映画「コンフィデンシャル:国際共助捜査」を観た。
韓国映画は、撮影技術やプロットなどは進化しているが、世界観は日本の戦後の昭和時代みたいで、家父長主義が支配的だ。そのことをテーマにした作品は、いくつか鑑賞した。「はちどり」や「82年生まれ、キム・ジヨン」などだ。立場の弱い女性のありようがリアルに描かれていた。
本作品は刑事もののアクション映画だが、それでも家父長主義や全体主義がそこかしこに顔を覗かせる。鑑賞していて、そこが少し気になった。
話としては面白かったし、ユーモアも混じえていて、楽しく鑑賞できた。序盤に登場するドローンの伏線がラストできっちり回収されるところもよく考えられている。悪代官みたいな人物が登場したあたりで、水戸黄門が浮かんでしまった。上様を悪者に出来ないところも水戸黄門に似ているが、現状の政治情勢を考えれば、このあたりが落としどころだろう。多方面に気を使ってコメディに仕上げている訳だ。
映画「バーナデット ママは行方不明」を観た。
ケイト・ブランシェット演じるバーナデット・フォックスと夫のエルジー・フォックス。一見自由な夫婦のように見えるが、実はここにもパターナリズムが存在する。エルジーと、彼が依頼したセラピストだ。夫もセラピストも、バーナデットの精神状態を病気と決めつけて、精神病院への入院をすすめる。パターナリストお得意の「あなたのためだ」という言葉でバーナデットを束縛しようとするのだ。
実はもうひとりセラピストが登場する。バーナデットの古い知り合いで、ローレンス・フィッシュバーンが演じるポールだ。こちらは本職のセラピストではないようだが、バーナデットを自由に語らせ、思いをすべて吐き出すまで聞き出すことで、バーナデットが抱える問題の本質を的確に見抜く。バーナデットがネガティブになってしまうのは、天才の創造性が抑えつけられ、日常の煩わしさに縛り付けられているからだ。創作欲を解き放ってしまえば、建築家の精神は自由に羽根を伸ばし、他人とも上手くやっていけるようになる。
このふたつのセラピーの場面は交互のシーンになっていて、本作品のテーマを明確に語っている。他人を個人として個別に理解しようとせず、パターンに当てはめて判断しようとすると、大いなる誤解を生んでしまう。バーナデットをお高く止まっていると非難する隣人も同じで、素顔のバーナデットに触れると、自分の誤解に気づく。
エマ・ネルソンが演じた娘のビーは、母を最もよく理解しているひとりだ。頭がよくて、母親を非難する人々のパターナリズムがどんなものか、よくわかっている。スーパークールな娘なのだ。
ビーが子どもたちの踊りに象の振り付けをしたと母に報告するから、どんな曲で踊るのかと思っていたら、エッセイ「パイプのけむり」で有名な日本の音楽家團伊玖磨が作曲した「ぞうさん」だった。
梶井基次郎が「檸檬」に書いたように、人間は精神が弱ってくると、些細なことに感動する。「ぞうさん」に感動したバーナデットの精神は、ほぼ壊滅状態だった。
ケイト・ブランシェットは2022年製作の「TAR」の指揮者の役もそうだったが、こういう繊細な役柄をいとも簡単に演じているように見える。本作品は2019年の製作で「TAR」の3年前だが、この作品の経験が「TAR」に生かされているように感じた。
映画「ジャン=リュック・ゴダール 反逆の映画作家」を観た。
生まれたばかりの赤ん坊は、ほぼ何も表現できない。ただ泣いて自分の存在を主張するだけだ。その後、言語をはじめ、環境から様々なことを吸収して、やがて表現ができるようになる。何かを表現(アウトプット)するには、その素となるインプットが必要なのだ。
おそらく、ゴダールに見えていた世界は、当方のような凡人に見えている世界とは一線を画していて、数多くの発見に満ちていたに違いない。ピカソと同じだ。そしてピカソが描き方を変えていったように、ゴダールも映画の撮り方を変えていく。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として映画界を牽引していった。
ただ一点、気になるところがある。若き日のゴダールがしきりに映画は芸術だと主張するところだ。この主張の必然性がどうにも見えてこない。ベートーヴェンが音楽は芸術だと主張したり、モネが絵画は芸術だと主張することはなかった。ドストエフスキーが小説は芸術だと主張することもなかった。その必要がないからだ。映画は映画であって、芸術かどうかは大した問題ではないと思う。
