映画「すずめの戸締まり」を観た。
新海誠監督のファンタジー映画は、宗教的、共同体的な色彩が強い。「君の名は。」ではヒロインの三葉は巫女だった。「天気の子」のヒロイン陽菜は異常な雨に対して人柱になろうとする。
本作品でも「要石」というキーワードが出てくる。地の中にいる巨大なナマズが暴れて地震が起きないように押さえつけるという神道の「要石」のことだ。神道は巫女と祈りと生贄(または人柱)が伝説を構成する。茨城県の鹿島神宮の要石が有名で、表面に出ている部分は真ん中が窪んだ形の小さな石だが、水戸光圀の命で掘ってみると、7日7番掘り進んでもまだ全容を現わさないほど巨大で、流石の黄門様も掘り出すのを諦めたという話が伝わっている。
本作品の世界観には、共同体を守る巫女や人柱が尊い犠牲という考え方に通じるものがあって、民主主義とは相容れない面がある。深海監督自身もそこまでは意識していないだろうが、代々受け継いできた神道的な精神性が、まだまだ残っているということであり、そしてそれを受け入れる風土が日本にあるということである。この国の精神性は第二次大戦の頃から少しも変わっていない訳だ。
大抵の人は気づいたと思うが、すずめが初対面のダイジンにかけた言葉と、実家の付近をさまよった幼いすずめにタマキがかけた言葉は、同じ「うちの子」である。ダイジンはすずめによって意気消沈するが、同じくすずめによって元気を取り戻す。タマキも同じだ。そうして物語のはじめと終わりがひとつの環(わ)のように繋がる。タマキの漢字が環であることにも多分意味がある。
地球の環境はいろいろな意味で一直線に悪い方向に向かっているように見えるが、誰かがみずから犠牲になって共同体を守ろうとするのは、間違っていると思う。もちろん誰かを犠牲にしようとするのも間違っている。みんなが問題に目を向けて、解決に向けて努力していかないと、人類に明日はない。
見て見ぬふりをするその他大勢にも責任があるということを人類は自覚しなければならないのだ。しかし本作品のように善意の第三者ばかりが登場すると、責任の所在がぼやけてしまう。東日本大震災は自然災害だが、福島原発事故はアベシンゾー政権の不作為による人災だ。
自己犠牲は往々にして美談とされ、自己犠牲の精神は美徳とされるが、それは人智を超えた悪魔や神の存在を前提にしている。現代では生贄は必要ない。自己犠牲は過剰反応であり、もっと言えばある種の精神疾患だ。共同体のために他人に自己犠牲を強いるのは、全体主義である。ヒトラーと同じだ。
とても面白い作品であり、楽しく鑑賞は出来たのだが、その世界観に言い知れぬ危うさを覚えたのは、当方だけではないと思う。
映画「サイレント・ナイト」を観た。
不思議な設定だ。人間には正常性バイアスがあって、自分だけは大丈夫だと思いがちである。しかも登場人物は「ダイアナ妃を殺した」政府をまったく信じていない。にもかかわらず、登場人物の誰もが政府の発表を信じて、得体のしれない毒ガスで死ぬと思っている。マスコミとネットを使ったプロパガンダ恐るべしだ。
感心したのは、長男のアート君の発言が示唆に富んでいたことだ。「ピル」が貧乏人や移民には配布されないことに疑問をいだいたり、大人たちや両親を簡単に論破したりする。
序盤でアート君が人参を切っているときに手を怪我するのが最後のシーンの伏線になっている。血が出ている手で顔をこすれば、顔が血まみれに見えるのは当然だが、手の傷を唾をかけて直そうとした無教養な両親には、そのことが思い及ばない。
この兄弟は頭がよくて、双子の弟たちも、このガスはロシアからではなく、地球に甘えすぎた人類がしっぺ返しを食らっているのだと、迫力のある説を披露する。本当に子供なのか。
