三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

レース結果~天皇賞秋

2016年10月30日 | 競馬

天皇賞秋の結果
1着モーリス     無印
2着リアルスティール 無印
3着ステファノス   △

私の印
◎ルージュバック  7着
〇ラブリーデイ   9着
▲アンビシャス   4着
△ステファノス   2着
△サトノクラウン  14着 

馬券は頭で勝ったルージュバックが7着でハズレ
昨年の年度代表馬モーリスが実力を発揮した。札幌記念を負けたことで馬券から外してしまった。ネオリアリズムに2馬身も負けた馬が天皇賞を勝つとは思わなかった。かといってネオリアリズムがそれほど強い訳ではない。

レースは1000m通過が60秒8のスローペース。エイシンヒカリ本来の逃げではなかった。これも距離経験不足のモーリスに幸いしただろう。2着リアルスティールはドバイターフを勝ったのがフロックではなかったということだ。3着ステファノスは予想通り、毎日王冠を上回るパフォーマンスをした。
ルージュバックは珍しく力んでいて、スタート前から駄目な雰囲気だった。いつも通り後方から行ったものの、前が流れないので位置を取れないまま直線に入り、外へ出そうとしたところを外からリアルスティールに被せられて万事休す。デムーロにしては珍しいラフプレーだった。ラブリーデイはスローペースを2番手につける理想の展開だったが、それで伸びきれないのだから、もうピークを過ぎたと考えていいだろう。アンビシャスは内から伸びて4着。サトノクラウンは直線入り口まで勝ったモーリスと並んでいたのだから、これはもう力負けだろう。

勝ち時計が1分59秒3なので、かなり力のいる馬場だったと考えられる。そんな馬場でも33秒台の末脚を繰り出せるかどうかの自力勝負となったレースだった。勝ったモーリスは兎に角強かったとしか言いようがない。

来週はアルゼンチン共和国杯G2なので馬券は休み。再来週のエリザベス女王杯に賭ける。 


天皇賞秋~ルージュバック

2016年10月30日 | 競馬

◎ルージュバック
〇ラブリーデイ
▲アンビシャス
△ステファノス
△サトノクラウン

本命は毎日王冠を勝ったルージュバック。馬体重こそ3歳時と変わらないが、レースぶりは格段に落ち着いてきた。スローペースでの瞬発力争いが得意だが、ハイペースの消耗戦になるこのレースでも確実な末脚を発揮できるだろう。鞍上が牝馬が得意な戸崎騎手というのも心強い。
強敵はラブリーデイ。昨年の天皇賞秋以来勝ち星はないが、6レースすべてで掲示板を確保している堅実駆けだ。エイシンヒカリモーリスよりは上位に来るだろうが、去年と同じ臨戦過程だが6歳になったことと大外枠が少しだけ災いしそうだ。
毎日王冠2着のアンビシャスが単穴評価。大阪杯でキタサンブラックに勝ったのは評価できるが、宝塚記念の16着が疑問。それでも去年の5着よりは前進しそうだ。
毎日王冠の直線で明らかな不利があったステファノスは速く流れそうな本番では昨年並みのパフォーマンスができるだろう。
宝塚記念は6着だったサトノクラウンだが、ダービーの走りができれば直線で浮上してくる可能性がある。
人気のエイシンヒカリは臨戦過程に疑問がある。レース間隔が開き過ぎなのだ。もともと1着か着外かという馬で、先行馬もそろったここでは頭は難しいだろうと考え、無印とした。
モーリスは札幌記念でネオリアリズムに2馬身も負けていることが痛い。前目につけて直線で抜け出すという模範的なレースをするこの馬にとって、エイシンヒカリが引っ張るハイペースは安田記念の距離なら大丈夫だろうが、2000mとなると直線で止まってしまいそうなイメージがある。

馬券は◎ルージュバックを頭の3連単(9-3、4、14、15)12点勝負。 


映画「Genius」(邦題「ベストセラー編集者パーキンズに捧ぐ」)

2016年10月26日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Genius」(邦題「ベストセラー編集者パーキンズに捧ぐ」)を観た。
http://best-seller.jp/