そのことで、ひとつ思い当たることがある。大学で演劇論を受講したときに、講師が映画は総合芸術だとさかんに主張していたのである。絵画彫刻や音楽に比べて、映画は新興の文化だ。追いつきたいと思っていたのだろうか。そう言えば、石原慎太郎は自分のことを芸術家と言っていた。作家の中で自分を芸術家と呼んだのは、この人以外に聞いたことがない。
芸術かどうかよりも、人々にとって有用かどうか、人生に有意義かどうか、生活に潤いを与えるかどうかが重要で、本作品でも、バイク事故以降の描写にはゴダールが映画は芸術だと主張するシーンはない。映画の手法と同じように、世界観も進化し続けたのだろう。
宮崎駿監督の著書には、過去の自分の作品を指して、くだらないと断ずる発言が出てくる。進化する人は過去を否定する傾向にある。ゴダールも同じだが、いちばん有名な作品が初期の「勝手にしやがれ」であることは、ゴダールにとって一番の皮肉かもしれない。
映画「The Lost King」(邦題「ロスト・キング 500年越しの運命」)を観た。
フィリッパ・ラングレーという主人公の名前が洒落ている。フィリッパの男性形フィリップはエディンバラ公(エリザベス二世の夫)の名前だし、ラングレーはCIA(アメリカ中央情報局)本部の所在地だ。名前そのものに物語を引っ張るベクトルがある気がする。実名だと知って驚いた。
サリー・ホーキンスは素晴らしい。フィリッパの人となりが伝わる演技をする。病気にめげずに働いて息子二人を育て、別れた夫とも良好な関係を続ける。病気のことで差別されたくないから、自分も他人を差別しない。
差別に敏感なフィリッパが、瘤があって足を引きずって歩いたと言われているリチャード三世に、病気で苦しんでいる自分と相通じるような親近感を抱いたのは自然なことだ。自分が病気を言い訳にしないで人並みに仕事をしているように、リチャード三世も病気に関わらず立派な仕事をしたのではないか。それはフィリッパの直感である。
調べれば調べるほど、自分の直感の正しさに確信が持てるようになる。リチャード三世は立派な王だったのだ。しかし現王朝の500年前の先祖たちによって、不当に貶められた。なんとしてもリチャード三世の名誉を挽回しなければならない。本人は気づいていないが、それはフィリッパ自身の救済でもある。
この話が実話だというところが凄い。こういう話があったこと自体、本作品ではじめて知った。エピローグでは、フィリッパ・ラングレーにエリザベス二世が大英帝国勲章を授与したと報告されている。現イギリス王朝の寛容さが垣間見えたし、最期まで生真面目に仕事をしたエリザベス女王に相応しいエピソードだと思った。いい話だ。
映画「ジョン・ウィック コンセクエンス」を観た。
キアヌ・リーヴスは質素な生活をしていることで有名だ。ケチなのではなく、収入の多くを他人への施しに使っているかららしい。ホームレスと話し込んだりすることもあるようで、キアヌの世界観の深さが窺い知れる。俳優としてよりも、人間としてとても興味深い人物である。
さて本作品はアクションを楽しむ娯楽作である。主席と主席連合と侯爵という悪役の組織に理解し難い部分はあるが、要は権威と権威のせめぎあいである。
真理の前には権威など意味を成さないのだが、それは精神世界の話で、現実の利益の奪い合いでは、権威が物を言う。黒を白と言い張っても、そこに権威が伴っていれば、いとも簡単に道理が引っ込んで無理が通る。まさに理不尽だ。
その理不尽に立ち向かう孤高の存在として、ジョナサン・ウィックが設定されている。キアヌ・リーヴスにピッタリの役柄だ。持ち前の戦闘能力と、タフな精神と肉体を駆使して、権威と対決する。
本作品はアクションとカメラワークが工夫されている。戦闘の場所や戦い方、撮影の仕方に様々なバリエーションがあって、飽きさせない。ジョナサンは得意の拳銃の他に、ナイフ、ヌンチャク、敵のアサルトライフル、そして体術と、状況と相手によって様々な技を駆使する。トレードマークはローレンス・フィッシュバーンのキングから提供されたスーツで、ジョナサンの不死身の秘密もそこにある。