自殺薬の名前が「ピル」というのも皮肉だが、本作品の大人たちは、人類の滅亡が迫っているときにパーティで紛らわそうとして食べて飲んで踊る。かと思えば泣いたり喚いたり、言えなかった真実を暴露したりと、右往左往して混乱するみっともない姿を披露する。そんなシーンを連続させることで、人間そのものを皮肉っていると思う。イギリス人らしい皮肉だ。
地球温暖化とコロナ禍で人類が危機に瀕しているこの時期に本作品が製作されたのは頷ける話だ。キーラ・ナイトレイをはじめ、俳優陣が、最後の夜を迎えた人間の恐怖と焦りと絶望と混乱を上手に楽しそうに演じていたのは、それぞれの想像力で演技していたからだろう。アドリブもたくさんあったに違いない。アメリカ人並みにFuckingを連発するのが面白かった。GoddamnとStupidが出てこなかったのが、逆にちょっと残念だった。
映画「母性」を観た。
ちょっと頭でっかちな作品だ。廣木隆一監督は割と原作に忠実だから、演出というよりも、原作のせいかもしれない。同監督の公開中の映画「あちらにいる鬼」に比べると、やや深みに欠けていた気がする。
戸田恵梨香も永野芽郁も、大地真央も高畑淳子も熱演で好演だったが、誰にも感情移入できなかった。全員が鬱陶しい性格をしているのだ。映画「告白」も、同じように登場人物全員が嫌なやつだったから、やっぱり原作に厭世主義の底流があるのだろう。
永野芽郁の焼鳥屋のシーンが最悪である。自分が迷惑を被った訳でもないのに、隣の客に注意する。誰が見ても独善的で迷惑な女性で、本当に嫌なやつである。こんな歪んだ性格がどこから来たのだろうか、というのが本作品のテーマだ。
戸田恵梨香のルミコと永野芽郁のサヤカのモノローグによって、同一の出来事が違った見方として表現される。弁当箱を落とすシーン、その後の母娘の密やかな会話、そして嵐の夜のシーン。嵐の夜のシーンは、ルミコとサヤカのそれぞれが本当に求めるものを表現しているつもりなのかもしれないが、パニックの中での行動としてはリアリティに欠けていて、説得力がまったくない。
もっとも欠けていたのが、ルミコとサヤカの夫であり父親である男に対する感情である。まるで存在していないかのように扱われるが、ストーリーが進むときにこの男の意思や感情が関係しないはずがない。にもかかわらず力技で背景に押しやる。この男が関わらないから、人間関係が平板になってしまった。
メルヘンチックな自分の中だけの愛情に溺れて現実をシャットアウトする女たち。他人の気持ちを考えると言いながら、ただ他人に阿るだけの生き方。独りよがりの鬱陶しい女たちの群像劇を描きたかったのだとすれば、成功していると言えるだろう。
主題歌は作品に合わなかったが、劇中の音楽はとてもよかった。音響の効果がなければもっと陳腐な作品になっていたと思う。
映画「宮松と山下」を観た。
上演時間ぎりぎりに入館すると、ほぼ満席である。しかも普段の年配ばかりと違って若い観客が目立つ。香川照之は若い子に人気があるのかなと思っていたら、上映後にバタバタと舞台挨拶がはじまった。本作品を監督した監督集団「5月」という3人が登壇した。どうやらこの3人が人気のようである。
香川照之にはちょっぴり残念な話かもしれないが、そんなこととは無関係に、本作品の香川の演技は凄かった。夜の歯磨きのシーンでの僅かに浮かべる笑みや、実家の庭で妹に見せる横顔の微笑みといった表情が、その時の心情や真実を物語っている。テレビドラマでの顔芸が有名な俳優だが、こういう細かい表情ができるところに芸の細やかさがある。
スキャンダル報道は残念だが、映画や芝居を観るときは本人の人柄を切り離して観るようにしている。芝居が上手であれば、役者の個人事情などを思い浮かべる余地などなくなる。本作品の香川の演技は鬼気迫るものがあった。