かつて中上健次が「泉から水が溢れ出るようにものを書きたい」という文章を書いていた。記憶が定かではないので正確な言葉ではないが、文章を書く人間ならだれでも願うことだ。
「Genius」という映画の原題の通り、無名の作家トマス・ウルフは溢れ出るように言葉を紡ぎ出す。まさに天才である。しかし編集者にとって多すぎる言葉は邪魔でしかない。ひとつの場面を描くのに多すぎる文章は読者がついてこれないのだ。
フランスの作家マルセル・プルーストが「失われた時を求めて」という超大作を書いていて、若い時にその全7巻をやっとの思いで読了したことがある。「プチットマドレーヌ」というお菓子を紅茶に浸して食べるのに延々とページを費やすなど、長い長い小説だったと記憶している。ひとつの場面がフラッシュバックを想起させ、さらに次のフラッシュバックを呼ぶなど、なかなか物語が前に進まない。フランス文学を専攻していなければ放り出してしまっただろう。
この映画は1920年代が舞台で、「失われた時を求めて」が発行されたのと同時代だ。フランスは哲学と芸術の国だけあって、フランス人の編集者は小説家の意向を尊重したのだろう。長い小説は長いまま発行された。

しかしアメリカ人の編集者マックス・パーキンズは哲学や芸術よりも商売が優先だ。ベストセラーを目指すためには文章を削りに削って読者をジェットコースターに乗せなければならないことをよく知っていた。
原稿の添削は作家との真剣勝負だ。作家がひとつとして言葉を削りたくない、むしろさらに書き足したいのに対し、編集者は表現を凝縮して読者を引っ張っていく作品にしたい。そのせめぎ合いの末にベストセラーが生み出される。

天才はひたすら生み出していくだけだ。周囲は天才を制御しようとするが、うまくいかない。巻き込まれて傷つき、生活さえ犠牲にしてしまう。それでも天才を愛さずにいられない。ニコル・キッドマンが女心を見事に演じていた。
編集者マックスは天才がその才能ゆえに周囲のことなど考えられないことを知りつつ諫言を重ねるが、無駄な努力であることは分かっている。天才は世界の中心にいるからだ。

コリン・ファースは重みのある中年を実に重厚に演じていた。来週公開の「ブリジッド・ジョーンズ」でコミカルな元夫を演じるが、何をやらせても上手い。ジュード・ロウはわがままで猪突猛進する天才の役がとても楽しそうだ。
フィッツジェラルドやヘミングウェイが脇役で出てきて、文学好きにはたまらない素晴らしい作品だ。


高樹沙耶逮捕の疑問

2016年10月26日 | 政治・社会・会社

読売テレビが放送している平日の昼のワイドショーに「情報ライブミヤネ屋」という番組がある。宮根誠司という元アナウンサーの冠番組だ。
10月26日に高樹沙耶の大麻所持の疑いでの逮捕について、高樹の主張を「間違った知識に基づいた主張」と一刀両断していたが、本当に間違った知識だったのかという論拠はない。また、コメンテーターに対して、「大麻は脳に悪影響を与えるんですよね」と決めつけるような質問をして、大麻が悪だという答えを強制している。
高樹沙耶の逮捕は厚生労働省の麻薬取締部によるものであるが、逮捕の正当性についての検証がない。本来は第三の権力としての報道機関が行政権力の暴走を防止するために、逮捕に足るだけの根拠を調査するべきなのだが、現代の報道機関は権力の犬と化しており、行政の発表を垂れ流すだけの報道をする。しかも「推定無罪」の原則はどこ吹く風、完全に有罪の論調で断罪する。このような報道は報道機関としての体を成しておらず、個人としての国民の利益よりも組織を重んじる国家主義者のハンドスピーカーに等しい。行政から「このように報道しなさい」という指示書が来ている可能性さえある。

高樹沙耶は参院選で大麻の合法化について主張した。これは厚生労働省にとって、特に麻薬取締部にとって非常に不都合な主張である。麻薬取締部のレーゾンデートルが脅かされるからだ。選挙期間中は手出しができなかったが、選挙後には何としても高樹沙耶の口を塞いでしまいたいという悲願があっただろう。そして今回の逮捕である。