馬と自動車とオートバイ。どれに乗っても様になるが、トム・クルーズのネイサンのような能天気さはなく、どことなく悲壮感が感じられる。それがジョナサン・ウィックだ。
娘の伏線が気になるが、最後の最後できっちりと回収される。くれぐれもエンドロールで席を立たないことだ。
映画「PIGGY」を観た。
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のオープニングテーマ曲の「残酷な天使のテーゼ」の歌詞の意味はよくわからないが、本作品に登場する正体不明の男は、まさに「残酷な天使」なのではなかろうか。
主人公の少女サラを取り巻く環境は、不愉快そのものだ。家業の肉屋は手伝わされるし、母親はパターナリズムで命令と叱責しかしない。父親は優しいが、弟は皮肉屋だ。学校では太っていることで子豚(Cerdita=スペイン語、Piggy=英語)と呼ばれていじめられる。ベーコンと呼ばれて追いかけられたりもする。
サラを特にいじめているのが女の子三人組で、プールで泳いでいるサラの頭を掬い網に入れて溺れさせようとする。サラが潜って逃げると、サラのバッグとバスタオルを勝手に持っていって困らせようとする。その直後に「残酷な天使」に暴力的にさらわれる。
そこから先は少女の感情と良心のせめぎ合いの展開で、繊細な乙女心を引き裂くように物語が進んでいく。細かいシーンにサラの恐怖や怒りがよく表現されていて、リアリティと緊迫感がある。
環境はエゴイズムに満ちている。しかしサラはこれからも生きていかねばならない。そのためには勇気が必要だ。サラの考え方がリベラルになるのか、母親と同じパターナリズムに陥るのか、それはわからない。「残酷な天使」にとって、そんなことはどうでもいいことなのだろう。ただ、サラに勇気を与えるために来た。サラに対する男の態度などから鑑みて、そう考えるのが一番相応しい気がする。
本作品は単なる酷い話ではない。様々なテーマをさり気なく追求している奥深さがある。主人公のことを突き放してしまう潔さもある。中心のテーマはもちろん人間の勇気である。自分を守るためだけではない。正しいことをするにも勇気は必要だ。勇気を出すことはエゴイズムから脱却することでもある。スペインの息苦しい状況を背景に、様々な苦労を振り切って海面に顔を出して、自由な空気を吸い込むような、そんな物語だ。面白かった。
映画「グランツーリスモ」を観た。
日本でもF1ブームがあった。アイルトン・セナ、アラン・プロスト、ミハエル・シューマッハ、ナイジェル・マンセルなどの有名なレーサーが、マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズ、ベネトンなどのマシンに乗って、首位争いをしていた頃だ。日本のテレビも実況中継をしていた。中嶋悟、片山右京、鈴木亜久里といった日本のレーサーも参加して、それなりに盛り上がっていた。
しかしイモラ・サーキットの事故でセナが死んでからは、ブームは急速に下火になった気がする。その少し前には、バブルがはじけて日本が急激に貧乏になり、自動車を買って運転することに夢を持てなくなってしまった。自動車への興味が失せれば、自動車競争への興味も自動的に失せる。
加えて、F1に絶大な影響力を持つフェラーリが、オフィシャルに圧力をかけて、レギュレーションを変更させたことも大きい。フェラーリが勝つようにルールを変更したのだ。多くのF1ファンは、アンフェアなその方向性にがっかりしてしまった。F1離れはフェラーリにも責任の一端がある。
ということで、日本ではレースというとギャンブルの対象にしか興味が示されなくなり、公には賭けの対象ではない自動車競争は、現在は話題にも登らなくなっている。ただ、自動車を運転するのが好きな人は、まだ結構多いと思う。今年の7月には、日本で会員制のドライビングクラブが開業した。入会金400万円、年会費100万円といった価格だったと思う。庶民には手が出せない金額だが、それだけの金を払っても運転を楽しみたい層がいるということだ。
一方、Eスポーツのひとつとして、ドライビングシミュレーターがある。プレステの特別版で、ゲーマーはゲーム用の椅子に座って、実際のレーサーが使うのと同じようなステアリングを使う。やったことはないが、結構面白そうだ。
