に対してだけではなく、頭痛や腹痛も腰痛もないということだ。痛みに悩んでいる人にとっては羨ましいかもしれないが、逆に言えば、体の不調があっても自覚できないということでもある。医師の仕事は激減し、当然ながら平均寿命は短くなるだろう。生き方は刹那的になり、生産性は落ちる。社会全体が退廃的になるのだ。

 人間の精神と身体と食と性。何がどのように変わるのか。食はもはや栄養補給に過ぎず、性は身体の触れ合いというよりも、痛みの感覚の模索となる。進化の過程でミュータントも誕生し、食と性が大きく変化する。その果てには何が待っているのか。

 人類はこのようにして絶滅していく。そんなふうに予言されているように感じた。レア・セドゥがどうしてこの作品に参加したのか、分かる気がする。

映画「高野豆腐店の春」

2023年08月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「高野豆腐店の春」を観た。
映画『高野豆腐店の春』オフィシャルサイト

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豆腐は、人生の処方箋。 主演 藤 竜也 × 監督・脚本 三原光尋

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 尾道は坂の町だ。一度訪れたときには、幅の狭い坂道を郵便屋さんや宅配業者が徒歩で運んでいた。坂には人々の息遣いがある。そんなふうに感じたことを思い出した。

「男のくせに」「男でしょ」「ちんちくりん」
 現在の日本社会では差別用語と指摘されかねないこれらの台詞をあえて使ったのは、戦後昭和の精神性で生きる高野辰雄の人となりをそのまま描きたかったからだろう。多分20世紀なら気にもならなかったことを気にしてしまう時代になったということだ。もちろん差別はよくないが、息苦しさを感じるのもたしかである。
「これからはもっと生きづらい世の中になるだろう」と辰雄が言うのは、時代の閉塞感を老人なりに感じているからに違いない。その気分は娘の春にも伝わっていて、春は時代に逆らうように大きな声を出す。反骨の父娘なのだ。

 時代は変遷するが、豆腐の美味しさは変わらない。辰雄が守り続けている味だ。販路を広げたり販売数を増やそうとすると、どうしても自分の手が届かない場所での生産となる。すると必ず味が落ちる。味は絶対に落としたくない。地元に密着して、味が分かる人だけが買ってくれればいい。辰雄の職人気質は誰もが頷ける。

 豆腐屋の朝は早い。前日からふやかしていた特注の大豆は、いい按配に水を含んでいる。今日も真剣勝負だ。美味しい豆腐屋は生活を豊かにしてくれる。近所の人は幸せだろう。
 穏やかに見える豆腐屋の四季だが、地元の人々との関わり合いで生活が成り立っている以上、出逢いと別れがある。豆腐屋にも春が来る。来る者は拒まず、去る者は追わず。辰雄は淡々と触れ合うように見えるが、相手の心を思い遣ることは忘れない。辛かった原爆の記憶。そして後遺症。辰雄と春の親子関係は単純ではない。種明かしに驚かされる場面もある。幸せに生きるんですと豪快に笑う辰雄は、年齢を経てようやく原爆の災禍を乗り越えたようだ。

 藤竜也は流石の迫力で、もう地元の豆腐屋のおじさんにしか見えない。その優しさを受け継いだ娘は豆腐愛に満ちている。麻生久美子は春を演じられて幸せだっただろう。観ているこちらも幸せな作品だった。

映画「キエフ裁判」

2023年08月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キエフ裁判」を観た。
キエフ裁判 : 作品情報 - 映画.com

キエフ裁判 : 作品情報 - 映画.com

キエフ裁判の作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。「ドンバス」「バビ・ヤール」などで世界的に注目を集めるウクライナのセルゲイ・ロズニツァ監督が、第2...

映画.com

 同じセルゲイ・ロズニツァ監督の「破壊の自然史」の15分後に続けて鑑賞した。それで分かったことがある。本作品が「破壊の自然史」と同時に製作されたことに意味があるということだ。

 本作品は軍事裁判だ。勝った者が負けた者を裁く。当然ながら勝った側の価値観が法廷を支配することになるのだが、それでも裁判であるからには、テミスの天秤に象徴されるように、あくまでも公平な立場でなければならない。しかしソ連の裁判官はみな軍服を着ていて、強いバイアスの存在を感じた。
 同じ軍事裁判でも東京裁判は、映画「東京裁判」で観た限りでは、できる限り公平を期そうとしているように見えた。裁判官も検察官もアメリカ人だが、軍人ではなく法律家だった。本作品も法律の専門家が並べられてはいるが、軍服を着ている。ということは軍の法律家である。軍の法律家が自軍を裁くことはない。つまり戦時中のソ連軍の行為についてはすべて不問として、ドイツ軍の残虐行為の比較の対象とはしないという暗黙の了解がある。そのように感じられた。背後には、独裁者スターリンの影がちらつく。

 戦争とは、国家主義者たちが国家の威信というありもしない幻想のために人々に血を流させることだ。反戦を主張すると、反体制、反国家の人間として、警察や軍といった暴力装置の犠牲になる。
 本作品に感じたバイアスは、勝者が敗者を裁くことの違和感と、勝者側に立って拍手をする傍聴人たちの精神性に対する嫌悪感に繋がっていく。軍事裁判で勝者が敗者を裁いても、戦争を根絶することが出来ないという絶望感が、本作品に抱く違和感の本質である。
 そこで、はたと気付くのが、15分前に観終えた「破壊の自然史」の世界観である。何も語らないが、戦争の被害を被るのは、勝者の側も敗者の側でも、物理的に弱い人々である。武器も金も力もない庶民だ。
 そして為政者を支えているのもまた庶民である。庶民の精神性には、全体主義が深く根を下ろしているのだ。だからどこの国でも国家主義者たちが選挙に勝つ。そして戦争をはじめる。戦争の罪は、被害者を含む人類全体にある。人は弱くて、油断するとすぐに戦争をはじめてしまう。だから反戦主義者は反戦運動を怠らない。

 戦争裁判は戦争の責任者や当事者を裁くが、本来は戦争に協力した全員、戦争に反対しなかった全員が裁かれるべきなのだ。我々はそれを自覚しなければならない。日本国憲法の前文を読むと、そのことがよくわかる。戦争に対する国民の罪が自覚され、深い反省があることが行間に看て取れるのだ。