麻薬取締部はこれまでの取り締まりで押収した大麻や器具がたくさん保管しているはずだ。それらを麻薬取締官自らが高樹沙耶の家に持ち込んで「ありました!」と「発見」したと考えても全く不思議ではない。証拠の捏造である。そもそも家宅捜索の令状を出した裁判官は、先日の辺野古移設訴訟で国の主張を全面的に認めた裁判所と同じ穴の狢ではないか。

高樹沙耶や大麻の所持や使用を正当化するつもりはないが、悪いことをしたから逮捕されたという安易な認識は庶民レベルなら許されるが、報道機関としては公平な視点とは言えない。少なくとも彼女は日本国民のひとりであり、逮捕されるということは基本的人権が著しく損なわれる大問題だということを認識しなければならないのだ。行政という強力な権力がひ弱な一個人を逮捕するには確固たる証拠がなければならない。本当にそのような証拠があったのか。

わが国では行政に都合の悪い事実や組織、そして個人は、警察組織をはじめとする暴力装置によって合法、非合法を問わず排除される。現代社会の精神構造は、かつて拷問や赤狩りを行なった悪名高き特高警察の時代と、全く変わっていない。今も昔も、権力者に反対することは共同体に対する謀反だとする牽強付会が大手を振ってまかり通る。

こんな日本に未来などない。


レース結果~菊花賞

2016年10月23日 | 競馬

菊花賞の結果
1着サトノダイヤモンド ◎
2着レインボーライン  △
3着エアスピネル    無印 

私の印
◎ミッキーロケット   5着
〇サトノダイヤモンド  1着
▲ディーマジェスティ  4着
△レインボーライン   2着
△レッドエルディスト  9着   

頭で買ったミッキーロケットが直線伸びきれず、馬券はハズレ

勝ったサトノダイヤモンドはとにかく4コーナー手前から進出する脚が鋭かった。あのあたりでほぼ勝負あったと言っていい。気分よく走らせたルメールの騎乗も完璧。3分3秒3という好時計で2着に2馬身半をつける完勝。ジャパンカップでも最有力の1頭になるだろう。
ディーマジェスティは直線で伸びてはきたが、4着どまり。不利のない競馬だったので、サトノダイヤモンドには完敗の形だ。
期待したミッキーロケットはスタート直後からやや折り合いを欠いていた。4角手前でサトノダイヤモンドに離されたときは二桁着順かと思ったが、直線で伸びて5着。確実な末脚があるだけに、道中の折り合いが悔やまれる。
レインボーラインはダービー2着のサトノダイヤモンドには負けたが、3着馬と4着馬に先着。ステイゴールド産駒の小柄な馬だが、ダービー8着以降、随分力をつけている。今後に期待できそうだ。
レッドエルディストは1秒差の9着。神戸新聞杯よりもさらに差をつけられた。今のところこれが実力だろう。

さて来週は天皇賞秋だ。キタサンブラックゴールドアクターが直接ジャパンカップに向かうので、2枚落ちのメンバー。ならば毎日王冠の上位馬が最有力となる。ルージュバックアンビシャスを中心に、モーリスラブリーデイが上位候補。エイシンヒカリがどれだけ逃げるのかが注目される。 


クミコinエポックなかはら

2016年10月22日 | 映画・舞台・コンサート

南武線の武蔵中原駅直結の川崎市総合福祉センター、通称「エポックなかはら」にクミコさんのコンサートに行ってきた。
「サントワマミー」「コメディアン」のシャンソンに始まり、「鳥の歌」「祈り」といったメッセージの強い歌、何故か島倉千代子の「からたち日記」の古い歌、そして松本隆作詞秦基博作曲の「さみしいときは恋歌を歌って」、坂本九の「明日があるさ」でいったん終了、アンコールは「ラストダンスは私に」とつんく作曲の「うまれてきてくれてありがとう」だった。
私のお気に入りの「わが麗しき恋物語」も歌ってくれた。泣ける歌として有名なこの歌だが、クミコが歌うから泣けるのだと思う。それほどこの人の声と歌い方は独特で、とても迫力がある。
歌と歌のあいだのトークは落語家のようで、抑揚があり、リズムがある。軽妙でシニカルでウィットに富んでいる。世を愛し、世を憂い、そして世を笑い飛ばす。クミコはヒューマニストなのだ。