自動車競争が下火でも、映画は想像力を刺激するものだから、まったく影響はない。宇宙飛行士にはなれない人がほとんどだが、宇宙飛行士の映画は楽しむことができる。やったことがなくても、ドライビングシミュレーターの名手が実際のレースで活躍するのはワクワクする展開だ。なんだか主人公の親になったみたいな気分で、未知の領域を突き進む息子をハラハラしながら見守る。エモーショナルな時間を過ごすことができた。エンタテインメントとしては秀逸。
映画「熊は、いない」を観た。
状況説明がなく、ストーリーもないから、映画としては非常にわかりにくい。最も多く登場するのが監督自身なのだが、監督が何故その村にいるのか、どうしてリモートで映画を製作しているのかなどが初期の疑問で、少しずつは明らかになるが、オブラートに包んだ感じで、どうにもピンとこない部分がある。
キーワードは「村のしきたり」だろう。宿泊しているだけで関わってこようとする村人たちは、あれこれと言いがかりをつけては村のしきたりを押し付けてこようとする。そのパラダイムはイスラム教を押し付けようとする国家の姿勢に似ている。監督の狙いは、イランの問題は映画を検閲するイスラム政権だけでなく、政権を支えている周辺地域の精神性をあぶり出すことだ。
撮影している映画の登場人物のひとりは、息子のことで悩んでいる。息子はイランを出たいという。どうして出たいのか聞くと、閉じ込められている気がするから、らしい。イランには自由も仕事もない。他の登場人物たちも、偽のパスポートを手に入れて、イランを出ようとする。
イランを出たい人がたくさんいるのに、どうしてイランという国が継続しているのか。もちろん国境警備隊が出国を厳しく見張っているということもある。しかし本当は諦めている人が大半ではないのか。そういう人が結果的にイスラム政権を支えている。そしてパナヒ監督の映画を検閲する。
村のしきたりに従って、ひっそりと人生をやり過ごすのは、安全な生き方かもしれない。しかし見方を変えれば、怠惰で臆病なだけだ。ただ国や村などの共同体に従順なだけで、勇気がなく、行動もしない。イラン経済がよくならないのも、いつまで経っても人権が認められないのも、人々の臆病と怠惰が遠因となっているのではないか。
パナヒ監督の疑問は尽きない。
映画「国葬の日」を観た。
最初のほうのインタビューで、山口県のあべ事務所を訪れた女性のシーンがある。おそらく目的を聞かれたのだろう。「弔慰と感謝です」と彼女は言う。当然だという態度だ。しかし次にインタビュアーが「安倍さんのどんなところが政治家として素晴らしいと思いますか?」と聞くと、彼女は黙ってしまった。具体的なことを何も知らないのだ。考えた挙句「行動力がある人でした」と、内容のないことを言う。
この女性だけではない。アベシンゾーを讃える人たちは、長い間首相を務めたとか、あれだけのことを成し遂げたとか、外交で活躍したなど、印象でしか物を言えない。
対して国葬に反対する人々は、アベシンゾーがモリカケサクラの説明責任を何も果たしていないこと、沖縄の選挙や県民投票の民意を無視して辺野古基地のゴリ押しを進めたこと、福島原発がちっともアンダーコントロールではないことなどを挙げ、そんな人間の国葬を災害救助よりも優先する岸田政権に対する疑念を述べる。非常に具体的で、自分でよく調べて、自分でよく考えたことだと分かる。
沖縄の女性は、アベシンゾーのもっとも重い罪は教育を変えたことだと言う。道徳を科目にして国家に従順な子供にしようとしている。辺野古には修学旅行生を行かせない。国にとって不都合なことは何も知らせない教育に変えてしまったと話す。まさに「由らしむべし知らしむべからず」という為政者のおごりそのものの方針である。
しかし最初のほうでインタビューされた女性は、かなり年配だった。アベが定めた教育方針ではない教育で育っている。それでもアベシンゾーのことを具体的には何も知らなかった。つまりこの国の教育は、アベが改悪する前から、ずっと「由らしむべし知らしむべからず」の方針だったのだ。
中原中也は「憔悴」の中で次のように書いている。
(前略)
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂(わら)はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
(後略)