作品自体もかなり面白い。余計な台詞を削ぎ落とした俳句みたいな演出で、表情豊かな香川照之の演技を最大限に生かして物語を進めていく。言葉が溢れる会話劇みたいな映画が多い中で、無言の演出は観客の想像力を刺激するという意味でも洒落ている。過去に何があって現在はどうなっていて今後はどうなるのかを、あれこれ想像しながらの鑑賞となる。すると宮松の孤独や不安がこちらまで押し寄せてきて、なんとなく心許ない気分になった。優れた作品は心を揺さぶってくるものだ。
映画の舞台挨拶は登壇者が互いに褒めあって、最後はSNSでの拡散をお願いするという形が多いので、たいして役に立たないが、本作品の舞台挨拶はちょっと面白かった。
編集で泣く泣くカットしたシーンがたくさんあったそうで、実家の庭を兄妹が歩くところを俯瞰で撮影したシーンがあるらしい。たしかに本作品のストーリーにはそぐわないが、兄妹の関係性や互いへの心情などが思い浮かべられそうで、そのシーンを観たいと思った。
一番面白かったのが、カップ焼そばのエピソードである。カップ焼きそばの湯切りをするシーンが二度あって、一度目は三角コーナーにお湯を捨てているのに、二度目は三角コーナーの外に捨てている。実は二度目は、その後カップの麺をこぼしてしまうシーンだったそうだ。一度目は上手くやっているのに二度目はどうして失敗したか、それが本作品のストーリーにとても重要なポイントとなっているのだが、ちょっとやりすぎだということで、麺をこぼしてしまうシーンはカットになったらしい。しかし麺をこぼしてしまったときの香川の表情がとてつもなくいい表情で、その表情を公開できなかったことはとても残念だと言っていた。なかなかいい舞台挨拶だった。
映画「愛国の告白 沈黙を破るPart2」を観た。
イスラエルの兵役経験者たちが立ち上げたNGO「沈黙を破る=Breaking The Silence(BTS)」に参加している人々のインタビューが主体のドキュメンタリーである。
イスラエルの国民は18歳で徴兵されるから、国民の殆どが兵役を体験し、その多くがパレスチナ自治区に送られている。そして多くの人々は、そこで行なわれている軍事支配に疑問を持つという。
発起人であるユダ・シャウールは、現在パレスチナで軍が展開しているのは、安全のための作戦ではなく、植民地プロジェクトだと看破する。つまりイスラエルは国を挙げて軍という暴力装置を使ってパレスチナの人々の人権を蹂躙し続けているのだ。このことは政府も軍もわかっていて、だからBTSの主張を声高に否定する。
ユダの発言は示唆に富んでいる。最も啓発的な言葉は「世界は200年前とは違う。安全保障は相互的な概念だと理解している」である。つまり隣人の安全が保証されていなければ、自分の安全も保証されないということだ。パレスチナの人々が安全でなければ、イスラエルに安全はない。ネタニヤフをはじめとする右派の人々はそこを理解していない。
パレスチナ人の受難の歴史は続いている。農地を破壊されて食料供給が断たれ、発電所を爆撃されて電気を失い、住宅への爆撃や兵士の急襲で家族を亡くす。入植者による暴力は日常茶飯事だ。こういった事実が繰り返し語られる。
イスラエルの右派の精神性は単純だ。兵役で死んだ家族の正当性を保つために軍の活動を正当化する。パレスチナ政策を擁護する。パレスチナの人々は誰が武器を持っているか分からない。全員が潜在的な脅威だ。だから攻撃する。根底には、パレスチナ人に対する根深い憎悪があるのだ。同じ精神性の人々は日本にも多くいて、似たようなことを堂々と主張している。本作品の問題は、イスラエルとパレスチナの問題ではない。世界中の人権の問題なのだ。
次の映画鑑賞までの時間が迫っていたから、上映後のトークショーは聞けなかったが、作品だけで、BTSの活動と主張は十分に理解できたと思う。ただひとつ残念なことは、BTSの人々も「祖国」という言葉を使っていたことだ。戦争は「祖国」と「祖国」の戦いである。「祖国」という帰属意識を捨て去らない限り、世界に平和は訪れない。国家というものは、安全保障についてユダが言ったのと同様に、相互的な概念であり幻想である。便宜的な存在で十分なのだ。