菊花賞~ミッキーロケット

2016年10月22日 | 競馬

◎ミッキーロケット
〇サトノダイヤモンド
▲ディーマジェスティ
△レインボーライン
△レッドエルディスト

トライアル2戦の結果を見て、順当に考えれば神戸新聞杯を勝ったサトノダイヤモンドが最有力となるだろう。しかし気になるのがそのレースで上がり3ハロンのタイムが1位でなかったことだ。 菊花賞はどの馬にとっても初めての長距離戦だから、ハイペースになることはない。4コーナーでのポジションと上がりタイムの速さがポイントとなる。
本命は最速の上がりタイムでサトノダイヤモンドにクビ差まで迫ったミッキーロケット。4角過ぎでの不利がなければサトノダイヤモンドを差し切っていたと思われ、今回は頭から狙う。
相手はもちろんサトノダイヤモンドだが、ディープ産駒の長距離ということで、信頼性はそれほど高くない。同じくディープ産駒のディーマジェスティも同様だ。割って入るとすればステイゴールド産駒のレインボーラインか、青葉賞2着のレッドエルディスト。根拠はないが青葉賞と菊花賞は通じるところがあるような気がする。6番人気で青葉賞を勝ったウインバリアシオンはその後ダービーと菊花賞で2着だった。レッドエルディストは青葉賞を5番人気で2着。その時の上がり33秒9は最速だった。

馬券は◎ミッキーロケットを頭(8-3、6、7、11) の3連単12点と、馬単4点


映画「TSUKIJI WONDERLAND」

2016年10月22日 | 映画・舞台・コンサート

映画「TSUKIJI WONDERLAND」を観た。
http://tsukiji-wonderland.jp/

築地市場の豊洲移転についての連日の報道を見ていて、何か違和感がある。同じように違和感を持つ人もいるのではないだろうか。

映画の後半に出てくる小学生の給食の様子を見たら、ほとんどの子供が箸の持ち方を間違えていた。箸は道具なので、使いようによって働きが異なる。正しい持ち方をしたときに最も使いやすく便利になるのだ。間違った箸の使い方は無駄な力を使う上に、効率のいい食事ができない。見た目も美しくないし、見ている方はストレスがたまる。大人でも、正しく箸を使えない人がたくさんいる。
正しく箸を使えるのが偉いと言っているのではない。外国人は大抵、箸の使い方が下手だ。ピアノほどではないが、箸は慣れないと使うのが難しい。しかし箸の食文化を持つ共同体に生まれて小さい頃から箸に親しんでいるにもかかわらず箸が使えないのは、勿体ないことだと思う。箸は正しい使い方をするのが合理的で、見た目も美しい。歩くときに右足と左足を交互に出すのと同じだ。美学ではなく実用性の問題である。

箸が正しく使えるかの問題はさておき、食材の見極めは素人には困難なものだ。複数の秋刀魚を見て、どの秋刀魚が一番おいしい秋刀魚なのかを当てるのはプロでなければ難しい。
そういうプロフェッショナルがいるのが築地市場だと、この映画は主張する。実際にその通りなのだろう。魚介類のひとつずつを見て瞬時に分別している映像を見るとなおさらそう思う。

昔の人が箸を正しく使えたかどうかは分からないが、食材の見極めについては、昔も今も庶民のレベルは同じだという気がする。昔から素人には食材の目利きはできなかったのではないか。目利きだけではない。実際に食べても判別できないことが多々ある。高級食材と安価な食材の料理を、目隠しをして食べ比べて、瞬時にどちらが高級食材かを百発百中で当てられる人は少ないだろう。
場合によっては、どれがおいしいかだけではなく、どの食材が安全かということも、区別できないことさえある。動物には衛生の知識などないが、見た目と匂いで判断しているように見える。以前猫を飼っていたとき、食べたことのない餌を与えると猫はまず前足で触り、よく見て、匂いを嗅ぐ。見た目でも匂いでも判断できないときは口に入れて、食べられるものは食べ、そうでないものは吐きだしていた。人間もかつては同じように自分の五感だけに頼って判断していたと思う。しかし知識があると、自分の感覚よりも知識や他人の評価を優先するようになる。安全な食材とそうでないものを判断するのに、自分の感覚ではなく品物の表示に頼ったりする。

