映画の後半に出てくる小学生の給食の様子を見たら、ほとんどの子供が箸の持ち方を間違えていた。箸は道具なので、使いようによって働きが異なる。正しい持ち方をしたときに最も使いやすく便利になるのだ。間違った箸の使い方は無駄な力を使う上に、効率のいい食事ができない。見た目も美しくないし、見ている方はストレスがたまる。大人でも、正しく箸を使えない人がたくさんいる。
正しく箸を使えるのが偉いと言っているのではない。外国人は大抵、箸の使い方が下手だ。ピアノほどではないが、箸は慣れないと使うのが難しい。しかし箸の食文化を持つ共同体に生まれて小さい頃から箸に親しんでいるにもかかわらず箸が使えないのは、勿体ないことだと思う。箸は正しい使い方をするのが合理的で、見た目も美しい。歩くときに右足と左足を交互に出すのと同じだ。美学ではなく実用性の問題である。
箸が正しく使えるかの問題はさておき、食材の見極めは素人には困難なものだ。複数の秋刀魚を見て、どの秋刀魚が一番おいしい秋刀魚なのかを当てるのはプロでなければ難しい。
そういうプロフェッショナルがいるのが築地市場だと、この映画は主張する。実際にその通りなのだろう。魚介類のひとつずつを見て瞬時に分別している映像を見るとなおさらそう思う。
昔の人が箸を正しく使えたかどうかは分からないが、食材の見極めについては、昔も今も庶民のレベルは同じだという気がする。昔から素人には食材の目利きはできなかったのではないか。目利きだけではない。実際に食べても判別できないことが多々ある。高級食材と安価な食材の料理を、目隠しをして食べ比べて、瞬時にどちらが高級食材かを百発百中で当てられる人は少ないだろう。
場合によっては、どれがおいしいかだけではなく、どの食材が安全かということも、区別できないことさえある。動物には衛生の知識などないが、見た目と匂いで判断しているように見える。以前猫を飼っていたとき、食べたことのない餌を与えると猫はまず前足で触り、よく見て、匂いを嗅ぐ。見た目でも匂いでも判断できないときは口に入れて、食べられるものは食べ、そうでないものは吐きだしていた。人間もかつては同じように自分の五感だけに頼って判断していたと思う。しかし知識があると、自分の感覚よりも知識や他人の評価を優先するようになる。安全な食材とそうでないものを判断するのに、自分の感覚ではなく品物の表示に頼ったりする。
消費者がこのレベルになると、生産者の中には食の安全よりも効率を優先してしまう人も出てきそうだが、築地のシステムがそれを許さない。日本の食を支える築地のプロフェッショナル達が、一切の妥協なしに高品質の食材を求めることで、生産者も品質優先にならざるを得ない。目利きのプロたちの厳しいチェックを受けることで生産者のみならず、外食の人間にとっても品質のさらなる向上が必須となる。このプロセスがある限り、たとえ消費者の安全衛生の感覚が劣化しても、食の安全は保たれるのだ。
問屋の人も仲買の人も外食の人も、口について出るのは「お客さんが喜んでくれれば」という言葉だ。日本国憲法の柱が国民主権であるように、築地のルールは消費者第一主義だ。いわば築地の民主主義である。映画の中に何度も出てくる「お金ではなくて気持ち」という言葉が示すのは、ルールは罰則ではなくて気持ちだということだ。築地の人々の爽快なまでの民主主義の神髄がそこにある。日本の食文化は政治家や役人が法律や条例で定めるものではなく、人々の「気持ち」に支えられている。
にもかかわらず豊洲問題は、食文化を支える人々を抜きにして、予算の問題と調査の内容や結果の問題と建築談合の話と政治家と役人の思惑などの相互的な連関で片づけられようとしている。我々が豊洲市場への移転を不安に思うのは、いつ誰が豊洲に決めたのかではなく、築地の人々の「気持ち」がこれからどうなってしまうのかがわからないからだ。それは日本の食文化と食の安全がこれからどうなってしまうのかわからないということに等しい。
報道を見ていて感じた違和感の原因はそのあたりにある。映画はとてもためになったが、我々の不安は依然として続くのだ。