映画「ザリガニの鳴くところ」を観た。
「言葉って深いのね」という言葉が口をついて出たときから、カイアの世界は大きく広がった。読み書きを教えたテイトはそれを聞いて「もう君は何でも読める」と大喜びするが、言い方を変えれば「これで世界は君のものだ」とも言えたかもしれない。
湿地で暮らすことでカイアは自然に生物への造詣が深くなり、言葉を覚えることで思索が深まって、生物が生きていることの本質を理解するようになる。そして出版社の人間にホタルの生態を説明しながら、生物は道徳と無関係に生きていると断言するまでになる。実はこのことが本作品のストーリーに大きく関係している。
湿地帯にひとりで暮らす少女という設定から、サバイバル術を身に着けた少女がスクエアな人々と対決するアクションものかと予想していたが、実際はロシア民謡の「山のロザリア」みたいに孤独な乙女が、訪れた若者に恋をする純愛物語を織り交ぜた、法廷が基本舞台のスリラーだった。導入からラストまで、中身の濃いストーリーで、否応なしに惹き込まれた。
そして終わってみると、物語全体が、カイアによる壮大なサバイバルであったことに気がつく。魔法のようなプロットだ。思わず唸ってしまった。見事である。
エンドロールのカロライナ〜♫という歌がとても心地のいい歌で、テイラー・スウィフトの声に似ていると思っていたら、クレジットの最後の方にその名前があった。流石だ。
映画「バルド、偽りの記録と一握りの真実」を観た。
シーンの編集がとても分かりづらい。現実と幻想が境界線もなしに入り組んでいて、過去と現在の区別もないから、本作品を起承転結で理解しようとすると、混乱するだけである。おまけに時間軸も定まっておらず、流れる時間さえ速かったり遅かったりだから、ますます混乱に拍車をかける。
主人公シルベリオが自分の映画について語る通り、考えではなく感情を描いた作品なのかもしれないが、それにしては登場人物の哲学的な議論や社会的な発言が多い。
それはそうだろう。思索も感情も同じ脳のはたらきであり、密接に関係している。感情、特に怒りや罪悪感といった負の感情は価値観やパラダイムに左右されやすい。考えと感情を分けろというのは無理な話なのだ。
アメリカ人をカネのことしか考えないと貶めたり、メキシコは危険な場所だと自嘲してみせたりと、シルベリオの精神性はかなりややこしい。しかし整合性のなさも人間性のひとつだ。シルベリオにも性欲や名誉欲は人並みにあり、人間を信じるところと信じないところがある。友人は自分を映す鏡であり、自分のことのように友人を大切にするが、同時に自分のことのように友人を蔑ろにする。子どもたちの自由を重んじるかと思えば、パターナリズムの発言もする。精神性は大人であり子供でもある。感情に素直だが、自制心もある。意外に愛国者であり、差別主義者の面もある。メスチソ系のアメリカの役人がメキシコ人を軽く扱うのが許せない。
行ったり来たりのシーンや劇中映画のシーン、家族や友人やその他の人々とのシーンなどがコラージュのようになって、シルベリオという人間の等身大の姿を浮かび上がらせる。息子が飼っていたウーパールーパーのニュートラルな生命のありように対して、シルベリオの人生のなんとややこしいことか。
しかしそんなややこしい人生を、本作品はややこしいままに力強く肯定しているように思えた。どうしようもないおっさんだが、悪気はないよね、こういうおっさんが生きていてもいいよねと、そういうふうな暖かさが感じられる。そんな作品だった。
映画「ある男」を観た。
日本国憲法第14条には「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と書かれている。