日本人は頭のいい民族だと思う。しかしその頭のよさは自分の身の回りだけに使われて終わる。世界観や宇宙観までは広がらない。ということは、多くの人々は、世界観も宇宙観もなしに生きている訳だ。日本人を説得するには「みんなやってますよ」と言えばいいらしい。同調圧力に負けやすく、同調圧力を生みやすい精神性だ。赤信号、みんなで渡れば怖くない。
論理的に考える習慣がないから、パラダイムに逆らわず、印象だけで判断する。選挙の投票行動も同じだ。親戚だから、お世話になっているから、握手してくれたから、社命だから、団体の方針だから、といった理由で投票先を決めるのだ。かくして「お上」の政治が連綿と続いていく。
映画「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」を観た。
虎の威を借る狐という諺の典型みたいな話だ。警察は国家権力を背景に、犯罪者に対して実力行使で立ち向かう。実力というのは即ち暴力のことだ。法的な根拠があれば暴力や殺人が許されるのが警察官なのである。だから権力の行使には慎重にならなければならない。民主主義国の警察官は、それぞれの国の警察官職務執行法によって権力行使が厳密に規定されている。
その背景には、権力を持つ人間が万能感を持ってしまい、他の人間の人格を蹂躙してしまう危険性があるという認識がある。人間の弱さに由来する危険性だ。国家権力だけに限らず、組織のヒエラルキーや目上や目下といったパラダイムも、他人の人権を蹂躙する危険性を孕んでいる。教師が生徒を殴ったり、先輩が後輩を殴ったり、会社の創業社長が社員を殴ったりするのは、20世紀までは日常茶飯事だった。
もちろん現在でも、ブラック学校、ブラック企業、ブラック部活はある。立場の弱い生徒や後輩や社員は、今この瞬間でもどこかで人権を蹂躙されている。ただ、21世紀になって、人権に関する意識が高まってきた。弱い人の人権が守られるようになる傾向だ。いいことだと思う。
しかし組織の構造からして、人権侵害が減少しない組織もある。国家権力の組織だ。軍隊や警察がその代表である。国家権力の組織は、人権の尊重や擁護よりも、組織防衛を優先する。警察の威信という言葉を未だに警察のドラマで聞くのは、個人よりも組織を重んじる全体主義が生きていることを示している。
権力が暴走するのであれば、対立する権力を分立させて互いに牽制し合うようにすればいいと考えられたのが、三権分立の精神だ。しかしどの国でも行政がやたらに強い。司法が行政に牛耳られていて、憲法違反を見逃しているのが現状だ。三権分立のシステムはなかなかうまく働かない。日本には公安委員会はあるが、有名無実だ。
権力組織に自浄作用はない。静岡県警では複数の警察官が違法行為で逮捕されたが、通常なら実名で報道されるところを、役職と年代だけしか公表されない。身内の不祥事は庇うのだ。逆に言えば、民間人には容赦がない。
本作品では「誰がボスか、分からせてやる」という台詞がある。「従わないのが悪い」という台詞もある。警察官の本音だろう。彼らに市民を守る意識はない。「人を見れば泥棒と思え」と思っている。役人だから身上は出世と保身だ。
本作品は実話とのことだ。警察の組織構造の本質を考えれば、さもありなんと思う。他にも世間的に明らかになっていないが、警察内部で揉み消された事件は星の数ほどあるのではないか。
こういう事件が起こらないようにする方法はひとつしかない。公安委員会などの権力を監視する組織に、本来の役割を徹底させる政治家を当選させればいいのだ。人権を守る政治家が圧倒的多数になれば、行政も司法も、人権擁護の権力になるだろう。しかしそうはならない。人権を蹂躙されたことのない有権者は、自分も権力の側に立ってしまうのだ。戦争の災禍を被った経験のない人が戦争をはじめるのと同じである。
ケネス・チェンバレンを殺したのは警察官だが、その警察官を守る政治家に投票したのは有権者である。ケネスを殺したのは、アメリカ国民なのだ。その認識がない限り、数多くのケネス・チェンバレンが生み出され続けるだろう。人類の未来はかなり暗い。
映画としては臨場感と緊迫感に満ちている傑作だと思う。鑑賞するのが辛い作品だが、目を離すことができない。啓蒙映画として貴重で、演技も演出もカメラワークも優れた作品である。暫くはドアを叩く音が怖く感じられそうだ。