消費者がこのレベルになると、生産者の中には食の安全よりも効率を優先してしまう人も出てきそうだが、築地のシステムがそれを許さない。日本の食を支える築地のプロフェッショナル達が、一切の妥協なしに高品質の食材を求めることで、生産者も品質優先にならざるを得ない。目利きのプロたちの厳しいチェックを受けることで生産者のみならず、外食の人間にとっても品質のさらなる向上が必須となる。このプロセスがある限り、たとえ消費者の安全衛生の感覚が劣化しても、食の安全は保たれるのだ。

問屋の人も仲買の人も外食の人も、口について出るのは「お客さんが喜んでくれれば」という言葉だ。日本国憲法の柱が国民主権であるように、築地のルールは消費者第一主義だ。いわば築地の民主主義である。映画の中に何度も出てくる「お金ではなくて気持ち」という言葉が示すのは、ルールは罰則ではなくて気持ちだということだ。築地の人々の爽快なまでの民主主義の神髄がそこにある。日本の食文化は政治家や役人が法律や条例で定めるものではなく、人々の「気持ち」に支えられている。

にもかかわらず豊洲問題は、食文化を支える人々を抜きにして、予算の問題と調査の内容や結果の問題と建築談合の話と政治家と役人の思惑などの相互的な連関で片づけられようとしている。我々が豊洲市場への移転を不安に思うのは、いつ誰が豊洲に決めたのかではなく、築地の人々の「気持ち」がこれからどうなってしまうのかがわからないからだ。それは日本の食文化と食の安全がこれからどうなってしまうのかわからないということに等しい。
報道を見ていて感じた違和感の原因はそのあたりにある。映画はとてもためになったが、我々の不安は依然として続くのだ。


映画「少女」

2016年10月20日 | 映画・舞台・コンサート

映画「少女」を観た。
http://www.shoujo.jp/

どんなに文明が進歩しても、日本はいまだにムラ社会である。国家という大きなムラの中に、無数のムラがある。企業や学校や各種団体などの公的な組織もそうだが、サークルや同好会などの任意のグループ、或いはママ友みたいなはっきりしない集まりに至るまで、個人の自由よりも集団の和が優先される集まりはすべてムラといっていい。仲間外れになるといわゆる村八分にされ、孤立するだけではなく、場合によっては暴力を受け、LINEやSNSで誹謗中傷され、インターネットを通じて世界中の晒し者にされることもある。

女子高生の仲良しグループも例外ではなく、仲良しグループから外れるとどんな目に遭うかわからないという相互的な恐怖心から、自分の自由を投げ出してひたすら集団に同調する。
集団の向かう方向は誰にもわからないが、建設的な方向に向かうことはない。一番よくあるのが紋切り型の価値観に従って他人を断罪することだ。「あいつ、うざくね?」と誰かが言えば、その途端にいじめがはじまる。同調圧力が強ければ誰もいじめをやめることができず、どこまでもエスカレートする。いじめた相手が自殺するか、遠いところに転校するまで終わらない。同じことは女子高生の仲良しグループだけではなく、日本中のいたるところで起きている。日本は大小のムラの集合体なのだ。

この映画では女子高生の間に普通に見られるであろういじめの場面が出てくる。いじめる理由は上記の通りで改めての理由づけは不要だが、いじめられる敦子とその友人の由紀の行動の動機が理解できない。子供のころのトラウマを引きずっているという理由だけでは、日頃の行動の理由としては弱すぎるのだ。逆にトラウマが蘇るたびに過呼吸の発作を繰り返す演出はくどすぎる。
足の怪我が治っていないふりを延々と続けられる意志の強さを持っている人は、簡単にはいじめの対象にならないだろう。敦子はどう見てもいじめられるキャラクターではないのだ。いじめにリアリティがないから、由紀が敦子のために小説を書く理由にもリアリティがない。プロットが根本から崩壊している。死ぬ瞬間の表情を見たいという台詞は、それを見たら何かがわかるという説明がなく、とってつけたようだ。小説を書く人間の精神構造はそれほど単純ではない。