「門地」は聞き慣れない言葉だが、要するに家柄のことだ。現代では先祖代々のことはあまり言われず、せいぜいが親と祖父母くらいまでのことが取り上げられる。親がふたりとも政治家だとか、弁護士だとかいうことで優遇されることがあれば、親が貧しいことで差別されることもある。
子供が他の子供を差別するのは、家庭で差別教育を受けているからだ。いじめっ子の親は差別主義者なのである。子供は他の子供の影響を受けやすいから、差別をする子供がいると、その友だちも差別をする可能性が高い。特に小学生は自分で考えて自分の行動に責任を持つまでの精神性に至らない子供が殆どだ。基本的人権について、他人にも自分と同じ権利があること、差別は人権侵害であることを、子供の頃の早い段階で教えるべきである。
差別主義の親を学校で教え直すことはできないが、小学校から日本国憲法の平和主義、自由主義、平等主義、基本的人権、国民主権などを教えることは可能である。しかし日本国憲法が公布されて76年、施行されて75年が経っても、いまだに義務教育で日本国憲法が教えられていない。憲法を義務教育で教えたくない勢力が厳然と存在しているのだ。だから日本の社会は相も変わらぬ差別といじめの社会である。それは、差別主義の代表選手みたいな杉田水脈のような政治家が政務官という重職に就いていることに象徴される。そういう政治家が当選するのがいまの日本の社会なのだ。
親が政治家だからといって政治家になる義務はない。医者も法律家も同じだ。それに宗教も同様に、親が信じている宗教を子供が信じる義務はない。だから信仰のない赤ん坊に洗礼を受けさせて洗礼名をつけるキリスト教は、明らかに人権無視の憲法違反をしている。統一教会や創価学会、エホバの証人などのカルト教団は論外である。
しかし日本では世襲が世間で罷り通っている。政治家や医者の世襲では非人道的な苦しみはないが、カルト宗教の世襲は二世を大いに苦しめる。そして犯罪者の悪評の世襲は、当人にまったく責任がないが故に非道だが、悪評を立てる主体が誰ともしれない世間全体というところに、救いのなさがある。犯罪が遺伝することなどあり得ないのに、子供に対して「犯罪者の血が流れている」などと、論拠のない非難を浴びせる。
理不尽な差別や迫害をする人間たちに、道理は通じない。だから逃げるのが一番だ。本作品は差別から逃げた人のその後のドラマを描く。いまの日本社会は差別者や迫害者たちが牛耳る世の中だが、世の中の片隅には、人を差別しない、迫害や虐待をしない人々もいる。寛容な世界もあるのだ。他人のために無償の行為ができる社会である。
本作品はそういう社会を描きたかったのだと思う。妻夫木聡が演じた弁護士は、できればそういう社会で生きたかった。しかし妻とその両親は、道理が通じない相手だ。亡くなった男Xのことを、少し羨ましく感じていたに違いない。せめて見ず知らずの人を相手のときは、自由な精神性でいたいものだ。ラストシーンに弁護士の儚い願望が見て取れる。それは不自由な日本社会の精神性に倦んだ人たちに共通する願望でもあるだろう。
窪田正孝の鍛え上げた肉体が見事だった。ストイックな俳優らしい、研ぎ澄まされた演技をしていたと思う。安藤サクラは母としての気持ち、妻としての気持ちがそれぞれストレートに伝わってきて、胸が熱くなった。妻夫木聡ももちろん好演。がめつい弁護士を演じた小籔千豊の関西弁が、よく人柄を表していると感心した。
映画「ザ・メニュー」を観た。
レストランは食材の様々な組み合わせを試し、調理法を試行錯誤する。最終的にテーブルの上に提供されるまでには多くの費用がかかっている。料理が商品として完成したら、そこから原価や人件費を下げる工夫をしていく。それが一般的だ。
しかし超高級レストランは全部価格に反映させればいいので、費用を削ることを考える必要がない。最高の食材、最高の酒、最高のお茶を準備し、スタッフを訓練して上質な接客を提供する。内装にも金をかけて、空調や照明器具を完璧に準備し、食事の環境を整える。それは商売というよりも、ひとつの美学である。完璧を目指す美学だ。
本作品は超高級レストランの中でも最高峰の店のひとつが舞台である。もちろん金持ち相手に限られるが、相手は高額であるほど高品質だと思いこんでいる。そこにシェフの不満があり、美学の満たされなさがある。
実は味覚は感覚の中でもかなりいい加減である。一流の寿司屋職人でも目を瞑って食べたら、魚種を判別できないことがあると、テレビで実験していた。いちいち判別して区別していたら、食べられない食材が増えて飢餓に陥る。口に入れたものが安全な食べ物かどうか、それさえ解ればいいので、それ以上は好みの話である。
しかし本作品のシェフの五感は特別だ。料理評論家を遥かに上回る。そもそも生半可な知識と技術しか持たない癖に、料理評論家やグルメを気取る連中が許せない。
そこで考えられたのが、今夜のメニューだ。ここに至るまでには、数多の試行錯誤があり、従業員教育があった。特に従業員については、シェフのことを神とまで崇めるほどのマインドコントロールが必要だった。理屈抜きで崇めさせる。それはもはや催眠術である。
そう、このレストランはカルト宗教の集団催眠の場であったのだ。そう考えれば、本作品の料理提供ごとのシェフの振る舞いも納得がいく。シェフは教祖であり、催眠術師である。従業員だけでなく客の精神も操ろうと目論んだのだ。
しかし緻密に計算された彼の世界に異分子が入り込む。予定外の客であるマーゴだ。催眠術が及ばないこの女性は、食べる行為は基本的には空腹を満たし栄養を補給することだとする常識人だ。料理至上主義者たちとは一線を画す。どうしたらこの女性に自分を崇拝させることができるか。シェフは美学の破綻をなんとか繕おうと躍起になる。
一方のマーゴはシェフの目論見を見極めて、状況の打開を図ろうとする。自分と他の客とで違うところは何か。自分はグルメでも料理評論家でも金持ちでもない。食べ物はあくまでも食べ物に過ぎない。美味しいに越したことはないが、価格とのバランスも大事だ。
シェフが恐れるのは、実はこういう普通の人の普通の感覚なのだ。そしてシェフは完璧主義者である。そこにこそマーゴが実行できる打開策がある。
本作品は見方を変えれば、異常な教祖であるシェフによって集団催眠に陥ったオタクたちと、ひとりの常識人との対決だ。ただし結果は勝ち負けではない。ある意味では、全員が役割を完遂したと言える。収束は見事だった。
エキセントリックなシェフを演じたレイフ・ファインズはさすがの存在感だ。映画「ハリー・ポッター」シリーズで闇の魔法使いヴォルデモートを演じたのが有名だが、その他にも映画「キングスマン」や「007」シリーズでも脇役としていい働きをしている。日本の俳優でいうと、小日向文世にどことなく似ている。本作品のシェフ役は意外な難役で、ファインズのポテンシャルが存分に発揮された感じである。
映画「ファイブ・デビルズ」を観た。
あまりピンとこなかった。スリラーとしてもヒューマンドラマとしても今ひとつ。SFにしては科学的なアプローチがなく、ホラーというには怖さがない。
差別やいじめを扱ったシーンもあるが、物語と結びついていないから唐突感が否めない。作品のテーマが判然としないのだ。
夫婦と子供、昔の友人二人の計5人。それぞれに悪意があったという話で、そこにタイムトラベルが加わって現在と過去を行ったり来たりする。タイムトラベルは割とありがちで、目新しさはない。異常な嗅覚も宝の持ち腐れだ。
登場人物の掘り下げがないから、誰にも感情移入できないままに終わる。疑問がたくさん残るが、それほど追及したい気持ちにはならない。製作側の、細かいところは気にしないで押し切ろうというテキトーな姿勢が透けて見えるのだ。
スリラーとしてはテクニック不足で、ドラマにしては思い入れが不足している。そんな作品だった。