原作を読んでいないので違いは不明だが、登場人物の相関関係がやたらに密集しているのも、予定調和的過ぎて現実味に乏しい。痴漢ぼったくり女子高生が自殺するのも理解できない。中年男をカツアゲするだけの度胸が据わっている女の子なら、たとえ父親が逮捕されたからといっても短絡的に自殺を選ぶことはないだろう。カツアゲ少女に、人間の出生の平等に関わる哲学があったとも思えない。

同じ湊かなえ原作の映画でも「白ゆき姫殺人事件」にはリアリティがあった。「北のカナリアたち」にはヒューマニズムがあった。しかしこの「少女」は最も平板なプロットにも関わらず、何故か最もリアリティがない。
LINEやSNSを使った同時代的な背景の映画では、リアリティがないとあらゆる説得力を失ってしまう。バラバラに登場する人物がいたるところで結びついて輪になるのは、監督としては満足なのかもしれないが、観客に訴えるものは何もない。へえ、そうだったんだ、という淡々とした感想とため息が漏れるだけだ。物語をまとめることに集中しすぎてテーマを深めることができなかったのだ。その結果、何がテーマなのかさえわからない作品になってしまった。


映画「何者」

2016年10月18日 | 映画・舞台・コンサート

映画「何者」を観た。
http://nanimono-movie.com/

仕事はその人を説明し評価するための最も一般的な尺度だ。職種と職場、地位や収入などが他人にとってのその人の重要な情報になる。人間の価値が職業と収入によって測られるのが今の世の中だ。

就職活動をする学生にとっては、内定の有無によって自分が世の中にどのように評価されるかが決まってしまうような気がするものだ。そして心理的に追い詰められる。そして追い詰められて自分を客観視したときに思うのだ、俺は何者だ?と。それが佐藤健が演じる主人公だ。

世の中の価値観を疑ったり、自分を客観視したりしなければ、生きていくのはそれほど苦労しない。主人公はなまじ本を読んで演劇の脚本なんかを書いているものだから、他人の価値観を受け入れず、相対化してしまう。自分なりの世界観がないから、あっちこっちから借りてきた価値観で人を一刀両断にしてしまう。考えに筋が通っておらず、その場その場での思いつきの批判をSNSに書き込む。低俗な悪口に等しい。

人間は自分がピンチになれば、他人を羨み、他人の不幸を祈る。悪口を言い、貶める。しかし大抵の場合、そういう気持ちは自分のなかだけで押さえ込んで、決して表に出さないものだ。他人が不愉快に思うことは言わないのが大人の心得だからだ。
しかし今はツイッターをはじめとするSNSがあり、迂闊に本音を漏らしてしまう。SNSは恐ろしいツールで、暗い穴倉に向かって自分の不平や不満や怒りや憎悪を吐き出しているつもりでも、実際は世界中に向かって大声で叫んでいるようなものだ。主人公は自分でわかっているはずのその落とし穴に自ら陥ってしまう。
採用にあたる人事の担当者は、応募者のSNSはまずチェックするだろう。

原作を読んでいないので作者の意図は不明だが、映画の主題は世に蔓延する無責任でいい加減な価値観に振り回される若者たちのありようだ。自分を相対化せず、気持ちのままに生きている光太郎や瑞月の方が精神的に楽で、考えすぎる主人公や理香がダメージを受けるのだ。

映画は就職活動をする中で互いの人間関係が微妙に変化してゆく様子をうまく表現している。俳優陣はみんな演技が達者で、揺れ動く心理をうまく表現していた。特に二階堂ふみはプライドを傷つけられながらも虚勢を張り、時に自信を取り戻したり、時に落ち込んで他人の内定を羨んだりする若い女性を存分に演じている。「脳男」でも凄まじい悪役を大迫力で演じていたが、まだ若いのに何をやらせても天下一品だ。日本の映画、演劇を背負っていく大女優になるだろう。